小田原城。
1633年に天守が完成した。
現在の天守は私が生まれた1960
年に近代建築で復元された。
神奈川県人にとっては小田原城
は馴染み深い。
何かと観光行楽でも小田原城は
親しまれている。
湘南に住む私なども、幼稚園頃
から何度も家族や遠足で小田原
城に行った。
神奈川県の小田原城は広島県三
原の三原城と全く無縁ではない。
(小田原城の歴史)
三原の地は小早川隆景が開き、
戦国時代末期に海上に城を築い
た。そして、安芸国豊田郡本郷
村(平成大合併により三原市に参
入した)の高山城から移転した向
かいの新高山城から、さらに海辺
の三原新城に小早川氏は移住した。
安芸国と備後国には小早川氏の
後に安芸備後二国の領主として
福島正則が江戸時代初期に入封
(にゅうほう)。
福島氏は城郭無断改修の嫌疑
により幕府に謀叛の虞ありと
して改易された。
広島城と三原城の実質的な
明治まで残った城の築城者は
福島正則だろう。
その後、備後と安芸の領地は
分割され、安芸と備後最西部
三原までの領地には紀州より
浅野氏が入って明治まで統治
した。
三原城を戦国末期に作った小
早川氏は土肥氏の家を世襲し
たもので、血脈的には毛利一門
だ。謀略による殺戮で家という
器を乗っ取った。
なので、戦国末期の小早川氏
は鎌倉武士の土肥氏の血脈的
な子孫では無く、「家門」と
しての存続ルーツだ。
武士階級は平安時代に発生し、
日本全国各地を転々として住
した。他の階級のように土地と
いう地面や海という漁場に固着
する事は一切無い。
武士はすべてが「仮の住まい」
なのである。
平安時代から、夥しい例で「移
動」が行なわれて来た。
武士は地面に執着しない。
どこにでも住むし住めるし、
またどこにでも躊躇無く移住で
きる。
たとえ、転封(てんぽう)が無く、
国元に数百年住もうとも、そこ
は仮の地であり、いつ何時移動
となるか分からないので、それ
に対する心構えは代々血脈に受
けつがれて教育を施される。
武士にとっての「故郷」とは、
現住場所でも国元でもない。
武士の「故郷」は心の中にのみ
存在する。
武士は地面に己の精神を拘束さ
れない。
地元贔屓やお国自慢とも無縁だ。
江戸期に大名たちが競ったお国
自慢は、藩政や殖産興業につい
ての人材と生産物自慢であり、
地べたや海や山を誇ったのでは
ない。そんな誇りにもならない
物を誇りに武士はしない。
そして、人無き大名は各国から
軽んじられ、仁材厚き者は惜し
み無く称賛された。
海山があるからと誇りに思う
お門違いは武士には居なかった。
それは、そこが自分らの手柄で
存在する物では無いからだ。
武士無き現代。
ド勘違いをしている地元贔屓や
お国自慢が日本国内を跋扈して
いる。19世紀にヨーロッパを震
撼させた妖怪以上に。
だが、それらは虚飾なのである。