【公式】ストップ!! ひばりくん!
第1話「彼女!?はアイドル!」
センちゃん江口画伯の名作の
アニメ化。
まだジェンダーフリーという
概念が無かった1980年代、ひ
ばりくんのような存在は「変
態」としてネタにされる時代
だった。
本作原作は私は大好きだった。
漫画としての展開が面白かっ
たが、アニメはかなりつまら
ない。動きや声にリアル感が
出るからだろう。
それは同時に非現実感を加速
させる素因にもなる。作り物
感が増幅するからだ。取って
付けたような喋り方とアクシ
ョンと擬音、という要素が
入るゆえだろう。
これは『うる星やつら』にも
いえた。原作のほうが遥かに
よい。
原作の雰囲気とは乖離せずに
アニメでも成功したのは『ド
クタースランプ』や『タッチ』
あたりか。
だが、どれもがアニメでは高
視聴率を得た。
令和の時代の今、ひばりくん
のアニメが視聴できるのは社
会世相としても奇跡に近い。
アニメ版での坂本耕作の声は
名声優古谷徹が吹き替えをし
ているが、ひばりくんの声は
現実の妻の間嶋里美が吹き替
えを担当している。面白いキ
ャスティングだ。
『ストップ!!ひばりくん!』
の物語は未完だ。数十年後に
未稿部分数ページを江口画伯
が描いたがそれでも未完。
私は「実はひばりくんは男
ではなく女だった。家族含
め全員が勘違いしていた。
ひばりくんは晴れて耕作と
結婚できた」というオチに
でもなるのかと思っていたが、
後年のインタビューでは原作
者は「男同士でも結婚できる
のかもしれない」という将来
性を呟いている。
今のところ、生まれた時には
男か女かに人間は振り分けら
れるが、生殖的な別能力はそ
れはそれとして肉体的に存在
するとはいえ、性別で社会的
地位の格差や差別があっては
ならないと私は思うし、恋愛
感情についても性別に固執す
るのが「正常」であり、それ
以外が「異常」として排除排
斥される世の中はどうかと思
う。
なぜならば、通常、それを是
認推進するような社会は、強
い者=男となり、強い者が強
引に弱い者を踏みしだいて支
配する、という仕組みだから
だ。
これは、嫌だ。
私が生まれた時の性別が男
であるのはたまたまだが、本
人ではどうしようもできない
ものを以て差別されたり支配
下に置かれたりするのは嫌だ
し、私の側もそれをするのは
嫌だ。
人が人を支配してよい世の中
は嫌。行きつくと殺生与奪権
を支配者が握る事になる。
そして人は支配者の意のまま
に殺されたり飼い殺しにされ
たりする。
そういうのが私は嫌だ。
ゆえに、ジェンダーフリーは
人間の尊厳として当然の事だ
と私は思っている。
右翼とかジェンダーフリーを
「異端」として排撃するのが
好きだよね。
本当の右翼は男同士の恋愛と
か存在するくせに。
ただ、右翼系の同性愛はジェ
ンダーフリーとは別な精神素
地のようで、マッチョな男根
主義の純化と美化による精神
的結合を目指すような面があ
る。江戸期の奴の傾奇者など
もそうした精神素地だった。
そもそも日本には女性を汚ら
わしいとする文化があったた
め、男性同士の恋愛を美とす
る風潮が育つ土壌があった。
これは卑弥呼やアマテラスの
時代には不存在だった筈だ。
日本に外国の仏教という宗教
が伝来してから、その手の格
差性別差別感を育成助長する
精神性が日本人に宿ったとい
える。
この事はとりもなおさず、女
性と交わるのは女犯として仏
教的な戒律が存在した事の影
響だろう。ハレとケの文化、
穢れの思想なども仏教に影響
された忌避感が促進した事は
否定できない。
そこにはかつての超古代のよ
うに女性を太陽として神聖視
した精神性はみられない。
だから破戒僧たちは男の子を
犯した。現代では幼い男子を
地位というパワーで犯す芸能
プロモーターが業界を支配し
てきたようなものだ。実際に
その張本人は1980年代には
断罪もされず、芸能界を支配
してきたし、今でも断罪され
ずに芸能界や報道陣までもが
その勢力に忖度をしている。
そうした精神素地は、歴史的
には男社会こそが本位である
という精神世界を形成し、武
家政権時代においては、武将
たちは幼い男子を性的ななぐ
さみものにする事が日常化し
た。これは幕末の幕藩体制崩
壊まで続いた。
そうした男色文化は現在でも
西日本諸国には残っている地
方も存在する。薩摩や土佐等。
江戸時代の普及率は全国レベ
ルだった。
幕末の新選組の副長土方歳三
が郷里に宛てた手紙の中で
「近頃隊内で男色が流行って
規律が乱れ非常に困惑してい
る」という趣旨を書き残して
いる。
今でも各国軍隊(日本の自衛
隊も)や警察の中にもそうし
た風潮が一部に残存している
が、それらは前述のように
ジェンダーフリーという概念
とは異なる。男性を男性とし
て恋愛対象として見るのだ。
性別を超えているようで、内
実は特定性別に固執して偏愛
しているのだ。
ひばりくんの場合は、同性を
同性として見るのではなく、
「性を超える」存在として
いる。
今は忌避されるが1980年代当
時、男性が女性化することは
「おかま」と呼ばれた。嘲笑
の対象、疑問の対象とされた。
これは江戸期の「おやま」か
ら来た言葉だ。
女性が歌舞伎を演じる事が禁
じられて以降、男性が演じる
事からそうした言語や文化が
発生した。男色を積極的に是
認肯定する男性社会の社会風
潮と合流して。
元々は、日本の男色文化は
女性差別から発している。
そこがジェンダーフリーとは
異なる。
ジェンダーフリーは当事者た
ちがジェンダーフリーである
事を自覚して公開して後から
差別される(あるいは予備的
に差別対象とされる)のが現
代社会であり、「異端」と
みなして排除しようとする
勢力が大方なのだ。
ここにきてようやく真のフリ
ーに一歩近づく動きは出て来
たが、まだまだジェンダーフ
リー差別が根強い。
かつての男性社会の男色は
異端ではなく「美」として
扱われ、女性を排除する男性
社会を形成していた。
今でも言い回しに残る「けつ
の穴の小さい男」という揶揄
表現は男性同士の性行為の事
を暗喩しているのだ。
「男だったらケツ差し出して
ナンボ」というような。
自動車事故の「オカマ掘る」
というのも同様の背景を持つ
言い回しだ。
これらはジェンダーフリーと
は異なり、女性を蔑視し差別
し排除する男性唯一絶対視の
社会背景が厳然として存在す
る事の証左でもある。
私個人はジェンダーフリーは
透き通る精神の純粋性を感じ
るが、男色文化には歪んだ精
神性を感じる。
それは、男色文化には明らか
に女性を排除して女性を汚ら
わしきものとして差別した果
ての男根主義が厳然と存在し
てきた社会構造に支えられて
きた歴史があるからだ。
人が人を排除して選り好みで
性別を特定して偏愛指向する
ところに男色があり、それは
女性差別概念の上に成り立つ
ものであったのだから、明ら
かに人間差別を基盤とする精
神性を構成している。
私はそれは嫌だし、社会的に
もそれは現代社会では不適合
だ。ジェンダーフリー社会を
目指す事とは根本的に対立す
る。性別を超える点で一見似
ているように思えるが、中身
はまるで異なる。
人が人を排除して排撃して排
外して排斥する思想と社会構
造の上に成り立つ精神性は、
人はそれを厳格に捨象してい
かないととんでもない社会に
なる。人が人を虐げたり殺す
事を自由勝手にやらかす世の
中になる。
そうした世の中は厳然と否定
していかないと、それをやり
たい連中が権力を掌握すると
最悪の地獄のような社会とな
る。
歴史的にはナチスやファシス
ト党が支配した国家の社会が
典型例だ。
昨今の日本の社会実相として
見える事がある。
ネトウヨたちの指向性の行き
つく先は北朝鮮のような社会
になるという事だ。
ネトウヨたちは北朝鮮のよう
な社会を望んでいるのだろう。
そうなったなら、ネトウヨら
は自分らが真っ先に殺される
が。
彼らネトウヨの愚かさはそこ
にある。