渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ビンテージとアンティーク

2022年06月14日 | open


米国の関税法ではビンテージと
アンティークは明確に年代基準
があり、製造後100年を過ぎた
物をアンティーク、100年以内
の物をビンテージと呼称するよ
うに定められているようだ。
そして、ビンテージとは製造後
10年を過ぎた物を指す。

私はビリヤードキューは日本刀
と同じ程度の本数を持っている
が、全てビンテージだ(笑
一番歳が若い物でも20数年が
経っている。
一番古い物では50年選手だ。
日本刀のほうはもっと行ってい
て、一番古い物は鎌倉時代の作。
何年経つのよ、という感じだ。
それでも日本刀が凄いとこは、
700年経とうが、現役で刀として
実用に使えるという事。
古美術品であり、日本固有の文
化遺産なので実用になど使いは
しませんが。
それでも、時代が時代であった
ならば、やはり、登城の際や何
かのハレの場合には腰間にたば
さんで身だしなみを整えたでしょ
うが。

ビリヤードのキューも驚きの現実
として、半世紀前の木工品なのに、
状態をキープしてさえいれば、現代
においても十二分に実用に用いる
事ができるどころか、下手したら
最新のキューよりも良質良好な撞球
性能を示したりする。
そのあたりも日本刀にとても似て
いる。

そして、私の個人的な感慨として
は、日本刀もビリヤードのキュー
も、例え個人製作者であろうとも、
工房製であろうとも、それを作った
人が作品の向こうに見える事が嬉
しく感じる。
その作品と共に立つ、という事に
喜びを感じる。無から作り出した
その人と共にあるからだ。
これは、例えその製作者が鬼籍に
入ろうとも、その作品は永遠の命
の輝きを放っている。
芸術だけでなく、実用をその存在
立脚の骨子とする道具であっても、
「作品」というものは素晴らしい。
だからこそモノヅクリは面白い。
その製作者の姿が製品や作品の向
こうに見えるからだ。
それゆえ、ぞんざいな作り、不真
面目な作りの作を見ると目を背け
たくなる。
逆に真面目な作に出会うと、いつ
までも見入ってしまう。
これは日本刀の場合に顕著だが、
ビリヤードのキューにしても、全
く日本刀と同じ位相を有している。
なので、私は化学素材の工業製品
の消耗商品のキューは手にしたく
はないのだ。
カーボン?
全く興味が無い。
第一、流行り廃りで我が身を体言
する得物を選ぶ趣味はない。
腰にたばさむのは古刀。
しかも、伝家の刀剣ならば尚良し。
ビリヤードキューは一代で選び使
う事が殆どだろうが、それでも、
使い続ける心の支えのような、そ
う、それはあたかも武士が持つ日
本刀のような存在のキューが良い。
私の場合は、それだ。

これなる大刀は平成四年物。30年。
脇差は大永年間、500年以上前の
物である。

日本刀においては、武士としての
遅れを取らない表道具としても、
「新物(あらもの)」が良いとする
文化も価値判断も存在しない。
「良い物が良い」という価値判断
と、物理的妥当性を有する識別が
武士には働く。その良質性の見抜
きと理解は、生産事物の時代性を
超越する。
良質性は、新時代の事物こそ良い
であるという偏頗で矮小な誤認
明確に超克しているのだ。
これは、個人的見解などではなく、
それが事象の真実。

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