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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本のロードレースの夜明け

2023年12月22日 | open
 

戦後、日本の二輪車ロードレース
は本格的に開始された。
富士登山レースが開かれ、1957
年には舞台を浅間に移し、専用
コースでロードレースが開催され
た。
専用コースといってもまだ未舗装
路であり、ダートでのクローズド
サーキットのレースだった。


1957年。それまでのレースで
台頭したヤマハが快挙を成す。






表彰台を独占したのはヤマハ。
圧倒的な速さだった。


そして、ヤマハは世界戦に挑戦
し、1970年代から世界の頂点
に常に立つ世界トップ、ナンバ
ーワンメーカーとなった。
ホンダはヤマハを追撃して60
年代後半に王者になったが、
気筒数制限のレギュレーション
改訂により沈んだ。
少ない気筒数では2ストお家芸
のヤマハには全く勝てなかった
からだ。
今から50年前に既に現在に続く
2スト廃棄規制は実行されようと
していたが、ヤマハなくてはス
ポーツが成立しないので、欧米
も2ストを黙認せざるをえなかっ
た。
とにかく、ヤマハのマシンは圧
倒的だったのだ。
ホンダは1980年代初頭、世界
選手権での王座奪還を目指して
やむなく嫌々ながら2ストGP
500マシンを開発投入した。
そして、3年目の1983年に
フレディ・スペンサーがヤマハ
の「キング」ケニー・ロバーツ
との一騎打ちで、ホンダが10
数年振りに世界王者に返り咲
いた。
以降、ホンダの2ストはヤマハ
を凌ぐパワーで、極悪ハンドリ
ングながらも職人的プロたちに
よって世界の頂点をヤマハと
競り合うようになった。
 
ただ二輪車というオートバイの
総合バランスではヤマハは曲が
らないホンダの比ではなかった。
ホンダはMT125、RS125では
極めて良質なハンドリングマシン
を作っていたのに、不思議。
250と500のレーサーは癖があり
過ぎる危ない車しか作らなかった。
 
二輪はヤマハが良い。
しかし、それは今世紀初頭まで。
今ではヤマハさえもホンダと同じ
転ぶ二輪しか作れなくなっ
しまった。世界一の技術を
持つ
ライダーが乗っても転ぶ。
そうした車しか日本人は作れなく
なってしまった。
理由は分かっている。

世界一安全で世界一速いオート
バイを開発して作り上げた、元
ヤマハワークスの元日本チャン
ピオンでWGPライダーだった
本間利彦氏の今のぼやき(笑
どべ争いの日本メーカー



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