






ビリヤードの歴史のうちアメリ
カンプールの歴史について。
まず、西欧中世時代に古代からの
野外競技が室内競技に進化した。
主として貴族のゲームとして行な
われ始めた。
デーブルにラシャを張って、穴に
ゴルフクラブのような用具で転が
して落とすゲーム。
それが日本でいう江戸中期にアメ
リカ大陸に持ち込まれた。
日本へはもっと古く、安土桃山
時代末期には輸入されていた。
1827年 石板テーブルが発明される。
それまでは大理石が使われていた
が大理石は高気温時に汗をかく事
が問題となっていた為。イタリア
製スレートが最高級品とされた。
1863年 象牙の代用品の懸賞募集。
1865年 ゴムクッションテーブルが
発明される。
1889年 マイケル・フェランの募集
に対し、ジョン・ウェズリー・ハ
イアットが象牙代替品としてセル
ロイドを発明。のちのプラスチッ
ク開発のベースとなる。だが、初
期には爆発した。
1907年 エイトボールの発明。
1910年 名プレーヤーのジェローム・
キーオがストレートプールを発明。
1911年 初のストレートプール選手
権大会開催。
1912年 ストレートプールが公式種
目になる。
1950年代 ストレートプールが衰退。
エイトボールが全米主流になる。
1961年 映画の影響でストレート
プールが再人気爆発。
ちなみに、不世出の名人、世界
チャンピオンを15回獲ったウイ
リー・モスコーニは1913年に
生まれた。
そして、1933年の20才の時に
選手権にデビューしている。
長年破られなかったストレート
プールでの526個ノーミス取り
は1954年41才の時に達成され
た。
ただし、「疲れたからやめた」
のであり、睡眠を取りながら
何日にもわたってだったなら
ば、延々と14.1でノーミスを
続けたのではなかろうかとい
われている。
彼以降、約半世紀ぶりに記録は
更新されたが、ミスによりカウ
ント記録がその玉数で止まった。
自分から、もういいやとやめた
のは後にも先にも地球上でウィ
リー・モスコーニだけである。
この意味は大きい。
だが、玉数撞き切り記録は、
日本の通し矢激戦のようなもの
で、健康を害するので記録更新
挑戦等はあまり好ましくないと
私は感じる。
江戸期の三十三間堂での通し矢
は、あまりに壮絶なため、幕府
により禁止されるに至った。
死ぬまでマラソンで走れ、みた
いな記録への勝負になったから
だ。
私は一睡もしない玉撞きの長さ
は最長28時間だ。それは28才の
時。延々と撞き続けた。
いい事はない。
18時間-21時間不眠連続撞きは
62才になったことしに何度かや
ったが、やはり良い事はない。
翌日は疲れて家でごろ寝の一日
になるからだ。何もしたくなく
なる。
多分、身体は抵抗力も弱る。
各種感染症等への免疫抵抗力も。
そういうのは、良くない。
不健康である。
スポーツをやって不健康になる
のは本末転倒だ。
二輪も昨年までは年に何度か
750km/1日を走っていたが、今
は500km以上は一日では走らな
いように自制している。
ちなみに刀術は、やり始めの頃、
初段前に一日500本を抜き差し
した。毎日。
気づくと有段者後は同段位クラス
では突き抜けていた。事実として。
試合に出ればいつも優勝か、悪く
て三位だ。いつも。首都圏で。
組太刀も初段時のオープン試合で
六段に勝つ程だった。事実として。
二段で六段以上と高段者からは
言われていた。
しかし、真実がそこにある。
段位、称号、肩書き等々そうした
事は一切関係ないのだ。武術で
は。実力こそがどうなのかが
実は一番大切なのだ。
実際には、斬り合いで生き残る
か死ぬかだけなのだから。
ハンデくださいとか、参った、
で敵は刀を納める事は無い。
一切無い。
でも、そんな心の在りかでやって
いると、突き抜けて行く事を天が
約束する事だけは理解できた。
そして、それを好ましく思わない
のも人間である事も。
しかし、真実は真実として事実を
以って人間の前に横たわる。
やるだけやる。
やれるだけやる。本気でやる。
しかも効率を考えて、常に己の
そのやる事の中でのマイナス因
子を検証しながら。
それはやがて、気づくと実力と
いう目に見えない存在として、
その者に備わっている。
量も質も大切だ。
どちらもやり切るのだ。
頭で考えながら。
時に無心に。
いつも無心ではただのほうけて
いるだけになる。
理知を働かせて、多角的に検証
するのである。己の技を。