見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

アイスショー"Fantasy on Ice 2022 静岡"

2022-06-28 21:19:34 | 行ったもの2(講演・公演)

Fantasy on Ice 2022 in 静岡、初日(2022年6月24日 17:00~)/3日目(6月26日 13:00~)

 アイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)2022静岡公演を現地で見てきた。何度もこのブログに書いたとおり、幕張、名古屋、神戸のチケットが全く取れなくて、今年は生観戦は無理かと思っていたら、最後に2日分が当たった。どちらもステージから遠いB席、初日は東側の最後列から3番目、3日目は西側の最後列から2番目だったが、会場に入れただけで大満足である。

 出演スケーターは、Aツアー(幕張、名古屋)との違いだけ記録しておくと、三浦佳生、河辺愛菜、松生理乃、デニス・バシリエフスがOUT、宮原知子、ジェイソン・ブラウン、カッペリーニ&ラノッテ(カペラノ)がIN。現役若手がいないので、開演直後にエラジ・バルデや田中刑事くんが登場する、やたら豪華な構成だった。ゲストアーティストは新妻聖子さん、宮川大聖さん、バイオリニストのNAOTOさんに交代した。

 宮川大聖さんと羽生結弦くんのコラボ「略奪」「レゾン」は神戸初日から大反響を呼んだ。私は神戸公演をライブビューイング(6月19日、TOHOシネマズ新宿)で予習していたが、やっぱり現地では固唾を飲んでしまった。「略奪」は、黒を基調に赤を効かせた妖艶なオープニング衣装のまま、群舞で始まり、次第に羽生くんが前に出ていく。短めのトップスをまくり上げる腹チラと4Tに話題が集中したが、男子グループ、女子グループそれぞれに見せ場があり、流れるような全体のコンビネーションも美しかった。

 大トリの「レゾン」は上下白(上衣のみ左半身が紫)のゆったりした衣装。氷上に仰向けに倒れ込み、ゆっくり起き上がるとか、前傾姿勢のまま後ろに滑っていくとか、挑発的な振り付けが話題をさらった。No.1ホストみたいな色気という感想もあり、芸術性の極みという批評も見たが、どちらも当たっていると思う。現地で高い視点から見ていると、一挙手一投足に音楽を感じさせる身体の使い方の上手さ、動きに従ってふわりと広がる衣装の美しさが印象的だったが、危険な男の色気たっぷりだったことは否定しない。私がフィギュアスケートに魅せられた最大のきっかけである、プルシェンコの「タンゴ・アモーレ」を思い出した。今の羽生くん、バンクーバー五輪当時のプルシェンコと同じ27歳だと思うと感慨深かった。

 宮川大聖さんは「Z世代に絶大な人気を誇る」と紹介されていたが、大英断の起用だったのではないか。これまでFaOIのゲストアーティストは、客層の中心(中高年女性)になじみのある、80~90年代のヒット歌手が多かったように思うのだ。過去の公演に全く不満はないが、羽生くん世代にとっては、本当に感性を共有できるアーティストとのコラボだったのではないかと思う。千秋楽、宮川さんが登場直後のMCで「終わるのが寂しいです」と涙声だったのが忘れられない。

 静岡初日は、終演後の一芸大会で羽生くんが4T-4Tを連続で跳んで、小さくガッツポーズしていたのが可愛かった。千秋楽は、終演後のジャンプ披露はなかったが、「レゾン」の後、鳴りやまない拍手に推されるようにして、舞台に新妻聖子さんとNAOTOさんが登場。演奏と歌唱が始まり、会場がどよめく。私は何の曲か分からなかったが、隣のお客さんが「ノートルダム・ド・パリ?」とすぐに反応した。ステージ奥から「レゾン」衣装のままの羽生くんが登場。歌い続ける新妻さんと、情感たっぷりに顔を見交わしていたかと思ったら、おもむろにリンクに下り、リンク中央で激しく美しいスピン。そうだ、2012-2013年の1シーズンだけFSで滑っていた曲なのだ。とんでもないサプライズ・プレゼントに、会場全体が魂を抜かれたようになってしまった。

 しかし本公演の素晴らしさは、羽生くんだけではない。パパシゼは全公演で、北京オリンピック金メダルのリズムダンス、フリーのショーバージョン2演目を披露。回を重ねるごとに味わいが増し、観客の反応にも熱が加わった。カペラノは、前半がフランク・シナトラの「I've Got You Under My Skin」によるおしゃれプロ、後半は「道化師」の「衣装をつけろ」で、久しぶりにオペラが聴きたくなった。全体にAツアーから持ち越しのプロが多かったが、ステファンの2プロは、初見こそ「フィギュアスケートらしくない」と思って戸惑ったが、静岡では、様式美と様式を踏み越える力が拮抗して、完成度の高いものになっていた。こういうプログラムを日本で演じてくれたことに感謝。ちょっと田中泯さんの舞踊を思い出していた。

 新妻聖子さんの迫力ある歌唱も素晴らしかった。ハビエルとは「ラ・マンチャの男」、ジェイソンとは「メモリー」でコラボ。ステージ上から歌声でスケーターを操る魔女か女神のようだった。荒川静香さんとは、この時代だからこそというメッセージを込めて、中島みゆきの「ひまわり」で共演。歌の力とスケートの力に泣いた。

 Bツアーではアンサンブルスケーターズの紹介(ひとりずつ名前をコール)があったり、アクロバットやエアリアルに素直な歓声をあげるお客さんが多かったのも嬉しかった。アクロバットのポーリシュク&ベセディンは、いまお幾つなのだろう? 私は2010年から見ているのだ。彼らは、ネットの情報によれば、いまはアメリカ国籍だが、ウクライナ出身であるとのこと。ああ、だから出演できたのだな。今年のFaOIの復活、とても嬉しいけれど、個人的には、いつかロシアのスケーターたちにも戻ってきてほしい。ロシア大好きジョニーのポップでキュートな「Dancing Lasha Tumbai」が、ウクライナの歌手の楽曲だったこともここに記録しておく。

 フィナーレの群舞は新妻さんの「誰も寝てはならぬ(Nessun dorma)」で、羽生くんが神々しいようなY字バランスを披露。そして周回から、全ての出演者が輪になって抱き合ったのも初めての光景だった。羽生くんの最後の挨拶「ありがとうございました!」は恒例のことながら、千穐楽はその前に、ちょっと涙声の「本当に幸せでした」「またファンタジーに来てください」が付いた。遠かったけれど、西側だったのでよく見えた。また来年!

↓これは開演前の視界。

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FaOI(ファンタジー・オン・アイス)2022静岡公演おまけ

2022-06-27 21:58:41 | 食べたもの(銘菓・名産)

 Fantasy on Ice 2022静岡公演の初日と3日目(全公演の千穐楽)を現地で見てきた。まだ肝心の観戦レポートを書いていないのだが「おまけ」(余談)から。

 会場となったエコパアリーナの周囲では、公演プログラムや公式グッズのほかにも、いくつか物販のテントが出ていた。初日は時間がなくて素通りしてしまったのだが、あとでSNSで情報を得て、3日目は行列に並んでGETしたのが葛城ゴルフ倶楽部/葛城北の丸のレトルトカレー(グリーンカレー、ハッシュドビーフもあり)。

 葛城北の丸というのは、ヤマハグループが経営するリゾートホテルで、広大な自然林の中に、古民家を再利用するなど木材にこだわった日本建築が建てられている。実は、FaOI出演者の宿泊先に使われていて、海外スケーターにも好評のようだった。

 今回、静岡は、地元ローカルTVが取材や中継にものすごく力を入れていて、情報番組では羽生くんに「やっと(4年ぶりで)静岡に帰ってきました」「ぜひまた呼んでください」と言わしめていた。

 静岡、これまで私の関心の外にあったが、神社仏閣や名所旧跡が多いのはもちろんのこと、美味しいものもたくさんあることが分かった。来年、静岡市歴史博物館が開館したら、しっかりお金を落としにこようと思う。大河ドラマも家康だし。

 ということで、今日の夕食はビーフカレー(量がたっぷりあるので、浅いラーメンどんぶりをカレー皿に使っている)。

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静岡市半日観光・登呂遺跡

2022-06-25 23:02:42 | 行ったもの(美術館・見仏)

 いま、アイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)2022ツアーが進行中である。私は、幕張、名古屋、神戸のチケット争奪戦(抽選)に連戦連敗だったが、なんと最後の静岡公演で、金曜(初日)と日曜(千穐楽)のチケットを確保することができた。もちろんこの幸運を手放す選択はないので、金曜は仕事を休むことにしたが、すでに「出席」で回答してしまったウェブ会議がひとつ、午後イチにある。どうする?と考えた結果、昨日は昼前にPCを持って東京を出発し、静岡で途中下車、駅前の貸し会議ブース(2時間1000円弱)を利用して会議に参加したあと、公演会場に向かった。

 初日の夜公演を堪能し、静岡泊。このまま日曜まで滞在することも考えたが、週末は老人ホームに入居している母の様子を見に行くタスクがあるので、今日はいったん東京に戻ってきた。

 以下は、今日の静岡半日滞在で観光してきたところについて書く。これまで東京~関西は何度も往復しているが、実は静岡駅で下車したのは初めてではないかと思う(バス旅行で久能山は行ったことがある)。朝はホテルから徒歩で駿府城公園へ。東御門~本丸堀~二の丸御門跡のあたりをうろうろする。私は戦国武将とか近世城郭にはあまり興味がない。

 むしろこういうのが気になる。「葵文庫」は、蕃書調所、開成所、昌平坂学問所など江戸幕府の公的機関の旧蔵書で、江戸幕府の崩壊とそれに続く徳川家の駿府移住によってこの地にもたらされたもので、現在は静岡県立中央図書館が所蔵している。写真は葵文庫の石碑で、後方には大規模な静岡市歴史博物館(2023年1月開館予定)を建設中だった。

 次に静岡駅南口から路線バスに乗って登呂遺跡へ(同じアイスショー帰り?行き?らしいお客さんを何組か見た)。たぶん日本で最も著名な、弥生時代の集落・水田遺跡である。先史時代の遺跡というのも、元来あまり興味がなかったのだが、最近、「まだまだ分かっていないことが多い」ことが分かって、興味が出てきた。遺跡(居住域)には、いくつかの竪穴式住居や高床式倉庫が復元されている。

 手前の丸い窪みは、住居が復元されていない住居跡。

 居住域の南側には復元水田が広がる。「〇〇幼稚園」という札が立っている区画もあり、各種の体験イベントが行われているようだった。遠くに見えるのが登呂遺跡博物館(隣の芹沢銈介美術館は、残念ながら休館だった)。

 居住域の隅にひときわ大きい高床式の建物があった。正面中央に扉があり(金属の錠前付き)、高床の柱に鼠返しがついていないのが不思議だった。てっきり倉庫だと思っていたが、博物館の展示を見ていたら「祭殿」だと説明されていた。

 どうして「祭殿」と分かるのかが気になって、博物館1階の「弥生体験展示室」にいたお姉さんに聞いてみたら「ほかの倉庫に比べて規模が大きいから」と「両端に棟持ち柱(斜めの太い柱)が用いられているから」という回答だった。でも棟持ち柱って、用途に限らず大きな建物には構造的に必要になるものじゃないのかな?と思って、いまいち納得できなかった。

 別のおじさんに同じ質問をしてみたら、この建物跡からは、焼けた獣骨(卜骨か)や琴が見つかっているのだという。琴(こと)と言っていたけれど、中国の琴(きん)に似ている感じがした。だからか。「弥生体験展示室」内に復元されている祭殿の中央には琴が置かれていて、孔明の空城の計を思い出してしまった。

 棟持ち柱というのは、伊勢神宮に代表される神明造の特徴のひとつであるらしい。ただ、現在の多くの神社建築では、地面に垂直に立てるもので、登呂遺跡の復元祭殿のように斜めには立てない。どうもあやしい。おじさんも「今の復元は神明造に影響され過ぎている」という趣旨のことをおっしゃっていた。もうひとつ気になったのは鳥形(とされている)木製品で、鳥が穀霊を運び、豊作をもたらすという信仰にもとづき、高い柱のてっぺんに鳥形木製品を付けて祭祀を行うイメージ映像を展示室で見た。出土品は、菱形を引き延ばしたような抽象的なかたちで、あまり鳥らしく見えなかったが、他の弥生時代や古墳時代の遺跡では、もっと鳥らしい木製品が出土しているらしい。

 登呂遺跡は、戦時中の1943(昭和18)年に発見され、1947(昭和22)年に日本で初めての総合的な発掘調査が行われた。敗戦に沈んでいた当時の日本人が、先史時代の日本に高度な文明があったことを示す発見に感じた高揚感は、今なら想像できる。大げさに言えば、戦後の登呂遺跡は、戦前の伊勢神宮みたいな、日本人の心のよりどころだったのではないか。私が習った1970年代の小中学校の教科書も、弥生時代と水田耕作といえば登呂遺跡一色だった。

 だが、登呂遺跡の発掘は平成以降にも行われており、漆が塗られた琴や祭殿跡の出土も平成のできごとである。逆に最近は、周辺の開発が進んだことで、多数の遺跡が発見されているそうだ。登呂遺跡博物館にも、登呂遺跡以外の出土品も多数展示されていた。

 ミュージアムショップで売っていた「古代米アイス」200円。店番のおじいちゃんがディッシャーでコーンに盛り付けてくれた。ただし登呂遺跡の田んぼでとれた古代米ではないとのこと。

 昼ごはんは駅ビルで買ったおにぎりを新幹線車内で。左側は「たぬきむすび」と言って、しぞ~かおでん(静岡おでん)の天神屋さんのまかないを商品にしたもの。うまかった。

さて、明日も静岡県・愛野のエコパアリーナへ往復、行ってきます!

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大都会・北京の片隅で/中華ドラマ『歓迎光臨』

2022-06-21 22:08:09 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『歓迎光臨』全37集(東陽正午陽光影視、三次元影業、2022年)

 平凡な人々の、小さな喜怒哀楽を大事に掬い上げたようなドラマ。毎回、大笑いしながら、最後には登場人物全てが愛おしくなっている。さすが安定の正午陽光作品である。

 北京の五つ星ホテルに勤めるドアボーイ(門童)の三人組、張光正、王牛郎、陳精典は、宿舎を出て部屋を借り、共同生活を始めることにした。主人公の張光正は東北出身、就職6年目。人柄の良さだけが取り柄で、特に夢も野望もない。引っ越し先では、サンルームを自分の専有スペースとすることができて大満足。ところが、窓の下の公園では、毎朝、近所のおばさんたちが集まり、大音響で「広場舞」を楽しんでいることが分かり、不運を呪う。しかし、幸運もやってきた。あるとき、ホテルの玄関で、正義感の強い美女と出会って一目惚れし、人生の目標を見つける。しかも、その「女神」は、広場舞のおばさん集団の一員、柳阿姨の娘の鄭有恩で、仕事は航空会社のCAであることが分かる。

 有恩と知り合うため、広場舞のメンバーに入り込んだ張光正は、性格のよさが幸いして、すっかりおばさんたちに気に入られてしまう。彼女たちの援助もあって、少しずつ有恩に近づく張光正。はじめは恐ろしい塩対応だった有恩も次第に張光正に心を開いていく。

 しかし気持ちが通じ合うと同時に、張光正は現実の厳しさに直面する。ドアボーイの収入では、有恩を養い、幸せにすることができない。経済的に自立した有恩に、気にする必要はないと言われれば言われるほど、悩みは深まる。ホテル内の昇格試験を受け、礼賓員(コンシェルジュ)さらには経理(マネージャー)を目指そうとするが、困難の大きさにくじけそうになる。

 張光正が「師父」と呼ぶ先輩の王牛郎は、すでに30代半ば。北京生まれで、幼いときに両親を失くし、親戚に育てられた。四六時中、人の行き交う賑やかな雰囲気が好きで、ホテルのドアボーイになった。焼烤店のウェイトレスである可憐な少女・九斤にずっと心を寄せている。クリスマスの晩、ホテルのダンスパーティに九斤を招待し、幸せなひとときを過ごすが、九斤は、郷里に戻って親の決めた相手と結婚することになったと告げる。九斤と別れたあと、有恩の同僚で離婚したばかりの佟娜娜と意気投合するが、自分に自信のない王牛郎は、佟娜娜の好意を受け止めることができない。

 最年少の陳精典は、大学卒業後、ドアボーイのアルバイトをしながら大学院進学を目指していた。同僚の豆子とは周囲も公認の仲。豆子は精典を受験勉強に専念させようと献身的にサポートするが、うまくいかない。精典は、成績の伸びない学業を放棄し、ネットの株取引で簡単にお金を稼ぐ方法を覚え、仕事もおろそかになる。一方、真面目で向上心のある豆子は、次第に職場で認められ、上海のホテルからヘッドハンティングの誘いも来るようになり、二人の間に隙間風が入り込む。

 「今日の中国」に生きる男子は、仕事も恋愛も大変だなあ、と思った。それでもドアボーイ三人組は、勇気を奮い起こして困難に立ち向かい、それぞれの幸せをつかむ。まとめてしまうとありきたりだが、そこは劇中でホテルマンの極意とされる「細節是魔鬼(The devil is in the details)」で、このドラマも細部が見どころなのだ。

 悩む若者たちを導く、人生の先輩たちは、みんな魅力的である。おしゃれでお茶目な柳阿姨は、有恩の父親と離婚し、夫の死後、娘を引き取ったが、実の娘にどう接してよいか分からず悩んでいる。広場舞のリーダー格・孫大姐は、夫の楊大爺と二人暮らし。楊大爺は少し痴呆も始まっているが、妻を愛する気持ちは失っていない。

 ホテルの総監(ゼネラルマネージャー)孫広庭は、口うるさい上司。精典は「鯰魚精」と仇名をつけて嫌っていた。しかし、部下を見る目は確かで、張光正や豆子がサービス業に適した資質の持ち主であることを見抜く一方、精典は違う職業を目指すべきだと考えて、彼の気持ちをもう一度、学業に向けさせる。孫総監は、若い頃からホテルに寝泊まりし、家庭も持たず、ひたすら仕事に打ち込んできた。ところが、癌が見つかり、せめて人生の最後に自分の家を持ちたいと願う。張光正ら三人組は、自分たちの部屋に孫総監を受け入れて一緒に暮らし、孫総監の容態が悪くなると、ずっと病院に付き添うのだ。こんな人間関係、ありなのか。幸せすぎる。岳旸さん、チョイ役で何度か見たことのある俳優さんだが、いい役を貰ったなあ。

 主役組は、恋する張光正(黄軒)がとにかくかわいい。陳精典(白宇帆)もかわいい。楊大爺役の畢彦君は『琅琊榜之風起長林』の荀白水など、これまで矍鑠とした老人役で見てきたのに、別人かと疑うような呆け演技だった。また、広場舞のシーンで流れる楽曲、孫大姐のお気に入り「瀟灑走一回」(1991年)と柳阿姨のおすすめ「好嗨哟」(2019年)は耳に残る。どちらの歌詞も、ドラマの主題と絶妙にリンクしているように思った。

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はじける禅画/仙厓ワールド(永青文庫)

2022-06-20 12:04:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

永青文庫 初夏展『仙厓ワールド-また来て笑って!仙厓さんのZen Zen 禅画-』(2022年5月21日~7月18日)

 同文庫は、設立者・細川護立が集めた仙厓義梵(1750-1837)の作品100 点以上を所蔵する。2016年の秋冬展に続く第2弾となる本展では、兄弟子にあたる誠拙周樗(せいせつしゅうちょ、1745-1820)など、仙厓周辺の禅僧による書画をあわせて展示し、知られざる禅画コレクションの一端を紹介する。

 2016年の『仙厓ワールド-来て見て笑って!仙厓さんのゆるカワ絵画-』は、もちろん見に行ったが、104点を完全入替の4期に分けての公開だったので、コレクションの4分の1しか見ることができなかった。今季も前後期でかなり入れ替えがある。

 4階の展示室は、はじめに神仏や道釈人物画が並んでいて楽しかった。『出山釈迦図』はなかなかのイケメン。『観音図』は母性を感じさせる。しかし『文殊菩薩図』は、長髪にヘアバンドというインディアンみたいなスタイルで、衣服を完全に省略して手足を描いているので裸に見える。ふさふさの尻尾を高く上げた獅子も、ウナギイヌみたい。『鍾馗図』は小鬼をつまみあげた髭もじゃの鍾馗さまがニッコリ、つまみ上げられた小鬼もバンザイスタイルでニッコリしていて、お父さんと子供の記念写真みたい。

 『竜虎図』双福は、2016年にも見て一目惚れしたもの。虎の目が、丸二つの中に半眼を現すような短い横線を入れるところ、龍の目が、右と左、バラバラの方向に黒目が寄っているところ、どちらも昭和のギャグマンガにある表現だと思った。あと、どの絵もサラッと興にまかせて早描きしているようで(実際そうなのだろうけど)、墨の濃淡の使い分けは絶妙だと思う。たとえば『七福図』の毘沙門天の顔。顔の輪郭線、鼻、目玉の輪郭線などは薄墨で、目玉とへの字の口だけ墨が濃い。これは筆の速度で調節するのか?墨を付け直すのだろうか? 『猪頭和尚図』の背景の松の木は、薄墨の枝と濃墨の枝を重ねて描いている。

 4階では、仙厓の兄弟子にあたる誠拙周樗の書画もあわせて展示。3階は「禅画ワールド」の括りで、白隠もけっこう出ていた。私は、永青文庫の禅画といえば白隠とその周辺の印象が強くて、仙厓作品をこんなに持っていることは、最近まで知らなかった。解説によれば、細川護立は白隠から蒐集を始め、渋谷・祥雲寺(広尾にあるのかあ)の鈴木子順の勧めで仙厓を集め始めたという。晩年の護立は、毎晩、白隠と仙厓を1幅ずつ選んで部屋に掛けて楽しんだとのこと。うらやましい。

 私が仙厓作品を知ったのは、出光美術館の影響が大きいが、出光コレクションが「ゆるい」「かわいい」「ほっこり」系であるのに比べると、永青文庫の仙厓さんのほうがはじけていて、ちょっと毒が強い感じがする。

 また「禅画」というのが戦後に広まった用語で、ドイツ人美術研究家クルト・ブラッシュ(1907-1974)の著書『白隠と禅画』(1957年)『禅画』(1962年)等による、ということも初めて知った。私は、2000年に松涛美術館で開催された『ZENGA』展でこの言葉を覚えたように思う。この言葉、主に江戸時代の絵画作品を指し、中国絵画には使わないのだな。なるほど。

 「禅画ワールド」には、山水図や風俗図も含まれる。仙厓が『都府楼図』(手前の建物は観世音寺か)や『宝満山竈門神社図』などの風景や、花見や祭りに興ずる博多の人々をたくさん描いているのは楽しかった。また『臨済図』は、70代前半の作品だというが、拳を振り上げた臨済和尚も周りの坊主たちも、まだ表情が硬いのが、珍しく感じられた。

 誠拙周樗は、あまり印象に残らなかったが、『鰯の頭図』には笑ってしまった。イワシの表情が生き生きしていて、紙を破って顔をのぞかせているようにも見える。白隠は小品のみだが『連弁観音図』が色っぽかった。

 最後に「あなたが選ぶ禅画キャラBest10」の人気投票も開催中。結果は展覧会終了後にホームページで発表とのこと。

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2022街中のアジサイ

2022-06-19 22:40:54 | なごみ写真帖

このところ、慌ただしい日々が続いている。

職場では、イベントと作業が重なり、平日深夜も土日も緊張が続いた。実際に発生した仕事の量は多くないのだが、つねに待機を強いられる状況で辛かった。

2月に亡くなった父の遺産相続関係はまだ片付いていない。弟が税務署に相談に行ったり考えたりしているのを、あまり口を挟まずに傍観している。ひとりになった母のところへは、毎週一回、必ず面会に通っている。これは武蔵境駅前のアジサイ。

趣味の楽しみもあきらめたくはないので、時間を算段して、美術館や博物館にも行っているし、アイスショーのライブビューイングにも行っている。来週末は、なんと生観戦のチケットが取れたので、金と日に静岡へ遠征する。金曜は有休を取るが、職場のオンライン会議には1時間だけ参加する予定。

優雅な老後は、いつになったら来るのだろうか。

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詩情と水彩画/ただいま やさしき明治(府中市美術館)

2022-06-16 22:29:05 | 行ったもの(美術館・見仏)

府中市美術館 「発見された日本の風景」連携展・孤高の高野光正コレクションが語る『ただいま やさしき明治』(2022年5月21日~7月10日)

 いつも「春の江戸絵画まつり」を見に行っている同館で、明治絵画の展覧会があるというので見てきた。明治期に来日した外国人画家たち、そして西洋画を学んだ日本人画家たちが、日本の風景を描いた作品は、当時、多くが欧米諸国に渡ってしまった。高野光正氏は、これら、海外に流出した絵画約700点を蒐集して里帰りさせており、本展では展示替えを含め約300点を紹介する。

 例によって何も予習せずに行ったので、最初の展示室「忘れられた画家」笠木治郎吉の作品特集(18点展示)で衝撃を受け、慌てて、高野光正コレクションの説明パネルを読んで、上記の概要を知った。笠木治郎吉(1870-1923)は五姓田芳柳・義松に洋風画を学んだと見られ、横浜に住み、日本の風俗を描いて外国人に喜ばれたという。作品は水彩だというが、細部まできっちり描き込まれた濃密な描写は油彩画の雰囲気に近い。また、描かれた人物たちの表情は個性的で親しみやすい。高野氏は「J. Kasagi」のサインをたよりに当時の電話帳からご遺族を探し当て、徐々に作品の発見と研究が進んでいるという。すごい。

 笠木について調べてみたら、2018年に横浜市歴史博物館の企画展『神奈川の記憶-歴史を見つめる新聞記者の視点-』で8点が展示されていた。記者発表資料がネットに残っているのだが、このタイトルじゃ美術ファンの関心を惹かないよなあ…。さらに調べたら、笠木治郎吉をルーツとする「かさぎ画廊」のブログに、見覚えのある作品が掲載されていた。そろばんやお習字帳など、たくさんの荷物を身に着けた小柄な少女を描いた『下校の子供』。2019年、歴博の企画展示『学びの歴史像』の最後に「近代教育」の象徴のように置かれていた、印象深い絵画である。あれは笠木の作品だったのか。

 展示は、はじめに来日外国人が描いた日本の風景、風俗画を紹介する。この嚆矢となったのは、英国人新聞記者(挿絵画家)のチャールズ・ワーグマン。富士山や七里ヶ浜など、油彩の風景画もあるが、人物が登場する作品は、即興的なスケッチに軽く色をつけたものが多い。英国人画家の作品は、何気ない日常の風景を描いたものが多いという。彼らが「日本の名所」を知らなかったとか、行動の自由がなかったとか、この時代の「水彩画」が日常風景にマッチするメディアだったとか、理由はいろいろ考えられるが、彼らのおかげで、明治日本の「平凡な風景」に触れることができるのはありがたい。

 次に外国人に学んだ日本人の洋画家たちが登場する。私は、むかしからこの世代の作品に興味がある。五姓田義松の『北陸・東海道御巡幸記録図』(油彩)は、どこか非現実的で好き。山本芳翠の『月下波上の船』は図録に図版が載っているが、展示されないことになっていた。佐賀県美の『白馬、翔びたつ』で見た『帆船』と同じ作品ではないかと思う。

 やがて、工部美術学校ではフォンタネージの指導が始まり、日本人洋画家の第二世代が成長する。彼らはバルビゾン派に学び、日本各地の名もなき風景を、みずみずしく描き出した。同時に富士山や日光などの名所も、紋切り型でなく、画家の個性と詩情を込めて表現するようになった。沼辺強太郎、河久保正名、五百城文哉がそれぞれ描いている『日光東照宮陽明門』は、それぞれによい。

 また、明治の前半にアメリカに渡った画家の中に吉田博の名前があった。2021年の『没後70年 吉田博展』は版画が中心だったので、水彩画はずいぶん雰囲気が異なる感じがした。吉田ふじをという画家の作品がいいなと思ったのだが、吉田博の妻となった人だった。中川八郎、満谷国四郎もよい。鹿子木孟郎は、先日『加茂の競馬』を見て意識した名前である。

 明治末年には日本全国に水彩画ブームが起き、その副産物として、身近な風景に自分らしい「詩情」を込めようとする美意識が発展した。という趣旨の解説が最後に掲げられていたが、分かったような分からないような微妙な気持ちになったのは、私が、元来「詩情」を解さないためかもしれない。

 ちなみに会場では、関連図録が3冊売られている。

(1)『おかえり「美しき明治」』(2019年9月14日~12月1日、府中市美術館)の図録
(2)『発見された日本の風景 美しかりし明治への旅』(2021年9月7日~10月31日、京都国立近代美術館)の図録(※2022年5月21日~7月10日、府中市美術館へ巡回の記載あり)
(3)本展『ただいま やさしき明治』(2022年5月21日~7月10日、府中市美術館)の図録

 (1)(2)は見逃した展覧会だが、こういうかたちでリマインドされて記憶に留めることができ、よかったと思う。図録は(2)(3)を買って帰った。重なる作品もあるが、重ならない作品もあるので、楽しく眺めている。

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アジアの架け橋/琉球(東京国立博物館)

2022-06-14 21:13:01 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 沖縄復帰50年記念・特別展『琉球』(2022年5月3日~6月26日)

 本展は、アジアにおける琉球王国の成立、および独自の文化の形成と継承の意義について、琉球・沖縄ゆかりの文化財と復興の歩みから総合的に紐解くもので、展示替えを含めて全363件という大規模展覧会である。私は本展の「琉球」が、歴史上の琉球王国(15~19世紀)を指すのか、地域としての琉球列島のことなのか、あまり予習せずに来てしまったので、会場の入口で、あ、これは「琉球王国」の展覧会なのだと理解した。

 第1章は「万国津梁 アジアの架け橋」と題して、琉球王国とアジア各地との交易の様子を紹介する。旧首里城正殿の鐘である『万国津梁の鐘』は、本物を見たのは初めてかもしれない。東シナ海を往来する船(船体に目玉を描いた独特の外観)や、那覇港の賑わいを描いた絵画資料がたくさん並んでいた。「唐船」が唐へ行く船(進貢船)の意味だということを初めて知る。

 文書資料では、島津家伝来の『朝鮮国書』(弘治13/1500年、朝鮮海域で遭難した琉球人を送還する旨)や『弘治帝勅諭』(成化23/1487年、即位に際して琉球国中山王尚真に宛てた勅諭)が興味深かった。古い記録で、宮内庁書陵部所蔵の『漂到琉球国記』(寛元2/1244年、琉球国から宋へ渡り帰国した肥前国松浦の一行の聞き取り資料)も会場の冒頭近くに出ていた。また出土資料では、中国銭や高麗瓦には驚かないが、勝連城跡から、ローマ帝国やオスマン帝国の貨幣が見つかっていることに驚いた。

 第2章「王権の誇り 外交と文化」では、はじめにアジア各地との交易・交流から生まれた書画・工芸品を紹介。このセクションに、旧円覚寺関係の木彫資料が出ていた。『釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩坐像』と呼ばれているが、中尊の釈迦如来には頭部がなく、流麗な衣の襞が痛々しさを増幅させている。ひとまわり小さい脇侍の文殊・普賢も並んでいたと思うが、獅子・白象の印象が強すぎて、肝腎の二菩薩はあまり記憶に残っていない。獅子も白象も頭部がほぼ失われており、白象は『山海経』に出てくる渾沌(帝江)に見えた。獅子は頭部の上顎が吹っ飛び、下顎だけ残っているので、一つ目の怪物が舌を出しているようだ。悲惨な姿なのにちょっとかわいい。これらは江戸時代(寛文10/1670年)の銘があるが、数件の小さな羅漢立像は、清時代と記されていた。セクションの後半は、琉球国王「尚家」に伝わった品々。王冠を楽しみにしていたのだが、残念ながら、展示替えで見ることはできなかった。でもきれいな衣装をたくさん見ることができたので、よいことにする。

 第3章は「琉球列島の先史文化」で、いきなり時代が遡るので、ちょっと戸惑う。先週見てきた国学院大学博物館の展示が、ちゅうどよい予習になった。縄文時代だが縄文のない土器や、ヤコウガイの貝匙(本物)も来ていた。戦国時代の燕国で通用した明刀銭(前3世紀)が出土しているのも興味深い。

 第4章「しまの人びとと祈り」は、再び琉球王国時代に戻るようだったが、ここな歴史を超越した「民俗」のセクションということになるのだろう。一番インパクトがあったのは、大きく引き伸ばされたノロ(女性祭司)の写真だった。Wikipediaに掲載されているのと同じ写真かもしれない。ノロは琉球王府から任命される役職だったので、辞令書が残っている。別のセクションに、ノロの最高位である聞得大君の辞令書も展示されていた(伊江御殿家関係資料)。琉球王国の公文書が仮名書きであることは知っていたが、琉球国王尚家の分家の王族で歴代首里王府の要職を歴任した伊江御殿家(いえうどぅんけ)の資料は漢字が目立った。でも漢文ではないようだった。

 最終章「未来へ」には、工芸品や仏像(旧円覚寺仁王像)の模造復元に加えて、首里城正殿の3D復元モデルが展示されていた。「OUR Shurijo: みんなの首里城デジタル復元プロジェクト」では、国内外の人々が提供した8万枚以上の写真データから、焼失した建物の3Dモデルを復元したという。記憶に残る、正殿2階の3枚の扁額(康煕・雍正・乾隆帝の書)もデジタル復元されていて嬉しかった。屋内外とも自由に写真撮影ができる建物であったことが幸いしたとも言える。

 沖縄、また観光に行ってみたい。それと、私が沖縄の歴史に興味を持った最大要因である、2011年のNHK-BS時代劇『テンペスト』を、この機会に再放送してくれないかなあ。

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国民食の誕生/パスタでたどるイタリア史(池上俊一)

2022-06-13 12:28:49 | 読んだもの(書籍)

〇池上俊一『パスタでたどるイタリア史』(岩波ジュニア新書) 岩波書店 2011.11

 今季の朝ドラ『ちむどんどん』を、私はけっこう楽しんで見ている。ただし以下はドラマの感想ではない。沖縄から上京した主人公がイタリア料理店で修業する展開に関連して、SNSで、本書のおすすめを見かけたので読んでみた。初めて知ることばかりで面白かった。

 まず、パスタの主原料である小麦はメソポタミアで栽培されるようになり、地中海沿岸の諸文明に広まった。ローマにパンの作り方を伝えたのはギリシャ人だという(ポンペイ展で見た「炭化したパン」を思い出す)。古代ローマでは、小麦粉の練り粉を焼いたり揚げたりする、パスタの原型も作られていた。

 4~6世紀にゲルマン民族が侵入し、支配階級(貴族)になると、彼らは狩猟と大量の肉食を好み、肉を食べないのは脆弱、退廃の印として軽蔑した。小麦畑をはじめとする農地は荒廃し、パスタの製法は長く忘れ去られた。これは驚いたなあ。ただ、ちょっと図式化し過ぎにも感じられ、最新の研究成果が気になるところではある。

 11世紀頃から富裕層は小麦のパンを食べるようになったが、下層民は雑穀のパンかミネストラ(具の少ないスープ)がせいぜいだった。しかし北イタリアでは11~12世紀に生パスタが誕生し、祝祭や特別な記念日などに食べられるようになった。常食ではないのね。一方、南イタリアには、イスラーム教徒であるアラブ人によって乾燥パスタが伝えられた。両者は原料も異なり、軟質小麦の生パスタは北、硬質小麦の乾燥パスタは南、という対照は、現在にも名残があるという。やがて自治都市(コムーネ)の時代には、食文化も大いに発展し、16~17世紀には(パン屋から独立した)パスタ業のギルドも作られた。

 中世のパスタは、水やミルクやブロード(スープ)で茹でてチーズをかける料理法が一般的だったが、大航海時代(15世紀末~)には、唐辛子、砂糖(サトウキビ)、トウモロコシ、ジャガイモ、ソバ、トマト等の食材がイタリアに流入し、パスタと結びついた。現在のパスタ料理に欠かせないトマトソースが誕生したのは17世紀末のナポリだという。18世紀には機械化大量生産も始まり、17~18世紀、パスタはイタリアのあらゆる層の食卓に浸透した。この頃の絵画を見ると、パスタを手づかみで食べているのにびっくり。

 イタリアには、独特の形状、ソース、素材、料理法によるパスタ料理が各地方にある。しかし「地方料理」が確立したのは、実はイタリアという統一国家ができて「イタリア料理」が成立した後のことである。ここで19世紀後半、イタリアの統一と近代化を目指した「リソルジメント」運動が、簡単に紹介されている。英雄ガリバルディの名前は世界史で習った。イタリア国土統一は、実質的には北部の論理による南部の征服・従属化であり、長く「南北問題」という重荷を残すことになったとか、行政や法律の統一はできても文化や生活面の統合、すなわち「イタリア人」の創出(国民の統合)が課題だったとかいうのは、日本の明治維新と似た感じがする。

 日本の国民意識の形成に一番寄与したのは、小説や新聞ではないかと思うのだが、イタリアでは、食文化がその役割を果たした。趣味で料理を研究したアルトゥージは、さまざまな地方料理に彼なりの修正を加えたレシピ集を刊行した。これにより、定番イタリア料理が国民に共有されることになった。アルトゥージのレシピには、トマトソースとジャガイモのニョッキも取り入れられている。特定の「地方」に結びつかない外来物だからこそ、普遍的な「イタリア料理」のシンボル的役割を果し得た、という著者の評言がすごく納得できた。異なる文化の融和には、外来物の触媒が必要なのだと思う。

 もうひとつ重要なのは、パスタ作りは女性の仕事で、イタリア人にとってパスタは家庭の守り手である母親の思い出と強く結びついているという指摘。ただし著者は、男女関係のあり方や生活形態が変わっていけば、ブルジョワ社会のイデオロギー(象徴や物語)も用済みになるだろう、と楽観的である。私は、パスタは大皿に盛って、家族あるいは仲間で取り分けて食べるもの(連帯・つながりの食べ物)という説明に驚いた。全くそんなイメージがなかったので。日本の鍋料理みたいなものなのかな。

 イタリアといえば、美術、建築、音楽など、人類にとっての至宝の数々を生み出した土地ではあるけれど、「イタリア人」の誇りはパスタなのかもしれない、と思った。

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祈りに応える仏さま/阿弥陀如来(根津美術館)

2022-06-12 23:59:37 | 行ったもの(美術館・見仏)

〇根津美術館 企画展『阿弥陀如来 浄土への憧れ』(2022年5月28日~7月3日)

 館蔵の仏画を中心として、日本における阿弥陀信仰の歴史とその広がりを概観するとともに、高麗における作例もあわせて紹介する。今年は、なぜか春から仏画の展覧会が続いていて嬉しい。特に中之島香雪美術館で見た『来迎』展 のことは、何度も思い出しながら本展を鑑賞した。

 冒頭には鎌倉時代の典型的な『阿弥陀三尊来迎図』。全身金色の立像形式の三尊が雲に乗って左から右方向に向かってくる。『金剛界八十一尊曼荼羅』は何度も見ている華やかな曼荼羅図だが、中央の大日如来の上方にいるのが阿弥陀如来だとは思っていなかった。

 絵画と同じ展示室に仏像が混じっているのは本展の特色(同館ではあまりない)。かなり大きな阿弥陀如来立像(鎌倉時代)は修理を終えて初公開だという。ところどころ金箔が残る。衣の打合せのたっぷりした表現が優雅。小さい銅製の光背(飛鳥時代)は、一番外側が水滴型(宝珠光?)、次が放射光、一番内側がマーガレットの花のようなかたちの、3つのパーツを組み合わせたもの。一番外側の裏面に戌午年=斉明天皇4年(658)の銘があり、阿弥陀の名と浄土思想を明記した現存最古の資料と見られている。観心寺の観音菩薩の光背だったという説明があり、調べたら、以下に詳しかった。→観仏日々帖:こぼれ話~光背の話③ 根津美術館の観心寺伝来・戊午年銘光背の話 (2020/5/15)

 菩薩立像(平安時代)は、ほぼ裸の上半身に細い天衣をまとう。定朝の作風に近いという解説がついていたが、眠たげではなく、理知的で麗しかった。体をわずかにひねり、足を開き気味に立つ。初見かなあと思ったが、2019年の同館『優しいほとけ・怖いほとけ』に出ていたようだ。

 『融通念仏縁起絵巻』巻下(南北朝時代)も記憶になかったが、2013年に一度見ていた。入滅する良忍を迎えに来る雲に乗った仏たち、スケボーしているような身のこなしでかわいい。『当麻曼荼羅』(南北朝時代)は大作だが、これでも原本の四分の一サイズだという。浄土の楼閣の複雑なこと、描き込まれた仏と浄土の住人たちの数の多さ。一方、『兜率天曼荼羅』(南北朝時代)は青と緑の色彩が美しいが、住人の姿が小さく少ないので、どこか寂しい。

 『山越阿弥陀図』(南北朝時代)は栃木・現聲寺所蔵。時宗のお寺のようだ。山越阿弥陀図の作例は、ほぼ近畿地方に限られ、東国では珍しいそうだ。目と眉のくっきりしたお顔である。『熊野権現影向図』(南北朝時代、神奈川・正念寺)は、巨大な雲の塊の中から、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来が姿を現したところ。熊野詣にきた奥州名取の老女が浜の宮で阿弥陀如来を拝したという説話による。ぽっちゃり福々しい阿弥陀如来の足元では、人々(男女)数名が両手を合わせて拝んでいる。『善光寺如来縁起絵』3幅(南北朝時代)は、中幅が三尊の下に善光寺の伽藍を描いていることは分かった。右幅は外国らしく、左幅は日本(京都)の貴族たちの様子だろうか。赤鬼のようなものも見える。

 よく似た小型の銅仏2躯、同館所蔵の勢至菩薩立像と、神奈川県立歴史博物館所蔵の観音菩薩立像は、もとは一対であったらしい。よく見ると胸の前で合わせた両手の重ね方が異なる。2躯とも筒型の宝冠を被っているのだが、宝冠は頭部の周りを飾るだけで、頭頂部は髷が見えているのが面白かった。

 第2室は高麗仏教美術のミニ特集で、古経・青磁のほか、仏画が6件。元都に滞在していた忠烈王の速やかな帰還を祈って制作されたという『阿弥陀如来像』がやはり格別に手の込んだ優品。阿弥陀如来は威厳のある王者の風格で、胸に卍のマーク。『阿弥陀三尊像』は観音・勢至のヴェールの表現が優美。少し時代が下って表現が固定化したものも、それはそれで面白かった。

 展示室5は「注文された舶来物」をテーマにした陶磁器の展示。でも南蛮芋頭水指とかは、現地で別の用途に使われていたやきものだから「注文生産」じゃないだろう、と思ったが、広く外国で調達し招来されたやきものを、このタイトルの下に集めている。「阿蘭陀色絵」の名で呼ばれる、青とオレンジが目立つ唐草文の容器は、大小多様なものが伝来しており、5件まとめて見ることができて、興味深かった。また、東京大学本郷地区(加賀屋敷跡)などから出土した陶片の解説に、同館は1987年に『茶陶のおらんだ』、1993年に『南蛮・島物』という展覧会を開催したが、当時はこのような資料はなく、その後、東京の再開発の進展によって、さまざまな陶片が発見されたことが記されていた。

 展示室6は「雨中の茶会」。雨や水、舟などにちなんだ茶道具が多く出ていた。

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