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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

原点回帰

2022年10月18日 | open





初めて握ったキューは四ツ球用
のノーラップのハウスキュー
だった。
高1の時、クラスメートに付き
合えよと
誘われて、そいつの家
から東武東上線
で一つ外に行った
下赤塚の駅の
そばの店に行った。
住宅に撞球場があるようなおば
ちゃんがやって
いる店だった。
いわゆる2台店。戦前戦後に多く
あった自宅兼店舗の撞球場だ。
どこかの大学の体育会の兄さん
二人が学ランのまま四ツ球
を撞
いていた。
今思い出すとかなり強
引な撞球
だった。リクおかまいなし、み
たいな。まるで本当に陸軍さん
みたいな我田引水の横槍通しの
ような撞き方。二度撞きのファ
ールであるリクという用語が
陸軍のルール無視の自己中撞き

から来てるのを知ったのはずっと
後年だ。

二度目にキューを握ったのは、
大学の時だ。体育会体操部の主将
の奴に誘われて撞球場に行った。
そいつはプロ?という程にうま
かったが、私はてんでまるで
ダメ男くんだった。話にならない。

三度目にキューを手にしたのは
社会人になってからだ。
たまたま新宿で職場の先輩と仕事
帰りに飲んでいた。

ビリヤードの話になり、自分が
これまで二度やったが、まるで
サッパリという話をした。
するとその先輩が突然グラスを
置いて「ここ出るぞ」と。
近くのビリヤード場に連れて
行かれた。
その先輩は専門は四ツ球で、かな
りの腕前の人だった。驚いた。

セリーのレールナースを作ったら
まるで延々と終わりが無いように
撞き抜く。
その人から、一から手ほどきを
受けた。
本当は色とりどりの玉を穴に
落とすほうのビリヤードをやり
たかったが、あまりその台は東京
には無かった。ほとんどの撞球場
が穴無し台で玉と玉を当てる種目
のテーブルばかりだ。

結構練習した。
そこそこ形にはなって来た。
その頃、職場の人たちもビリヤー
ドをする事が流行って来た。全員
四ツ球だ。同僚の同期の男、秘書
さんたち、事務局長まで玉を撞き

はじめた。
まだあの『ハスラー2』は公開され
ていない。(のちに東京会館ワン
フロア貸し切りの職場の忘年会
では、私の手配でアトラクション
で撞球台を業者に依頼して設置し
て職場の全員で一同楽しむ、とい
う事もあった。ステージではJAZZ
バンドを呼んで。友人だった安田
南を呼んで歌ってもらった)

そのうち、私に撞球を手ほどきし
た先輩が
退職した。
私はそれを機にカラーボールを落
とす玉撞き
を本気で本格的にやり
始めた。主軸の完全方針変更だ。
キャロムからポケットへ。

だが、まだ四ツ球は続けていた。
撞球の基本がキャロムの四ツ球に
あるのは確かで、それで基礎理論
と撞き方を習得しようとしていた。

ポケット・ビリヤードを初めて
やったのは新宿のアシベだった。
全く色玉が入らない。
手玉をひねりすぎていたのだ。
キャロムではど真ん中を撞く事
はほぼないが、ポケットはまず
真ん中、上、下のみで的玉を
シュートインさせてから手玉を
動かす事を覚えるのが必要だと
自ずと知った。
それと、キャロムでも引きず
れのスロウは発生するが、
ポケ
ットはボールが小さく、質
量も
小さいため、真ん中撞きだと

定角度で分離角度が狭まる直線

追い=スロウ(throw。バランス
を崩す)が確実に100%発生する
のも知った。

手玉を動かすのはキャロムも
ポケットも同じだが、ポケット
はポケットなりの理屈と理論が
ある事もやりはじめてすぐに分っ
た。だが、対処の仕方が見えない。
暗中模索の中、いろいろ考えな
がら、試しながら、
それとなく
筋道が見えて来た。ビリヤード
入門用の教科書などは超初心者
向けのものばかりで、しかも、
キャロムとポケットを同じ理論
で説いているもののみしかなく、
全くあてにならなかった。藤間
プロの既に廃版になっていた伝説
の名著以外は。フォームからして
キャロムのフォームをポケットで
も基本とするような書籍ばかり
だった。実はそれは違うと見抜い
ていた。
私はキャロムのフォームからポケ
ットにフォーム改造する際には、
アメリカのプレーヤーのフォーム
を徹底研究した。アメリカ人が
プールを撞く時には、全員が
サイド・オープンである事は見れ
ば即判ったので、そこから始めた。
なので、私はポケットに特化して
からはキャロムでもスヌーカー
でもなく、アメリカン・プール
のフォームにしていた。
まだ、サイド・オープン・スタイル
のフォームの人は少なかった。
だが、キャロムフォームでアメリ
カン・ポケットをやる選手はアメ
リカンには皆無だった。
しかし、教科書やお店の「指導」
ではキャロム・フォームを説く。
違う、と感じた。
事実、プロや関西のプール撞球者
はサイド・オープンでやっていた。
それが正解だろう、と踏んだ。
関東・東京はあまりにも四ツ球が
主体だったので、アメリカン・
プールのやり方をするのは一部の
プロや超上級者しかいなかったの
だ。第一、ポケット・ビリヤード
は統一された全国プロ組織さえ
存在していなかった。

筋道と玉の動きの道理が見えて
来たら、
ポケットを初めて一ヶ月
で1.6玉
穴幅の渋い台でナインボー
ルの
マスワリが出た。まぐれでは
なく計画通りの玉撞きとして。
普段の練習はナインボールがメイン
ではなく、エニーボール系である

14.1(フォーティーンワン)を
ずっとやっていた。とにかく
シュートと手玉移動の精度が
求められるやつ。
ナインボールはシュート重視だ。
台上に障害物となる玉は少ない。
とにかく入れ倒して手玉を次の
ラインに乗せれば取り切れる。
14.1=ストレートプールのほうが
はるかに難易度が高いが、キャ
ロムからの転向では14.1のほうが
すんなりと自分のスタイルとして
ポケット・ビリヤードの世界に
入れた。初心者なのでボウラード
は120-150点程しか出なかった。
ただ、的玉を入れながら玉の塊を

手玉で割って場の配置を作るのが
面白くて仕方なかった。無知だから
ボウラードはボウラードブレイク

というコントロールブレイクなる
ものがあるのだと知らな
かったのだ。
ナインボールのよう
にブレイクし
ていたのだった。


その年の年末に映画『ハスラー2』
が公開された。
空前絶後の爆発的ブームとなり、
ビリヤード場は待ち時間が3-5時間
当たり前、8時間待ちの店まで登場
した。
ブーム発生以前からやっていた人
たちは手立てを考えた。玉屋の
主人と共に。
やがて、華台は特別台として、
昔からの常連専用台となる文化
が従前よりも強化された。企業経営
ではなく、
個人商店的な撞球場では。
ビッグボックスやアシベやロサや
新宿の大手等には華台などは無い。
個人経営の店にあった渋台=華台
が一般開放されなくなったのだ。
これは措置としては正解だったと
思う。集客は大切だが、ブームの
一見客よりも常連贔屓さんは大切
だからだ。儲けだけでなく、業界
繁栄の面からも。

やがてキャロム用の自分のキュー
は職場の人に譲った。
ポケット専用のキューを購入した
のだ。自由が丘のアルファ・イン
ターナショナルで。
その日、そのキューで18時間撞い
た。
キャロムキューやハウスキューと
違い、シャフトがかなりしなる
ので戸惑った。
ただ、押し引きが非常に楽で、
キューの違いによる面白さと
出会った。気づくと18時間撞い
てた。
24時間開店しているビリヤ
ード
場があったので、そこで。
何日か後にナインボールでブレ
イクしたらタップが飛んだ。
なのでその24時間店でタップ交換
も頼んだ。すぐにやってくれた。
タップ交換方法はその店ではなく、

ホームができて、その店のマスター
や先輩のやり方を見取り稽古で
覚えた。タップ交換はそのうち
マスターや先輩も私に頼む程の
手筋になった。

やがて、リチャード・ブラックも
入手した。高かった。1980年代後半
当時、ブシュカモデルが60万円程
した。
その後、ボブ・ランデもTADも入手
した。
ポール・モッティのザンボッティ
完全コピーモデルも。
他にもアダム、メッヅ、石垣、アダ
ーチ、アメリカンプロダクト等々も
年代と共に入手した。
また、周囲も多種多様なキューを
使っていたので、互いに試し撞き
をよくした。
いろいろなキューの面白さに触れた。

そして、玉撞きを始めて36年以上が
過ぎた今、思う。
新鮮な気持ちで。

ハウスキューの頃のノーラップの
キューがシンプルで魅力的に思え
る、と。
原点回帰。
あの1980年代のハジマリの時代へ、
と。


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