スポーツは楽しむのが一番良いが、
競技種目の楽しみは技能を駆使し
て「対戦」の中で自分の持てる力
を最大限に発揮して、正々堂々と
戦う事の中にある。
そこがスポーツとレジャーの決定
的な違いだと思う。
ビリヤードはビリヤード自体が楽
しい。私の場合。
ただし、オートバイと同じで、
「楽しいよぉ~」という感覚で
人には勧められない。
なぜならば、どんどん高度な領域
を得ようと突き詰めてやって行く
と、「対戦競技」である以上、
かなりの心理的重圧もものとも
しない元来の資質があるかないか
が自分につきつけられて来るから
だ。
社会的に疲れが多い現代、心身症
に悩む人々も多い。
そうした人たちに息抜きとして
ビリヤードなどは絶対におすすめ
できない。
持って生まれた向こうっ気の強さ
と芯の強さと心の不動性を備えて
いないと、対戦競技の中でのプレッ
シャーに社会的に疲れた人たちは
すぐに潰されるからだ。
症状は悪化する。確実に。
これはビビリのチキンであるとか
そういう事とも異なる。
多くの人を数十年に亘り、撞球
シーンの中で観てきて、確実な
事が判明している。
普段、向こうっ気が強い風でいて
も、対戦局面でシビアになって
自分が不利になると、ある行動を
無意識のうちに取ったり等のパタ
ーン化された態様を見せる人が
多くいる。不必要に欠伸を異様に
多発させたり(意図的)、ソワ
ソワしたり、落ち着きが無くなっ
たり等々、人によって多様な形態
がある。
これは別にチキンではなく、無意
識下の動物的な自己防衛本能が
働いているのだろうと察知できる。
本当の事を言うと、そういう人は
ビリヤードには向いていない。
そして大切な事は、自分が負けた
事、負けそうな局面である事を
自分できちんと認識して受け容れ
る事だ。玉の入れ数やゲームの
勝敗などではない。何に負けそう
なのか、という事を識別する事だ。
受け容れる事ができない心が弱い
人間だと、防衛本能が働いてパタ
ーン化された仕草をし始める。
そしてそれは「言い訳」を無意識
下に探す心理状態と行動となる。
それは「ルーザー」であるのだ。
だが、負けを受け容れる事ができ
る心強き者は、さらに次回は
そうではない自分を目指す事が
できる。
受け容れずに防衛本能のままに
本質を視ずに「目を逸らそう」と
する人間は、いつまで経っても
絶対に「ルーザー」からは抜本的
に抜け出す事はできない。
それでいながら、自分は強いの
だと勘違いして自分を納得させ
て「ある精神位置」からは脱却
できない。
この例、撞球界ではかなり多い。
一般社会でも実に多いのであるが。
何がどうあろうと、徹底的に強固
強烈強靭な独立した自己を確立し
ていて、泰然として状況を突破で
きる心を持っていないと、本当の
ところでは撞球者としてはやって
いけない。
凡庸なそこらのお楽しみレジャー
でビリヤードが終わるのがオチだ。
蛙の面に小便、屁の河童、くらい
の我関せずの者のほうがビリヤー
ドプレーヤーには根源的には向い
ている。
どんなに玉撞きが巧くとも、どん
なに見かけ上のランキングが上位
であろうとも、対戦者が撞く時に
わざと目を逸らしていたり、相手
がまだ台前から退いていないのに
せかすように出て行って自分が撞
こうとしたり、異様な態度でおど
けて見せたりする「トップ」プロ
もいるが、基本的に根幹部分では
ビリヤードには向いていない人的
質性である事は確実だ。
玉撞きがどれほどお上手でも、
そうした資質持ちは撞球師として
は番外の論外なのである。
その種族は撞球界では「ルーザー」
と呼ばれる。試合で勝った負けた
ではない。もっと深い人間性の
部分の問題。
ただ、ビリヤードは、極めようと
せずとも、お楽しみ程度でも玉を
撞く事は可能だが、撞球の中心幹
は「対戦競技」である。
人と人との真剣勝負だ。
撞球に手を染めようとする人は、
人一倍勝気である事だけでなく、
不動心を根っから備えていないと
継続や斯道の深化は無理だろう。
そして、危険だ。
やり始めるのは簡単だが、本質に
触れ始める時、心の病がある場合
には悪化すると思われるし、現実
に多くのそうした事例を見て来た。
数えきれない程の実例を見て来た。
隣りで人が銃で殺されようが、
爆弾が落ちようが、「うるさい。
今この一球は外せないんだ」と
いう程、悪魔に魂を売り渡した
ような者でないと奥義を掴めない、
というような部分が確実にある。
まるで仏法の本質である「親に
逢うては親を殺し、子に逢うて
は子を殺す」というような境地
が、撞球の奥の奥の奥に進めば
進む程要求されてくるのである。
それはあたかも、敵に包囲されて
通常ならば「もはやこれまで」
の状況であるのに、極上の竹を
その時に見つけたから、敵や己
の命の行方などお構いなしで茶
杓を一心不乱に削り始めた戦国
武将で後に広島藩の重臣となっ
た上田宗箇のような、そういう
人的質性が問われてくるのだ。
これ、ほんと。
撞球は人の時間を止める。
だから悪魔の競技と私が言うの
である。
そこまでの深淵領域を洞察する
までもなく、お手軽にビリヤード
をやるのはやめたほうがよい。
しつこいようだが、「対戦競技」
だからだ。
しかも、本当の勝負の中心は
試合というもので勝った負けた
ではないところでの勝負となる。
一人で玉入れだけをやっていて
それがビリヤードだと思ってい
る人たちもいるようだが、そう
したあたりでは、何か自分が気に
入らない事が環境や業界や周囲の
人間に見えたりすると、すぐに
ビリヤードそのものをやめてしま
う人が時々いる。
そのくせ、ビリヤードについて
蘊蓄を語りたがる。
それらは私からすると外(と)の
者であると思える。
そして、精神的に弱すぎる。
そうした人たちは、撞球はやら
ないほうが健康のためにはよい。