見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2022年3月関西旅行:室生寺、大野寺

2022-03-31 21:28:34 | 行ったもの(美術館・見仏)

 昨年4月に入職した仕事(パートタイム)を3月末で辞めることにした。4月1日から新しい仕事(フルタイム)に就くことになる。この機会に、初めての年度末「有休消化」をやってみることにして、2泊3日の関西旅行に行ってきた。

室生寺(奈良県宇陀市)

 28日(月)は朝6時台の新幹線で東京を出発。名古屋で近鉄に乗り換え、室生口大野からバスに乗り、室生寺に到着。20年ぶりくらいの参拝だと思う。赤い太鼓橋を渡って、右手の受付に向かう参道には微かな記憶があったが、いきなり立派な「宝物殿」の入口が目に飛び込んできて、びっくりした。

 階段を上がると、手前と奥に展示室が2室。手前のほうがやや広く、ガラスを隔てて、左(入口)側から地蔵菩薩立像、十一面観音立像、釈迦如来坐像がおいでになる。それぞれの左右には十二神将像が計6躯、波夷羅(辰神)、珊底羅(未神)、安底羅(巳神)、迷企羅(酉神)、波夷羅(卯神)、宮毘羅(寅神)の順だった。参観客の立ち入りスペースが暗く、ガラスの内側が程よく明るいので、細部まで非常に見やすかった。地蔵菩薩の板光背の美しさに見とれる。なお、ガラスの内部は展示ケースではなく収蔵庫そのものになっているらしく、格子の衝立ての背後には収蔵棚が設置されているのが見えた。この方式、文化財の安全と公開の便宜が両立していて、よく考えられた設計だと思う。奥の展示室には曼荼羅、仏具、仏画などが出ていた。

 そのあと、仁王門をくぐって急な石段を上がり、弥勒堂、金堂、本堂を順に見ていく。宝物殿ができて、元のお堂が空っぽになったわけではなく、それぞれに見応えのある仏様がいらっしゃる。本堂で2つめのご朱印をいただきながら「立派な宝物殿ができましたね」とお話したら、いろいろご批判もあるんですけど…という趣旨のお答えをされていた。まあ確かに、こうした「改善」を好まない人の気持ちも分かる。けれども、お寺の方のお話では、ここまで伝えられてきたものを、さらに伝えていくことを考えたとのこと。そのためには、なるべく仏様を分散して安置するほうがいいと言われたというのは納得できた。一箇所に集めていると、そこが災害に遭ったとき、全て失われてしまう恐れがあるのだ。

 いま、十二神将像は、6躯が宝物殿、6躯が金堂に安置されている。以前は2躯が奈良博に寄託されていたが、宝物殿ができて、ようやく室生寺で全てご覧いただけるようになりました、ともおっしゃっていた。私は室生寺の諸仏の中では釈迦如来坐像が一番好きなのだが、以前の安置場所を思い出せず、お尋ねして、弥勒堂においでになったことを教えてもらった。

 なお、宝物殿は2020年3月に完成したが、コロナ禍で同年秋まで開館が延期され、落慶法要も簡略化して行われたそうだ。

 さらに石段を上がって五重塔へ。1998年の台風で激しく損傷したが、2000年7月に再建された。再建直後に参拝に来て、ピカピカの五重塔に違和感を感じた記憶があるが、現在は、屋根の檜皮に苔が生え、赤の色味も落ち着いて、いい感じである。五重塔の脇から奥の院に続く石段があるが、今回は省略。奥の院まで行ったのは、高校の修学旅行の一度切りかもしれない。 

 バス停に戻る途中、参道で回転焼屋のおばちゃんに呼び止められて、よもぎ入り回転焼100円を買ってしまった。バス停に行ってみると、バスを待つ女性客が、みんな回転焼を食べていた。

大野寺(奈良県宇陀市)

 帰りは室生口大野駅のひとつ前、大野寺(おおのでら)で下車。宇陀川を挟んで、対岸に巨大な磨崖仏があることで知られている。室生寺に来ると、いつもバスの中から眺めていたのだが、初めてバスを下りてみた。しかし弥勒仏の姿は、あまりよく分からなかった。ネットで調べると、午後の遅い時間、夕陽が当たる頃が見やすいそうだ。

 大野寺はお庭の参観のみ(あとで調べたら、お願いすると本堂安置の地蔵菩薩像も拝観できたそうだ)。桜の開花は、まだぼちぼち。以前は四月中旬が見頃だったが、最近は四月上旬とのこと。温暖化の影響で、桜の木が弱っているともおっしゃっていた。御朱印は「大石仏」を書いていただいた。

 再び近鉄に乗って、長谷寺へ向かう(初日の稿、続く)。

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2022年1-3月@東京:展覧会拾遺

2022-03-31 09:28:44 | 行ったもの(美術館・見仏)

3月が終わるので一区切り。ここに書き残していない展覧会は、別途記事にするつもり。

江戸東京博物館 企画展『徳川一門 -将軍家をささえたひとびと-』(2022年1月2日~3月6日)※3月31日まで会期延長

 御三家・御三卿など、外から将軍家を支えた人々の活躍を、徳川宗家に伝来するゆかりの品々を通して紹介。徳川一門の人々が描いた絵画が何件か出ており、徳川光友(尾張藩2代藩主)の『千代能図』が可愛かった。なお、同館は大規模改修に伴い、4月から2025年度いっぱいまで長期休館に入る。建築の外観が特徴的なので、バブル期の箱モノの象徴みたいに言われることもあるが、常設展エリアの展示は、内容が濃くて好きだった。さらにパワーアップした再開を期待したい。

国学院大学博物館 特別展『都の神 やしろとまつり-世界遺産 賀茂別雷神社の至宝ー』(2022年1月27日~3月26日)

 賀茂別雷大神を祭神とする賀茂別雷神社(通称:上賀茂神社)は、8 世紀末に都が山城国に定められて以降「都の神」となり、朝廷をはじめ、多くの人々の信仰を集めてきた。同社に伝わる文書や社宝を展示。御帳台や太刀は江戸もの。定期的に新調しているのだろう。

戸栗美術館 『古伊万里幻獣大全展』(2022年1月7日~ 3月21日)

 干支にちなみ、江戸時代に魔除けや強さの象徴として親しまれた虎を中心に、瑞兆として尊ばれた龍や鳳凰、麒麟などの幻獣、物語に登場する動物に注目して古伊万里を紹介。色絵のうつわや置物は(使える色が限られているせいか)配色が独特で面白かった。

東京都写真美術館 『写真発祥地の原風景 幕末明治のはこだて』(2022年3月2日~5月8日)

 「写真発祥地をとらえた初期写真を核に幕末・明治の姿を再構築する連続展の第二弾」だという。2020年の『日本初期写真史 関東編 幕末明治を撮る』が第1弾ということになるのだろうか。本展は、フォーカスをぐっと絞って「はこだて(箱館・函館)」を取り上げる。古写真だけでなく、文書や絵画資料も多数出ていて、多角的なアプローチが新鮮だった。

文京区立森鴎外記念館 特別展『写真の中の鴎外 人生を刻む顔』(2022年1月9日~4月17日)

 鴎外の生涯や業績を、残された数々の写真を通して紹介する。鴎外は、写真で見る限り、青年時代はチャラい顔で好きになれないが、中年を過ぎるとずいぶん顔立ちが変わる。医学界・文学界・美術界など、各界の有名人が集合した写真が多数あって面白かった。しかし各界の重鎮がほとんど男性なのは時代である。観潮楼の門前で軍服姿の鴎外が愛馬と並んでいる有名な写真があるが、その門前の敷石が、記念館の外に残っていることを初めて知って、見てきた。

 なお、2022年は森鴎外(1862-1922)の生誕160年・没後100年に当たることから、文京区の各地に記念のフラッグが掲げられている。

東洋文庫ミュージアム 『シルクロードの旅』(2022年1月26日〜5月15日)

 シルクロードの長い歴史の中でも、とりわけ仏教が栄えた時代の歴史を辿る。はじめに線でなく面(ネットワーク)でシルクロードを説明する図が掲示されており、森安孝夫先生の『シルクロードと唐帝国』を思い出した。出土遺物の写真や、写真を掲載した書籍を中心とした展示だが、むかしカシュガルまで行った西域旅行を思い出して懐かしさに浸った。もう一度行けるかなあ。

東京ステーションギャラリー 『ハリー・ポッターと魔法の歴史展』(2021年12月18日~2022年3月27日)

 ハリーが通ったホグワーツ魔法魔術学校の科目に沿って、大英図書館の所蔵品を中心に貴重な資料の数々を展示。そう、原作者J. K. ローリングの直筆原稿や映画の衣装なども展示されているけれど、基本は大英図書館の貴重書展なのだ。しかし「ハリー・ポッター」を冠した影響力(集客力)はすごくて、なかなか予約が取れなくて見逃すところだった。これまで西洋の貴重書展というと、天文学や医学など、今日の科学の発展に寄与した書物を見る機会が多かったが、本展は、いろいろ怪しげなものが多くて面白かった。西洋の書物に限らず、中国、エジプト、エチオピアなどの書物(18-19世紀)もあり。日本の瑞龍寺(大阪市?)から寄贈された龍のミイラや人魚のミイラが展示されていたのはご愛敬。

国立歴史民俗博物館 総合展示+特集展示『亡き人と暮らす-位牌・仏壇・手元供養の歴史と民俗-』(2022年3月15日~9月25日)

 企画展示『中世武士団』を見に行ったついでに見てきたもの。位牌は、中国の禅宗で使用されていたものが中世日本に導入され、次第に各宗派に広がっていった。雲形→廟所形→札形という流行の変遷がある。近年は追悼の方法・用具の多様化に従い、覗き込むと故人の遺影が浮かび上がる鏡なども展示されていたが、ちょっと怖かった。

 以下は、総合展示第1室(弥生時代)の高床倉庫でネズミの番をするイエネコの模型。このネコ(倉庫内の親ネコ)、時々向きが変わるらしい。確かにネットには右を向いているネコの写真がある…ので、次回確認するためにここに写真を残しておく。

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お花見クルーズとプチ贅沢呑み

2022-03-30 20:10:06 | なごみ写真帖

有休消化の関西旅行から帰宅したところだが、26日(土)のあれこれから書いておく。

この日、午前中は法事で実家のお墓のあるお寺に行ってきた。はっきりしないお天気で、ちょうど墓参のときに雨に降られた。

午後は友人と大横川の「さくら回廊お花見クルーズ」に参加。黒船橋の船着場で乗船し、越中島橋をくぐって隅田川へ。隅田川の中ほどで折り返して、巴橋をくぐって、前川製作所本社ビルのあたりで折り返し、黒船橋に戻ってくるコースである。

寒の戻りで開花が足踏み状態だったのでやきもきしたが、まあまあ花見を楽しめた。

下船直前に降り始めた小雨の中、予約していた近所の居酒屋「まるお」へ。ほぼ1年ぶりである。

お酒は、特に「呉春」が美味しかったので記念に写真を残しておく。

肴はおつまみ八品のコースを注文。どれも美味しいし、自分で選ぶより変化があって楽しかった。

もう一軒寄っていくことにして、日本酒バー「華蔵」へ。おつまみはクリームチーズとマンゴーのカプレーゼ。

周辺は、お店の入れ替わりも多いが、ひいきのお店が残っていてくれて嬉しい。

美味しく楽しい週末でした。

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歴史総合を学ぶ/ものがたり戦後史(富田武)

2022-03-27 19:55:35 | 読んだもの(書籍)

〇富田武『ものがたり戦後史:「歴史総合」入門講義』(ちくま新書) 筑摩書房 2022.2

 2022年4月から高校社会歴史科目が改編され、1年次の必修科目として「歴史総合」が始まるという。身近に中高生がいないので、全く知らなかった。従来の日本史、世界史を総合し、近代の始まりを「大航海時代」と見て、それ以降を扱うのだそうだ。文科省の国語教育や英語教育の施策にはあまり賛成できなかったが、これは期待していいのではないか。

 本書は「歴史総合」を担当する教員、あるいは授業を受ける高校一年生の参考書として執筆したものだという。ただしカバーする範囲は第二次大戦終結から今日までで、1講20ページくらいの全15講から成る。地図や図表(実質GDP増減率推移、政党系統図など)が豊富で、史料の全文または抜粋(日本語)が掲載されているのもありがたい。「ヤルタ密約」とか「ポツダム宣言」をきちんと読んだのは初めてだと思う(どちらも文語訳)。本文は、おそらく現在の最新かつ標準的な見解に基づいて書かれているが、それとは別に各講に「コラム」が付いていて、著者(1945年生まれ)の個人的な経験や感慨(学校給食の思い出、北朝鮮に帰国した友人、初の海外旅行など)が示されているのが、ちょっとした味付けになっている。

 びっくりするよう新しい発見はなかったが、あらためて、ああ、そうだったのか、と腑に落ちた点はいくつかある。たとえば北方領土問題。安倍政権下では繰り返し首脳会談が行われ、交渉の進展を期待する報道もあったが、ロシアは安全保障上の懸念から、北方領土への米軍駐留を禁じることを主張し、交渉は中断した状態となっている。当時、私はロシアの主張を唐突に感じたのだが、本書によれば、1960年の日米新安保条約締結を受けて、ソ連は、この条約はソ連への敵対を強めるものだとして「日ソ共同宣言」の「色丹、歯舞の平和条約締結後の引渡し」条項の無効を日本に伝達したとある。要するに未解決問題が解決しない限りダメなんだな、と思った。なお、ソ連→ロシアは一貫して「領土問題は存在しない」という態度をとっているが、1991年に来日したゴルバチョフは「領土問題は存在する」と明言したという。そんなこともあったっけ。全然忘れていた。

 日本の歴代首相では、田中角栄と中曽根康弘に関する記述が詳しい。著者は田中角栄を「功罪半ばする首相」と中立的に評しているが、どちらかといえば好意的に見ている感じがした。「日本列島改造」を掲げた田中の経済政策は、石油ショックによるコスト高、輸出不振もあって失敗するが、70歳以上の老人医療の無料化、健康保険の被扶養者の給付率引上げ、義務教育の教員の給与引上げ等々(美濃部都政の後追いだが)さまざまな社会政策を実現し、「社会民主主義的」と評する論者もいたという。え、全然覚えていない。

 外交面では1972年の日中国交正常化が最大の成果だが、このときの日中共同声明には「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきでなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」という条項がある。中国、この前段を思い出してほしいものだ。なお後段は、ソ連を恐れる中国側への配慮として加えたものだという。いやあ70年代のソ連と中国の国力の差を、あらためて思い出した。もう一つ、1973年の日ソ首脳会談において、田中がサハリン残留朝鮮人について「彼らの運命については日本政府も一定の責任がある」と明言したことが、最近公開されたソ連側会談議事録から判明したという。印象的だったので書き留めておく。

 今日的な問題とのリンクでは、ソ連の体制崩壊・連邦解体や中国の改革開放と大国化の過程をあらためて概観することができて興味深かった。韓国、台湾、北朝鮮の動向も手際よく要点がまとめられていいる。しかし、やっぱり「イスラム勢力の台頭」はよく理解できなかった。日本とのつながりがよく見えないからだろうか。新年度から、高校の教員も生徒も苦労するのではないかと思う。

 最終講が「戦争」と「環境」を考える問題提起になっているのはとてもよい。安易に「教科書が教えない歴史」を求めず、まずは大人も、歴史の教科書とこうした良心的な副読本を読んでほしいと思う。

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家族の50年史/中華ドラマ『人世間』

2022-03-25 16:48:50 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『人世間』全58集(中国中央電視台他、2022年)

 中国東北地方の江遼省吉春市(モデルは吉林省長春市か)の陋巷「光字片」に暮らす周家の家族を通して、中国の現代史(1960年代~2000年代)を描いたドラマである。物語の始まりは1969年の春節。三人の子女の父親である周志鋼は「大三線」と呼ばれる大規模開発工事に従事するため、中国内陸の西南地区(重慶など)に旅立っていった。定年まで三年に一度の帰省しか許されない仕事である。老大(長男)の周秉義も江遼省建設兵団に入隊し、同省の山間部に赴く。老二(長女)の周蓉は文学好きの感受性豊かな少女で、尊敬する詩人の馮化成を追って貴州の山奥に出奔する。残された老三(次男)の周秉昆は、はじめ製材工場、のちに醤油工場で働き、母親と二人で家を守って暮らしていく。

 主人公はこの周秉昆(1952年生まれ)だが、実は兄と姉の生涯のほうがドラマチックかもしれない。兄の周秉義は、入隊先で知り合った郝冬梅と結婚する。郝冬梅は事故で子供を産めない体になってしまうが、周秉義は彼女を生涯愛し続ける。党の高級幹部である義理の父母との関係に悩み、職務精励のあまり健康を害しながら、最後は吉春市の市長となり、光字片の再開発を成功させる。姉の周蓉は馮化成と結婚して娘を設け、貴州の農村で小学校教師として青春時代を過ごす。文革終結後、兄とともに北京大学に入学し、夫婦で北京に出てきたものの、夫の馮化成は満足のいく仕事を得ることができず、夫との不和、娘・玥玥との関係に悩む。やがて馮化成が若い恋人と去った後、古い友人の蔡暁光と再婚する。

 周秉昆は、輝かしい学歴も社会的地位もなく、ただ地道に働き続けていくのだが、思わぬ運命に押し流される。製材工場の同僚・涂志强が殺人犯として処刑されたあと、謎の二人組から、涂志强の恋人の鄭娟へ生活費を渡すことを依頼される。周秉昆は鄭娟に一目惚れし、貧しい境遇の彼女を何とか助けようとする。やがて鄭娟は男子・楠楠を出産するが、その父親は涂志强ではなく、謎の二人組のひとり、駱士賓に強姦された結果だった。鄭娟の告白を聴いても、周秉昆の気持ちは揺るがない。二人は正式に夫婦となり、楠楠を実子として育てることにする。やがて二人の間にも男子・聡聡が生まれる。

 駱士賓は深圳で起業して成功した後、実子の楠楠を取り戻そうと画策する。真実を知った楠楠は駱士賓の接近を拒まないが、留学援助の申し出は断り、清華大学に合格して、自力で米国留学の資格を勝ち取る。しかし米国で拳銃強盗に遭い、命を落とす。周秉昆は、彼を責める駱士賓と掴み合いになり、押し倒された駱士賓は頭を打って死亡する。周秉昆は過失致死の罪で入獄。8年間の刑期を終えて出獄したのは2001年の春節の直前だった。周秉昆は、中国の変化に目を見張りながら、妻の鄭娟に助けられて、新しい生活を軌道に乗せる。

 日本のドラマとの違いを感じたのは、経済問題の赤裸々な描写である。工賃、医療費、住宅費、大学の入学金など、つねに具体的な金額をめぐって登場人物たちは悩んでいる。また住宅問題や仕事探しの切実さも身に沁みた。それでも貧しい人々がなんとか生きていけるのは、助け合う仲間がいるからだ。光字片の人々は、男も女も、すぐに大声で罵り合い、掴み合いの喧嘩も辞さない。この野蛮さは、ちょっと日本の視聴者には受入れ難いかもしれない。けれども誰かが困っていれば「助け合うのが当たり前」の社会でもある。そして、そういう人情に厚い社会だからこそ、周秉義のように行政の長に昇った人間が、弟の窮地や、弟の友人の陳情に臨んで、公平・公正の原則を曲げないことが、どんなに大変かも分かる。

 周秉昆には、醤油工場時代から「六君子」を名乗る五人の仲間がいる。二人は大学に進学して北京に行ってしまうが、残りの三人と妻たちとは、中年過ぎまでずっと付き合いが続く。社会が改革開放に向かい、貧富の差が大きくなると、自分(の家族)だけ豊かになりたいという率直な欲望や嫉妬が、数々の苦くて塩辛い悲劇を生むのも、このドラマの見どころである。また、言い古されたことだが、中国人にとっての「家族」の大切さ、特に周秉昆の父親世代にとっては、血のつながる子孫を残すことが何よりも大事だったこともよく分かった。

 周秉昆役は雷佳音。優秀な兄と姉にコンプレックスを抱えた気弱な末っ子を繊細に演じていた。アクションドラマ『長安十二時辰』のヒーロー張小敬と同一人とは信じられない! 鄭娟役の殷桃は初めて覚えた女優さん。引っ込み思案の鄭娟が、苦難を経験して、徐々に自分の意見を言えるようになっていくのがとてもよかった。馮化成役は成泰燊。このひとは何を演じても巧いなあ。馮化成が最後は貴州で僧籍に入るという結末も好き。そのほか、欠点も含めて魅力的な登場人物には事欠かない。衣服、住宅、食べもの、街並みなど、中国50年間の変貌をリアルに視覚化した映像にも驚かされた。

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門前仲町グルメ散歩:お店の入れ替わり

2022-03-23 20:23:37 | 食べたもの(銘菓・名産)

門前仲町に住んで丸5年になるが、2年に及ぶコロナ禍もあって、お店の入れ替わりが目立つ。

ひいきにしていた餃子レストランの「安々」がお店を閉めたのはもう2年前。跡地には新しいビルが建って、洋風のお店が入った模様。

もう1軒、テイクアウトで時々利用していた「餃子酒場チャオチャオ」もなくなってしまった。そこにできたのが「雲林坊(ユンリンボウ)」という担々麺のお店。麻(痺れ)と辣(辛さ)を自分で選べる。

こんな本格的な担々麺を近所で食べられるのはありがたいが、少し本格的すぎるかな…美味しいんだけど。ふだんのランチに食べるには、もうちょっと日本化した担々麺のほうが好き。

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戦闘集団から領主へ/中世武士団(国立歴史民俗博物館)

2022-03-22 21:04:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

国立歴史民俗博物館 企画展示『中世武士団-地域に生きた武家の領主-』(2022年3月15日~5月8日)

 本展は、中世武士団を戦闘集団ではなく「領主組織」という観点から捉え、13世紀~15世紀を中心に、地域支配の実態と展開を明らかにする、とウェブサイトの企画趣旨にちゃんと書かれていたのに、私はこれを読まずに、武士団=戦闘集団という先入観で見に行ったので、会場でけっこう戸惑ってしまった。

 冒頭には、当然、戦う武士団の姿が提示される。荒涼とした合戦風景を描く歴博本『前九年合戦絵詞』を久しぶりに見た。東博でも時々見るが、東博本と歴博本はともに祖本からの派生本(模写本)なのだな。本品は13世紀後半の成立だが、源平合戦(12世紀末)の戦闘の資料と考えられており、描かれた武士は、静止した馬上から前方の敵を射ている。「合わせ弓」の登場により矢の飛距離が伸びたので、離れた位置から敵を射ること(馬静止射)が可能になったとのこと。あれ?流鏑馬みたいに走りながら射た(馳射)のではないのか?と思ったが、調べてみると、現在の流鏑馬は中世から連続しているものではないことなどが分かり、興味深かった。

 『蒙古襲来絵詞』(複製展示)には、疾走する騎馬武者の軍団が、馬上で弓を構えている図が描かれる。鎌倉時代の騎射戦は一騎打ちではなく集団戦として行われたとのこと。先頭武者は弓も構えず刀も抜かず、旗を持って駆けている。命知らずか。『後三年合戦絵詞』は江戸時代の模本で、千切れた死体が転がる凄惨な光景が鮮やかな絵具で描かれている。なお、図録を見ると、会場展示には、比較的マシな場面が選ばれている気がする。『男衾三郎絵詞』(東博所蔵)には、通行人を鏑矢で脅す、迷惑な武士の姿が描かれる。しかし武力(暴力)に関する展示はここまで。

 続いて、武士団の生活、所領の経営や本拠の形成について見ていく。彼らは列島各地に複数の所領を持つのが一般的だった。たとえば、下総国千葉氏の所領は伊賀や大隅、肥前にもあった。これは中山法華経寺が所蔵する聖教の紙背文書の研究から、近年、明らかになったことだという。

 鎌倉幕府の御家人になった武士は鎌倉に常駐を求められたが、都市生活を嫌い、実際に常駐した武士は少ないというのも面白かった。武士の屋敷について、高い土塁と深い堀に囲まれたイメージは15~16世紀の所産で、12~13世紀にはまだ開放的なつくりだったことが発掘調査等から分かってきている。あとで常設展(総合展示)を見に行ったら、深い堀に囲まれた武士の館の模型があったので、ははあ、これは中世後期か、と思って眺めた。

 さて、かつて中世武士団による支配の拠点として重視されたのは武士の屋敷(居館)だったが、近年は、このほか河川や道路、物資の集散地、田畑の水利灌漑施設、寺社などの施設によって、所領支配の「本拠」が構成されたと考えるそうだ。おお、歴史の見方がずいぶん変わっているのだな。

 地域領主である武士団は積極的に交通・流通(陸上および水上)の掌握・保護を図った。本展では特に石見国益田のミナトに着目し、日本海航路と和船の造船・航法、外洋航路と唐船の往来などを紹介する。ひとくちに日本海の船と言っても、出雲地方のものはボウチョウ型、若狭湾以東はドブネ型と言い、異なるらしい。まさか「武士団」の展示を見に来て、和船の類型を学ぶとは思わなかったが、面白かった。和船は帆も積んでいたが、基本的には漕走で、沿岸をゆっくり移動する方式だったので、列島各地に無数のミナトが誕生したというのも、言われてみれば納得した。

 第2展示室は、いきなり立派な2躯の天王像が立っている。佐賀県小城市の円通寺(開基:千葉宗胤)に伝わる木造多聞天立像と木造持国天立像である。どちらもかなり洗練された慶派の作風。多聞天は、右手に三叉の戟を握り、左手に宝塔を掲げる。丸い兜を被り、眉根を寄せて口を結ぶ。持国天は、右手の剣を振り上げ、左手は腰に置き、口を開け、大きな目で前方を睨む。ちなみに2009年の佐賀県立美術館の『運慶流』にも出陳されていたものだ。四天王でなく、多聞天と持国天の二天だけがセットにされたのは、法華経・陀羅尼品と関係があり、日蓮の法華経信仰が千葉氏を通じて持ち込まれたのではないかという。

 このほかにも、小城市の三岳寺や円明寺、益田市の医光寺から、13~14世紀の仏像が出ていた。そもそも、なぜ武士団が仏神像の造立や寺社の創建・保護をおこなったのか。武士団は、宗教者集団による地域社会の救済活動を支援することで「撫民」の姿勢を示し、支配の正当性の確保に努めたのである。その後、南北朝内乱を契機に戦乱が増加すると、地域社会の人々は武士団に安全保障を求め、武士団を中心にまとまるようになった。さらに室町時代になると、室町将軍の支援を得て所領保全を図ろうとする武士団が多く現れ、京都から最先端の文化を導入することで、地域社会に対して自らの権威を演出するようになった。本展は、その一例として石見国の益田氏を取り上げている。

 私は元来、日本の武将とか合戦に全く興味がなかったのだが、2010年の同館の企画展『武士とは何か』は面白くて、ちょっと意識が変わったことを覚えている。本展では、その後の研究の進展や広がりを知ることができた。また10年くらい先に、次の発信を楽しみにしている。

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2022桜咲く

2022-03-21 18:29:28 | なごみ写真帖

昨日から、窓の外の桜がちらほら咲き始めた。これは今朝のベランダからの眺め。

今日は三連休の最終日で、天気予報で雪になるかもと言われていたが、それほど寒くはならず、日中はまずまずの陽気だった。外に出てみると、枝によっては、かなり花が開いている。

昨年、少し剪定をしたようで、そのせいか、今年は枝が密で蕾も多い気がする。花盛りが楽しみ。

昨年もやはり春分の日前後の開花だった。昨年は、長く縁のあった職場を卒業することが決まっていて、感慨深い春だったが、1年経って、また4月から職場を変わることになった。いまの住まいに近い職場なので、たぶん来年も同じ桜を見ているだろうと思う。

※3/22補記:今日は(勤務地の東京西部は)春の雪だった。

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秩序原理の模索/国際秩序(細谷雄一)

2022-03-18 18:43:46 | 読んだもの(書籍)

〇細谷雄一『国際秩序:18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』(中公新書) 中央公論新社 2012.11

 2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が始まって3週間になるが、事態は膠着の様相を見せている。ネットには、さまざまな情報、意見、憶測などが洪水のように流れており、国際政治に疎い私は、ただ茫然としていた。何か手がかりになる本を探しに行って本書を見つけた。2012年刊行の本書が、2022年の国際政治を考える上でどれだけ役に立つか、正直不安もあったが、だいぶ頭がクリアになった。

 本書は、18世紀のヨーロッパを起点として、今日(オバマ大統領の登場と太平洋の世紀の始まり)までの国際秩序の歴史を展望したものである。はじめに3つの秩序原理が示される。思想的な誕生順に「均衡(バランス)」「協調(コンサート)」「共同体(コミュニティ)」である。

 17世紀のヨーロッパは宗教対立に端を発する戦争や内乱が頻発し、恐怖と混乱の中で、力こそ重要とするホッブスの『リヴァイアサン』が生まれた。18世紀に入ると徐々に大国は全面戦争を回避するようになり、仏、英、墺、ロシア、プロイセンの五大国を中心とする勢力均衡の体系がつくられた。初めて「勢力均衡」という概念を明瞭に説明したのはヒュームである。

 18世紀末から19世紀初頭、フランス革命戦争とナポレオン戦争によって旧い勢力均衡が破壊される。戦後秩序の構築を主導したのはイギリスのピット首相とカースルレイ卿で、単なる均衡の回復でなく、五大国の協力を組織化した「ヨーロッパ協調」を目指した(ウィーン体制)。

 しかしリベラリズムの浸透したイギリス国内では、カースルレイ外相がヨーロッパ大陸の国際政治に深く関与していることが批判の対象となる。ロシアの地中海進出(クリミア戦争)、ドイツの軍事強国化を推進するビスマルクの登場、ナショナリズムの勃興などにより、ヨーロッパの一体性が失われていく。また19世紀後半から20世紀にかけては、ドイツ、アメリカ、日本という「新興国」が台頭し、国際秩序がグローバルに拡大した。

 第一次世界大戦(1914-1919)は、戦勝国となったアメリカと日本、新たに誕生したソ連という、ヨーロッパ諸国とは異質な価値観を有する3つの大国を生み、ヨーロッパの五大国のみでは世界規模の勢力均衡を維持できないことが明白となった。また、そもそも勢力均衡という考え方に基づかない新しい国際秩序の構築が期待された。その中心となったのがアメリカのウィルソン大統領で、世界中に民主主義を普及させ、道徳的な政治体制を結集させて「国際共同体(コミュニティ・オブ・パワー)」を構築することがアメリカの使命であると説いた。これは哲学者カントの考えた永遠平和主義に近い。

 しかしウィルソンの構想は、連合国間で十分に調整されたものではなく、アメリカ国民は旧大陸の国際政治への関与を望んでいなかった。不安を抱えた戦後体制(ヴェルサイユ体制)が始まったが、1930年代、満州事変とヒトラー政権の成立という2つの事件によって、「均衡なき共同体」「価値の共有なき共同体」だった国際連盟による国際秩序は崩れ去る。

 第二次世界大戦(1939-1945)の戦後秩序を設計したチャーチルとローズヴェルトは、勢力均衡の必要性を理解しており、ウィーン体制を模範とした。国際連合の憲章には各国が共有すべき価値を明記し、大国間協調を維持するため、英米ソの三大国にフランスと中国を加えた五大国を安全保障理事会の常任理事国とした。同時に小国もそれぞれの立場を表明できる総会が設けられた。国連は安保理に象徴される「協調の体系」と総会に象徴される「共同体の体系」が結びついたものになったのである。

 その後の冷戦時代、人々は核戦争の恐怖に怯え、小国間の軍事衝突が繰り返されたが、主要な大国間では「長い平和」が実現した。そこでは依然として軍事的な勢力均衡が意味を持つと同時に、大国間の協調枠組み(安保理など)が機能したと考えられる。そしてヨーロッパは「共同体の体系」として歩み始めた。アメリカは、ソ連の崩壊後、民主主義と市場経済を地球全体に広げていく「関与と拡大」戦略を掲げたが、2000年代に入ると、対テロ戦争、中国の急激な成長によって再び勢力均衡の論理へ回帰していく。

 以上が概略である。初心者の感想すぎて気恥ずかしいが、国際秩序において「勢力均衡」が必須であること、しかし、より確かな平和の基礎としては、価値の共有を前提にした「協調」や「共同体」の構築が必要なことがよく腑に落ちた。

 勢力均衡は多様性の擁護に結びつく、という視点も初めて得た。世界がやがて平和な単一の共同体に収束するという夢想は美しいが、強引に価値の一元化を進めることは無益だろう。それはそれとして、過激で情緒的なナショナリズムが国際協調の阻害要因となっていることも強く感じた。

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板橋区立美術館の側でランチ

2022-03-17 20:33:37 | 食べたもの(銘菓・名産)

板橋区立美術館の『建部凌岱展』に行こうと決めて、ハタと思い出したことがある。昨年、館蔵品展『はじめまして、かけじくです』に行ったとき、赤塚溜池公園の前に「いちカフェ」というお店を見つけたのである(2020年10月オープン)。次に板美に行くときは、ここでランチを食べようと決めて、1年経ってしまった。

調べたら、幸い、まだ営業している様子だったので、行ってみた。

注文の品が出てくるまで少し時間がかかったが、メニューは豊富、味よしコスパよしで満足。

周辺に食事のできるところが何もなかったので、ほんとにありがたい。末永く営業を続けてほしい。

赤塚溜池公園の梅林も見ごろだった。

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