梶村秀樹さんは神奈川大学の朝鮮史の先生ですが、在日コリアンに対する民族差別と闘う運動にその生涯を捧げたと言ってもよい方です。70年代から80年代まで私たちもその謦咳に接しました。妻の朝鮮語の先生でもあります。89年5月、54歳で急逝されました。
お墓が三河の鳳来寺山の近くだと聞いていました。いつかお訪ねしようと思っているうちに20年以上が経ってしまいました。考えには違いがありましたが、尊敬する兄のような存在だったのです。
4月10日、鳳来寺山を訪ねる機会に連れていってもらいました。
お墓は新城市の長篠城駅に近い「鳶(とび)ヶ巣山」にのぼる道沿いにあると聞いていました。頼りにするのは下の地図だけです。
鳶ヶ巣山砦(地図の右下)
梶村さん一族のお墓は三箇所ぐらいあり、それは比較的容易に見つかったのですが 「秀樹建之」の文字はどうしても目にはいりません。「梶村さん」と声をだしてみても返事はありません。今回はここまでかと諦めて、山の上の古戦場碑に行ってみました。
ここは武田勝頼軍と徳川家康・織田信長連合軍が戦った有名な古戦場跡だったのです。
帰途についてまもなく、一台の軽トラが道を塞いでいます。作業中の方にお会いしてびっくり。梶村昌義さん。秀樹さんのふた従弟に当たる方でした。奇縁に感謝してお墓に案内してもらいます。
秀樹さんの名が刻まれた墓碑は先刻探し当てた墓地の一角にありました。隣の墓碑に隠れて名前を見つけることができなかったのです。お参りをしたあと昌義さんから秀樹さんに連なる一族の話を聞かせてもらいました。
秀樹さんには会ったことがないが尊敬する兄貴分で、東京での葬式には参加されたといいます。秀樹さんのお母さんが亡くなられ、この地に埋葬されたことは子ども心に刻まれているそうです。
墓地近くから見える風景です。
手前の山下の乗本というところが梶村家のルーツの地で遠くに見える医王寺が菩提寺です。
やりかけていた仕事は中断して、昌義さんが梶村家跡や医王寺を案内してくれます。
秀樹さんのお父さんの生家あとは更地で何もありません。遠くに鳳来寺山が見えます。東京生まれで父の任地を転々とした梶村さんはここには住んだことはなさそうです。それでも晩年にここに塾のようなものを建てる話があったとか。子どもの時になくなったお母さんの眠るルーツの地に愛着があったのでしょうか。
やや離れた医王寺は勝頼の陣地址でよく知られたところのようです。昌義さんが位牌堂の中まで案内してくれます。ぎっしり並んだ位牌群の上の方に梶村一家の位牌が安置されています。
医王寺●http://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/iouji.html
梶村さんが一族のルーツの地の人々と親交を結ぶ機会はそれほどはなかったようです。それでもいまこうして人々のなかに帰って安らぎの時を迎えているのか、と思ったことです。
昌義さんは定年後、ふるさとに帰られて晴耕雨読の生活のようです。お会いしたとたん、どこか梶村さんに似た人だなあと思ったものです。頭の動きの速い方です。鳳来寺山にゆく道まで誘導してくれました。