
1967年、68年、69年と、夏休み
には父の実家があった広島県三原
で東京のイトコたちと丸々ひと月
を過ごした。小学生たちが3人で
新幹線に乗って毎年やって来た。
城下には駄菓子屋や貸本屋が多く
あり、夏休みの期間、結構楽しめ
た。貸本屋が面白かったね。
貸本マンガというのは、何故か
白黒ではなく、赤印刷や青印刷
のページがやたら多かった。
今の三原市の文化会館ポポロと
いう劇場のある公園には市民プー
ルがあった。
毎日のように泳ぎに行った。
当時10円だった。連日満員。
芋洗いのように混んでいた。
市民の憩いの場だったようだ。
市内城下ではほぼ駄菓子屋が全滅
した中、一軒だけ今世紀に入って
も営業している店があった。
先日、その店の前を通ったら、
売物件の表示が出ていた。
50年以上前によく通った店だ。
なんとも寂しい限り。
しかし、今の時代、ラムネにメン
コに駄菓子に爆竹とベーゴマでは
やって行けないのだろう。
かつて近所にあった土橋(かじ
新橋。昭和初期に新橋架設。
平成期に撤去。隣りに新新橋を
架設)の欄干は戦前戦後の子ども
たちがベーゴマを平たく削るため、
コンクリート製の橋の欄干上面が
縦筋にへこんでいた。
関東ではそうした薄くしたりする
改造を「リキ」と呼んでいたが、
広島県ではどう呼ばれていたのか
知らない。
対戦相手のコマの下に潜り込ませ
て弾き飛ばす為のカスタム改造だ。
よく回るように接地面にポッチ出
しする高等カスタムもあった。
私の頃(1960年代)には「王」と
掘られた(鋳抜かれた)ベーゴマが
人気で、勝負すると王だらけで
盤上でどれが誰のコマか分からな
くなる事もあった。
盤は私たちはポリ樽に醤油屋の
前掛けのような物を張っていたが、
その後頑丈なポリシートに代った。
あれはよく回った。
普通、逆手側から回しを繰り出す
のだが、投じた時に盤上から相手
のコマを弾き跳ばすルールも採用
されてからは、まるで木独楽の
喧嘩ゴマのような事になった。
当然、私は逆巻きにして、野球
投法のように順手でサイドスロー
ぎみに投げつけて相手を弾き跳
ばして勝利したりした。
ただ、弾き跳ばしをやると長くは
回らず、回転が弱まって盤上に
残る別なコマに弾き出される事
もあったので、リスクを伴った。
ベーゴマはとても面白い子どもた
ちの博打勝負だった。
あと、メンコは私はベーゴマより
才があったようで、蜜柑箱3個
ぎっしりと持っていた。
買ったメンコはほんの僅かだ。
あとは全部勝負で取った。
ベーゴマもそこそこやったが、
ベーゴマはとんでもなく強い奴が
いた。よく見せて貰ったらリキ
入れていた。
そのベーゴマを誰もが狙うのだ
が、てんで負けない。リキ入って
るし(笑
また、回転が弱まったコマを
凧糸の端でひっぱたいて回転に
勢いをつける事もリキと呼んで
いた。
要するに何か手を加えて頑張る
事をリキ入れると呼んでいたの
だろう。
その最強の両津勘吉のような奴は
私のメンコのようにベーゴマを
ごちゃまんと持っていた。
全て勝負で獲得した物だ。
技巧改造のリキ恐るべし(笑
リキ禁止、などというつまらぬ
クレームは誰もつけない。
それを上回る改造法や回し方を
皆んなが工夫して対戦に臨んで
いた。
昭和のガキどもはワイルドだった。
肉なんて滅多に食えないから草食
だけど。今の時代の若者の草食と
は訳が違っていた。
ガキであろうと、何事もてめえ
の力で何とかしようと努力した。
そして、歳上の先輩たちと共に
外で遊ぶ中で社会性を身に着け
て行った。
路地裏と広っぱは、子どもたち
の成長の学校だった。
友と走り、犬とも走り、投げ、
打って、蹴って、大いに遊んだ。
東京横浜湘南ではそうだった。
広っぱには大抵土管が積まれて
いた。新興住宅建築予定地だっ
たのだろう。
広っぱは私有地だが、そこで
子どもたちが野球したり三角
ベースをしても、咎め立てる
つまらない大人もいなかった。
社会は閉塞していない。
人の心も、今のように閉じて利
己的な面は社会全体として存在
しなかった。
いたとしても、心根のセコい奴
が出しゃばるのは時たまのみ。
ほんと、ときーたま。
三原の城下の下町(現西町)の風
景は半世紀以上前から(多分戦
前から)さほど変わっていないの
だが、ここ最近、古い家屋が老
朽化ゆえか取り壊されて、新築
ラッシュのようになっている。
昔、市民プールがあった場所は
現在は市民公園になっている。
