
なぜ日本では明治まで馬車が
存在しなかったのか。
それは、「乗り物は特権階級
のみが乗るもの」という価値
観を日本の支配者が作って来
たからだ。
籠にしても馬にしてもそうだ。
古くは日本には貴族のうちの
さらに上級の一部の者のみが
乗れる牛車(ぎっしゃ)があった。
馬に乗れるのも限られた上級
階級の者のみだった。
武士が貴族から政権を奪って
から以降は、武士は貴族が作っ
た階級制度を利用して君臨した。
そして、乗馬階級と徒歩階級に
分け、同じ武士の中にも細かい
差別的な階級制度を導入した。
そして、そうした統治体制は、
「人民が迅速に移動できなく
させる」事が統治の一つの要
となった。俊足移動が可能なの
は支配者階級のみとさせるの
だ。
天皇が成した街道整備は、天皇
親政時代の律令制確立の為に
全国から税を徴収、人を徴兵
させる為に実行された。人々の
暮らしの為などではない。
約16km毎に置かれた駅家(うま
や)は、それら徴兵徴税の為の
中継駅だった。
だが、天皇は人民をどんなに
遠隔地であろうとも歩かせた。
駅家に20疋ほど育成されてい
た馬はヒトを乗せるのではな
く、貢物を運んだり伝令の為
に存在させられた。人は歩き、
支配者のみが乗馬した。
古代街道は急峻な山岳地帯も
通った。
そうした地形的条件と支配体
制の統治概念から、日本では
馬車が登場しなかった。
人が迅速に自由に移動しては
ならない世の中に貴族やその後
の武士階級はさせたかったから
だ。
それゆえ、誰でも考えつきそう
な馬車という乗り物は、自由を
重んじる世界ではない真逆の
体制社会の日本では発達しなか
った。
西欧でも馬車は元々は貴族階級
のみの為の物だった。
アメリカは自由の国であるゆえ、
階級は存在せず、全員が平民で
あるので誰でも馬車や馬に乗っ
て移動できた。
貧富の差は階級とは異なる。
金持ちは単なる金持ちでしか
なく、貴族でもない。
誰でも金持ちになれるし、また
貧乏のどん底にもなれるのが
アメリカ合衆国だった。
だが、貴族階級は生まれつき
貴族階級で、子孫も貴族だ。
日本の武士階級は貴族に雇用
された武門という貴族警護の
傭兵がルーツだ。それに貴種
降臨で地方の行政官として
赴任した貴族が土着して領地
を守る在地武士団の「一所
懸命」となった流れと合体
したのが武士だ。
武士と貴族はルーツが異なる
が、共通点は血脈=職業とな
っている事だった。
貴族も武士も支配層ではある
が、職業選択の自由は無い。
生まれる前から貴族は貴族、
武士は武士だった。
欧米に発生した共和的自由
思想とは真っ向から対立した
のが階級社会だった。
それゆえ人民の自由の為には
革命により支配階級を消滅さ
せないと自由の世界は獲得で
きなかった。
日本には階級制度があった。
それは古代からなんと昭和23
年(1948年)まで。
生まれた階級を昭和の私が生
まれる12年前まで戸籍に記載
して人を区別していたのだった。
その区別は、当然にして、人
を差別する事で成立させる社
会構造を構成した。
差別によって成立しているの
が階級社会だ。
その差別は、出自の如何だけで
なく、ありとあらゆる差別を
旨としていた。
私の親の世代などは、戦後の
「民主主義」の時代であっても、
戦争で父が死んだ片親の子など
は銀行などには就職できなかっ
た。これは事実として。
また、出自により差別が歴然
と行なわれ、特定の地区出身
者は企業等は採用しなかった。
公然と差別が戦後の日本でも
実行されていた。
人権そのものも人権意識も
日本人は世界筆頭で希薄だ
った。
また、政府もそうした国民
意識を是正させる教育を一切
取らなかった。
国民の側からの働きにより、
ようやく教育機関が腰を上げ
たのが1970年代初期だった。
私の子ども時分の戦後高度経
済成長時代には、そこら中に
差別が蔓延していた。
教師自身が許されざる差別
意識で教壇で差別発言をし
ていた。これは東京でも神奈
川でも広島でも。
出自や家の経済状況により
人によって別扱い(正負両方)
をする。差別そのものだ。
そして負の扱いでは、いわれ
なき理由により人を排除、排
撃、排斥、除け者扱いする。
人をして人に理由なき不利益
を生じせしめる。本人では
どうにもできない出自や性別
や身の上や年齢や身体的な
ハンデを理由にして。
それが差別だ。
日本に馬車が発達しなかった
のは、日本の階級社会の差別
統治制度の歴史の存在による。
人民が俊敏に勝手に移動して
は支配者が困るのだ。
支配者が道を通る時には被支配
階級は地べたに土下座。
それが日本だった。
それに逆らうと首を刎ねられ
た。人が人を殺しても、特定
階級は許された。
だが、別な階級がそれをやると
厳重に罰せられた。
もろに差別そのものだ。
それが日本の差別社会だった。
誰でも馬車や馬に乗れる社会。
それこそがまともで民主的な
社会だ。
誰でも原付や自動二輪に乗れ、
誰でも自動車に乗れる。
モーターリゼーションこそは
人の明るい社会を築く。
