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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

原風景

2021年11月25日 | open

ヤマハYDS1
 
私が生まれて初めて跨って同乗して
走ったオートバイはこれ。
まだ2才になるかならないかの頃の
事だ。
その時の状況と、その場にいた運転
者と母の会話もよく覚えている。
跨らせただけだと思ったら、タンク
の上に乗せて走り出したので母は
慌てたとつい先日言っていた。
近所を一周してきた。
世の中が変わった。
生まれて初めて、山手線でも東急
東横線でもなく、時速何十キロと
いう速度を体験したのだった。
親戚のいる広島県の福山市に東京
から遊びに行った時の事だ。
オートバイに乗って走っていると
キャッキャと笑いころげ、エン
ジン
を切ると泣き出す。
エンジンをかけるとまたケラケラ
と笑い出す。
自然とそうなった。
「ほれ。見てみい。
こんぎゃあにすると泣き止む。
おかしな子じゃのぅ」
と言う運転者のセリフまで覚え
てい
る。言葉は1才半で普通に
話してい
た。ちなみに私の娘が
初めて口にした単語は
犬の名前
で、生後8ヶ月だった。その位で
言葉を言うのかと思ったが自分も
そうだったと親から聞いた。
また、私も娘も這わずにいきなり
立って歩いた。
そういえば、会話の記憶があるの
だから言語として記憶していた
のだろうと合点がいった。
また、私と同じく娘は1才3ヶ月
時点でお年
はいくつ?と人から尋ね
られると指を1本出し
て単語も口に
して答えていた。
1才半では大人と全く同じように
会話をしていた。
余談だが、私の家では「子ども
言葉」は一切使わない。靴はクツ
でありクックではない。魚はサカナ
でありオトトではない。大人と同じ
標準語ですべて教育した。単語を
言語として早期にマスターする
為だ。やがて来る幼児言葉から
標準言語への移行による混乱と
手間を避けるためにそのように
していた。
これは学生時代に付き合いの深か
った二輪仲間の家庭での教育方法
を見習ったものだ。その家の3歳児
は今は親と同じ弁護士になったが、
3歳の頃からごく普通に私たちと
会話を「対話」として成していた。
使用言語の選択は重要だ。
早期に「大人と同じ言葉」を使用
すると、幼児の脳が格段に発達する。
幼児単語ではなくストレートに
物事の概念を大人と同じ脳の働き
で理解しようとするからだろう。
複雑な論理的組み立てを構成する
のはもっと後だ。就学のあたりから。
1歳から3歳までで、海綿が水を
吸うように幼児は日々どんどん
言葉を吸収して思考力がついて
来る。
そして「自分で考えよう」とし
始める頃に、「なんで?これは
どうして?」と大人に訊きまくる
時期が来る。大体1歳半~3歳まで
の期間でそれが来る。
それと、絵本でも文字だけの本で
もいいから、読み聞かせが大切だ。
とにかく「言語を介して理解する」
という情操を養う。
親にしかできない、親の務めかと
思う。その一番大切な時期に情操
を育成しないと、人の痛みが分から
なかったり、偏向思考の自己中心性
にのみ依拠する人間になってしまう。
そうなると、それはもはや知的な
生命体としての大切な与えられた
ものを放棄する事になる。
そうした事に親が子をしむけては
ならないと私の家では考えていた。

初めてオートバイに乗った1962年
のその時のヤマハの排気音も私は
よく覚えている。
ドルルルンというような音だ。
バリバリとかG行のノイジーな音
はなく、こもるような潤いの
ある音。
その14年後に自らが乗って知った
後年のヤマハRDよりもさらに5年後
の81年に乗ったRZの音が62年
に乗
ったヤマハの音に近かった。
1962年時排気煙の匂いは残念なが
覚えていない。
 
幼児期の記憶は、断片的ではあるが
覚えている事もある。
1才時の時の隣りうちのおばちゃん
の顔とか割烹着とか。
目黒の家の隣りのうちに遊びに来る
オートバイは、なぜかしら左に
アク
セルがあった記憶がある。
なんだろ、あれ。
ただ左に回す所があって、ほかの
オートバイとなんか違うなあと感
じていた。座る所は自転車みたい
なオートバイだった。
それが戦後16年目の時の1才時。
よく見る自転車は、いわゆる後に
呼称を知った重荷用というような
自転車しかなかった。
年上の男の子たちがそういう自転
車で三角乗りをやっているのをよ
く見るようになったのは、もう
ばらくした3才頃からだった。
自転車が普及してきた頃かも
知れ
ない。
 
ただ、私が初めて自分用に買って
貰った自転車は、前輪にサスペン
ションがついていた。1964年の
だ。2年保育なので幼稚園に
前だ。
ブレーキがまた変なブレーキで、
ハンドルグリップのエンドに電車
の三角吊革のような物が着いて
いて、それを引っ張る。
走行中にブレーキかけられない
じゃんねえ(笑
そして、ペダルとチェンはロード
レーサーのように直結していて
空回りしない。
なので、基本的に止まる時には
足の力でペダルを止めるブレーキ
だ(笑
他の子が乗ってるようなフツーの
自転車が欲しかったよお〜(笑
親父も何でよりによって最初から
レーサーみたいな自転車を私に与え
たのか。大人用の重荷用でも
いか
ったのにさ。
私のそのマイバイクは、色はハン
ドルが何故かエンジ色に塗装
され
ていた物だった。その色は
なかなか
よかった。ミニカー
みたいで。
でも、ペダルがいかんせん重た
ぎで苦労した。
空転しないから、補助輪が外れて
二輪で乗れるまで苦労した。
何の事はない。ペダルから両足を
外して跨って慣性のみで走ると、
すぐに補助輪無しで乗れるように
なった。今までの苦労は何だった
のか、と(笑


過日、1962年に私をヤマハに乗せ
てくれた人が亡くなった。
叔祖父は超高齢だった。
あの日のあの時、私は私の質性に
目覚めた。
BORN TO RIDE.
とわに、乗ると共にあらんことを。
それが全ての源。

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