
今の時代、好きな人が日本刀を
持てる。
だが、好むと好まざるとに関係
なく、特定の家に生まれたら、
必然的に刀を帯びなければなら
ない時代がこの日本では900年
近く続いた。
刀剣を帯びるのだから、それを
使えなければならない。
全子息が強制的に刀剣を使う
武技を習得させられた。
特に戦国末期から発生した剣術
の隆盛により、江戸期にはその
家門の者は幼少より剣術を習う
のは必須だった。個人の好き
嫌いなどは一切無視される。
個人の嗜好など関係ない。
そして、同時に江戸期からは
勉学についても幼少より学習
する事が必須となった。
それはとりもなおさず、職業
選択の自由もなく、自分の意
思では選べない「生まれた家」
によりけりで生涯が決定づけ
られていた時代である事を
意味した。
武士は生まれる前から武士で
あり、武士として生まれ、死
んだあとも武士であらねばな
らなかったのである。
窮屈だ。そんなのは。
だが、日本刀のみは、そうした
特定階級の象徴であったと同時
に、我が国固有の世界唯一の、
刀剣としても圧倒的な能力を
持つ特殊な刃物の武器であった。
そして、日本刀は他のどの刃物
とも区別される神器のような
存在だった。
それは、もはや戦闘護身武器の
範疇をも超えていた。
現代は武士階級が消滅したの
で、往時とは全く異なる美術
的な芸術造形物として扱われる
事が多い。
だが、家伝の刀が目の前にあ
る場合、その位相の違いに戸
惑う。
而して、何れの日本刀も刀剣
であり、武器としての機能は
消滅していないからだ。
太平洋戦争の敗戦により、日
本刀は誕生から一千年続いた
存在事由を消滅させられた。
今では、書画骨董と同じ扱い
をされている。
美術品、芸術品などと体のよい
肩書きで偽装されて。
そして、武士も武家も消滅した
現代は、誰でも金を出せば刀を
買えるようになった。
血脈や家筋などは一切関係ない。
武士の武技さえも、誰でも学べ
る。
ただ、そのように封建時代の
桎梏から解放された現代は、
真に日本刀の在る様、在った
時代背景とそれを帯びた種族
の魂を刀を持つ人が理解して
いるかというと、決してその
ような事は無い。
金で刀を買え、伝統武芸とす
れば誰でも真剣日本刀を帯び
て武技を稽古する事ができる
ようになったからだ。
武士の魂や苦悩や矜持などは、
一切世間では教育されない。
ごく限られた旧武家の血筋の
旧家以外では武士の文化や
精神性は子どもたちに教育も
躾さえも成されない。
それが21世紀の現代だ。
武士の精神を知らぬ者が、金
で買える刀を帯びて刀を振り
回して武士気取りになる。
非常に珍妙だ。
階級など消滅した現代だから
こそ、自覚的に武士の魂に自ら
向かって行って武士の精神性
と文化に肉迫しなければ本質
とはどんどん離れるのに、そ
れを多くの者たちはしようと
しない。
そして、心の道を外した愚者は
咥えタバコなどで刀を振り回し
て世間にその様子を広めて満悦
したりしている。
尤も、全く以って武士とは無縁
だから左様な仕儀ができるのだ
ろうが。
今、刀は金を出せば誰でも買え
る。
金さえ出せば誰でも買えるの
ではなく、所有希望者を製作者
サイドが厳選して人を見定めて
作刀受注したのは、世界の中で
2013年から2018年までの斬鉄
剣小林康宏作刀復活製作プロジ
ェクトくらいのものではなかろ
うか。
何の事はない。江戸期の武士の
注文方法を再現しただけだ。
誰でも金を出しさえすれば買え
るのではない真の日本刀。
小林康宏の復活斬鉄剣はそれを
目指した。
プロジェクトを企画、立案、主
導したのは私だ。
私と刀工と販売窓口担当者の
三者の合議によりすべて決定
した。人選から諸工作経路ま
で含めて。
引退していた刀工復活による
目標の60口の復活刀製作は
すぐに全国からの希望者で埋
まった。それとは別に数十名
は選抜から除外されたが。
遠くはイタリアからの作刀注
文もあった。
だが、希望者が殺到しようと
も、誰にでも作る事はしな
かった。金で刀は売らない。
理由は、それは「日本刀」で
あるからだ。
金では買えない位置を持つ。
持つべき人は作刀側で厳選さ
せてもらった。
それは、本当は、日本刀とは
本来そうあるべきなのだ。
帯刀本分者が消滅した現代、
せめて真の日本刀を目指すな
らば、渡し先くらいは選択の
余地があっても然るべきだろ
う。
なぜなら、扱う物は日本刀だ
からだ。農具や工具や道具や
ナイフではない。
日本刀。
それは唯一絶対の特別な物で
あるのだ。

