1986 日本グランプリ GP500 ①
1986 日本グランプリ GP500 ②
1986 日本グランプリ GP500 ③
1986 日本グランプリ GP500 ④
1980年代初期から中期の日本
国内。
それはヤマハの平忠彦選手の
時代。
鈴鹿東コースと西コースでア
ナウンサーが交代しながら実
況中継している。
豪華な時代。
ホンダNSRは熟成が進んでは
いたが、まだまだハンドリン
グに難を抱えており、ヤマハ
のマシンと互角に渡り合えた
のは、これはライダーの腕に
よるものだ。
NSRは1989年にローソンによ
ってハンドリングが激変して
最速マシンとなる。
1985年にフレディが優勝でき
たのはフレディの腕による特
異なものであり、1984,1986,
1988,1989年と4年連続世界
チャンピオンとなったエディ・
ローソンが1989年に限りホン
ダに移籍した事でマシンを
大改良してバトルマシンに
仕上げた。
殆ど転倒者が出ないヤマハに
対して、ホンダはフレディと
エディ以外は乗る者がほぼ
転ぶ車だったのは事実だ。
ひどかったのはホンダの純
市販レーサーRS250が発売
されたばかりの年のシーズン
前の新年コースでの下しの時。
FISCOでのスポーツ走行の際
にはオフィシャルから場内
放送が何度も流れた。
「ホンダRS250ユーザーの
方は充分に走行には注意し
てください」と。
そんな放送は1970年代から
その時まで聴いた事がない
ので、何だろう?と思って
私が少し遅れてピットから
コースにパララーンと出た
ら、1ラップ目にぶったまげ
た。
コース上にはまだ未塗装で
真っ白のままのホンダRS250
純レーサーがあちこちに累々
と白い屍のように横たわって
いたのだ。
インターバルの時にホンダ系
チームの人から聞くと、それ
までのヤマハTZ250のつもり
でコーナーに入って行くと、
いきなり前輪足払いをくらっ
たようにすっ飛ばされる、と
いうのだ。
そうしたホンダの特性は、レー
シングマシンだけでなく市販
公道マシンにもその後反映さ
れていた。
NSR250Rなどはまるで史上最
強モデルのように神話化され
ているが、実は国産4社の中
で一番曲がらない二輪だった。
そして最悪ハンドリングゆえ
旋回性能中の操安にも問題が
あった。
さらに、神格化虚像化の頂点
である88NSR(MC18)に至って
は、中速域までの加速は圧倒
的に何度計測してもカワサキ
KR-1のほうが速かった。これ
は事実だ。ハンドリングもカ
ワサキのほうが遥かに上。ヤ
マハはさらにその上を行って
いた。
この1986年の鈴鹿でのレース
は、ワイン・ガードナーの突
き抜けた腕の良さが見られる
貴重な映像だ。もう職人技。
ただし、レース開始直後から
ハンドリングに苦しんでいる
様子は映像に収められている。
未完成な物でも何とかしてい
るところに非凡な職人技的な
高次元の技術を見て取れる。
この時のヤマハワークスYZR
はホンダよりも最高速が出て
いるのが判る。
この時のヤマハ最強の状況に
ついてはあたりは、パワーの
ホンダが最高速でヤマハの後
塵を喫する屈辱を浴びたとし
て劇画「バリバリ伝説」でも
ホンダワークス監督の梅井が
涙ながら唇を噛みしめるシーン
でも描かれている。
ヤマハのマシンを作ったのは
河崎シャケさんと平忠彦選手
だ。ケニー・ロバーツやロー
ソンにも同じセッティングの
マシンを供給していた。
そして、レースを見ていると、
シャケさん#5のマシンが一番
安定している。
観客の数を見てほしい。
ギッシリ鮨詰めだ。
これはファイナルレースだから
ではなく、シーズンを通して毎
回こうだった。プロ野球の球場
以上の観客が集まってロードレ
ースを観戦していた時代だった
のだ。
現在とはまるで異なる。
全員二輪か四輪の自動車で来る。
これがディズニーランドのよう
に鉄道や仮にモノレールとかの
公共交通機関がサーキット駅ま
で開通していたら、観客数はど
うなってしまうのだろう、とい
う程の観客動員数があったのが
1980年代中期の国内のロードレ
ース状況だった。1985年の鈴鹿
8時間耐久レースは18万人が現
地で観戦した。