渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

オートバイのタンク

2023年08月22日 | open



1960年代から21世紀のほんの
10数年前まで、国産オートバイ
のタンクは上から見て細かった。
特に70年代のスタイルがつい
最近まで定番だった。


1970年代をモチーフにした空冷
4発の90年代モデル(97年式)。


カワサキのゼッツーもマッハも、
ヤマハもホンダもスズキもタンク
は上から見てスリムで、いわゆる
シュッとしていた。
だが、10数年程前を機に日本製
オートバイのタンクデザインが
根本から変わった。
上から見るとツチノコみたいなの
だ。






決して美しいとは思えない。
「そりゃツチノコでなく○ン○
だよ!○ン○!」
という遊人の「ANGEL」の電
内のシーンではないが、そりゃ
ツチノコではなくタンクだよ、
タンク!というシルエットのほう
がヴィジュアル的にも美しいと
私は感じる。

そして、スリムタンク(というか
かつての半世紀以上の標準)は、
かなりニーグリップもし易い。
というのも、現代モデルのタンク
は上面からサイド形状が鋭角で
あり、膝位置を固定化させる物
であり、自由度が少ない。いろ
いろなフォームへの対応の範囲
が狭められているのだ。
以前のタンクはフォームを固定
固着化させない自由度を有して
いた。
今のタンクはタンクカバーの
存在の影響もあるのだろうが、
造形デザインにおいて固着固定
脳を促進させる形なのだ。

どうして、そうした人間固定の
方向でインダストリアルデザイン
を絞り込もうとするのか。
これはいくらでも広範囲の自由
度を持たせる造形が出来る筈な
のに、全メーカー右倣えでコブラ
かツチノコのようなタンクにし
てしまっている。
設計思想がどうにも好きになれ
ない。
造形のヴィジュアルも好きにな
れないが、その目線の先が気に
入らない。思想的なものが。
人を疎外し、人間性を捨象する
造り込みがシルエットにさえも
表出しているのが看取できるか
らだ。
いつからから、人の作るオート
バイは、人不在の物体造りに転
落した。特に日本車。
不必要にショートホイールベー
スにし、転び易い車にし、その
自分で作った悪路を断とうと
するためのあがきとしてブレー
キにABSなどという二輪では
危険な装着を付けた。ブレーキ
ング中に制動を分断的に解除す
るというとんでもなく危険な
システムだ。
競技車両に至っては、悪弊が
顕著で、世界チャンピオンが
乗っても転んだり、多くの人が
死ぬような車作りを日本の二輪
メーカーがするようになった。
10数年前以前の車に比べたら
てんでダメ。人が乗る事を前提
にしていない。

理由は簡単。
なんでもコンピュータ頼りで、
数値上のデータしか見ないよう
な目線と思考回路で二輪の車作
りを日本人がし始めたからだ。
人間不在の人間疎外の物体。
人間である開発ライダーさえも
クビにするような事を国産全メ
ーカーがやり始めた。
かつてのような良い車が作れる
道理が無い。

そうした続く悪路は、デザイン
という一つの造形を観ていても
その向こうの裏が見えるのだ。
製作者の視点、立脚点、視座、
設計思想というものが。
御用ライターや二輪評論家や
解説者などは新型をベタ誉め
する御用記事や御用よいしょ
コメントしか発しない。メーカ
ーからクレーム入るとおまんま
の食い上げだからだろう。
なので、気持ち悪い程にベタ
褒めヨイショしかやらない。
まるで幇間のように。
大衆はそれによって目を曇らせ
て、「新しい物=何であれ良い
物」という虚構の盲信に駆り立
てられる。
そして、悪循環が繰り返される。
何でも最新型が良い物という
「作られた思考」に固着する
大衆とそれを煽るメーカーと
メーカーの腰巾着たち。
それらが業界の世界を形成して
いる。

対抗策は?
答えは一つだ。
好きになれないものには乗らな
ればいい。
これは、なにも造形物だけでは
なく、時流とやらにも。
自分自身が密かに独立した抵抗
戦線を形成すればいい。
人間性を捨象する全体化の波に
抗うレジスタンスとして。
自分の魂の中にこそ真のアルカ
ディアがある事を自覚して。

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