見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

豊かさを目指す意味/中華ドラマ『大江大河』

2020-02-28 23:55:06 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『大江大河』第1部:全47集(東陽正午陽光影視、2018-2019年)

 久しぶりに近現代のドラマが見たいと思い、気になっていた本作にした。物語は1978年の夏、緑豊かな農村から始まる。宋運萍(萍萍)と宋運輝(小輝)の姉弟は、同時に大学入学資格を手に入れる。しかし村の役人は、宋家の父親の出自がよくない(労働階級ではない)ことを理由に二人の進学に横槍を入れる。志を曲げない小輝は、共産党が全ての人民に大学進学を許可したという「人民日報」の記事の暗誦を繰り返し、ついに「一人だけ」進学の許可を得る。萍萍は弟に進学の機会を譲り、両親のもとに残る。

 大学で抜群の成績を挙げた小輝は、巨大な化学プラントを持つ金州化工に就職し、気のいいルームメイトや尊敬できる上司に出会う。現場で先頭になって働き、海外の技術を積極的に取り入れることを進言し、順調に出世していく。工場長の娘の程開顔と家庭を持ち、女の子の父親になった。

 一方、村に残った姉の萍萍は、小雷家村の雷東宝に出会う。小雷家は極貧の村だった。雷東宝は生産大隊の副書記(のち書記)として、村を豊かにする方法を必死に探す。承包責任制(生産請負制)について書かれた文書を見つけるが、意味がよく分からない。萍萍の弟が大学生だと聞くと教えを請い、理解すると、果敢にそれを実行に移す。次いで、レンガ焼成窯、電線工場などをつくり、村のために奔走する。萍萍は雷東宝と結婚し、夫を支えながら仲睦まじく暮らしていた。しかし、雷東宝が仕事で村を離れていたとき、身重の萍萍は流産し、本人も身まかってしまう。

 呆然自失となる雷東宝。やがて気を取り直し、新たな産業を興し、国営工場と戦い、村民の不満や腐敗を収拾し、豊かになるための奮闘を続けていくが、心の空虚は埋まらない。

 前半は、困難に直面してもすぐ解決策が見つかり、根っからの悪人も出てこないので、ずいぶん優しいドラマだと思った。中国人にとって、1970年代末から80年代前半にかけての時代イメージがそうなのかもしれない。しかし前半のほんわか幸せムードに慣れたところでぶち込まれる、萍萍の死の衝撃は強烈で、さすが中国ドラマだと思った。

 後半は、小輝を兄と慕っていた少年・楊巡の物語が加わる。10代の若さで商売人を志して東北へ行き、恋人の戴驕鳳を伴って金州に戻って来る。二人は、とにかく金を稼ぐことに必死で、そのことが楊巡の家族との軋轢を生み、楊巡はライバルの罠にはまって、市場も戴驕鳳も失うが、立ち直って、再び商売に没頭する。なぜそんなに金儲けにこだわるのか?と雷東宝に聞かれて「他人に尊重されて生きるため」と答える。

 主人公の小輝(王凱)は、とりあえず本編の最後まで大きな失敗はない。雷東宝(楊爍)は、妻の死という大きな喪失感を抱えるが、多くの困難を乗り越え、村に経済的な豊かさをもたらす。この二人は、理想家肌の知的エリートと、学問はないが行動力は抜群の農民という対照的な存在だが、どちらも成功者である。そのまわりには、競争に敗れた者、不幸な偶然に見舞われた者、腐敗に手を染めた者など、多くの「敗残者」が描かれていて、後半は、人生のほろ苦さを感じた。

 前半では小輝の陽気なルームメイトだった尋健翔が、新疆の労働改造所に送られ、5年後、すっかり老け込んだ姿で帰ってくる下りは泣けた。また小輝の大学時代の同級生で、同じ金州化工に就職した三叔こと虞山卿も、嫌なヤツだと思っていたが、別れは悲しかった。十分な才能のない人間は、力のある者に取り入って生きていくしかないのだ。

 後半で登場する韋春紅は、寡婦の女老板で、雷東宝に惹かれるが、彼の心が今も亡き妻で占められていることを知って、身を引こうとする。韋春紅も戴驕鳳も、時代の荒波の中を必死に生きている点では、男性たちと変わらない。韋春紅役の練練さんは『趙氏孤児案』の宋香を演じた方。しっかりもののおばさんが似合う。前半で退場した萍萍役の童瑶さんはきれいだったなー。すっぴんにお下げ髪の農村少女姿が、70年代の思い出の中に留まる萍萍にぴったりだった。

 原作小説は1978年から1992年までの中国を描いているという。1980年代って、まさに現在の中国社会の基礎が形づくられた時代で、現代日本にとっての1950年代みたいなものなんだろう。視聴前は、もっと共産党のプロパガンダ的なドラマなのかと思っていたが、国の政治状況はほとんど描かれなかった。描かないことが政府の方針なのかもしれないが、実際、地方では、せいぜい県政府までが日常接する「政治」なのかもしれない。

 最終回の最後の5分は第2部の予告編で、第2部はさらに緊迫の展開が待っていることが分かった。第2部、実は近々放送と聞いていたのだが、新型コロナウィルスの影響で撮影が延期になっているらしい。早くおさまって、ドラマの続きが見られますように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深川図書館に初訪問

2020-02-25 22:34:45 | なごみ写真帖

 87歳になる母が、ときどき昔の思い出を話し始めることがある。深川森下町生まれの母は、清澄通りを南に下って、門前仲町の交差点を右に曲がると図書館があって、よく通ったという。「今はないよ」と言ったら残念そうな顔をしていた。その後、気になって調べたら、清澄公園を過ぎてすぐ、仙台堀川を渡る手前で右に曲がると「深川図書館」という区立図書館があることが分かったので、この週末に訪ねてみた。

 なんだか由緒ありげな建物。

 1993年に改築された新しい施設なので、館内は明るく、階段も広くてゆったりしているが、レトロな趣きを大事にしている。

 ステンドグラスは新しく加えた意匠で、昔はなかったようだ。職員の方に「復元ですか?」と聞いたら、カウンターの奥から『深川図書館100年のあゆみ』という冊子を持ってきてくれた。2009年に同館で開催された展示の解説図録らしい。現在は入手不可能と言われてしまった。その場で見せてもらったら、とても面白かった。

 深川図書館は、1909年(明治42年)、深川不動尊の西の深川公園に、日比谷図書館に次ぐ2館目の東京市立図書館として開館した。建物は東京勧業博覧会(1907年)の瓦斯館として使われたものを東京市が譲り受けたものだった。しかし初代の深川図書館は、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失。震災の「焼け残り本」もあるそうだ(どこかの帝国大学図書館みたい)。

 1928年(昭和3年)現在の清澄公園の南側に移設。昭和7年生まれの母の記憶にあるのは、たぶん(所在地を少し間違えていたけれど)この二代目図書館だろう。1945年(昭和20年)1月には空襲の直撃で大破するなど苦難の歴史を経て、江東区立図書館として今日に至るのだそうだ。

 冊子には、言葉でしか知らなかった半開架式(金網の外から押して、読みたい本を指定する)の写真があり、戦前から児童室や婦人室があったことも分かって興味深かった。古い事務書類がきちんと残っているのも貴重である。何より、こんな下町に(失礼!)早くから市立図書館が存在していたことには驚いたし、嬉しかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸のぶつかりあい/文楽・鳴響安宅新関、他

2020-02-24 22:05:59 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 令和2年2月文楽公演(2020年2月23日、14:15~、18:00~)

・第2部『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)・野崎村の段』

 2月文楽公演は、世話物の名作の入っている第2部と第3部を聴いた。野崎村は、田舎娘のおみつとお嬢様のお染がどちらも好き。初見のときは、働き者で親孝行で、愛情も焼き餅もストレートで、自分を棄てた許婚のために自己犠牲を厭わない、健気で行動力のあるおみつちゃんが愛しくて、こんな彼女を不幸にしたお染久松を憎らしく思ったのだが、大阪の大店のお嬢様なのに、丁稚の久松に一途に惚れて、はるばる追いかけてくるお染も可愛い。恋する女性の可愛らしさをよく分かっている脚本である。おみつを蓑二郎、お染を蓑一郎という新鮮な配役。床は前を織太夫+清治、切を咲太夫+燕三+燕二郎。下手側の席だったが、よく聞こえて堪能できた。

・竹本津駒太夫改め六代目竹本錣太夫襲名披露狂言『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)・土佐将監閑居の段』

 続いて、錣太夫さんの襲名披露狂言。床・配役は全て大阪の正月公演と同じ。呂太夫さんの口上も同じだったが、正月公演より緊張感が緩和された雰囲気で、客席の笑いも大きかった。舞台に近い席だったので、勘十郎さんの遣う又平の動きの激しさ、滑らかさがよく分かった。

 プログラムの解説を読んだら、この場面の前段では、狩野元信が長谷部雲谷(雲谷等顔なの?)の計略で捕縛されるらしい。江戸時代の人々が絵師という職業をどう見ていたかが窺えるようで面白い。

・第3部『傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)・新口村の段』

 梅川忠兵衛は近松の『冥途の飛脚』を見ることが多いけれど、『傾城恋飛脚』の新口村も好き。文楽では2014年に大阪で、そのあと2015年に札幌のあしり座公演で見たことのある演目である。忠兵衛の父・孫左衛門と、逃避行中の梅川が、名乗り合えずにお互いをいたわる会話がしみじみと哀しく美しい。ほぼ全編を呂太夫と清介。呂太夫さんの律儀で昔気質な語り口とよく合っていた。

・『鳴響安宅新関(なりひびくあたかのしんせき)・勧進帳の段』

 いわゆる「勧進帳」である。むかし一度だけ見たことがあるが、ほとんど忘れていた。幕が上がって、板壁に松の木を描いた能舞台のような背景が目に入り、関守の富樫が登場し、能狂言のような古い言葉遣いで名乗りをあげるのを聞いて、そうだった、こういう演目だったと思い出した。

 床には三味線が7名、太夫さんが7名。第3部は床のすぐ下の席だったので、奥のほうにいる太夫さんは顔が見えなかった。富樫は織太夫、弁慶は藤太夫で、このふたりが掛け合いで大熱演! カッコよかった~(ちなみに藤太夫さん、第3部の開始直前は洋服で3階のカフェにいらした)。

 弁慶が白紙の勧進帳を読み上げるのは検問の第一段階でしかなく、そのあと富樫は、修験の法についていろいろ尋ねる。「いまだ委細を知らず」と言っているけど、実はものすごく仏教に詳しい男なのである。弁慶は比叡山の法師ではあるが、あまり勉学してきたとは思えないのだが、ここはスラスラ質問に答えて富樫を感服させる。義経が変装した強力が疑われかけるも、打擲して疑いを封じる。

 さて関所から遠く隔たった海辺を行く義経一行。富樫が追いかけてきて、先刻の詫びを入れ、酒を勧める。盃を受け、延年の舞を舞う弁慶。この後半では、弁慶は主遣いだけでなく、左遣い、足遣いとも顔を出して出遣いとなる。あ、見たお顔だと思ったら、玉男さんの左は玉佳さん、足は玉路さんなのね。

※「世界に誇る文楽、3人一体で人形躍動 技芸継承へ 終わりない研鑽」(日経新聞 2020/1/4)

※「文楽トークイベント:吉田玉男「『生写朝顔話』&近況について」文楽座話会」(個人ブログ TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹 2017/9/16)

 弁慶は大きな人形で、振りも大きく激しく動きまわるので、玉男さんは比較的無表情なのだが、ついていく玉佳さんが必死の面持ちだった。いつも黒子の下であんな表情をなさっているのかな。足の遣い方もふだんよりよく分かった。

 三味線は7人で賑々しくツレ弾きの場面もあれば、1人または2人の場面もある。全体を率いる藤蔵さんの乗り方が尋常でなく、ロックでカッコよかった。三味線も太夫も人形も熱い演目だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高山寺復興プロジェクトに参加

2020-02-23 22:42:52 | 行ったもの(美術館・見仏)

 昨年、『鳥獣戯画』で有名な京都の高山寺がクラウドファンディングで寄付を募っていることを知った。2018年9月4日の台風21号で、樹齢100~300年のスギ、ヒノキの大木が300本以上倒れ、本尊の釈迦如来を奉る金堂は半壊、明恵上人を奉る開山堂や収蔵庫が損壊するなど深刻な被害を受けたのだそうだ。

 大好きな明恵さんのお寺でもあるので、少しでも力をお貸ししたいと思った。最終目標額は4,500万円という壮大なプロジェクトで、さすがに期間内に達成はできなかったが、それでも2,000万円を超える寄付が集まったようだ。

 今週、その「リターン」が届いた。私の選んだのは、高山寺杉の板皿もしくは朱印帳、鳥獣戯画限定お守り、それに永久拝観券が付くというコースである。私は板皿を希望した記憶があったのだが、杉板の表紙のついた御朱印帳と、木箱に入った板皿っぽいものが入っていた。あと名前入りの永久拝観券が付くはずなのに、無記名の抹茶付き拝観券(緑色の紙)しか見当たらなかった。

 あれ?と思って、実は、朝、高山寺さんにお電話してしまった。「無記名の拝観券しか入っていないんですけど…」と言ったら、「ああ、それで大丈夫です」とおっしゃるので、じゃあ気にしないことにしようと思った。

 それで、あらためて送られてきた品物をひとつずつ確かめ、木箱も開けて、白い紙に包まれた「板皿」らしきものを出してみたら、なんと!その表面に「拝観証」という焼き印と、私の名前も焼き印で記載されていた(写真の右側)。これが永久拝観証なのか! 高山寺さん、お騒がせしてすみません。

 次回、高山寺にはいつ行けるかな。5月の連休に行けるといいな。

 今年の夏は、『鳥獣戯画』全4巻が東京国立博物館で公開されることになっている。やっぱり復興の資金集めの勧進の意味もあるのかもしれない。もちろんお金を落としに行きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮の「普通の暮らし」/特集・平壌、ソウル(雑誌・Pen)

2020-02-22 21:31:10 | 読んだもの(書籍)

〇『Pen』2020年2/15号「特集・平壌、ソウル」 CCCメディアハウス 2020.2

 ソウルの特集を組む雑誌はそこそこ見るが「平壌」の文字に引き付けられて、店頭でページをめくった。平壌についての情報が、ソウルと同じ比重、もしかしたらソウルより多いくらい掲載されていることを確かめて、これは買ってみようという気持ちになった。

 特集の冒頭は、写真家・菱田雄介の写真で構成されている。2009年から韓国と北朝鮮で、共通するテーマの被写体を撮影している。赤いマフラー、青い吊りスカートで、エレキギターを抱える北朝鮮の少女と、紺のブレザーの制服姿でギターを抱える韓国の少女。金日成と金正日の巨大な銅像の立ち広場に粛々と集まる平壌市民たちと、文在寅大統領候補の演説を聞くために夜の光化門広場に集まったソウル市民たち。板門店の北側と南側、など。率直に言って、建物や風景は異なっても、ひとりひとりの人間の顔はそんなに変わらない印象である。

 韓国出身の女性映画監督チョ・ソンヒョンは、2016年、北朝鮮の「普通の暮らし」を取材したドキュメンタリー映画『ワンダーランド北朝鮮』を製作した。雑誌には、この映画の一場面らしい、リラックスした表情の北朝鮮の人々の写真が掲載されている(ちなみに、この映画のドイツ語タイトルは『北の兄弟姉妹』の意味らしい。日本語タイトルは古いステレオタイプにおもねっていると思う)。また、2010年以降、幾度となく北朝鮮を訪れた写真家・初沢有利は、平壌の若者の姿をリアルに捉えている。恋人と顔を寄せ合う、ピンクのシャツのおしゃれな若者など、これが北朝鮮?!とびっくりする風景もある。

 平壌にはビアホールもハンバーガーショップもあるという。1990年代の中国を思い出して、ちょっと平壌に行ってみたくなったところで、追い打ちをかけられたのが、平壌の建築特集。金日成は、スターリン時代のソ連にならって新古典主義様式を基本路線とした。二代目金正日は芸術家肌で、モダニズム建築を好んだ。光復通りのニュータウンとか高麗ホテルとか、見たい! 平壌氷上館(スケートリンク)もよい。三代目金正恩が推し進める都市計画はさらに未来的。科学技術殿堂(展示場。電子図書館も入る)や柳京ホテル。たとえハリボテでも、こういうフォルムの建造物のある都市、とても面白い。平壌の風景ってこんなになっていたのか。

 そのほか、北朝鮮の音楽トレンド、グラフィックアート、なぜか唐突に高句麗古墳群の壁画の紹介、平壌冷麺の紹介もある。ソウルの記事もそれなりにあるのだが、平壌の印象が強すぎてあまり印象に残らなかった。でもソウルも、最後に行ったのは10年以上前になるので、そろそろ再訪してみたい。

 朝鮮半島の歴史もコラムふうに簡単にまとまっている。日本の関与についてはあっさり書き流している感じだが、まずは映画とか音楽とか建築から、この両国に興味を持ってもらうのでいいのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古画の臨模と見極め/狩野派(出光美術館)

2020-02-20 23:16:49 | 行ったもの(美術館・見仏)

出光美術館 『狩野派:画壇を制した眼と手』(2020年2月11日~3月22日)

 室町時代から江戸時代まで、400年にわたって画壇の中心に君臨した狩野派の豊かな絵画世界を紹介する展覧会。狩野派は、古画の模倣という実践的な訓練を重視した。そこで本展では、狩野派が間近に接した可能性の高い古今の絵画を、彼らの実作品と同じ空間に展示する。これはこれの模倣なのか!という、思わぬ関係性に気づいたり、初めて見る絵画も多くて面白かった。

 狩野探幽には、名画を縮小模写した「縮図」が多数伝わっているが、今回展示されていた『臨画帖』2帖は横長の折本仕立てで、かなり大きな画面だった。三角形に黒っぽい岩山の頂上から白い滝が流れ下る図を描いたものがある。上下が白い霞に隠れているようにも見えた。これの元絵が、伝・夏珪筆『瀑布図』(南宋~元代)で、黒っぽい岩山の上部がちょん切れた姿になっている。よく見ると、岩山に見えた黒っぽいかたまりは、岩壁の凹みを描いたものだった。そして、同じ図が、狩野惟信の『倣古名画巻』でも模写されているのを見つけた。

 また、探幽の『臨画帖』には、緊張感のある細い描線を駆使した『牛車渡渉図』(南宋時代)の模写もあった。模写のほうが描線がおおらかで柔らかである。え、これら全て出光美術館の所蔵?と思ったら、中国絵画2点は同館所蔵だが、探幽の『臨画帖』は違った(個人蔵?)。

 さらに雪舟の署名のある『倣夏珪山水図』(団扇形の画面に淡彩ののどかな山水図)も『臨画帖』に、いくぶん薄い淡彩で模写されている。この雪舟画も個人蔵らしく、解説には、長らく所在不明だったが、2017年に発見されたものという解説があった。

 ほかにも狩野派が見たとされる、めずらしい古画がたくさん出ていて、狩野派の作品以上に眼福だった。伝・銭選筆『鶏図』は、大きな爪が猛々しく、青みを帯びた羽根がリアルで怖い。相阿弥筆『腹さすり布袋』はどこかで見たような気がした。九博に同じ図様で伝・牧谿筆の作品があるというので、そちらかもしれない。または探幽がたびたび縮図に写しているというので、それかもしれない。伝・牧谿筆『杜甫騎驢図』もよい。省略された筆で的確に形を捉えている。足の細い驢馬が可憐で、詩人の気難しそうな表情が杜甫らしい。探幽の「添図」がまた可愛くて巧い。

 伝・王立本筆『鳳凰図』は室町時代の摸本だというが、明代絵画のあやしい雰囲気をよくつかんでいる。でもちょっと技術が及ばないかな。伝・顔輝筆『寒山拾得図』は、時代は下るがいちおう中国・明代絵画の認定を受けている。伝・牧谿筆『騎驢人物図』は室町時代の墨画。トボけた顔のロバが軽やかな足取りでかわいい。伝・梁楷筆『竹截図』(截竹図ではないのか)も室町時代の墨画で、すぐ原本を思い出せる。

 狩野派は「漢画」の学びに「やまと絵」を加え、レパートリーを広げていく。ここでは華麗な色彩で、四季の風景を装飾的に描いた屏風絵を中心に紹介。伝・狩野長信筆『桜・桃・海棠図屏風』はむかしから好きな作品である。

 最後に狩野派が古画の鑑定に果たした役割を検証するため、また狩野派以外の作品は並んでいた。伝・梁楷筆『猪頭図』(室町時代)は面白いなあ。最近は長谷川等伯筆で定着した『竹虎図屏風』も、探幽は「周文筆」と鑑定して、紙中に書き加えているのだな。『倣玉澗瀟湘夜雨図』と『芙蓉小禽図』は雪村筆と鑑定されているが、解説は疑問を呈している。ふだんはあまり目にすることのない「添書」や「外題」(〇〇筆という見極め付き)が一緒に展示されているのも面白かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化人将軍の役割/天下泰平(江戸東京博物館)

2020-02-18 22:36:35 | 行ったもの(美術館・見仏)

江戸東京博物館 企画展『天下泰平~将軍と新しい文化の創造~』(2020年1月2日~2月16日)

 常設展示エリアで開催されていた本展は、德川宗家に伝来する歴代将軍の書画、幕府御用絵師狩野派が描いた絵画作品などを通して、江戸文化における将軍の果たした役割を考える企画。徳川記念財団の所蔵品が多数出ていた。

 企画趣旨に言う通り、多くの日本人は、徳川将軍と聞くと、天下泰平の世をもたらした文化人政治家を思い浮かべるだろう。ただし、それは三代家光以降で、さすがに初代家康には戦国武将のイメージが強いのではないか。ところが本展の冒頭には家康の一行書『花鳥風月』。筆の運びがゆっくりで、なよなよと柔らかなタッチ。家康は幼少期から書道が好きで、晩年には藤原定家の筆跡に傾倒して、熱心に臨模したそうだ。唐太宗の王羲之愛みたいだ。墨画『大黒天図』も晩年の作だろうか。巧まざるユーモアに頬がゆるむ。しかし素人の画技にしては巧い。ちょっと白隠を思わせる。

 家光は、出た!ピヨピヨ鳳凰! 私はこの子に会いに来たのである。隣りに伝・家光筆『架鷹図屏風』六曲一双が並んでいたが、こちらは巧すぎる。小浜藩主・酒井忠勝が敦賀の鷹絵師。二代橋本長兵衛に描かせたものに家光が筆を加えたという説明を読んで納得した。鷹のポーズや羽色、構図(止まり木を正面でなく斜めから描くなど)のバラエティがとても面白い。

 家光が夢に見た家康を狩野探幽に描かせた『東照大権現霊夢像』は、白い平服、黒い頭巾で膝を崩した座り方が人麻呂影供像を思わせる。紅葉山の稲荷社に掛けられていたという『紅葉山鎮座稲荷額』は、中央のキツネに乗った荼枳尼天に探幽の署名、左右の眷属のキツネに安信と常信の署名があるもの。

 五代綱吉は儒学を重んじ、自ら家臣に四書五経を講じた。コンパクトな『明版四書(綱吉御手持本)』と使いこまれた書袋は、別の展覧会でも見た記憶があった。生類憐みの令で知られる綱吉が、鳥や動物の絵を好んで描いていたことは初めて知った。『芦雁図』『練鵲図』かわいい。前期の『鶏図』を見逃したのは残念である。『桜花馬図』は、歴史も故実も関係なく、ただ桜と馬をいつくしむ気持ちが滲み出ていて好き。綱吉が新井白石に賜った『落雁仙鶴之図』対幅は、金雲の使い方が大胆で、現代絵画みたいな面白さがある。

 八代吉宗は広く学問を奨励した。中でも西洋天文学の推進は重要。前期展示の『五星臨時調測量御用手伝之者之儀ニ付達書』が見たかったな。十一代家斉は松平定信を老中首座に抜擢し、定信を中心に『集古十種』が編纂された。しかし定信の書跡がたくさん出ていたが、力強くクセの強いもので、人柄を彷彿とさせた。こういう字を書く人とは、あまり関わりたくない。

 最後に徳川宗家十六代当主の徳川家達(1863-1940)。貴族院議長をつとめ、いくつもの社会団体の長を歴任した。なんと1940年の東京オリンピック招致委員会会長、IOC委員、組織委員会会長もつとめており、当時の写真も展示されていた。

2/19補記。特別展『江戸ものづくり列伝-ニッポンの美は職人の技と心に宿る-』(2020年2月8日〜4月5日)も見た。「ものづくり」と聞いて、テクノロジー方面を予想していたのだが、やきもの、金工など工芸品が中心。明治前期に日本を訪れたヨーロッパ貴族バルディ伯爵の日本コレクション(ベニス東洋美術館所蔵)は、まあ面白かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咒師の作法/声明公演・薬師寺の花会式(国立劇場)

2020-02-16 23:12:48 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 第57回声明公演 薬師寺国宝東塔大修理落慶記念『薬師寺の花会式:修二会薬師悔過法要』(2020年2月15日、13:00~)

 奈良・薬師寺の修二会薬師悔過法要(通称・花会式)は、毎年3月25日~31日に行われる。学生の頃、たまたま花会式期間中の薬師寺を訪ねた記憶はあるのだが、その後は縁がなく(何しろ年度末の1週間!)、声明が行われているという認識もなかった。東大寺の修二会は何度も聴聞しているのに、大きな違いである。

 舞台の幕が上がると、巨大な薬師三尊像(立体感など、かなり本物に似せた絵)と朱色の柱が立ち、金堂の雰囲気が再現されている。中央には礼盤(高座)、その左右に八の字型に4人ずつの席を置く。また、沓(くつ)音を響かせるためか、内陣をめぐって須弥壇の裏に消える四角形の板張り(?)の通路がしつらえられていた。2階の最前列の席だったのでよく見えた。

 はじめに薬師寺管主の加藤朝胤さんが登場して、薬師寺と花会式について20分ほどお話をされた。薬師悔過法要が今のようなかたちになったのは、堀河天皇の皇后さまの病気平癒を祈願し、平癒のお礼に宮中の女官たちが造花をお供えしたのが始まりであること。造花は薬草で染めているので、水に漬けて飲めば薬になること。造花と壇供(お供えの餅)は、法要が終わると参拝者に与えられるが、みんな壇供を好むのが「花より壇供(団子)」の由来であることなど。やっぱり薬師寺のお坊さんは話が巧い。

 解説のあと、いったん休憩が入り、開演した。幕が上がると全ての照明が消えて真っ暗闇になる。須弥壇の裏側から、堂童子頭(赤い袍)と白丁が本物の火を持って現れ、ろうそくに灯をともすと、舞台が再び明るくなった。続いて8人の練行衆が着座する。

 左列の上座から2番目の僧侶が礼壇に上り(時導師)、残りの7人との掛け合いで、供養文や称名悔過、礼仏懺悔などを唱える。管主が「大きな声でしっかり仏様に謝り、それからお願いごとをする」とおっしゃっていたとおり、かなり騒がしい場面もある。花会式を見た中学生が「花会式 坊主ワイワイ 鐘の音」という俳句をつくったというのも納得である。時導師は、礼盤に立ち上がり、大きく背中を反らせて天を仰ぎ、また小さく腰をかがめる動作を何度も繰り返すので、大変だなあと思った。散華行道、心経行道、牛王加持行道など、全員で内陣をめぐる場面もあり、高らかにひびく沓の音が心地よかった。薬師如来の宝号が「南無薬(なむやー)」なのを初めて知った。

 時導師が席に戻ると、入れ替わりに、左列の最も上座の僧侶が登壇した(大導師)。袈裟の色(黒い枠に黄色)を見て、最初に解説をした加藤管主であることに気づいた。以下の「大導師作法」は、いろいろ特徴的で面白かった。たとえば仏の三十二相を申し述べる詞章があり、字幕スクリーンを追っていたが、「舌相広長覆面相」でちょっと笑ってしまった。リズムをとるのにカスタネットのような小さな楽器(鈸)を使うのも楽しかった。

 この法要は、日本語(漢文読み下し調)の唱えごとが比較的多いと感じた。「神分(じんぶん)」は、この法要のために来臨影向している神々に功徳を回向するもので、日本国主天照大神のほか、道馬権現、大津聖霊、天満天神、法相擁護春日権現など、気になる神名が挙げられている。

 大導師作法がだいぶ進んだところで、右列の右端の僧侶が合図の音を立てて、須弥壇の裏にいる堂童子頭を呼び、右列2番目の僧侶の足元に草履(?)を用意させた。何が始まるのかと思ったら、字幕に「咒師作法」という表示が出た。え、咒師(しゅし)!? 急に緊張して見ていたら、それまで何の変わったところもなかったそのお坊さんが、厳かに陀羅尼を唱え、袖の中で印を結び(たぶん)、銅鈴を振り鳴らす。乾いた音色は、東大寺修二会の咒師鈴と同じだ。

 おもむろに立ち上がった咒師は、足音のしない履き物を履いて、速足で内陣の周りをまわり、諸尊を勧請する。「四天王勧請」では、大声で四天王を呼ばわり、その場でくるりと一回転して、次の場へ急いだ。「乱声」では、舞台が暗くなり、法螺貝が吹き鳴らされ、鉦や太鼓が激しく打ち鳴らされる。咒師は時計回りに須弥壇の裏に消えたと思ったら、上手側から現れたときは、額に日の丸をつけた三角帽子を目深に被り、両手に抜き身の剣を構える異様ないでたちだった。反射的に思い出したのは、『風の谷のナウシカ』の二刀流剣士のユパ様である。はじめは二本の剣を頭上で交差させ(持剣指天)、次は剣先を下げて膝の前で交差させ(持剣指地)、最後は互い違いに構えた状態(持剣指天地)で登場した。その後も印を結んだり、鈴を鳴らしたりしながら、何度も何度も内陣を巡った。そして乱声が止み、何事もなかったように咒師が席に戻ると、短い作法があって、全ての供養が終わった。

 面白かった。薬師寺の花会式を、これまで一度も聴聞しなかった不明を悔やんだ。私は刀剣に興味がないので気づかなかったが、2016年には薬師寺で『仏教と刀』『噂の刀』展が開催されており、咒師作法の写真を使ったポスターが、一部では話題になっていたらしい(参考:Internet Museum)。

参考:綴る奈良 Vol.4:薬師寺花会式/登大路ホテル(これもなかなかいい写真!)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

趣味から学問へ/古物を守り伝えた人々(国学院大学博物館)

2020-02-14 23:59:19 | 行ったもの(美術館・見仏)

国学院大学博物館 企画展『古物(たから)を守り伝えた人々-好古家たち Antiquarians-』(2020年1月25日~3月15日)

 近世から近代にかけて好古家と呼ばれた古物の研究・蒐集家に焦点を当て、彼らの果たした役割を明らかにする企画展。私は、むかしからこの手の人々に関心と親近感を抱いてきた。その上、本展のポスターに松浦武四郎の大首飾の写真があしらわれているのを見て、これは行こう!と思い立った。

 本展に登場する好古家は、江戸時代から幕末維新期へと、時代順に紹介されている。江戸時代は、木内石亭、藤貞幹、木村兼葭堂。奇石愛好家として知られる木内石亭の著書『雲根志』は、大学生の頃、澁澤龍彦先生の随筆で覚えた。藤貞幹は有職故実家として認識していたが、毀誉褒貶があって、おもしろい人物なのだな。国学院大学図書館所蔵の考古遺物スケッチ図巻『集古図』が展示されていた。木村兼葭堂旧蔵の馬形埴輪(頭部の断片のみ)は、関西大学博物館から出陳されていた。

 幕末維新期は、蜷川式胤、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(医師シーボルトの次男)、柏木貨一郎。柏木の名前は、すぐに思い出せなかったが、『沙門地獄草紙』の旧蔵者である(香雪美術館で見た)。江戸幕府小普請方大工棟梁の職にあったが、維新後は古美術蒐集家となり、のちに博物館御用掛となる。ええ~飛鳥山渋沢邸の建築は、建築家としての柏木の作品なのか。明治5年、仁徳天皇大仙陵の前方部で石棺などが発見されたときの記録画(写)が展示されており、ジブリアニメかと思うような、不思議なデザインだった。

 さらに、神田孝平、本山彦一、根岸武香、根岸友山、田中芳男らが収集した石製品、石棒、玉類、埴輪などが展示されていた。考古遺物好きは多かったんだなあ。松浦武四郎は、大首飾に加えて、大小の勾玉10個をつけた短い首飾も。また、武四郎と特に関係のない『曲玉連飾図』という絵画資料が出ており、翡翠や水晶などを長く連ねて首飾りとすることが、近世の考古家たちに流行していた裏付けと説明されていた。面白い。ちょっと中華風な感じもする。

 最後に、黒川真頼、落合直澄、井上頼圀・頼文・頼壽は、皇典講究所および国学院大学の関係者。江戸時代に成立した「国学」は、趣味の好古家を生むと同時に、考証学問としての好古(文学・史学・考古学・民俗学など)に流れ込んでいく。本展には登場しないが、折口信夫もこの先にいるんだなと思った。

 最後に、国立博物館設立の機縁となった大学南校物産会(明治辛未物産会)の目録、錦絵など。私大の博物館でこうした資料を見たのは初めてで、珍しかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根藩士たちの執念/井伊直弼と横浜(神奈川県立歴史博物館)

2020-02-12 23:32:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立歴史博物館 特別展・掃部山銅像建立110年『井伊直弼と横浜』(2020年2月8日~3月22日)

 ちょっと変わった、マニアックな特別展だと思いながら、気になっていたので行ってきた。横浜市西区掃部山公園には、幕末の大老・井伊直弼の銅像が建っている。井伊直弼(1815-1860)は日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行したが、強権をもって反対勢力を弾圧したため、安政7年(1860)桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 開国という選択は結果的に正しかったが、華やかな維新の志士たちに比べると、井伊直弼の評価や人気はパッとしない。私は東京育ちだが、近年まで横浜に彼の銅像があることを知らなかった。たぶん初めて認識したのは木下直之先生の『銅像時代』(岩波書店、2014)で、直弼の銅像建立を思い立った旧彦根藩士らが、上野公園、芝公園、靖国神社、日比谷公園等に願い出るが受け入れられず、執念で横浜に建立するまでが紹介されていた。『木下直之を全ぶ集めた』(晶文社、2019)にも、ランドマークタワーと向き合う衣冠束帯姿の直弼像の写真が収録されていて、時空がねじれたようなミスマッチ感に強い印象を持った。そうした「予習」の上で、私は本展を見に行ったのである。

 旧彦根藩士の間で井伊直弼の顕彰活動が動き始めたのは明治14年(1881)頃。中心となった相馬永胤(1850-1924)は、旧彦根藩士で専修大学創立者、横浜正金銀行頭取でもある。本展には、専修大学が所蔵する相馬永胤の日記(小さなメモ帳に細かいペン字でびっしり書いている)や手紙、写真などが多数出陳されていて興味深かった。

 相馬らは、はじめ上野公園内に記念碑を建設することを願い出たが許可されなかった。国立公文書館に残る太政官文書によれば、「公園の風致が乱される」ことが理由とされている。明治26年には、横浜の根岸村に遺勲碑を建てることを願い出たが、直弼の政治上の是非は「識者の非難」を免れないという理由で却下されている。いったん下された同時代の評価を覆すことは厳しいんだなあ、と感じる。

 横浜の私有地を候補に選定したあとも、藩閥政府の横槍やら反対派世論の圧迫やら、いろいろあったが、明治42年(1909)銅像除幕式が行われた。作者は藤田文蔵。同じく藤田が製作した1メートルほどの小型の井伊直弼銅像が世田谷の豪徳寺に伝わっている。古めかしい束帯姿だが、面貌は個性的で、重厚感がある。なお、銅像と敷地は横浜市に寄付されて、同市が永遠に維持保存することになった。

 これでめでたしめでたしなのかと思ったら、苦難は続く。大正12年の関東大震災で被災し、台座ごと向きがずれてしまった姿が写真に残っている。復旧はしたものの、昭和18年には金属供出のため撤去されてしまった。再建されたのは昭和29年(1954)のことである。よかった!

 現在の再建像を製作したのは鋳金家の慶寺丹長。試作品(?)として、小さな全身像の模型と、巨大な頭部像が残っている。首だけすぱりと斬り落としたような井伊直弼頭像にはびっくりして肝を冷やした。何しろ、死に方がアレだから。

 不在の時期もあったが、井伊直弼像が横浜のイメージ・シンボルとして定着したことは、横浜開港百周年(1958)の記念切手や崎陽軒の弁当の掛け紙(1970年代くらい)からもうかがえる。しかし、近年は、少しずつ忘れられているのではないかと思う。

 本展には、彦根城博物館や埋木舎から、井伊直弼の茶の湯や能狂言、和歌に関する資料も多く来ていた。このひと、元来は仕事より趣味に生きていたんだな、と思うと親しみが湧いた。実は来月、彦根を訪ねる計画を立てている。昨年も同じ時期に計画を立てていたのに果たせなかったリベンジである。直弼ゆかりの埋木舎もぜひ行ってみたい。掃部山の直弼に会いに行くのは、そのあとの予定。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする