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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ピーチョコ

2023年03月17日 | open
 

スーパーにいつも食べてる
チョコ
を買いに行ったら、
販売やめて
いた。
なんだよー、と思いつつ棚
を見た
ら、広島県のスーパ
ー独自ブラン
ドで似たチョ
コを売っていた。
 
ちぇ、なんて思いながら製
造者を
見たらおったまげ。


懐かしいわが湘南の菓子メー
カー
だ。
歴史上、日本で初めてチョコ
ピーナッツを入れたメーカ
ー。
「ピーチョコ®︎」はこの
会社の
登録商標である。
ガキの頃、湘南・横浜の駄菓
屋には必ずあったピーチ
ョコ。
まだ、チョコが高額だった頃
安価で提供して日本人にチ
ョコ
を広めた会社だ。
湘南茅ヶ崎の大一製菓!
そのピーチョコが広島県福山
が本店のスーパーのオリジ
ナル
ブランドとして「ピーナ
ッツ
チョコレート」として新
発売
になっている。スーパー
限定
格安品だ。


これは嬉しい。
食べたら、50数年の時を越え
る懐かしい味。
これだよ、これ。
この湘南の丘陵住宅街の団地
の長い坂を下りた境川の橋の
たもとの店で売ってた味。
ペプシを飲んで食った味。
この坂の先には小学校があり、
小学校校庭の横を湘南電車が
通っている。
 
私の一回り年上、戦後団塊世代
母校の小学生たち。この
給食
室は私も使っていた。私
の頃は
白い上着と帽子、白マス
クが
必着だった。教室まで給食
当番
が生徒の給食を運ぶ。教師
も教
室で生徒と給食を食べるの
日常だった。


小学校にしては、校庭はかなり
広い学校だった。
 
この子たちと私が同じ年になっ
この小学校に通う頃、彼
らは
大学では・・・。





 







左側=日本共産党。
右側=東大全共闘支援防衛
隊=新左翼混成部隊。
革マル派とML派の間の最前
線の銀ヘルは日大全共闘で
はなく旧共産同マル戦前衛
派。


この東大安田砦の有名な写真
のゲバヘル学生は中核派では
ない。銀ヘル=旧共産同マル
戦前衛派だ。60年安保の全学
連主流派の中央部分。安保ブ
ント=共産同・社学同が安保
以降に分裂解散したが、共産
同=ブントは1967年に再建。
だが、旧主流派のマルクス主
義戦線派(セクトナンバー6)
はブント内戦旗派や関西派と
対立し、1968年3月に共産同
=ブント(学生組織は社学同)
から脱退して独立セクトとな
った。ヘルメットは赤→銀ヘル。
大衆組織は「安保共闘」。
その後、同盟ではなく組織を
党として結党し、共産主義者
党とした。学生戦線は首都圏
行動戦線連合、労働者組織は
首都圏行動委員会。
結党時、かつての非公然軍事
組織であった共産主義武装行
動隊は解消させた。
共武行は主として対中核派、
対社青同解放派との武装対決
を担い、同じマル戦内分裂後
には元同組織であったマル戦
怒涛派(ヘルメット赤)に対し
ても武力制圧していた。怒涛
派は赤軍派寄りの軍事蜂起路
線であったので、工場占拠ゼ
ネスト蜂起路線の前衛派とは
対立した。
前衛派は中核派はじめ他セク
トからは単純ゲバルト(武装行
動)を専らとするとの揶揄表現
で「単ゲバ」派と呼ばれてい
た。
だが、それがブントのかつて
の中央部分だった。60年安保
の「大ブント時代」の頃は。
前衛派の理論支柱だった岩田
経済学は中核派も参考にして
いた。宇野経済学を批判的に
継承したのが岩田帝国主義論
だった。1960年代の学生には
吉本隆明と共に絶大な影響を
与えた理論だった。主軸は
帝国主義の危機論。
マル戦前衛派は中核派よりも
先に本格的内ゲバを初めて始
めたセクトだったが、内ゲバ
を内部批判して真っ先に内ゲ
バを停止した新左翼セクトで
もあった。
前衛派の内ゲバは、督戦が
いて、短い鉄パイプを持ち、
白兵戦で後退して戻ろうと
する自軍を容赦なく叩き伏
せていた。他の組織が角材
とかの時代に鉄パイプを導
入し、さらにヘルメットに
沈ませるために鉄板3枚溶接
の武器を内ゲバ用に導入し
ていた。
一般的な集会には軍事組織
でなくとも前衛派は各自が
手斧を所持して参加していた。
明学大からは戦闘により中核
派を叩き出したが、法政大か
らは逆に中核・プロ軍連合か
ら叩き出された。
明学を叩き出された中核派は
中核派と革マル派の拠点であ
る横浜国大に亡命していた。
 
青学大のブント=社学同。

1970年前後は、早大から革マ
ル派によって叩き出されたブ
ント系は主として青学に亡命
政権を作っていた。ブント叛
旗派等。1970年代末期にも
他のブント系セクトは革マル
のナチスのような独裁体制に
より、他大学に亡命せざるを
得ない実情があった。

このニコンのCM写真の10年
後の私の時代も、1960年代
末期と大学内の状況はさ
して
変わらなかった。
変わったのは「大衆」の動員
のみで、セクトの員数は減
どころか私の時代には
60年代末期の全共闘
時代
よりも増えていた。
要する
に看板持ちの本職たちが。
減ったのは浮動層であり、本
たちは全く減ってはいな
かっ
た。むしろ増えていた。
「大衆」の時代から「セク
ト」の時代になったのが
1970年代末期~1980年
代初頭だった。
だがそれは、「運動」的
広がりから「組織」の時
代であった事を意味する。
極言すれば、大衆的運動
は1960年代末期の敗北に
より決定的だったのだ。
1970年代末期は大衆的な
動員は激減し、覚悟を決
めた「本職」たちのみが
中心となって活動を展開
していた時代だといえる。

これ全部セクト。「大衆」は
いない。わが学対広報撮影
班が撮影。この中に私が
いる。
1980年代初頭の代々木公園。

 
 

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