見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

皇帝と「官場」の人々/中華ドラマ『天下長河』

2022-12-31 23:50:00 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『天下長河』全40集(湖南衛視、芒果TV他、2022)

 配信開始前は全く注目していなかったが、本国でも日本の中国ドラマファンの間でも、やたら評価が高いので見てみたら、かなり私好みの作品だった。清・康熙帝時代の黄河治水を扱った作品である。

 康熙15年、長雨により黄河が氾濫し、多くの死者を出した。黄河の治水に腐心していた安徽巡撫の靳輔は責任を問われ、都に護送される。その途中、独創的な治水の方策を語る陳潢という青年に出会う。陳潢は、徐乾学、高士奇という兄貴分とともに科挙を受験するため、上京するところだった。三人のうち徐乾学だけが、探花(第三位)という好成績で科挙に合格するが、あとの二人は不合格。徐乾学と高士奇は、宮廷を二分する実力者、索額図と明珠にそれぞれ取り入ろうとする。学問だけの徐乾学よりも、万事如才のない高士奇のほうが上手く立ち回り、康熙帝に目をかけられ、一気に索額図・明珠に並ぶ高官に取り立てられる。

 陳潢は官途をあきらめ、乞食のような恰好で黄河沿岸をうろついていたところを、お忍びの康熙帝に見出される(このへんはドラマ)。陳潢の献じた著作を読んで、彼の才能を理解する皇帝。また陳潢は、黄河氾濫の元凶が貪官たちの手抜き工事であることを示して、処刑されかかった靳輔を救う。

 都に戻った康熙帝は寝宮に靳輔を招き入れ、壁に「三藩」「漕運」「河務」と朱書した紙が貼ってあるのを見せ、「朕が必ず成し遂げたい三つの大事である」と説く。そして靳輔を河道総督に任じ、人事権と兵権を与え、予算をつけ、さらに陳潢を幕僚とすることを許す。靳輔と陳潢は、貪官や土豪たちと戦いながら、大工事を一歩一歩進めていく。しかし全工程の三分の一を残した康熙21年、秋の長雨によって黄河は再び決壊の危機に陥る。靳輔と陳潢は桃源県の県民を避難させ、先んじて堤防を切ることで大決壊を避けようとしたが、桃源県の県令・于振甲はこれを肯んじない。結果的に、江蘇・山東・安徽三省に飢餓・疫病を含む大災害を引き起こしてしまった。

 靳輔・陳潢は罪を認めて治水工事を続け、黄河を海に導く最後の行程にたどりつく。しかし、台湾出兵で厳しい財政の折、より安価に治水を実現できるという于振甲の献策に康熙帝の気持ちが揺らぐ。さらに索額図・伊桑阿らは、治水によって生まれた田地の利権を明珠と靳輔が私物化していると訴え出る。裁判の場で、明珠は逆に索額図の不行跡を指摘してやりこめるが、要職からは失脚。高士奇も康熙帝の寵を失う。靳輔は横領の証拠はなかったものの監督不行届で免職となる。陳潢は獄神廟(監獄の中の神廟)に閉じ込められたまま月日が過ぎ、むかしの仲間、徐乾学と高士奇が見守る中で病没する。

 黄河治水の最後の行程を引き継いだ于振甲は、またも大決壊を招く。康熙帝は、陳潢が死の直前に書き上げた『河防述要』を与えて河務を続けるように命じる。于振甲は、自分の不見識を認め、靳輔・陳潢の方策に切り替えて工事を完遂する。康熙28年、皇帝は南巡船の上で靳輔・于振甲とともに昔日を思い、陳潢の著作に「河防述言」の題字を与える。

 基本的には「黄河治水」をテーマに物語は進む(色恋沙汰の彩りとか一切なし)。氾濫を避けるには川幅を広げればいいように思うが、陳潢の方策は、むしろ川幅を狭め、流水の速度を上げることで、上流からの土砂を押し流そうというものだ。黄河の「漕運」は、歴代皇帝にとって軍事・物流上の重要課題だった。さらに康熙帝にとっては、草原の民である満州族が、漢民族の土地を支配する正統性を問われる問題だったのではないかと思う。

 治水の天才・陳潢は、政治にも権力にも全く関心のない技術バカである。親子ほど歳の違う靳輔は、もう少し「官場」の泳ぎ方を分かっており、陳潢を守ろうとするがうまくいかない。康熙帝は海千山千の官僚たちと渡り合いながら、靳輔・陳潢を支援し続けるが、最後に判断を誤って于振甲の献策を採用してしまう。けれども決して過誤を認めることができないのが、皇帝のつらいところ。ドラマは白髪になった康熙帝が「河伯廟」に立ち寄り、靳輔・陳潢らしき銅像を見上げる姿で終わる。これを、民衆の神になった靳輔・陳潢に対する康熙帝の敗北と見る解釈もあるけれど、私は「河伯」陳潢は、康熙帝にとって、もうひとりの自分だったのではないかと思っている。

 康熙帝を演じた羅晋は、頭脳明晰で快活な青年皇帝が、次第に孤独と自尊心に蝕まれていく姿が凄絶で大変よかった。明珠と索額図の口先だけ慇懃な掛け合いも面白かったが、私は徐乾学と高士奇の腹黒さが特に気に入っている。高士奇を演じたのは『軍師聯盟』の汲布の陸思宇さんなのだが、こんなに芸達者で声がいい(!)とは思っていなかった。

※以下、登場人物の歴史上の生没年のメモ。ドラマは、かなり創作を交えていることが分かる。まあ「歴史伝奇劇」とうたっているので、全然かまわないが。

徐乾学(1632-1694)康熙8年の探花
靳輔(1633-1692)
納蘭明珠(1635-1708)
索額図(1636-1703)
陳潢(1637-1688)
于振甲(成龍)(1638-1700)
高士奇(1645-1703)
康熙帝(1654-1722)

※もうひとつ補足。明~清初(1855/咸豊5年まで)の黄河の経路は現在と全く異なり、山東半島の南側、現在の江蘇省を通って黄海に注いでいたことを、ドラマを見終わってから、初めて把握した。日本語の参考図書や論文も出ているようなので、読んでみたい。

参考:古賀邦雄「黄河は流れる」(ミツカン水の文化センター)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

屏風と歌仙絵を中心に/遊びの美(根津美術館)

2022-12-29 21:39:03 | 行ったもの(美術館・見仏)

根津美術館 企画展『遊びの美』(2022年12月17日~2023年2月5日)

 公家が和歌の上達につとめた歌合や家の芸にまで高めた蹴鞠、武家が武芸の鍛錬として位置づけた乗馬や弓矢など、文化としての遊びの諸相を、屏風を中心に、絵画や古筆も含めて紹介する。メインビジュアルは『桜下蹴鞠図屏風』で、私は2010年に同館の新創記念特別展第5部で見たことを記録している。今年の秋、神戸市博で開催された『よみがえる川崎美術館』にも出品されて、けっこう注目を集めていた(展示替えで参観はできず)。

 会場に入ると、すぐにこの屏風が目に入る。右隻には、4本の桜の木の下で蹴鞠に興じる8人の男性。2人ずつペアを組んでいるようだ。烏帽子を付けた正選手(?)が4人。そのパートナーは僧形が2人、小姓っぽい若者が2人。蹴鞠用の靴を履いていることが確認できるのは、たぶん2人だけである。 正式の儀礼としての蹴鞠は、四方に桜・柳・楓・松を植えた場所で行うというので、ここに描かれたのは、たまたま気分が盛り上がって始まった「遊び」としての蹴鞠なのだろう。8人の視線の先に、屏風の上端に半分だけ見切れた鞠が浮かんでいる。左隻では、14、5人の従者たちが蹴鞠の勝負を待っている。その1人が、満面の笑みで両手を上げてバンザイのポーズ。人体の描き方があまり巧いと言えないは、伝統的な絵手本にないポーズを、絵師の創意で描いたのではないかと思われる。とても楽しい作品。

 このほか、絵画は『西行物語絵巻』(子供の遊び)『源氏物語画帖』(宮廷の遊び、絵合)などが出ていた。『内大臣殿歌合(類聚歌合)』や『二条切(寛平御時后宮歌合)』など、文学史的に重要な歌合資料も出ていて緊張する。『中殿御会図模本』(室町~桃山時代)は、順徳天皇の頃に内裏の清涼殿で行なわれた管絃と和歌の会の様子を描いたもの。何種類かの模本が伝わっているようだ。これは断簡だが色が付いているのが珍しい。みっしりと公卿たちが並んでいる。

 時代不同歌合絵断簡の『藤原兼輔像』(鎌倉時代)と『平貞文・藤原重家像』(南北朝~室町時代)が見られたのもよかった。後者は左の肖像が色白デブだと思ったが、重家のほうだろうか?

 武芸の時代を代表するのは『犬追物図屏風』『曾我物語図屏風』など。個人的には『玉藻前物語絵巻』を久々に見られて嬉しかった。九尾ならぬ、二股シッポの妖狐。また市井の楽しみを描いた作品では『風流踊図衝立』が出ていた。2021年の『はじめての古美術鑑賞-人をえがく-』で見たのが最初だったと思う。前かがみに姿勢を低くし、かつ足を大きく踏み上げる人々の躍動的なポーズが躍動的で印象に残る。

 3階、展示室5は「山水」で、馬鱗筆『夕陽山水図』(南宋時代)が、狩野栄信の『倣馬鱗夕陽山水図』とともに出ていてびっくりした。展示室6「除夜釜-新年を迎える-」は備前、常滑、信楽など地味なやきものを取り揃えつつ、かすかな華やかさを感じさせる。展示室4の古代中国青銅器では、青銅鏡の「兎をさがせ!」を楽しませてもらった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曹操注で読む/孫子(渡邉義浩)

2022-12-27 23:38:48 | 読んだもの(書籍)

〇渡邉義浩『孫子-「兵法の真髄」を読む』(中公新書) 中央公論新社 2022.11.25

 中国古典が好きで10代の頃から読んできたが、『孫子』はきちんと読んだ記憶がない。どうせ軍事マニアが喜ぶようなことが書いてあるのだろう、と軽く見てきたためだ。

 はじめに『孫子』の成立事情に関する解説がある。そもそも孫子とは何者か。『史記』は、春秋時代の孫武(前6世紀頃)と戦国時代の孫臏(前4世紀頃)の二人の伝記を収めている。歴代の『孫子』研究では、現行の『孫子』は孫臏の著作とされてきたが、1972年「銀雀山漢簡」の発見と分析により、現行『孫子』の中核的な執筆者は孫武と考えられるようになった。

 孫武には黄老思想との共通性が見られる。孫武の次の時代に活躍した呉起の著作『呉子』は、儒家を根拠として軍事思想を展開した。さらに次の時代の孫臏は、打ち続く戦乱を背景に、儒家に対抗し、戦争こそが天下を支配するために最も重要な手段であると主張した。漢帝国が成立し、儒教が国教化すると反儒教的な『孫臏兵法』は読まれなくなっていく。しかし後漢末の戦乱の中で『孫子』は再び脚光を浴びる。以上の整理は分かりやすく、納得できた。銀雀山漢簡は湯浅邦弘さんの『諸子百家』にも出てきたが、実に世紀の大発見だったのだな。

 後漢末に『孫子』の諸本を比較して底本を定め、個性的な注を付けたのは魏の武帝・曹操である。現行『孫子』とは、魏武注『孫子』13編をいう。そこで本書では、『孫子』テキストの主要部分を曹操の解釈である魏武注とともに読んでいく。

 魏武注は、ふつうに訓詁学的な解説もあるが、自らの戦いの経験に基づいて、抽象的な本文を具体的に展開してみせたり、時には本文の趣旨に反する見解を述べたりしていて、とても面白い。孫子を読むというより、曹操の前に座って、講釈を聞いているような気分になる。思い浮かぶイメージは、個人的な趣味で、中国ドラマ『軍師聯盟(軍師連盟)』の曹操だった。

 『孫子』の本文も、あらためて興味深く読んだ。印象的だったのは、戦争が社会や経済に大きな負荷をかけることを強く意識している点である。遠征には輜重・兵站が要る。徴兵された者は、従軍の間、耕作にかかわれない。さらに戦功への報償も必要である。百戦百勝しても戦争は国力を弱める。だから、なるべく戦端を開かずに敵を屈服させることが望ましく、戦う場合は速やかに決着をつける。

 戦わずに敵を屈服させるために重要なのは情報戦、間諜(スパイ)である。特に重要なのは「反間」(敵の間諜を寝返らせて用いること)だというあたり、ドラマ『風起隴西』を思い出した。敵の間諜を自軍に引き入れるためにも、自軍の間諜を敵の反間にしないためにも、将は間諜を厚遇しなければならない、という主張は納得できる。人間の心理を、非常にドライに観察していると思う。

 戦いに速やかに勝利するには、あらかじめ敵と味方の実情を的確に把握しておくこと、地形に合わせて軍を動かすこと、敵の「虚」(準備が整っていないところ)を衝くこと、「勢」を利用すること、などの条件がある。ここで感じ入ったのは、自軍の能力を最大限に引き出すには、兵士を死地に追い込むことだという、極めつけにドライな指摘である。追いつめられた兵は、教えられなくても警戒し、命じられなくても必死で戦う。それはそうだろう。

 一方、将軍論においては、必死の覚悟をした将は(柔軟に対処することができないので)殺すことができると軽んじられている。必ず生きようとする将は捕虜にすることができる。清廉潔白な将は辱めておびき出すことができ、民草を愛する将は民を痛めつけて煩わすことができる、と続く。これらは全て将たる者の弱点として語られているのだ。

 将と君主の関係も興味深かった。「君命に受けざるところあり」は有名な言葉だが、君主は軍事に関して将に全権を委任し、口を出してはいけない。国政と軍政は原理・原則が異なるという主張である。しかしこれは、実際の中国の歴史では、どのくらい実現されてきたのだろう。

 なお、「あとがき」には、ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、ロシア政府の戦術に『孫子』にそぐわない部分が多いことに気づいたという著者の所感が述べられている。もちろん、はるか古代の兵法書がそのまま現代に役立つわけではない。しかし私も、近日、ニュースになっている日本政府の「反撃能力」問題が、『孫子』に照らし合わせて正しいかを、何度も考えてしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

眼福の仏画/信仰の美(大倉集古館)

2022-12-25 21:38:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

大倉集古館 企画展『大倉コレクション-信仰の美-』(2022年11月1日~2023年1月9日)

 大倉喜八郎が蒐集した仏教美術作品を中心に、信仰の歴史をたどり、そこに託された人々の祈りと美のかたちを紹介する。冒頭近くに出ていた『古経貼交屏風』は、むかしから私の好きな作品。小さいが印象的な肖像彫刻『法蓮上人坐像』(鎌倉~南北朝時代)も、どこかで見た記憶があった。おにぎり型の頭をした僧侶が、大きな目(玉眼)を開いて、やや上を見上げ、袖で覆った右腕を差し出している。法蓮は飛鳥~奈良時代の僧で、九州の英彦山や国東六郷満山で修行したと言われている。12年間岩窟に籠って修行したところ、倶利伽羅龍が現れて宝珠を吐き出したので、それを受け取った場面を表現している。そう聞くと、坐像が低い位置に置かれているので、倶利伽羅龍の気分になる。

 1階は、中世の密教系の仏画が眼福だった。院政期仏画のぽってりした艶やかさと異なり、冷ややかで知的な魅力がある。『金胎両界大日如来像』2幅は宋風の顔立ち。寒色でまとめた表具もよい。『一字金輪像』(鎌倉時代)は褪色のせいもあって、地味だがスッキリとまとまっている。なお、かつては川崎正蔵の所蔵品だったという解説がついていた。

 また、参考出品として、興福寺の釈迦如来十大弟子の一『優波離尊者立像』の絵葉書の拡大写真が展示されていたのも目を引いた。明治の廃仏毀釈で流出した際、大倉喜八郎が収蔵し、竹内久一の手で修理も施されていたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまったという。残念だが、美術館や博物館に収蔵されたから安全ではないのだなあ、と思う。

 2階は浄土教の美術を中心に。『融通念仏縁起絵巻』(室町時代)は、さまざまな護法神や天部が集まる場面でかわいかった。同館随一のスター・普賢菩薩騎象像も光臨。その隣りの『普賢十羅刹女像』(鎌倉時代)は、日本の女房装束の十羅刹女を描いたものだが、私には9人しか確認できなかった。違うかしら。田中親美による『平家納経』模本は、巻27、巻15、観普賢経など、女房装束の女性を描いたものが並んでいて、これも眼福。

 最後に大幅の色鮮やかな仏画が並んでいて、1つは神田宗庭要信の『阿弥陀三尊来迎図』。黒い背景に薄めの彩色がシックでおしゃれだった。作者は寛永寺の仏画師とのこと。冷泉為恭の『山越阿弥陀図』ほかは古風な濃彩。下村観山の『不動尊』は紺地に金泥銀泥で描いたもので迫力満点だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『鎌倉殿の13人』大河ドラマ館とゆかりの地

2022-12-24 20:48:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

『鎌倉殿の13人』大河ドラマ館

 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を楽しんで見た。前半の源平の戦いは、それほどハマらなかったが、後半、頼朝没後の御家人たちの権力闘争になってから、俄然、面白くなった。先週、最終回を視聴したので、大河ドラマ館を見てきた。

 ちなみに私が大河ドラマ館を訪ねるのは、2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』以来である。『おんな城主直虎』で遠州鉄道の気賀まで出かけたのに比べれば、今回は、鶴岡八幡宮境内の鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム(以前の神奈川県立近代美術館鎌倉館)が会場なので、いつでも気楽に訪ねることができたのだが、最終回を見終えるまではガマンしていた。

 館内には、登場人物のひとりひとりを紹介する映像パネル、衣装、小道具、俳優さんのインタビュー動画など。伊豆の国市にセットを組んだという大倉御所のジオラマが興味深かった。これは北条義時が着用した甲冑。適度な汚しがリアルである。

 これは畠山重忠着用の兜。重忠が奉納したと伝えられる、武蔵御嶽神社の赤糸威鎧に倣ったものかな(→文化遺産オンライン:写真は小野田光彦らによる模造復元品)。

 これは阿野全成が将軍頼家を呪詛するために用いた人形。「急急如律令」の紙片が貼り付けてある。最初の「急」の字は左側に口が付くのが正式のようだ。京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館の「発掘ニュース」(2005年10月、PDF)に「呪詛の人形」と題して、よく似た写真が掲載されている。

 館内の大型スクリーンでは、義時役の小栗旬さんや時政役の坂東彌十郎さんのインタビュー動画を視聴することができたが、私はむしろ、美術や撮影、所作指導などスタッフの談話が興味深かった。撮影について、本作は一般的なズームレンズを使わず、ほぼ全編、単焦点レンズで撮影しているとのこと。暗いところでも撮れるとか、焦点の周囲が自然にぼけるなどの特徴があるそうだ。美術は、丸柱の質感が難しいとか、頼朝の持仏の仏像は何度もダメ出しをもらいながら作ったなどの話が面白かった。それから時代考証の坂井孝一先生のお姿を、初めて映像で拝見したが、目元涼しいなかなかのイケオジで、大江広元役をやってほしかったな、と思ってしまった。

鎌倉歴史文化交流館 企画展『北条氏展vol.4 北条義時の子どもたち-中世都市鎌倉の黎明-』(2022年10月24日~2023年3月11日)

 大河ドラマ館(入館料1000円)のパンフレットを持参すると、鎌倉国宝館と鎌倉歴史文化交流館が1回ずつ入館できる、うれしいシステムになっている。しかし鎌倉国宝館はすでに年末休館に入ってしまったので、歴史文化交流館だけ見てきた。本展では、義時以後の北条一門、嫡流・泰時の得宗家、朝時の名越流、重時の極楽寺流、政村の政村流、有時の伊具流、実泰の金沢流などをそれぞれ紹介する。鎌倉北条氏について、もっと知りたくなった。

 そのほか、訪ねたところ。鶴岡八幡宮の大銀杏は2010年3月に倒れてしまったが、残った根から育った若芽が移植されて、立派な若木に育っていた。感動! 私の残り人生で、いつまで見守ることができるか分からないが、今後が楽しみである。

 鶴岡八幡宮の流鏑馬道の東側の門を出たところにある、畠山重忠邸址の碑。右に曲がると、細い道に沿って彼岸花の群生地がある。

 大町の妙本寺は比企能員の屋敷址。比企氏族滅の後に唯一生き残った比企能本(能員の末子)が、のちに比企ヶ谷に法華堂を創建したのが妙本寺の前身だという。境内にある手前の石碑には「比企能員公一族之墓」と刻まれている。

 なお比企氏は武蔵国比企郡の出身。私は、埼玉県に住んでいたとき、比企郡に職場があったので親しみを感じる。ちなみに畠山重忠ゆかり(ということになっている)菅谷館跡にも近かった。

 和田義盛ら和田合戦の死者を弔ったところと伝える和田塚。ただ、いろいろ読んでみると、そのように呼ばれ始めたのは明治以降のことのようだ。説明板に「和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われている」とあった。

 というわけで、敗れし者のゆかりの地をまわってみた。鎌倉の史跡は殺伐として恐ろしいけれど、おもしろい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷愁の江戸/闇と光(太田記念美術館)

2022-12-22 20:23:30 | 行ったもの(美術館・見仏)

太田記念美術館 『闇と光-清親・安治・柳村』(2022年11月1日~12月18日)

 小林清親(1847-1915)は、西洋からもたらされた油彩画や石版画、写真などの表現を取り込むことにより、これまでにない東京の風景を描いた。本展は、小林清親を中心に、これまで紹介されることの少なかった井上安治(1864-1889)や小倉柳村(生没年不明)の作品を加え、光と影を情感豊かに捉えた「光線画」約200点(前後期で全点展示替え)を展示する。

 最終日に行ったら、たくさんお客が入っていて驚いた。清親・安治・柳村なんて、全くメジャーじゃないと思っていたのに、みんなどこで情報を得て見に来たのだろう。私は、清親の名前も「光線画」という用語も、何度か聞いたことがあったが、あまり感心したことがなかった。この展覧会も、見逃してもいいくらいに思っていて、最終日にふらりと寄ったのだが、なんだかとても引き込まれてしまった。このところ、派手派手しい明治錦絵(明治赤絵)を見る機会が多かったので、その落差が身に沁みたのだ。同じ時代の風景を描いても、こんなに違いがあるのだな。

 清親は、ガス燈や洋館など明治らしい風物を描いていても、基本的な共感は、江戸の情緒にあったように思われる。その郷愁や哀感が、なんとも言えない魅力になっている。しかし清親は、明治14年(1881)に光線画の制作を中止し、以後、風景画を描くことはあっても光線画風には描かなくなってしまう。理由については、Wikipediaに記事があることを補記しておく。弟子の井上安治は、もう少し屈託なく明治の風物を描いたという解説も面白かった。

 そして、わずか9点しか作品が残っていない謎の絵師・小倉柳村(本展には8点を展示)。実は本展のメインビジュアルは、清親でなく柳村の『湯嶋之景』なのである。街を見下ろす坂の上に男性二人が背を向けて佇む、ミステリアスな雰囲気。以前、同館の展覧会で見た記憶があり、強く印象に残っていた。

太田記念美術館 『はこぶ浮世絵-クルマ・船・鉄道』(2022年10月1日~10月26日)

 同館の1つ前の展覧会も見たのだが、レポートを書いていなかった。人や馬、船などを用いた、さまざまな「運ぶ」行為を描いた作品を展観する。お膳を運ぶ中居の女性、街頭で商品を売り歩く人々、飛脚や川越人足など。大井川の川越は、お金を出せば蓮台に乗せてくれるが、ケチると肩車なのだな。本展は「鉄道開業150年」の関連企画でもあり、鉄道はもちろん、馬車や人力車、船から気球まで、さまざまな乗り物が描かれた明治浮世絵が展示されていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日常と非日常/鉄道と美術の150年

2022-12-20 21:02:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京ステーションギャラリー 『鉄道と美術の150年』(2022年10月8日~2023年1月9日)

 2022年は日本の鉄道開業150周年に当たる。奇しくも「美術」という語が初めて登場したのも明治5年(1872)のことだった。本展は、鉄道と美術150年の様相を、鉄道史や美術史はもちろんのこと、政治、社会、戦争、風俗など、さまざまな視点から読み解き、両者の関係を明らかにする。いや、ひとくちに「さまざなま視点」というけれど、どうすれば、こんなに幅広く面白い作品を掘り出してくることができるのか。

 まずは鉄道の日本伝来から。安政元年(1854)の摺り物『亜墨利加蒸気車 献上之品物』は、ペリー提督を介して幕府に贈られた蒸気機関車を描く。カマボコ形の客車の屋根に「遊山屋形船」と注釈がついているのが面白かった。それから、歌川芳虎、広重(三代)、月岡芳年ら明治の浮世絵師たちが描いたさまざまな蒸気機関車。全くウソ(空想)に基づくデザインもある。本展に先立って、旧新橋停車場の鉄道歴史展示室で見た展示によれば、日本に導入されたのがイギリス型だったが、浮世絵にはアメリカ型もよく描かれた。最前部に牛除け(カウ・キャッチャー)が付いているのがアメリカ型だという。ああ、子供の頃、私が絵本の挿絵を真似して描いていたのは、アメリカ型だったな。

 勝海舟に墨画の『蒸気機関車運転絵』があるのは知らなかった。高橋由一の『写生帖』に、蒸気機関車(?)からたなびく煙が描かれているなんて、いったい誰が見つけたのだろうか。このほか、登場する画家は、河鍋暁斎、小林清親など。鹿子木孟郎の『瀧の川村字田端』(府中市美術館)や『津の停車場(春子)』(三重県立美術館)も好き。五姓田義松の『駿河湾風景』(笠間日動美術館)もよかった。これらの作品では、鉄道は明治日本の風景に調和して溶け込んでいる。

 印象的だった作品のひとつは都路華香の『汽車画巻』(個人蔵、1899年)で、一等、二等、三等の客車とホームを行き交うさまざまな人々が描かれている。着飾った洋装の婦人と紳士、軍人や学生、僧侶や母子連れだけではない。西洋人、辮髪の清国人、朝鮮人(たぶん)、伝統衣装のアイヌもいるのだ。画家が見ていた現実なのか理想なのか、よく分からないが面白い。確かに鉄道は、社会のダイバーシティを映し出す場所だと思う。

 赤松鱗作『夜汽車』は、鉄道車両独特の匂いを感じさせるような作品。人間の体臭や食べ物の匂いを消してしまうような、風に当たる鉄の匂い、嫌いじゃない。不染鉄の『山海図絵(伊豆の追憶)』は、解説を読んで何度か見直さないと、中央に鉄道が描かれていることに気が付かなかった。この頃(1930年前後)から、鉄道や機関車を「反自然的なもの」として描く作品が増えていくように思う。しかし、ヨーロッパの同時代の美術にあるような「スピード」「モダン」の美学を表現した作品は少ない。杉浦非水の『上野浅草間開通』や里見宗次の『JAPAN』のポスターくらいだろうか。むしろ日本の鉄道は、谷中安規(風船画伯!)や川上澄生の版画の中で、幻想や郷愁を掻き立てるほうが似合っている気がする。

 戦争から戦後へ。伊藤善『東京駅(爆撃後)』は、屋根の吹っ飛んだ状態の東京駅舎を描いた油彩作品(1946年頃)。佐藤照雄の『地下道の眠り』は、戦災孤児や浮浪者の姿を木炭・鉛筆でスケッチした連作である。その後も鉄道は、さまざまな日常と非日常、生活とアートパフォーマンスの舞台となる。Chim↑Pomが、岡本太郎の壁画『明日への神話』の一部に設置したパネルは、ちゃんと岡本太郎記念館で所蔵されていることを知った。

 見終わってぼんやり考えたのは、鉄道の未来である。50年後、100年後、たぶん社会における鉄道の存在価値は次第に薄れていくのではないか。とりあえず自分は「鉄道と美術の150年」を味わえる世代でよかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界のアイドル/中国パンダ外交史(家永真幸)

2022-12-18 22:07:29 | 読んだもの(書籍)

〇家永真幸『中国パンダ外交史』(講談社選書メチエ) 講談社 2022.3

 中国四川省と、陝西省周辺の山岳地帯にしか生息していない稀少動物のパンダ。本書は、パンダが発見されて以来、長い時間をかけて中国が鍛えてきたパンダ外交の歴史をひもとく。

 パンダ発見の歴史は、知らないことばかりだった。1869年3月、フランスの宣教師で四川省に動物採集に訪れていたダヴィド神父は、穆坪鎮の地主から白と黒の毛皮を見せられ、謎の動物の存在を知る。その約10日後、ダヴィド神父は1体のパンダの死体を入手し、その毛皮と骨をフランスの国立自然史博物館に送った。動物学界は、この動物がレッサーパンダ(1820年代に発見)に近い種と判断し、大きい方のパンダ=ジャイアント・パンダという一般名が定着していく。ちなみに「パンダ」の語源はよく分からないそうだ。

 1929年にはアメリカのローズベルト探検隊がパンダを射止めることに成功する(写真あり)。その後も5~6頭のパンダが欧米のハンターに射殺された。19~20世紀初頭の「大物動物狩り」の流行は、急速な文明化や工業化に対する白人男性の危機感に基づく「マスキュラ―・クリスチャニティー(男らしいキリスト教)運動」が関係してるという説明も面白かった。

 1936年にはアメリカ人女性ルース・ハークネスが、子パンダ「スーリン」を生きたままアメリカへ持ち帰ることに成功し、スーリンはシカゴのブルックフィールド動物園の人気者になる。ここまで、中国側はパンダに関する認識が全くなく、欧米社会が勝手にパンダブームに火をつけている。

 1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争の中、国民政府はパンダを国際政治に利用していく。1941年には2頭のパンダがニューヨークのブロンクス動物園に贈られた。贈呈に立ち会ったのは宋慶齢、宋美齢姉妹。これはアメリカの民意をつかむため、国民党政府の「中央宣伝部国際宣伝処」が計画した対米宣伝活動であったことが、公開された公文書から分かっているという。

 戦後、パンダ外交は中国共産党に引き継がれる。国内の愛国主義教育にパンダが使われ始めるのも戦後のことだ。1955年、北京動物園で3頭のパンダの公開が始まる。ちなみに北京動物園の前身が清朝の農事試験場「万牲園」であることも初めて知った。やがてパンダの飼育は、上海、南京、昆明、成都などの動物園にも広がっていく。

 1950年代、中国はソ連のモスクワ動物園にパンダ2頭を贈った(2頭の名前はピンピンとアンアン。『飛狐外伝』の双子の名前じゃないか! そして雑誌「anan」もここから)。それとは別に、中国側が希望する多様な交換動物を示したことでオーストリアの動物商が獲得したパンダのチチはロンドン動物園に落ち着く。この時期、海外に出たパンダの数が少ないので、1頭1頭のエピソードが詳しく残っていて興味深い。1946年に国民党からロンドン動物園に贈られたリェンホー(連合)は気性が荒く、人に懐かず、憂鬱そうだったので人気が出なかったという。動物にも展示飼育に合う性格と合わない性格があるのだろうな。逆に自然動物の展示に対する人々の反省を呼び覚ました、というのは不幸中の幸いかもしれない。

 1970年代には、中国とアメリカの関係改善をきっかけに、中国と国交を樹立する国が増え、中国は友好の証として積極的にパンダを贈呈するようになる。1972年、初めて日本にパンダがやってきたのもそうした文脈である。当時、東京の小学生だった私は、もちろん上野動物園に見に行ったが、ガラス張りのパンダ舎では白黒の毛皮が寝ているのをチラリと見ただけだった気がする。

 その後、日本の動物園のパンダは増えたり減ったりしたが、私はあまり関心を持たなかった。白浜のパンダは、一度見に行きたいと思っているが実現していない。80年代に初めて中国旅行に行ったときは、ふつうの檻の中を歩き回ってるパンダの自然な姿を見たことが印象に残っている。

 1980年代以降、国際社会では野生動物保護のルール整備が大きく進み、中国のパンダ外交もその影響を受けることになった。中国政府はパンダの密猟規制に本腰を入れ、捕獲、殺害、売買を全面的に禁じた。それでも世界の動物園からパンダ展示の希望は止まず、90年代には10年程度の長期レンタル方式が提案され、WWFもこの考えに理解を示した。中国にとっては、パンダ・レンタルは安定的に巨額の外資をもたらすビジネスになった。政治的には、パンダを自由に移動できる「国内」はどこまでかという指標の問題がある。台北動物園には、中国から受入れたパンダがいるそうだが「台湾は中国の一部」と認めたわけではなく、そこは巧妙にうやむやにしているという。

 今年2022年の北京冬季五輪で「未来から来た宇宙パンダ」設定のビン・ドゥンドゥンが人気を博したのは記憶に新しいところ。確かにビン・ドゥンドゥンは可愛かったと思う。でも、ああいうずん胴で丸顔で垂れ目(に見える)幼いキャラクターに極端に熱狂してしまうのは、何か日本人の独特の嗜好のような気もする。幸か不幸か。

人民中国:四川省夾金山 四川ジャイアントパンダの生息地①(2010/11)

Yahoo!Japanニュース:パンダの「団団」が死ぬ 18歳2カ月/台湾・台北市立動物園(2022/11/19)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦国大名たちの謀略ドラマ/文楽・本朝二十四孝

2022-12-17 23:25:36 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 令和4年12月公演(2022年12月17日、17:00~)

・『本朝二十四孝(ほんちょうにじゅうしこう)・二段目:信玄館の段/村上義清上使の段/勝頼切腹の段/信玄物語の段・四段目:景勝上使の段/鉄砲渡しの段/十種香の段/奥庭狐火の段/道三最期の段』

 面白かった! 近松半二らの合作『本朝二十四孝』は何度も見ているので、どうしようかと思ったが、「十種香の段」と「奥庭狐火の段」以外はほとんど見たことがなかったので、こんな込み入った物語であることを初めて知った。記録を振り返ると、私は2020年に「景勝上使の段」と「鉄砲渡しの段」を見て、これらの伏線が最後にどう回収されるのか気になる、と書いているのだが、2年越しで、全く予想外の「回収」を知ることができた。

 二段目の冒頭、将軍「義晴」が暗殺されたという噂話が語られる(ただし史実の足利義晴(1521-1546)は病没とされている)。その犯人捜索が捗らないため、将軍家の名代として現れた村上義清は勝頼の首を差し出すことを迫る。母の常磐井御前は、板垣兵部に命じて勝頼の身代わりを探させており、勝頼を腰元の濡衣とともに出奔させようとするが、万事休す。

 一足遅く、勝頼そっくりの百姓・蓑作を連れ戻った板垣兵部。しかし信玄によれば、蓑作こそ真の勝頼であり、自害した勝頼は板垣兵部の実子で、17年前、板垣が我が子を主家の跡取りにしようとして赤子をすり替えた結果であり、信玄は真実を知りながら、ずっと黙っていたのだった。この悪人・板垣兵部のモデルは誰なんだろう。板垣信方じゃないよね?

 四段目は長尾謙信の館から。長尾家も将軍殺害犯の捜索が捗らず、将軍家の上使として登場した景勝が、自分自身の処分を謙信に迫るが、花守り関兵衛が場を収める。謙信は、将軍殺害の物証である鉄砲を関兵衛に渡し、詮議を命ずる。

 そしておなじみ「十種香」の段。華麗な装束をまとって登場する美青年・蓑作(実は勝頼)を中心に、恋にときめき、運命に苦しむ二人の女性、濡衣と八重垣姫。二段目の筋書きを知ると、濡衣への同情が深まる。「奥庭狐火」で八重垣姫が去ったあと、被衣(かづき)で顔を隠した女性が登場。語りが手弱女御前(将軍義晴の奥方)と紹介したと思ったら、鉄砲を携えた花守り関兵衛があらわれ、手弱女御前を一撃で殺害。いちおう、花守り関兵衛=斎藤道三という種明かしは知っていたのだが、この展開には、え?どういうこと?とびっくり。

 そして長尾謙信館の御殿。奥へ進む斎藤道三を留めようとする勝頼と景勝。さらに襖が開いて登場したのは、武田家の軍師・山本勘助。いや全く予想していなかったので、びっくりして椅子からずり落ちそうになった。さらに謙信も登場。将軍義晴を殺害したのが、天下掌握を狙った道三であることを喝破し、さらに手弱女御前と見せかけたのが、道三の娘・濡衣であったことを明かす。悪運尽きたことを自覚した道三は、北条氏の小田原城の攻略法を武田家・長尾家に伝授して自害する。なんだか中国ドラマみたいによくできた謀略劇である。

 私は大河ドラマ『風林火山』が大好きだったので、武田家・長尾家には親しみがある。本作では両家は敵対しているように見えて、どちらも悪者にならず、丸くおさまる。一方、斎藤道三はずいぶんな悪役扱いである。これは江戸の人々の一般的な感覚なのだろうか。史実では、斎藤道三(1494-1556)って信玄(1521-1573)・謙信(1530-1578)より少し上の世代なのだな。

 文楽12月公演は若手・中堅中心に出演者が組まれるのが恒例で、みんな力をつけてきているなあと感じられて嬉しかった。「十種香」は、呂勢太夫さんの安定した語り、ノリのいい藤蔵さんの三味線が気持ちよかった。人形は腰元・濡衣の一輔さんよかったなあ。蓑二郎さんの八重垣姫は若々しくて可愛いけれど、蓑助師匠の妖艶な八重垣姫をなつかしく思い出してしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笹塚でビャンビャン麺

2022-12-15 20:52:53 | 食べたもの(銘菓・名産)

先週末、むかし住んでいた幡ヶ谷にクリスマスリースを買いに行ったついでに、笹塚でビャンビャン麺を食べた。ガード下の商店街「京王クラウン街」を幡ヶ谷方面に歩いていくと、どん詰まりにある「西安ビャンビャン麺」笹塚店である。

初めてなので、まずは王道の油泼麺(ヨウポー麺)を頼んでみたが、美味しかった。

これまで近所の「西安麺莊 秦唐記」を贔屓にしてきたけど、ここのビャンビャン麺も十分美味しい。あとで店外のポスターを見たら、肉夹饃(ロージャーモー)もあるらしい。いいなあ、また食べに来たい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする