goo blog サービス終了のお知らせ 

渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

川越の銘菓 ~埼玉県~

2024年02月02日 | open





埼玉の友人から城下町川越の
銘菓の詰め合わせを頂いた。
まことに美味。本当に美味し
い。

城下町川越は、まだ子どもが
生まれる前に私と妻、師匠ご
夫妻、九州佐賀の大師匠、門
弟一門で観光に行ったことが
ある。
非常に美しい街並みが保存さ
れていた。
岡山県倉敷は城下町ではない
が美観地区は街並みが保存さ
れている。倉敷美観地区のよ
うな街並みが川越にはある。
時代劇のセットのような街並
みが。
岡山県津山にも旧城下町の
景観地区があるが、城のある
町でも、そのような城下町が
保存されている所はあまり無
い。さらに無いのは武家地の
保存だ。これは店舗が並ぶ
城下町と違い、戸割り敷地が
広いためすべて文筆登記して
売却→明治以降に行政もしく
は商業地区化したのは仕方な
いだろう。武家地はそこに住
する武士に所有権は無い。全
て将軍もしくは殿様の拝領地
であり、そこを家屋敷ごと幕
臣あるいは家中に貸与してい
る土地だ。つまり官舎のよう
なもの。正確にいうと、日本
国内の武家地はすべて将軍の
物であり、それを大名に拝領
という形で貸与していた。
幕府の意向次第で、藩主と
家臣の武士団はいくらでも
別場所に飛ばされた。幕府も
藩の力を削ぐために、権謀術
数を駆使して藩のお取り潰し
の策動をやりまくった。
そのため、江戸時代には牢人
(藩が消滅した武士の浪人)
がとんでもない数になった。
侍ではなくなったが武士は
武士としての特例階級として
牢人であっても大小の両刀を
指す事は幕府により黙認され
ていた。
だが、寺社奉行の統括ではな
く、市政の町人と同じく町奉
行の管轄支配下におかれた。
武士は藩籍がある場合には
宗門改人別帳には記載され
なかったが、牢人となって
からは、非常にあやふやな
立場の階級として、一般的に
は町人と同じ扱いを支配者
権力からは受けた。犯罪を犯
したら侍のように目付役が捕
縛して寺社奉行が取り締まり
の判決の沙汰を出すのではな
く、一般町人と同じく町奉行
が司法権を行使した。
なので、重罪の場合、浪人は
切腹ではなく斬首とされた。
基本的に侍に斬首は無い。
だが、牢人(浪人)には切腹
は認めず、斬首扱いにしたの
が江戸期の機構だった。

武家地は住する武士本人の持
ち物ではなく、将軍家の意向、
藩主の意向でいつでも召し上
げられる土地が武家地だった。
従って、明治新政府ができた
後は全て政府に召し上げとな
り、民間に公売された。よく
地方の元武家地に所せましと
民間建物が乱立したり、行政
施設や商業施設が建っている
のは、明治以降に一般の売却
地面として売り払われたから
だ。
広島県の浅野家の三原城の
場合は、城内城外の武家地は
新政府が接収し、鉄道駅や専
売公社や学校が建設され、他
は城郭を破壊した際の建材と
ともに民間一般に払い下げら
れた。
三原城の内外に住した浅野家
の家中の武士たちは、明治6年
から開始された城郭や本丸御
殿の解体と建材売却入札に続き、
明治9年に居住地から全員完全
強制退去となった。殆どの武士
が東京に移住したが、三原や
広島に残る武士の家もあった。
だが、明治以降の生活は、ごく
一部の成功者を除いて、多く
の旧武士が生活苦にあえいだ。
いろいろな商売に手を出して
失敗を重ねたのは教科書通り
で、あの記載は本当の事実だ。
結局、武士などという種族は
金勘定などできず潰しが利か
ないので、明治に始めた商売
も失敗し、教職に就くか警察
官になるかしかなかった。
農業に転じようにも、土地を
私的に購入する事から始めな
ければならず、それも困難を
極めた。それまで自分らが
統治支配下に置いていた農民
たちに頭を下げて土地入手を
交渉するのは困難を極めた。
結局、武士の能無しの行き先
は教員かポリスしかなかった。
他に能が無い武士という種族
の成れの果てがそれらの職だ
った。無論、蓄財とは無縁が
その後百年以上続く事になる。
旧武士で財を成す事に成功し
たのは、討幕派幹部たちのほ
んのごく一部だ。討幕派藩内
においても、殆どの武士たち
はこの上(下?)無い極貧で
生活苦が続いていた。
そのため、広島藩でも北海道
への屯田兵のような未開地開
拓団を士族で編成し、山に集
住させて開拓させて農民化さ
せる政策を採ったりした(野
呂山開拓等)。淡路の武士も
倒幕側だったのに家臣団の
ほぼ全員が北海道に放逐され
た。
武士と鍛冶屋は貧乏。これ
定式。武士の家系で苦労知らず
という家はごくごく一部を除き
殆ど無い。
明治に入り、秩禄処分で突然
無職者として武士たちは放り出
された。
「これからは好きにしろ。こ
れが近代的な自由だ」として。
それが明治「維新」だった。
「維新」をやった主軸の幹部
たちは明治元勲となり、自分
らだけの権益はしっかりと確
保してふんぞり返っていた。
明治初期、政府要人暗殺が
横行したのも当たり前だ。
明治「維新」というのは、国家
建設ではなく、一部の勢力が
私的に国権を独占した悪だくみ
が形式上成功したのが実体だ。
その後、士族の「叛乱」の武装
蜂起は全国各地で発生した。
最大のものは、最大討幕派で
あったのに明治新政府から
切られた薩摩の西郷隆盛を
トップとする旧薩摩藩士の
武装蜂起だった。明治10年の
西南戦争がそれだ。
今のところ、日本ではこれが
最後の内戦となっている。

日本では唯一京都のように江戸
期の面影を今に伝える町もある。
遥か江戸期以前からの町の景観
をも伝える。
何度も戦禍にみまわれた京都
だったが、その都度復興した。
そういえば、江戸期幕末討幕派
の長州は、京の町を丸焼け焦土
とさせて、天皇を拉致して長州
に連れ去ろうとする大テロを
計画していた。蛤御門の変で
皇居に向けて発砲していたの
も長州藩だった。
洛中焦土化の大テロは、京都
守護職お預かりの新選組がそ
の悪のテロを阻止した。
新選組と会津と幕府が京都市民
の安全を護ったのである。

京都の旧洛中は、歩いている
だけでも楽しい。先斗町あた
りを歩くと、袴を履いて刀を
二刀腰に差して歩きたくなる(笑
武州川越の保存地区も、良い
感じ。川越はお菓子がうまい。
私の昔の仕事仲間の知人に、

ある中国地方の藩の城勤めの
武士を
先祖に持つ者がいた。
明治以降、先祖は武家地から
城下に
転住して菓子屋を始め
た。
今でも続く老舗として人
気が
ある和菓子屋のようだ。
これは数少ない武士による
「商
いで成功」の例だろう。
そこの煎餅を食べた事がある。

なかなかいけた。

川越銘菓、とても美味しい。
特にここの最中はおすすめ。
とてつもなくおいしい。

埼玉県川越菓匠くらづくり本舗

 

 


この記事についてブログを書く
« 宴会場 | トップ | 「自動車ショー歌」小林旭 (... »