渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

原付散歩 〜三原尾道〜

2024年10月26日 | open
 

ベスパのオイルを交換した
ので三原市街地を原付散歩。
三原の城内城下の歩道は
インターロッキングブロック
で舗装されている。

江戸時代のうちの家があった
あたりの出島のような城内の
歩道もブロック舗装。



ここには櫓があり、その内側
に江戸期には我が家があった。


この道路は江戸時代は濠。
浮世掘と呼ばれていた。


今しまなみ信用金庫がある
あたりは酉之御門内の広場
だ。御城の作事方の材木置
き場にも使われていた。


酉の御門があった場所。本丸
から西之築出(つきだし)に
続く三原城内の門。


ここにかつては城門があった。




その東側向かいに古い喫茶店
がある。




許可を得て撮影。
ザ・昭和喫茶店だ。




喫茶店の定番メニューを頼ん
でみた。ピザトーストうまし!


歩道上には色鮮やかなマン
ホール。ここはかつての濠
の上。


避妊手術をされた野良ニャン。


こんにちは~、と暫く眺め
合った。


すぐ横はかつての映画館が
ある。もののけ姫はここで
観た。試写室のような映画
館。


路地裏を行くと、これまた
レトロな昭和レコード店。


三原城本丸跡(復元)。




これより南は海。
三原城臨海一番櫓址。


戦後の昭和27年(1952)に石碑
が建てられた。日本の戸籍に
「華族」「士族」「平民」の
記載が消滅したのはそのほん
の4年前からだった。
戦後の昭和23年(1948)までは
日本には制度上の階級制度が
存在し、明治開始以降も皇室、
華族、士族、平民に分類され、
日本の人間は全員生まれなが
らの階級に振り分けられてい
た。生まれながらにしてその
階級は自分では選べない。皇
族は皇族、貴族は貴族、武士
は武士、それ以外はそれ以外、
というように社会制度として
階級社会が続いていた。
戦争に負けなければ、まだそ
うした血脈階級社会制度が日
本では続けられていた事だろ
う。
太平洋戦争にはある面では戦
争に負けてよかったのだ。
GHQにより財閥も解体され、
日本の血脈的階級制度は解体
させられた。教育の機会均等
も実施されたし、選挙権は全
ての成人国民に与えられた。
大日本帝国時代には女性など
は法律的に無能力者であり、
一切の法的権限は与えられず、
選挙権さえも女性には無かっ
た。
今でも血脈差別、性別差別は
は深刻な社会問題として残存
しているが、まずは皇室は別
として、日本人全員が制度上
は真っ平の平等になったのだ
から、そこからでないと民主
主義的な国造りは始まらない。
戦後昭和23年までは主権在民
さえも日本には存在しなかっ
た。帝国臣民、国が死ねと言
ったら死んで来い、だった。


三原のマリンタワー(笑


一転して東に向かい、糸崎の
山を登る。急勾配つづら折れ
の狭い登山道を登る。


山の上の公園。
300度ほどの角度で海が見
渡せる場所。














 




三原の市街地が一望できる。
この緑の山すそからこちら側
の白っぽく建物がある地域は
三原城ができるまでは全域海。
三原という町は海上を埋め立
てて造られた。


遥か彼方に高速道路しまなみ
海道の因島大橋が見える。
そこを来月初頭に原付6台で
通ってしまなみツアーに行く。




3番目の橋がちらりと見えて
いる。


山はやや紅葉がかってきてる。


下山して三原市糸崎の踏切。
これがJR山陽本線の線路だ。


西側三原方面。


尾道市街地まで走り、山あい
の路地を原付で進む。



1978年3月20日告示。

私が東京の高校2年の時だ。
まだ大林宣彦監督の尾道三
部作の映画は
この世に生ま
れていない。


坂の途中の土堂小学校裏路
地。この先は盗難バイクの
墓場みたいになっていた。



映画に出てきそうな校舎だ。
現在ここの建物は廃墟。
小学校は山の上に仮校舎があ
る。


尾道の南側の山側は原付だ
ろうと道を走れません。
急坂と階段と行き止まりだ
らけで。
尾道は「遊歩道の町」ですね。


駅横の踏切まで降りて来た。
つんのめりそうな急坂を下っ
て。



ここから、市立尾道大学の
横を抜けて国道2号線バイ
パスの横の道路を三原まで
走って帰還。
尾道大学周辺の道路は、ま
るで異次元に入り込んだか
のような景観が続いたが、
写真撮影はせずにぐるりと
周って帰る事にした。

昼前からの原付散歩。三原
尾道路地裏編。
帰宅は午後5時前。
丁度よい塩梅だが、尾道の
細い路地裏坂道は気を使う
ので疲れた。