見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

王朝武者、奮戦す/刀伊の入寇(関幸彦)

2021-09-29 20:38:55 | 読んだもの(書籍)

〇関幸彦『刀伊の入寇:平安時代、最大の対外危機』(中公新書) 中央公論新社 2021.8

 刀伊(とい)の入寇とは、摂関時代の寛仁3年(1019)、中国東北部の女真族が、壱岐・対馬そして北九州に来襲した事件である。「教科書にも簡略ながら記載がある」というけれど、私は高校で日本史を選択しなかったので記憶にない。私がこの用語を知ったのは、文学史の方面からである。刀伊の撃退に活躍した太宰権帥・藤原隆家は、中宮定子を姉に持ち『枕草子』や『大鏡』に登場する重要人物なのだ。

 はじめに、当時の東アジア情勢が簡単にまとめられている。10世紀には、大唐帝国の滅亡(907年)により、中華的文明主義で普遍化された世界からの解放が進み、唐→宋、新羅→高麗、渤海→契丹、南詔→大理など、地域的個性に対応した国家が誕生した。我が国の律令体制の動揺、平将門の乱も無関係ではない。余談だが、ちょうど中国ドラマ『天龍八部』を見ていたので、契丹(遼)、女真(金、建国は1115年)、大理、西夏などの文字を見てにやにやしてしまった(※ちなみに天龍八部の物語は1092-95年の出来事)。

 契丹は宋への侵攻に先立ち、鴨緑江流域の女真を討伐。このため、女真は活路を求めて陸路で半島を南下したり、高麗東岸の海路で海賊行為を働いたりするようになった。刀伊は朝鮮語の「東夷」に由来するという。

 一方、日本は9世紀後半から10世紀にかけて、東北の蝦夷と西海の新羅という二つの国土防衛問題に悩まされた。9世紀末の寛平期には、北九州で新羅の来寇が多発し、俘囚勢力(中央政府に帰順した蝦夷)を西海方面に配備する措置がとられている。9世紀前半には高性能の「新弩」が開発されており、肥前国郡司による新羅への情報漏洩事件が発覚している(三代実録)というのも興味深い。

 「刀伊の入寇」の経過を簡単に記すと、寛仁3年3月28日、刀伊の兵船50余船が、突如、対馬・壱岐に現れ、殺人・放火をほしいままにした。次いで4月7日には博多湾に来襲し、4月13日まで相次ぐ激戦の末、撃退された。日本を退去した刀伊は朝鮮半島の元山沖で高麗水軍に撃破され、のちに高麗から虜民が送還されている。

 先頭に立って積極的な応戦につとめたのは太宰権帥・藤原隆家だが、著者は隆家指揮下の武者たちの来歴を分析し、隆家の随兵として九州に下向した「都ノ武者」、都で権門に武力奉仕をしながら地方にも基盤を持つ「二本足」の武者、地域領主的な「住人」系の武者などの混成部隊であることを明らかにしている。

 都の貴族たちは神頼み以外になすすべもなく、刀伊軍が退去したと聞くと、勅符の到着以前に戦闘が終了したのだから恩賞は不要ではないか、などと呆れた議論をしている。結局、小野宮実資が寛平新羅戦の前例を引いて議論を収めた。さすが故実家にして良識人の実資。なお、刀伊戦は騎射戦であり、矢柄に記した姓名が恩賞の証明になった。この点を本書が、律令制的集団戦から個人的騎射戦への転換と捉えているのは興味深い。

 本書には「刀伊の入寇」の後日談も紹介されている。対馬の在庁官人・長峯諸近は、家族ともども捕えられて刀伊の軍船に乗せられたが、単身脱出。その後、拉致された家族を求め、禁制を侵して高麗へ渡海する。高麗の通詞から刀伊船の日本人捕虜についての情報を得、妻子には会えなかったが、伯母を連れて帰国する。また、高麗軍に救助されて帰国した二人の女性、内藏石女と多治比阿古見の証言も伝わっており、いずれも『小右記』(小野宮実資の日記)に載る。もしかしたら、生きて鴨緑江まで行った日本人もいるのだろうか…と想像が広がる。

 なお、都の貴族も大宰府官人も、はじめ、刀伊とは高麗ではないかと疑っており、高麗から捕虜送還の申し出があったときも謀略を疑っている。日本の消極外交の根底には、海防力の貧弱さを外国に知られることへの強い危惧があったと著者は分析する。そして、この内向きな異国観が生み出したものが「自己優位の外交の幻想」で、13世紀の『愚管抄』では隆家の武人的英雄像が拡大し、「刀伊国、ウチシタガフル」と記述されるに至る。ちょっと皮肉で怖い結末だった。

 この他にも本書は、刀伊(女真)をめぐる、さまざまな興味深いエピソードを拾っている。「鳴鏑」の音が刀伊の撃退に効果があったとか、貞応2年(1223)越後に漂着した異国船から献上された銀札の銘が『東鑑』に記載されており、明治になって女真文字と判明したとか、忘れがたいので、ここにメモしておく。

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二人の偉人の再評価/孫文と陳独秀(横山宏章)

2021-09-28 22:15:49 | 読んだもの(書籍)

〇横山宏章『孫文と陳独秀:現代中国への二つの道』(平凡社新書) 平凡社 2017.2

 中国ドラマ『覚醒年代』に触発されて、まだ関連書を漁っている。本書は、中国近代史に大きな足跡を残した、思想家にして革命家、孫文(1866-1925)と陳独秀(1879-1942)の二人について、その対照的な歩みを紹介したものである。初代中華民国臨時大総統にして共産党からも「国父」と称えられる孫文に対して、中国共産党創設者のひとりでありながら「裏切者」の汚名を着せられた陳独秀。しかし、ネタバレ的に言ってしまうと、著者は「陳独秀側に思いを寄せ、孫文側には厳しい眼差しを注いでいる」ことを冒頭で告白している。

 陳独秀については、いま興味を持って調べていることもあって、あまり新しい情報はなかった。むしろ孫文について、従来のイメージを覆す事実をいろいろ知ることができて、大変興味深かった。

 孫文は、日清戦争を好機と捉えて革命運動を始動した。清朝打倒と漢民族の復興こそが孫文の最優先課題で(この点、列強の中国侵略への抵抗を重視した陳独秀とは異なる)、反清秘密結社である興中会を組織し、何度か軍事蜂起を企てるが失敗。革命派の大同団結の必要性を感じ、中国同盟会を結成するが、内輪もめが続く。幸運にも、孫文のアメリカ滞在中に武昌起義が成功し、辛亥革命が成立する。帰国した孫文は、中華民国の初代臨時大総統に就任した。

 もともと孫文は、革命軍独裁→革命党独裁(または地方自治の容認)→立憲民主制という「三序」構想を持っていた。ところが、中華民国では、孫文がいない間に立憲議会制度の導入が決定していた。議会によって大総統や総理の権限が制限されることを、孫文は「議院専制」と呼んで嫌ったという。驚き!  本書を読むと、孫文はかなり「軍政」「独裁」志向なのだ。著者は、孫文思想の根底には愚民思想があると説明する。民衆は愚かな存在であり、有能なエリート集団である革命党が独裁権力を確立し、民衆を救済することが正義なのだ。これは、現在の中国共産党の論理そのものではないか。

 やがて宋教仁暗殺事件によって、孫文が率いる国民党と袁世凱の対立が深まる。孫文は議会政治を放棄し(ううむ…)軍事蜂起「第二革命」を選ぶが、袁世凱によって鎮圧されてしまう。第二革命に失敗した孫文は日本へ亡命し、新しい革命主体である中華革命党を創設。あからさまな「孫文独裁体制」のため、黄興、李烈鈞ら同志は参加を拒否する。ええ、なんなの、このひと…。

 袁世凱の死去により軍閥混線の時代が始まると、孫文は広州を拠点に北伐の機会を窺いつつ、中華革命党を改組した中国国民党(辛亥革命時代の議会政党・国民党とは別物)の資金不足・兵力不足を解決する起死回生策として、ロシアのコミンテルンとの提携を模索する。同じ頃、コミンテルンの支援の下、陳独秀らは中国共産党を設立していた。コミンテルンから派遣されたマーリンは、国民党が関与した香港の海員ストライキに感銘を受ける。その報告に基づき、コミンテルンは国民党との提携を決め、中国共産党には「国共合作」を命じた。

 孫文と陳独秀の初会合が確認されるのは1920年3月で、陳独秀は長期にわたって、孫文と距離をとってきた。にもかかわらず、コミンテルンの圧力で「孫文の軍門に降った」ことになる。まあ両雄並び立たないこともあるだろうが、陳独秀ら共産党員の目に、孫文の軍事優先・軍閥依存の革命路線が「旧い」と映ったことも理解できる。しかし孫文の、手段を選ばない行動力がなければ、中国の変革は成立しなかったかもしれない。

 一方、思想家としては、陳独秀のほうがはるかに魅力的だと思う。何しろマルクス主義者なのに「個の自立」「個人の自由」を目指したのだから。ただし、国共合作は共産党の発展の機会を奪うという彼の予測は当たらなかった。結果的にはコミンテルンの期待どおり、国民党の庇護の下で共産党は急速に勢力を伸ばした。本書の著者が、同じ時期に誕生した日本共産党が、官憲から致命的な弾圧を受けて力を失ったことと比較しているのが興味深い。

 巻末の後記には「中国でも、歪められた陳独秀評価を正そうと、再評価の兆しが見えてきている」とある。今年のドラマ、著者は見ていらっしゃるかなあ。感想がお聞きしたいものだ。あと、従来の「国父」イメージがガタガタに崩れた孫文については、もう少し勉強したい。

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思い出の2003年版と比較/中華ドラマ『天龍八部』(2021年版)

2021-09-27 19:17:44 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『天龍八部』全50集(企鵝影視、新麗伝媒等、2021)

 原作は、何度も映像化されている金庸の武侠小説。時代は北宋。宋の周辺には、女真(のちの金)、契丹(遼)、西夏、大理などの諸民族・諸王朝が勃興していた。大理国の皇帝の甥・段誉、契丹人でありながら漢人として育てられ、丐幇の幇主となる蕭峰(喬峰)、父母を知らず少林寺で僧侶として育てられた虚竹の三人は、義兄弟の契りを結び、それぞれ武功の奥義を窮め、愛する女性に出会い、自身の出生の秘密を知って、運命に翻弄されていく。

 古い話から始めるが、私が初めて出会った『天龍八部』は、ドラマの2003年版である。当時、スカパーで『射鵰英雄伝』を見て、世の中に「武侠」というジャンルがあることを知り、続けて『天龍八部』を見た。こちらは『射鵰』に比べると物語が複雑で、私の中国語力では十分理解できた自信がなく、あとで小説の日本語訳を読んで理解を補ったが、名作ドラマに出会ったという記憶は長く残っていた。

 2013年に久しぶりにドラマ化されたことは知っていたが、評判がよくないので見なかった。この最新版も、当初、中国視聴者の評価はかなり低かったが、期待せずに見てみた。結果は、それなりに楽しめたと思う。

 男性主人公のうち、蕭峰は圧倒的に2003年版の胡軍がいい。段誉もやっぱり2003年版の林志穎だろう。虚竹は、2003年版の高虎の印象があまり残っていないので、最新版の張天陽を推す。特に武芸を身に着ける前の、純朴で愚鈍な虚竹がチャーミングだった。第四の主人公である慕容復は、従妹の王姑娘をめぐって、段誉の恋のライバルとなる。2003年版では修慶が嫌味たっぷりに演じていたが、最新版ではあまり重きを置かれていない様子だった。

 女性陣では、阿朱の劉涛、王姑娘の劉亦菲は、やはり圧倒的に2003年版がよい。最新版は、このヒロインポジションに魅力ある女優さんを配役できなかったのが痛いと思う。悪女陣は、けっこうハマっていた。阿紫の何泓姗、天山童姥の曾一萱は、宮廷ドラマの悪女役よりも生き生きして、楽しそうに見えた。木姑娘を演じた劉美彤(『慶余年』の北斉皇帝!?)は、本作随一の正統派の美人さん。このひとを阿朱か王姑娘というのはなかったのかなあ。

 その他、最新版でわりと好きだったのは、チベット僧・鳩摩智の朱暁漁。過去作品では、いかにも強敵らしい醜怪な造形だったので、本作はイケメン過ぎるという意見も見たが、これはこれでよいのではないか。全体に悪役の造形、残酷なエピソードが薄味だったのは、時代の要請だろうか。

 近年、中国古装劇のアクション撮影テクニックはずいぶん進化したと思う。本作の見せ場、たとえば、段誉と西夏武士の李延宗(正体は慕容復)の対決とか、少室山(嵩山)での丁春秋と虚竹、段誉と慕容復の対決は、スピーディでけれん味たっぷりでわくわくした。また、江南の水辺から西北の荒れ地まで、変化の多い自然風景を楽しめるのも金庸ドラマの醍醐味である。

 だが、私が物足りなく思うのは、主人公・蕭峰の民族アイデンティティへの拘りが薄いこと。2003年版の蕭峰は、漢人として契丹を敵視していたにもかかわらず、実は自分の両親が契丹人で、漢人に殺害されたと知って苦悩する。その苦悩の深さが、彼に寄り添おうとした阿朱に死を選ばせたと私は思うのだが、最新版は、この蕭峰の悲劇性が弱い。

 その後、蕭峰は遼(契丹)に身を投じ、遼皇帝の耶律洪基に重用されるが、耶律洪基が宋に攻め入ろうとするのを止め、「二度と国境を侵さない」ことを約束させる。このとき、最新版の蕭峰は「遼人にも宋人にも、民の安寧こそが大事」という平和主義者的な理屈で、義兄弟である遼皇帝を切々と口説く。そして不戦の約束を得ると、遼の重臣としての不忠、宋で養育されながら遼に仕えた不孝、さらに武林で様々な騒ぎを起こした不仁と、自分の罪を数え上げて自決する。う~ん、分かりにくくないかな。

 気になって、youtubeで2003年版の最終回を見直してみたら、こっちの蕭峰は、理屈は同じでもかなり強圧的に遼皇帝に迫り、遼皇帝は怒りをこらえて「契丹人一諾千金」と明言し、剣を折る。そして蕭峰は、契丹人としての不忠を償って自決するのだ。遼軍の撤兵を確認した蕭峰が、満足気な笑みを浮かべて最期につぶやく「我們契丹人一諾千金」に泣いた記憶がよみがえる。このへんが最新版は、どうもふわふわしている。最後を仏教の無常思想につなげるのも、あまり説得力が感じられない。

 なんだか2003年版を全編あらためて見直したくなってしまった。しかし2021年版で初めて『天龍八部』に出会う日本の中国ドラマファンも多いことだろう。どんな反応が起きるか、注目したい。

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2021年9月@関西:きのくにの宗教美術(和歌山県立博物館)

2021-09-26 18:54:27 | 行ったもの(美術館・見仏)

和歌山県立博物館 企画展『きのくにの宗教美術-神仏のさまざまな姿-』(2021年8月28日~10月3日)

 奈良を大和文華館だけで切り上げて、近鉄→南海で和歌山へ移動。もうひとつ見たかった展覧会に寄っていく。本展は、これまで県内各地で国宝・重寺社・堂祠の文化財調査を積極的に行ってきた同館が、近年の調査活動のなかで新たに確認された優れた宗教美術の数々を紹介するもの。仏像・仏画など38件のうち、24件が初公開となる。

 県外の人間には、全く知らない寺社が多く、展示品も、ふつうの展覧会では見ないような、皺や虫食いでぼろぼろの品が目立った。しかし、だからこそ、展示の機会をつくってくれたことに感謝したい。興味を持った作品を挙げていくと、まず個人蔵の『高野山参詣曼荼羅』(江戸時代)。色彩がふんわりしたパステル調なのが珍しい。画面の奥、高野三山(摩尼山、転軸山、楊柳山)に抱かれるように建つのが奥之院で、その前方に三つの橋が掛かる。御廟橋、中の橋、一の橋だな、と理解する。つまりその先の壇上伽藍は画面の外になって描かれていない。高野山参詣曼荼羅は類例が少ない(藝大美術館に1件あり)そうで、珍しいものを見せてもらった。

 ポスター等のビジュアルに使われている赤身・三目・六臂の異形の尊像は、霊現寺(和歌山市)の『一字金輪曼荼羅』(鎌倉~南北朝時代)。西方寺(岩出市)伝来資料とのこと。劣化が激しいが、幸い、切れ長の両目と額の第三の目ははっきり残っている。赤と白を用いた蓮華座の繧繝彩色(グラデーション)も美しい。目を凝らすと、赤い日輪の下に7頭の獅子が顔を覗かせていたり(揃って舌を出している?)、上方に馬と象と菩薩のような姿が浮かんでいたり(下方の図像と併せて「転輪聖王の七宝」を表す:奈良博)いろいろ興味深い。

 安養寺(みなべ町)の『童子経曼荼羅』(江戸時代)は、十五人の童子と、童子に危害を加える十五鬼神に囲まれた栴檀乾闥婆を描く。直前に奈良の大和文華館でも関係する資料を見てきたので、不思議な偶然に驚いた。幼児の保命と息災は、いつどこでも人々の願いだったということかな。

 如意輪寺(有田町)の『釈迦三尊及び十羅刹女・十大弟子像』3幅対(室町時代)は、他に類例を知られていない組合せとのこと。現物は劣化が進んで分かりにくかったが、図録で確認すると、十羅刹女・十大弟子ともに個性と表情が丁寧に描き分けられていて楽しい。十羅刹女幅は、よく見ると11人いて、裸の赤子を抱いて、やや大きく描かれた女神は訶梨帝母であるとのこと。

 和歌山県博所蔵『千手観音及び童男行者・大伴孔子古像』は、粉河寺子院浄土院伝来。描かれた千手観音は左肩に赤い袴を掛けており、確かに粉河寺の観音さまだ。前坊観音堂(紀の川市)の『千手観音及び地蔵菩薩・毘沙門天像』の本尊は、脇手2本を頭上に掲げて化仏を戴く、いわゆる清水寺式千手観音。脇侍も京都の清水寺のとおりである。深専寺(湯浅町)の『東大寺大仏殿曼荼羅』は、大仏殿の毘盧遮那仏と脇侍・四天王を描いたもの。このように、観念的な尊格ではなく、具体的にどこかの寺院にある諸像をそれと分かるように描いたものが目立ち、面白かった。

 和歌山県博所蔵『弁才天十五童子像』は、波間に浮かぶ巨大な亀の背中に八臂の弁才天が立ち、十五童子と唐装の男女3人も書き添えられている。弁才天は童子のように柔和な顔立ちだが、よく見ると頭上に蛇体の宇賀神を載せている。暗い地色に金泥(?)で描かれた亀の顔が禍々しくて怖い。解説には、類例のない珍しい図像とあった。亀と弁才天、結びつきに無理はないのだが、図像としてはないのかなあ。気になる。

 彫刻では、丹生川丹生神社(九度山町)の丹生明神坐像(江戸時代)が整った愛らしさで印象に残った。唐装の女神像である。近年発見されたもので、今年、 九度山町指定文化財になった。同神社の獅子・狛犬(室町時代)はゆるくて可愛い。特に吽形の狛犬の、鼻の下の長さと顎のしゃくれ具合。あと、道成寺に伝わる鉄瓦が、中国・北京郊外の鉄瓦寺(明代創建)のものだというのも興味深かった。

 今回は小規模な企画展のため、企画展示室1室しか使っておらず、常設展示が継続中だった。私は何度か同館に行っているが、初めて常設展示を参観した。先史時代から近現代までをコンパクトにまとめており、参詣曼荼羅などの複製資料とデジタル資料が効果的に使われていた。展示室の一番奥で、那智の滝など、県内の自然の映像が流れているのもよいと思う。

 また今回は、南海本線の和歌山市駅を利用したので、2020年6月にオープンした「キーノ和歌山」併設の和歌山市民図書館を軽く覗いてみた。いわゆるツタヤ図書館である。まあ街に書店がないよりはあったほうがいいよな、という感想。それから、博物館へ近道をしようと思って、和歌山城内を通り抜けてみた。いずれも行きがけの寄り道程度だったので、機会があれば、またゆっくり探訪してみたい。とりあえず今回は、見たかったものを見尽くして東京へ戻った。

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2021年9月@関西:祈りと救いの仏教美術(大和文華館)

2021-09-25 16:06:16 | 行ったもの(美術館・見仏)

大和文華館 『祈りと救いの仏教美術』(2021年8月27日~10月3日)

 連休3日目(旅行2日目)は、京都を離れ、奈良の大和文華館へ。今回は、とにかく見たい展覧会だけをピックアップする旅行なのである。本展は、この国の風土に根付き、長い間、人々の祈りを受け止めてきた仏教絵画を中心に展示するもの。

 冒頭に中国・北魏の『石造釈迦如来坐像』(延興2年銘)があって、今回の展示では、これだけが大陸伝来の品だった。光背の裏面には釈迦の誕生場面などを表す細かい浮彫。本尊は、逆三角形の体形がはっきり分かる薄い衣が西域風。しかしおだやかな微笑みを浮かべた丸顔は、大和路の石仏みたいでもある。解説によると、北魏が西方を平定し、涼州の人々を首都(大同?)に移住させたことが仏教東漸につながった。右肩に衣をわずかに掛けるところ(偏袒右肩)や螺髪は、涼州系造像の特色であるとのこと。

 また『銅板地螺鈿花鳥文説相箱』(平安時代)は、法要のとき導師机の上に置き、次第書や説教の台本を入れる平たい箱で、外枠に螺鈿で花鳥文が施されている。正倉院御物の花鳥文に比べると、鳥がやや太めなのが可愛い。螺鈿は見る角度によって、青やピンクに輝く。

 展示はおおむね時代順で、はじめは平安時代の文書と仏画から。「留学僧空海」の度縁(度牒)の発給を求める『太政官符案』は、延暦24年(805)9月1日付けの草案を平安後期に写したもの。このとき空海はすでに唐にあり、度縁を持たずに留学したため、友人か支援者が、代わって発給を申請したと考えられているらしい。

 『金胎仏画帖』は、12面全て開いていて嬉しかった。丁寧な彩色が愛らしい作品で、あらためて由来を読んだら、室町時代には高野山の光台院にあったと分かっているが、昭和2年(1947)熊本で発見されたそうだ。『一字蓮台法華経』は、王朝の美意識に裏打ちされた信仰を感じさせるもので、見返しには、吹抜屋台に複数の僧侶と烏帽子姿の貴人が描かれている。

 鎌倉時代に進んで、気になったのは『笠置曼荼羅図』。巨大な摩崖仏の弥勒菩薩を描いたものだが、最近、ドローンで現地の岩肌を調査したところ、線刻でなく立派な浮彫だった可能性が出てきたという。この絵は、線刻の摩崖仏に極彩色の弥勒を幻視したものと考えられていたが、実景そのままだったかもしれないというのだ。おもしろい。南北朝時代の『子守明神像』も好きな作品。神仏を(物理的に)人間より巨大な存在としてイメージする気持ちはよく分かる。

 『護諸童子経』『十五鬼神図巻』は、童子に害をなす十五の鬼神の姿と、それぞれの鬼神に取りつかれた童子の症状を表現する。「楽着女人」(お母さんに甘えたがる?)も鬼神の害なのだな。童子を護る神格「栴檀乾闥婆」には、奈良博が所蔵する国宝『辟邪絵』を思い出す。

 眉間寺旧蔵『羅漢図』3幅のうち、少なくとも中央の水面を渡る羅漢には見覚えがあった。赤いサンダルで巻貝を踏みしめ、波に乗っている。振り向いた両目から光線が発せられており(よく見えないが)剣も飛んでいるようだ。調べたら、大和文華館ではなく、2015年にサントリー美術館の『水-神秘のかたち』で見ているようだ。他の2図は、従者を連れて山中を歩く羅漢と、テラスで椅子に座ってくつろぐ羅漢が描かれている。眉間寺の羅漢図は当初16幅と推定され、根津美術館も2幅を分有する。「宋元の間に制作された中国羅漢画の一本を写す南都系羅漢画の数少ない遺品」である(文化遺産オンライン)とのこと。

 本展は、仏教版画(印仏)や江戸時代の絵画資料も多数出ていて面白かった。仙厓筆『聖徳太子像』はベレー帽をかぶって、大黒様みたいな太子像。大津絵の『雷と奴図』は赤いマシュマロマンみたいな雷様。『道成寺縁起絵巻』は、後日譚として、僧侶の夢に二匹の小蛇(安珍・清姫の転生)が現れ、供養を受けて成仏するまでを描いている。赤と青の小蛇が身を寄せ合っているところが可愛い。

 いろいろ見どころの多い展覧会で、見に来てよかった!

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2021年9月@関西:山口晃展(ZENBI鍵善良房)

2021-09-24 17:29:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

ZENBI鍵善良房-KAGIZEN ART MUSEUM 開館記念特別展『山口晃-ちこちこ小間ごと-』(2021年7月6日~11月7日)

 鍵善良房は四条通りにある老舗の和菓子屋さん。私は、高校の修学旅行の自由行動で、京都通の友人に連れていかれたのが最初で、以来40年のごひいきである。近年、和菓子販売だけでなく、いろいろ新しい取り組みをしているな、とは思っていたが、今年1月、美術館がオープンしていたことには、最近やっと気づいた。最初の開館記念特別展『黒田辰秋と鍵善良房 結ばれた美への約束』(2021年1月8日~6月27日)は、残念ながら見逃してしまった。

 現在の展示は、山口晃さんの作品から、京都にまつわる書籍・雑誌の挿画や、五木寛之氏による新聞連載小説『親鸞』挿画の原画などを紹介するもの。鍵善は、2014年からお菓子の紙袋に山口画伯の絵を使っている。

 美術館は四条通りの南側、狭い路地に面して建つ。土壁や木など自然の素材を使用し、京町家を意識した感じの造り。1階と2階に展示室があり、特別展の作品のほか、やはり鍵善と縁の深い黒田辰秋の木工・漆芸作品も展示されていた。

 山口晃さんの作品は大作であっても細部が命で、特に今回のように小品が多い場合、こういうこじんまりしたギャラリーが適していると思う。『親鸞』挿画のお仕事(2008~2014年)は面白かった。伝統的な墨画・日本画の技法に加え、さまざまなマンガの技法が総動員されている。鎌倉時代が舞台なのに現代の道具や乗り物を描き込んで「見立て」にした回もあり。コマ割りやセリフの書き文字あり。よく分からない観念の擬人化もあり。ダジャレあり。しかし何を描いても「絵が巧い」のが素晴らしい。

 雑誌「和楽」に掲載された『綵絵掛図』は、相国寺の方丈に若冲の『釈迦三尊図』と『動植綵絵』30幅を掛けたところ。ぼんやり淡彩で描かれた『動植綵絵』は、ちゃんと「あの絵だ」と分かるのが嬉しい(画像は作品の一部)。最後も若冲で締めることができて、よい1日だった。

※参考:山口晃ワールドを「ZENBI」で堪能!【京都の日常から】永松仁美-My favorite things(婦人画報 2021/8/6)

 この展示は「山口さん自らが自由に設営」したという貴重な情報あり。また、ミュージアムショップ「Zplus」では、山口さんが考案した和菓子を期間限定で販売中。生菓子は、水・土限定という情報を別のところで見ていたので、今回(日曜)は寄らなかったのだが、干菓子(落雁)もあるのだな。次回、入手できるかなあ…。

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2021年9月@関西:『京のファンタジスタ』の江戸絵画

2021-09-23 18:10:45 | 行ったもの(美術館・見仏)

福田美術館×嵯峨嵐山文華館『京(みやこ)のファンタジスタ~若冲と同時代の画家たち』(2021年7月17日~10月10日)

 承天閣美術館から嵐山へ移動。嵐山は2012年以来、9年ぶりである。前回も嵐電嵐山駅まわりの急激な「観光地化」に驚いたが、今回はさらにその徹底した姿を見ることになった。途中、嵐電北野白梅町の駅舎の変貌ぶりにも驚いた(2021年3月リニューアル)。

 福田美術館と嵯峨嵐山文華館の2館共催によるこの展覧会、どうしても見たくて東京から来てしまった。第1会場の福田美術館は、2019年10月に開館した新しい美術館で、消費者金融「アイフル」の創業者・福田吉孝が収集した日本絵画など約1,500点を収蔵している。え、サラ金?と身構えるところだが、小島庸平『サラ金の歴史』を読んで以来、消費者金融のイメージが少し変わった(ただし同書にアイフル関係の記述は少ない)。

 本展では、若冲、蕪村、応挙、芦雪、蕭白など約60件(展示替え有)を展示。ギャラリー1では、同じ年に生まれた若冲と蕪村を特集する。ただ、10件余りある若冲作品には、ほんとに若冲の真筆か?(工房や弟子の作品ではないか?)と疑いを感じるものもあった。少なくとも名品揃いとは言い難い。『群鶏図押絵貼屏風』は若冲らしい作品で、みんな食いついていたが、直前に見た承天閣美術館『群鶏蔬菜図押絵貼屏風』の記憶と比べると差を感じる。むしろ蕪村コレクションが良質で見応えがあった。『十二神仙図屏風』よかったな~。

 ギャラリー2、『竹に狗子図』は、みんな大好き応挙の子犬。

 でも私は、芦雪の子犬が好き。白いわんこのちょっと邪悪な表情もよいし、その足元で足ふきマットみたいになっている黒白のわんこが最高。『山水鳥獣人物押絵貼屏風』から。

 ギャラリー3では、NHK正月時代劇『ライジング若冲』でドラマ内の水墨画作品の制作と俳優陣への作画指導を担当した岡原大崋氏による、若冲、蕪村、応挙らの作品の模写と、運筆の解説パネル等を展示していた。若冲の墨画のニワトリの尾羽が、一気呵成に描いているように見えて、禅僧が文字を書くときのように、紙の裏側まで墨が滲むくらいのゆっくりした速さで描いている、などの解説が面白かった。

 第2会場の嵯峨嵐山文華館は、2018年開館だが、百人一首ミュージアム「時雨殿」の後継施設だという。入ったことはないが、時雨殿の名前には記憶があった。現在も百人一首に関する常設展をおこなっている。百人の歌人を小さな人形で表現した、いわば「立体歌仙絵」が面白かった。写真は「月みればちぢにものこそ悲しけれ」の大江千里。表情までよく作り込まれている。

 企画展関連の作品は60件余り。ただし展示替えが多いので、見ることができたのは30件程度。2階の広い畳敷きギャラリーは気持ちよかった。ここで本日3件目の若冲『群鶏図押絵貼屏風』を見る。これも福田美術館の所蔵で、福田美術館で展示中のものと同じ寛政9年作らしい(リストによる)。

 若冲の弟・百歳の『南瓜雄鶏図』ほか、若冲派(?)の作品には「宝蔵寺所蔵」の注記がついていた。調べたら、若冲の両親や弟の墓があるお寺で、特別拝観のときに一度行ったことがある。ホームページを見たら、現在は「若冲ゆかりの寺」で大々的に売り出しているようだ。

 このあと、少し嵐山を歩こうと思っていたが、思いのほか混雑していたので切り上げ、もう1ヶ所寄りたいところのある市中に戻った。寺社と旧跡めぐりはまた次回。

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2021年9月@関西:相国寺で若冲墓にお参り

2021-09-23 11:31:12 | 行ったもの(美術館・見仏)

相国寺承天閣美術館 『若冲と近世絵画展』(I期:2021年4月29日~7月25日/II期:8月1日~10月24日)

 7月の四連休に関西に出かけたときは、次回は8月末か9月前半のつもりだった。ところが、新型コロナの感染拡大で、京博や奈良博の再訪もかなわず、今後の予定を勘案すると見逃しそうな展覧会がいくつかあることに気づいた。これは…行ってしまうに如かずと決断して、急遽、1泊2日の関西行きを決めた。初日の日曜日は京都へ。

 承天閣美術館では、7月に第1期を見た展覧会の第2期を見た。展示替えは多くなかったが、若冲の墨画『鳳凰図』や『群鶏蔬菜図押絵貼屏風』を久しぶりに見ることができて満足。それから、若冲が寿蔵(生前墓)を建てた松鴎庵(廃絶)の指図や若冲寿蔵銘拓本は第1期にも出ていたはずだが記憶になく、あらためて興味深く眺めた。寿蔵銘を起草したのは、相国寺の僧侶・大典顕常である。拓本に添えられたパネルの翻刻(漢文読み下し)を読み始めたら、意外と意味が取りやすく、大典の若冲に対する理解の深さが感じられて、しみじみ感銘を受けた。若冲さん、よい友達に巡り合えてよかったね。

 今年のNHK正月時代劇『ライジング若冲』では、若冲を中村七之助、大典顕常を永山瑛太が演じて話題になったらしい。私は見ていないが、同館のロビーにドラマのポスターが貼られていた。

 久しぶりにこの生前墓にお参りしたくなり、相国寺の墓地に立ち寄る。若冲の墓は、確か入ってすぐにあったはず…と、古い記憶をたぐり寄せたが、見つけられず、お彼岸の墓参客の姿が目立つ墓苑の中を一周してしまった。そして入口に戻ってきて、やっと見つけた。「伊藤若冲之墓」の隣りは「足利義政之墓」で、さらに隣りに「藤原定家之墓」という五輪塔が並んでいる。背後の黄色い築地塀との間が、まさに墓苑の入口である。

 私は2012年3月にお参りして以来のようだ。相国寺には何度も来ているが、いつでもお参りできると思ってご無沙汰していた。藤原頼長の墓(首塚)もあったはず…と記憶していたが、見つけられなかった。2012年のブログ記事を読んだら、このときも頼長の墓を見落としている。成長しない自分に苦笑してしまった。

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太子信仰とともに/天王寺舞楽(国立劇場)

2021-09-21 22:58:31 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 第88回雅楽公演・国立劇場開場55周年記念・聖徳太子千四百年御聖忌『天王寺舞楽』(2021年9月18日、14:00~)

 久しぶりに舞楽を見てきた。調べたら、2017年2月に国立劇場で行われた宮内庁式部職楽部の公演以来、4年半ぶりである。今回は、本年が聖徳太子千四百年御聖忌に当たることから、大阪・四天王寺に伝わる「天王寺舞楽」の上演である。第2部の冒頭で、天王寺楽所雅亮会副理事長の小野真龍氏からお話があったが、天王寺楽所は、太子が側近の秦河勝の子孫を中心に設置したものと伝えられている。第1部では「秦姓の舞」すなわち天王寺舞楽らしい2曲を披露する。

・第1部:秦姓の舞

・蘇莫者(そまくしゃ)

 舞楽を見るには2階席がいいと思っているので、今回も2階の最前列の席を取った。幕が上がると、中央に舞台。左右に楽人の席。下手(左)に羯鼓・太鼓・鉦鼓の3人、上手(右)に管楽器が12人の配置だったが、プログラムによると全て左方の楽人らしい。太鼓は巨大な鼉太鼓ではなく小型の釣太鼓だったので、楽人の動作がよく見えて面白かった。背景には赤と紫の縦縞に有職文の華やかな幔幕。四隅には赤・黄・緑・紫の幡が垂れ、2台の篝火(電灯)が灯されている。

 上手からオレンジ色の袍をまとった貴人が現れ、舞台の脇で横笛を吹き始める。派手な衣装だと思ったが、東宮の着る黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)のつもりなのだろうか。これは聖徳太子の役である。やがて下手の幕の間から、モコモコした衣装、三角頭巾、長い白髪を垂らし、黒いお面に金のどんぐり眼の怪人が現れる。太子の笛に感応して現れた山神だという。あまり背の高くない舞人でもあり、括り袴で、ぴょこぴょこ飛び跳ねる姿が、リアルなポケモンみたいで可愛い。片手に持った鉄アレイみたいなものは桴(ばち)で、モコモコしたカラフルな衣装は蓑を表すようだ。打楽器の軽快なリズムが耳に残った。

・採桑老(さいそうろう)

 舞人は白い衣装に白っぽい頭巾、遠目には顔を覆う面もほぼ白に見えた。死を目前にした老翁で、手には長寿の印の鳩杖を持つ。老翁は若者(懸人)の肩に手を置き、実際に歩行を誘導される老人のように舞台に上がる。小さく膝を抱えてうずくまった老翁を残して若者は去る。パイプオルガンのような笙の音色に促され、ゆっくりと舞い始める老翁。しかし足は床からほとんど上げず、床を滑るように踏み出しては腰を落とす。老人の舞姿を表現しているのだ。終盤には少し動きが早くなり、足を上げる様子も見せるが、最後は再びうずくまって動かなくなり、迎えに来た若者とともに去っていく。

 解説には「死を目前にした老翁が、長寿の妙薬といわれる桑葉を求めて、山野をさまよい歩く姿」だとあったが、全て夢の中のできごとのようにも見えた。あと、ネットで検索すると、この曲には「舞うと舞人が数年以内に死ぬ」という言い伝えがあるそうだ。そのくらいの神秘性を感じさせる楽曲ではあった。

・第2部:聖霊会の舞楽

 冒頭、前述の小野真龍氏が幕前に出て、天王寺舞楽について解説。雅楽は仏教法会、特に浄土教との結びつきが強く、極楽の音楽と言われてきた。四天王寺の聖霊会の舞楽は、亀の池に架かる石舞台で演じられる。通常の舞台(3.5間×3.5間)より広く(6間×4.5間)、池を取り巻く観衆との距離も遠いので、大きく分かりやすい所作が求められるという。天王寺舞楽は『徒然草』に「都に恥ぢず」と評され、鳥羽院が熊野詣の途中で立ち寄って鑑賞したとか、平清盛が厳島神社に移植した(都にも大内楽所があったのに天王寺楽所を選んで!)という歴史も面白かった。

・行道~一曲(ぎょうどう~いっきょく)

 第2部はほんの少し舞台デザインが変化。天井近くに曼殊沙華を表す巨大な赤い玉飾りが登場した。左右に分かれた楽人たちが演奏しながら入場する。足元は沓でなく、白足袋に草履。最後に、左右の楽頭に褒美の白い布が授けられる(左肩に掛ける)。

・蘇利古(そりこ)

 雑面(ぞうめん)を付けた5人の舞人による。大きな雑面の頭にちんまり乗った垂纓の冠、袍(?)を腰のあたりに巻きつけて着ぶくれした上に袴を括っているので、丸々したバランスがかわいい。聖霊会では、この舞の後に法要の本尊にあたる太子の楊枝御影を収めた厨子の帳を上げることから「太子御目覚めの舞」と言われるそうだ。「楊枝御影」は『聖徳太子 日出づる処の天子』展(大阪市立美術館→サントリー美術館)で公開される。忘れないようにしなくちゃ。

・陪臚(ばいろ)

 「陪臚破陣楽」ともいう。赤系統の装束に鳥兜の4人が、鉾と盾を持って登場。2人ずつペアになって左右から盾を立てかけあい、鉾も床に置いて、剣を抜いて舞い、剣と盾を持って舞い、また鉾を持って舞う。変化が多くて面白い。勇壮だが、動きはそんなに早くなく、大きく手足を動かす所作が多いので、準備体操を見ているみたいでもある。

・長慶子(ちょうげいし)

 舞楽・雅楽の終わりにお決まりの曲で幕。

 「蘇利古」「陪臚」は、あれ?私これ見たことある、と気づいたが、「蘇莫者」はすっかり忘れていて、初見のつもりで見ていた。実は、2012年9月にも国立劇場に『四天王寺の聖霊会 舞楽四箇法要』を見に来て「蘇利古」「蘇莫者」を見ており、そのときもぴょんぴょん跳ねる舞人に戸惑っていた。「陪臚」は、2012年2014年に宮内庁楽部の公演を見ている。まあどれも10年近く前の話なので。

 それより、聖霊会を大阪・四天王寺で見たいという長年の夢はなかなか実現しない。2022年4月22日は、千四百年御聖忌を記念して、特別な大法要になるというお話だったが…行けるだろうか。カレンダーを見ると金曜日である。

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地域の文化財/浮世絵をうる・つくる・みる(日比谷図書文化館)

2021-09-18 11:08:08 | 行ったもの(美術館・見仏)

日比谷図書文化館 特別展『紀伊国屋三谷家コレクション 浮世絵をうる・つくる・みる』(2021年7月17日~9月19日)

 現在、週2出勤+週3在宅の生活を継続中である。7-8月の在宅勤務日は、暑さに耐えきれなくて、公共図書館に逃げ込むことが多かった。パソコンとインターネットさえあれば、大概のことはできる仕事なので。

 私は3月まで図書館関係の仕事をしていたのだが、私事で図書館を利用することはほとんどなかった。この日比谷図書文化館を利用したのも、何十年ぶりかだと思う(むかしの日比谷図書館の記憶しかない)。1階の展示室で特別展(有料:一般300円)が開催されていたので、そのうち見ようと思っていたら、9月になってしまった。

 本展では、千代田区指定文化財である紀伊国屋三谷家(みたにけ)コレクションの浮世絵150点余り(展示替え有)を展示する。紀伊国屋三谷家は、万治3(1660)年の創業以来、神田塗師町で金物問屋を営み、江戸時代後期の8代目当主・長三郎(1819-1886)の時代に、浮世絵師たちのパトロンとなってその制作に関与した。私は全然知らなかったが、政財界では、同名の10代目・三谷長三郎が有名で、神田区の学校教育のために財を投じて多大な貢献をしたことを顕彰して、神田明神近くに胸像が立っているらしい。

 展示では、冒頭に江戸の絵草紙屋(屋号は日比屋)が復元されていて楽しい。同様の復元は、江戸東京博物館や佐倉の歴博にもあるが、いつどこで見てもテンションが上がる。

 店頭に並んでいる浮世絵は、デジタル画像を印刷したものだと思うが、紙の質感がそれっぽいので、本物?と疑ってしまう。全て三谷家コレクションの複製らしく、あとで現物の展示で同じ作品を見つけた。

 展示作品は、三代歌川豊国、歌川国芳が目立って多かった。あとは歌川広重(五十三次名所図会)と月岡芳年など。どれも摺りと保存状態が抜群によく、むかしどこかで見た記憶のある作品も、別物のように「映え」る。

 あと、数は少ないが、版下絵がいくつか出ており、絵師の描画力を直接味わうことができるのも貴重。これは国芳の『忠孝復讐図会』。巧いなあ。彫師への指示メモがついているのも面白い。

 題名の囲み枠に添えられた、西洋風の天使も気になる!

 無料でなく、観覧料300円という設定もよいと思う。見に来ていたお客さんはそれなりに熱心だったし、この価格なら前後期行っても負担にならない。地域の文化財を活かした展示を、またお願いしたいと思う。なお、三谷家コレクションは、正確には「三谷家美術資料」という名称で「神田地域の商家の文化活動を伝える貴重な資料群」として指定されており、浮世絵以外の絵画資料や工芸資料も含むようである。

※参考:千代田区立日比谷図書文化館(文化財事務室)収蔵資料データベース:三谷家美術資料

 ついでに常設展示『江戸・東京の成立と展開』(無料)も覗いてきた。最近、先史時代に関心が向いているので、縄文時代の東京の地形図を興味深く眺めた。

※参考:縄文時代の江戸

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