日本美術刀剣保存協会の協力
団体である広島県美術刀剣
保存協会の方から連絡あり。
大山住仁宗重(天正八年二月
吉日)を秋に開催する広島県
内の美術館での郷土刀の刀剣
展示会に展示したいので貸し
出して欲しいとの旨。
日本刀文化広報の一環として
快諾した。
ただ、私の個体は武術で使用
している差料であるので、美
術刀剣展示には耐えられない
惧れがある。
フル美術研磨に出しても良い
のではあるが、間に合わない
かもしれない。
うちの刀剣会のメンバーの所有
する同人作についての展示貸し
出しを来週の東京での会合の
時に交渉してみようと思う。
そちらは、美術刀剣としては
極上研ぎ済みで保管中だ。
日本刀文化を多くの人に知って
もらう為ならば、美術館への
無償貸出しは私はいとわない。
古刀無銘三原も所蔵刀の中に
ある旨をお伝えした。
極上美術刀剣研ぎの研ぎ上がり
での保存状態だ。
もしかすると、検定の上その
三原も展示されるかも知れない。
私が持っている時代刀剣は、
先祖からの伝来の差料を除い
て「私物」ではなく、日本の
歴史の中で一時だけ私が預かっ
ている物だと私個人は認識して
いる。
教育委員会に登録証届け出の
法規上は私の所有物であっても、
それは私的個人の財産ではない。
文化財的存在として時代刀はあ
り、国の歴史の宝だ。
ただし、高位鑑定を取ると、
課税対象となるケースもある。
法的には「資産」とみなされる
からだ。
そして、法規上の国宝や重要文
化財指定を受けると、本当に自
分が保管しているだけとなり、
売買譲渡等も国の許可なしでは
できなくなる。
それは良い面もあり、不自由な
面もある。
「貴様は俺の弟子だ。これを
進ぜよう」とおいそれと刀を
見込んだ人材に贈与する事に
さえも税金が発生する事にも
なる。
日本刀を貴金属や高額絵画と同じ
ような資産品と見立てるとそう
なってしまう。
私はそうした法的縛りの枠外で
の歴史遺産保存伝承継承に貢献
したいと個人的には考えている。
現在の広島県は備後国と安芸国
の二国にまたがっている。
備後刀は備前刀とも並ぶ一大
刀剣生産地だった。鎌倉南北朝
の頃から戦国末期まで。
そして、戦国末期(末古刀)から
江戸期の新刀の時代にかけて、
新刀の各流派に散った。
一方備前鍛冶は、未曾有の大洪
水により、若い二名を残して全
滅し、備前刀の命脈は絶たれた。
生き残った者が江戸期に再興し
た製法は、新鋼を使った新刀
製法であり、古来の備前伝とは
呼べない。
そして、備後刀、安芸刀も江戸期
には製法が大転換になった。
備後刀では三原鍛冶(尾道が地場)
の末裔は戦国末期に新たに誕生し
た三原城の三の丸内に鍛冶場を
設置して末裔たちが鍛刀に勤しん
だ。
また、ある末古刀三原鍛冶の脈流
は備中青江派と血脈合流し、備中
にて水田国重派を形成した。
時流に乗り、古伝から相州伝風な
作域に転換して人気を博した。
脈流の一部は武州にまで移住した。
そして、肝心の安芸国大山鍛冶
なのだが、この脈流は三代(四代
とも)宗重延道彦三郎を以て、
刀鍛冶としての命脈は途絶えた。
三原等の備後鍛冶の命脈が幕末
まで枝分かれしながらも存続し
たのとは全く異なる、パタリと
途絶える運命を辿ったのが芸州
大山鍛冶だった。
通常、刀鍛冶は古来からの脈流
を何らかの形で別派になろうと
も残し伝えるが、大山鍛冶は
パタリと途絶えている。
まだ歴史背景を私は検証してい
ないが、これは単なる後継者
問題ではなく、地場の産鉄製鉄
継続に何らかの阻害要因が発生
して、そして原材料を入手でき
なくなったからではなかろうか
と推測している。
大山鍛冶は、他の刀剣大生産地
のような製品鉄を入手しての
加工刀鍛冶ではなく、製鉄その
ものに大きく関わっていた節
が強いからだ。
それは、鉄滓の大量出土もそう
した自家製鉄の事実を裏付けて
いる。
また、大山付近一帯は、小規模
なタタラ場が無数にあった場所
であることは地元郷土史研究者
たちによって明らかになってい
る。
私個人は、地場製鉄が何かの要因
で継続不能となり、その頃出回り
出した製品新鋼によっては古伝の
日本刀の体を為さない事が発生し
たのではなかろうか、と推測して
いる。
日本刀史の全体の流れからして
そのような気がする。
古刀と新刀期に跨って鎚を振る
って利刀を作った豊後刀工群と
は対極にある行く末を芸州大山
鍛冶は辿った。
そして、実際には、日本全国の
刀鍛冶たちは城下町に大量移住
した。そうした刀鍛冶は、かなり
の研究と努力もしたのだろう。
何とか流通製品新鋼でも刀剣ら
しき物にまとめる事ができて、
命脈を保った。
しかし、中には、江戸という大
城下町に移住した後も、今の新
鋼では駄目だ、古い鉄でないと、
という原点回帰を目指して古鐵
→虎徹と銘を切った利刀製作鍛
冶も登場した。
だが、新刀時代は、それまでの古
刀時代とは異なり、鉄の現地色が
濃い「五箇伝」は完全消滅した。
刀工単体の流儀とその弟子という
徒弟制が貫徹されたのが江戸期
新刀の特徴だった。
そして、それらはやはり極めて
途絶えやすかった。
かの虎徹の脈流でさえそうだった。
(たぶんあれは政治圧力による
一族の抹殺)
名を成した刀工が血脈や流門で
栄えるのはせいぜい数代に留ま
るケースが多かった。
さらに日本の歴史には衝撃的な
事実がある。日本刀についての
歴史の真実として。
実は、江戸前期にそれまでの数
百年の歴史を持った古来の日本
刀の製作方法は新刀製造方法に
転換したために、古刀製作法が
完全失伝した。
これは刀剣界でも日本史の中でも
よく知られている。
衝撃的事実はそれではない。
実は、江戸中期、新刀さえも新規
注文が完全に途絶えた時期が数
十年存在し、その時期に日本刀
そのものの製作方法が日本から
一時完全消滅したのだった。
これはほとんど日本人にも知ら
れていない。
そのため、どうにか日本刀の作
り方を古い資料などから研究し
た刀工がいて、それにより、「多
分こうだっただろう」という事
で日本刀の復元に成功したのが
幕末の始まりあたりだったのだ。
日本刀の作り方は歴史の中で
二度失伝している。
第一次が戦国時代が終わり、
江戸期に入る時代。古刀の製法
は材料が決定的に異なるように
なったために完全に失伝した。
第二次は江戸中期。
この時には刀剣自体の作り方が
もう全く分からなくなった。
鉄砲鍛冶でさえ包丁鍛冶として
転業してかろうじて生き延びた
時代。
現実には三度目の消滅危機が
昭和40年代にあった。日本刀の
材料が枯渇したからだ。それ
ゆえ自家製鉄に多くの刀鍛冶が
舵を切ったり、スポンジアイ
アンの試験的使用が試みられた。
だが、自家製鉄においては、殆
ど満足の行く結果は得られなか
った。卸しガネの技法さえも
失伝により復元不能だったのが
昭和40年代当時の戦後の刀鍛冶
だった。
美術刀剣史観にどっぷりと感化
された戦前~戦後の刀鍛冶たち
は、材料頼りの製法に依拠しす
ぎたため、強靭な日本刀を製作
できるどころか、材料自体を
使い果たして途方に暮れたのが
私が中学の頃の昭和40年代後半
だった。そうした中、一人の刀
工(文化庁正式免許)が、現代
製法を一度捨てて自家製鉄によ
る古刀再現に挑んだ。
刀工登録の年の出展でいきなり
入賞した。古刀然とした地鉄の
潤いは刀剣関係者権威筋をして
も驚嘆せしめた。
だが、権威筋のある者は言った。
「古刀の銘をすりつぶして新作
刀剣展に出品してもらっては困
る」と。
憤慨したその刀工は、翌年から
は出品を拒否した。
やがてそれから、古刀再現の
研究の中で、特殊炉と特殊構造
と鍛造法、特殊焼き入れによっ
て従来の日本刀のうちの一部の
利刀がそうであったように「斬
鉄剣」を作る事に成功した。
なお、これは私が後年指摘した
が、その刀工の焼き入れ方法は
奇しくも野鍛冶の鎌鍛冶が行な
う方法と酷似している。
そして、その後、数十年を経て、
東北の雄たる反骨の一人の刀鍛
冶がやはり斬鉄剣を作り上げる
事に成功した。この第二斬鉄剣
の製法もたまたまの偶然だが、
焼き入れについては、まったく
第一斬鉄剣の東京の刀鍛冶と同
じ態様の焼き入れ方法だった。
山を登るルートは別だが、頂上
近くになるとルートが狭まって
いつしか同じ道を登るのにそれ
は似ている。
そして日本刀の利刀を作る秘訣
は、今ねじ曲がった意図的な現
代キャンペーンが行なわれてい
る脱炭素ではなく脱酸素だ。
日本刀消滅の三度目の危機は、
関係者の努力により、出雲たた
らを復活させる事で解決をみた。
1980年から出雲たたらの新鋼
は国内刀鍛冶たちに配布販売が
開始された。(刀鍛冶以外は
購入できない)
それ以前の1945年の完全消滅
の危機は、日本刀関係者の努力
とGHQマッカーサー元帥に日本
刀の美術性を認識してもらう事
でどうにか日本において日本刀
そのものの存在存続と製造の存
続が可能となった。
だが、人身御供として、戦時中
の軍刀は日本刀ではないただの
凶器とみなされて、法的にも製
造禁止にされた。これは軍事力
永久放棄の一環として遂行され
た。
実は鎌鍛冶等の野鍛冶には
古刀製法の技法の残り香が存
在したりした。焼き入れや
卸し鉄という鋼のリセット方
法や鍛造方法に。
だが権威にすがる刀鍛冶たちは
江戸期だけでなく現代でもそう
だが、野鍛冶を見下してそこか
ら鍛冶としての根本を見つめ
直して学ぼうとはしない。
こうした特権意識的な睥睨感は、
社会学的にみて、刀鍛冶のみが
鍛冶職としては早期に脱賤して
独自の地位を築いた歴史と無縁
ではないだろう。
歌舞伎役者がいつの間にか江
戸期の裁判で脱賤して「梨園」
と称して名門名家のように自己
認識した社会的精神構造に酷似
している。
歌舞伎役者はそれを記念して、
ようやく念願叶って一般市民と
なれた事を血と涙の歴史の演目
とし、それを十八番の箱に入れ
てオハコとした。
刀鍛冶の世界ではそうした動き
は皆無だった。
むしろ積極的に刀鍛冶である
のに受領(ずろう)という官位
を大枚はたいて取得して権威
づけしたがったのが江戸期の
刀鍛冶だった。
虎徹(みのすけ興里)や大村
加ト(かぼく)などのように
そうした動きに一切興味ない
刀鍛冶はむしろ稀有だった。
一般的な刀鍛冶特有の睥睨感
を伴う優越意識は、これは鍛冶
発生当初から刀剣を持つ時の権
力者に付随する存在だったから
だろう。階級は最下級に置かれ
ながらも、何かしらの権威意識
の発動を惹起させる精神構造が
あったのだろうと推認できる。
また、刀鍛冶が他の諸業職人
たちと同じく元来は賤民階級
に置かれていた事などは日本
の国定教科書では教えない。
刀剣界でもそこは詳らかにす
る事は避けている。
現代において「日本刀製作」と
している製法は、幕末に推定で
復元した製造法に完全に依拠
した方法での製作となっている。
一部の古刀再現を目指す現代
刀工以外の刀鍛冶は、政府や
国(文化庁)の意向に沿って
復元大型永代たたら新鋼での
日本刀製作を行なっている。
それ以外の鋼は認めない。小
規模自家製鉄を除いて。
これはこれで良い。
今の靖国たたら→出雲たたらが
消滅したら、日本の歴史で完全
に永代たたら方式の製鉄技法が
消滅するからだ。
だが、そこで作られた鋼を用い
ての日本刀製作は、古刀の原料、
刀剣製法とは全く異なる。幕末
刀の再現を現在の日本は実行し
ているのである。
砂利のような新鋼であっても、
刀の形にさせたら脆すぎてナイ
ロン紐を切っただけでボロッと
大欠けする刀であろうとも、
それでよいのだ。
それらはかつての武士が腰にした
日本刀ではなく法的にも定められ
た「美術刀剣」なのだから。
武器としての強靭さがあっては
ならないのだ。
日本刀の形をした鋼の焼き物
オブジェなのだから。
だからモデルガンが壊れやすい
材料を政令で定められているよ
うに、現代美術刀は武器ではな
なく、伝統武術で武用に使う物
でもない鑑賞専門の日本刀の形
をした鋼の焼き物なので、それ
で良いのである。
それらは決して武士が存在した
ならば武士たちは持たない物だ
が、現代は武士もいない。
現代刀は刀ではなく「美術刀」
であるので、ある意味、とても
正しい姿を再現しているといえ
る。鋼を使った日本刀に似た物。
プラスチックモデルガンが実弾
発射機能が材料面からも構造面
からも一切持っていないのと
同じ態様の材料、作り方をして
いるのが現代美術刀なのだから。
今のままでいいと私は思う。
本物の日本刀を作るのは志ある
ごく一部の刀鍛冶だけで。
実際に現代刀工が現在約300名
いるが、そうした本物の刀を
作ろうとしている刀鍛冶はほん
の数える程の員数しかいない。
だが、それでいいのだ。
300名全員が本物の日本刀を作
ろうとしたら、絶対に権威筋、
権力筋から圧力がかかって、下
手したら刀剣製作者そのものが
消滅させられてしまうだろうか
ら。
日本刀は古刀に限る。
これは日本刀を知る人たちには
巷間人口に膾炙されてきた事だ。
それは極めて正鵠を射る。
ただ、仮にタイムカプセルのよう
な物があったとして、古刀期の
原材料があったとしても、古刀
再現は難しいのではなかろうか。
大型送風を以て為す現代の刀剣
製作方法では。
材料だけ古刀用でもだめで、古刀
再現には、作り方だけでなく、
炉のあり方そのものも古刀様式で
ないと再現復元は不可能だろう。
ただ、それを表立ってやると、
権威筋からつまはじきにされる
という構造が日本の現代の刀剣
界には厳然と存在している。
古刀の再現はなおさら困難な道
となっている。
幕末製法の復元刀でも刀は刀だ。
それさえも無くなるよりはまし
なのだろうが、日本刀剣界には
日本の負の遺産としての権威主
義による壮絶なパワハラ構造が
今でも強く残っているのである。
もしかすると、平和な時代ゆえ
刀剣需要が消滅したから江戸期
の刀鍛冶が消滅したのではなく、
何らかの政治権力構造の中での
圧力(刀剣関係者が大きく関与
している)によって江戸中期に
刀鍛冶は一時絶滅したのかも
しれない。
元和偃武の成れの果てだけでは
なく、江戸期に確立した現代ま
で続く権威主義ヒエラルヒーが
江戸中期に刀鍛冶たちをこの世
から一時的にいなくさせたのか
も知れない。
そのあたり、江戸中期の社会情
勢の歴史の真実と向き合って、
往時の社会実情と克明にすり合
わせしながら深く研究した者は
残念ながらまだ見ない。
それをできるとしたら、熊本大
の医師でもあった福永酔剣先生
だけだっただろう。