渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

世界一のライダー、ケニーロバーツ

2024年01月02日 | open

ケニー・ロバーツ|”革命家キングケニー”
が築き上げてきた伝説の数々


世界で初めてスリックタイヤを
テスト走行したのはケニーだ。
彼の偉業は多くあり過ぎて、
語りつくせない。
彼こそがレースそのものを変えた。
彼がキングと呼ばれるのはロード

でのみ速かったからではない。
AMAで5種のレースカテゴリーで
すべて同一年にチャンピオンにな
っている。

そのような人間は地球上にケニー
一人しかいない。
間違いなく、ケニーロバーツこそ

が歴史上世界一の偉業を成し遂げ
た人間だ。
アメリカ人の妻と長い離婚協議
成立後に、日本人の女性と再婚
した。
ただ、動画の解説にあったハング

オンを考案、というのは間違いだ。
ハングフォームはケニーのはるか
以前から存在した。それは1960
年代から。
膝をすりはじめたのは1972年
250チャンピオンのヤーノサー
リネンだった。
ヤーノは1973年のGPレース中
に死亡した。路面オイルによる
複数台の大事故で、頭部が消滅
する悲劇が彼を襲った事故だった。
ヤマハは1973年シーズン途中だ
ったが、GPから撤退した。
ケニーはヤーノ亡きあとの1974年
からアメリカヤマハの選手として
世界グランプリに参戦した。
その後、500クラスで3年連続
チャンピオンとなった。
伝説の1983年の若きフレディ
スペンサーとの一騎打ちは
グランプリ史上に残る名勝負
のシーズンとなった。
シーズンを通して優勝したのは
ケニーとフレディしかいないと
いう年が1983年だった。
勝負の行方は最終戦までもち
こまれ、最終戦でケニーは優勝
するも、フレディが重要ポイント
圏内につけてフレディがチャンピ
オンになった。
ケニーロバーツは、その年を以て
世界グランプリからは引退した。
1985年に、日本の平忠彦と組んで
鈴鹿8時間耐久にヤマハワークス
から参戦し、予選1位なるもマシン
トラブルで決勝17位。

その翌年の8耐がケニーのラスト
レースだっ
た。(予選2位、決勝
リタイア)

以降は1984年から始めたGPチーム
監督としてチーム・ロバーツで
数々
の世界チャンピ
オンを育て上げた。
親日家でもあり、阿蘇にあるケニー
ロードは彼の名が冠されたもので、
阿蘇は世界最高のロードだとケニー
は紹介している。
毎年日本の阿蘇に走りに来ていた
が、招待するのに費用が2000万円
以上かかるため、主催者の負担も
大きく、数年で継続招待は終了し
た。
トムクルーズを呼ぶよりは遥かに

安いのではあるが、二輪界、特に
個人
企業の資金は潤沢ではない。
ロードレースも、ワークスなどは

1シーズンで数十億円が必要だ。
メーカーの撤退や縮小理由の殆ど
は資
金が続かないからだ。
そのあたりは、アメリカのメジャー

リーグのような巨万の富を生む
プロモートは、日本のモーター
ポーツの世界には成立していな
い。






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