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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

目黒のサンマ ~カワサキ~

2023年11月03日 | open





おいらは目黒製作所のすぐ
そばで
生まれた。
目黒製作所から山手通りを外
回りでちょい行った中
目黒二
丁目の病院だ。家は上目黒一
丁目、現在の青葉台一丁目。


生まれ故郷の地元発の二輪
メーカーだからカワサキが
好きというわけではないん
だけどね。
生まれた地元に目黒製作所
があったのはたまたまの偶
然。

カワサキが好きなのは、カ
ワサキのオートバイにはカ
ワサキの色があるから。
そしてカワサキスピリット

が。
カワサキとしての一番最初
の二輪はスクーターだった
が、メグロがカワサキにな
ってからはカワサキは骨太
のオートバイを作るように
なった。
メグロ自体は、勝海舟の養
子で徳川慶喜の実子だった
伯爵勝精が始めたエンジン
製造所に勤めた村田延治が
鈴木高治と独立して鈴木鉄
工所を目黒製作所と改称し
て後のカワサキの二輪部門
の母体ができた。
勝精の会社ではハーレーの
コピーを3台試作したが、
商品化には至らなかった。
大正初期の事だ。

戦後、メグロ製作所は1960
年(昭和35年)10月に日本
初の大型二輪を発売した。
それがメグロKH型(K1)スタ
ミナだった。


だが、経営は思わしくなく、
銀行の提案により目黒製作所
は川崎航空機工業と提携する
事が決まる。
それがスタミナ発売翌月の
1960年11月だった。
こうして二輪車メーカーとし
てのカワサキが生まれた。
私が生まれた年である。

私が生まれた地元、ごくごく
近所で目黒製作所は生まれ、
そして私が生まれた年にカワ
サキが事実上生まれた。
だからカワサキのオートバイ
に乗るのではない。
それらはたまたまの偶然だか
らだ。
私がカワサキに乗るのは、カ
ワサキのカワサキらしいとこ
ろが好きだからだ。スッと来
る。
マシン単体で見たら、カワサ
キの特定個体やカワサキ車全
体よりも素晴らしい他社製品
は多くある。
だが、カワサキにはカワサキ
独自の「味」がある。
また、オートバイ作りのアプ
ローチや開発陣の情熱も他社
とはやや風合いが異なる。
カワサキは「カワサキ」なの
だ。
そして、特定個体を取り上げ
ても、私はカワサキの二輪で
大好きな製品は多くある。
何年も不動の世界チャンピオン
マシンだったタンデムツイン
の2ストワークスレーサーの
KR250/350などは史上最高
だ。

また、直立二気筒もカワサキ
独自の味があるし、4スト
マルチ
のビッグマシンは全
米選手権
では無敵だったし、
大排気量
4スト限定レース
ではヨーロ
ッパでも無敵だ
った。
それゆえ、カワサキは国内

の人気低迷とは裏腹に海外
で外国人に大いに評価され
た。
カワサキはホンダのように
販売台数世界では主役では
なかったけれど、常に芯の
ある骨太のメーカーとして
ファンたちには超絶人気を
誇った。
どことなく、絶対王者のホ
ンダ=読売ジャイアンツと
その牙城を崩すべく我が道
を行くの阪神タイガースに
関係が似ている。
カワサキはまるでタイガース
なのだ。
そして、カワサキは国内二輪
メーカーが200社ほどあった
戦後直後には目黒製作所とし
て生き延びたが、川崎航空機
工業と合流してカワサキとな
った。合流決定は1960年。
メグロの法人消滅は1964年。

戦後日本はホンダがダントツ

の二輪販売台数トップの企業
であり、エンジン屋のヤマハ
が追走していたが、メグロ・
カワサキは一部の熱烈ファン
が支持するのみで、国内の
二輪メーカーが4社のみとな
ってからも比較にならない
程にカワサキのみが極少販売
数で、4社中常に最下位だった。
例を挙げればホンダのNSR

が年間24000台製造された
年にカワサキの隠れた名車
KR-1は6000台しか製造され
ていない。カワサキの二輪
部門が重工から閉鎖を検討
されていた頃だ。
空前絶後のバイクブームの
中、一社カワサキのみが二輪
製造をやめようとしていた
程にカワサキのみが売れな
かった。
プロ野球セリーグでも実は
阪神はリーグ優勝回数はドべ
から2番目だった。
今、カワサキはホンダを抜い
て日本一売れている二輪メー
カーとなった。
日本一=世界一という事だ。
そして、ことし、あと一つ
勝てば阪神タイガースは
日本一となる。

私がカワサキを好きなのは、
絶対王座君臨の経験もなく
(一部2ストワークスレーサ
ーを除いて)、絶対王者を
引きずり下ろさんとするその
反骨の姿ゆえだ。挑戦者。
その性根を表すものとして

ライムグリーンが採用され
た。西欧人が悪魔の色とし
て忌避するのが若草色の
ライムグリーンだったから
だ。カワサキはそれを知り、
あえてその色を選んだ。
我々は常に挑戦者である、
との自覚と自戒を持とう、
と。それがカワサキスピ
リットだ。
だが、販売台数では常にカ
ワサキは万年Bクラス
Cク
ラスに甘んじていた。

だが、ようやくトップに踊り
出た。阪神と同じなのだ。

私はカワサキと阪神タイガー
スが
好きなのである。


今はライムグリーンがカワサキ
のメーカーカラーとなったが、
元々カワサキの社色は赤だった。

私がオートバイに乗ろうと
心に決めたのは、小学校高
学年の時、毎朝学生服を着て
オートバイで通学する高校生
が家の前を快速で走り抜けた
からだ。
白いジェットヘルメットに
黒いマスクだった。
オートバイは真っ赤なマッハ。
時間帯が合うのか、ほぼ毎日
のように会う。
そのうちその高校生のお兄さ
んは手は挙げなかったが快速
でパァ~ンと走りながら私に
毎朝会釈をするようになった。
滅茶苦茶、男前に見えた。
私はオートバイに乗ろうと
決めた。
マッハを駆る5,6歳年上の
高校生の姿を見てオートバイ
に乗ろうと決めた。
生まれて初めてオートバイに
乗せられて走ったのは3才手
前のヤマハYDS-1だったが、
自分から二輪に乗ろうと決意
したのは、マッハに毎日会う
ようになってからだ。
赤い駿足のカワサキが私の二輪
人生を決定づけた。

こうして、目黒生まれのサンマ
は、生まれ故郷のご近所メーカ
ーだったメグロのその子孫たち
との付き合いが続いているのだ。
そして、私とカワサキはおない
年なのである。


 


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