goo blog サービス終了のお知らせ 

渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ビリヤード場のマッチ

2022年02月10日 | open


中学高校の時は喫茶店のマッチを
集めるのが趣味だった。
すべて行った店で貰った物だ。
その数、段ボール箱二つ。
どれだけの喫茶店に行ったのかと
思う。
四大に行く時、部屋が手狭になる
ので知人に全部あげた。

思えば、その後の社会人になって
からは、ほうぼうのビリヤード場
に行った。
今思うと、行くたびにに店のマッチ
を貰っておけばよかったと思う。
今の時代、もうマッチを店の広告と
して使う事はほぼ無くなって来て
いるから。

これは、西日本に転勤転住後に立ち
寄った大阪道頓堀の玉屋のマッチだ。
この店はとてもフレンドリーで良い
店だった。店員も客も。
TAD使いのバーテンの常連さんが
いたので、相撞きしてくれた。
もしキューを持って来てない時には
いつでも自分の置きキューのTADを
使ってくれと言われた。嬉しい大阪
人の心意気。なんだか江戸っ子に
似ている。
そのTADは矢羽のインレイTADで
私が一番好きなデザインのTADだ
った。
このとても良い店、今はもう無い。


大阪は私は大好きだ。
東京の下町にとてもよく似ている。
人間が。
そして道頓堀は上野のような空気
の街だ。
店員さんは訝しがるように言う。
「広島からでっか?せやけど広島
弁やないですやん」と。
「東京生まれ育ちなんす。今は
転勤で広島に住んでるの」と答え
たら納得していた。
ネイティブ大阪人とネイティブ東
人はかなり気が合う。これ、
実は世の中であまり知られていな
い。
何かと大阪vs東京でネタにされる
が、真東京=下町はナニワと非常
に似ている。
大阪の人たちは、東京というと世
田谷の在や山の手の郊外や練馬の
東京都外や葛飾柴又などの「江戸
はない周辺の辺境」エリアに住み
ながら東京人ぶっている人たちを
思い浮かべるようだが、東京とは
東京都の事ではない。旧東京市、
旧江戸の事だ。新橋の旧芝区あたり
がど真ん中の中心地だ。北は行って
も小石川あたりまで。西は内藤新宿
が境界だ。朱引きの外は江戸でも
東京でもない。行政としては今は
東京にはなるが。
東京市内で明治時代から昭和40年
まで市電が走っていたとこまで
が東京だ。

これは姫路の店。
ここも出張のたびによく行った。
近畿中国地区、四国が私の統括担当
だったが、出張には必ずキューケー
スを車に積んで行った。
宿泊は市街地なので、必ず玉屋が
ある。夜には玉屋に行った。
管轄地区内の撞球場にはほぼ全て
赴いた。たぶん、エリア全制覇に
近い。


この店も今は無い。セブンイレブン
になってしまった。
大阪兵庫だけでなく、全国的にビリ
ヤード場は激減している。
それは、老舗までもがどんどん時代
の波で閉店して行く。

これは大正時代の東京のビリヤード
場のマッチ。「どうぞおいでませ」
と書かれている。芝区南佐久間町
二丁目のビリヤード場。愛宕山の
そばだ。コピーがなんとも大正
デモクラシーの先進都市東京。
 設備よく気分よい平等主義の
 「皆様の撞球場」
 御誘合せ御遊来の程を!!



芝区南佐久間町は現在の港区西新橋
にあたる。
私が長年勤めた法律事務所が西新橋
二丁目だった。
そして、切っても切れぬ仲となった
刀工小林康宏直紀さんが生まれ育っ
たのが西新橋二丁目だ。奇遇たる
奇遇。
さらに、たまたまの偶然、西新橋
から高輪に転住した小林家の自宅
兼鍛冶場を大手デベロッパーが再
開発地上げをして、その現地調査
を職務で行なったのが私だった。
私と刀工康宏の出会いは刀剣を
通してだが、エニシは偶然に二つ
の点で既に繋がっていたのだった。
私の場合、不思議な事にこういう
事がありすぎる。




私が勤務した西新橋二丁目の大手
法律事務所の場所は、江戸期には
稲葉殿の大名屋敷だった。
その事務所も解散し、建物も今は
もう無い。

この記事についてブログを書く
« 小説『道頓堀川』(1981) | トップ | 鳩を狙う猫 »