見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

離れても並んでも/〈対〉で見る絵画(根津美術館)

2020-01-30 22:13:06 | 行ったもの(美術館・見仏)

根津美術館 企画展『〈対〉(つい)で見る絵画』(2020年1月9日~2月11日)

 複数の掛幅からなる対幅や、右隻と左隻で1双となる屏風など、〈対〉で成り立つ作品の見どころの多様さを紹介する。館蔵以外の作品も多く出ていて面白かった。

 おお、これこれ!と一番うれしかったのは狩野山雪筆『梟鶏図』。左幅は三白眼のニワトリ、右幅は三角おにぎりみたいなキュートなフクロウ。この子、府中市美術館の『へそまがり日本美術』展で見た!と思って調べたら、府中で見たのは山雪の別の作品『松に小禽・梟図』(1幅)だった。でもフクロウは同じ顔をしている。ヤクザのお兄さんみたいな怖い顔のニワトリ(でも意外といいひとかもしれない)と、あどけない、チビのフクロウ(でも意外と頭は回るのかもしれない)は、見れば見る程いいコンビである。

 松村景文筆『柳下双鴨・雪中山茶花図』は、あまりはっきりしない線で描かれた二羽の鴨の姿に気品があって見とれた。四条派の描く鳥や動物はよいなあ。谷文晁筆『離合山水図』(個人蔵)は、左右にそれぞれ聳え立つ単独峰の山の峰を描く。中景の雲海や前景の木立はなんとなくつながっていて、並べてもよく、気分によっては別々に掛けても楽しめる。こういうの、部屋に欲しい。

 室町時代の水墨画『許由巣父図』(東博)も来ていた。これは滝で耳を洗う許由が左幅で、牛を引いて立ち去ろうとする巣父が右幅。時間の流れが左→右になっているのは、珍しいのではないか?

 屏風は雪村筆『龍虎図屏風』、『吉野龍田図屏風』、光琳筆『夏草図屏風』の1双屏風が3点。豪華でありがたいな~と思ったけど、ちょっとくっつき過ぎでキツそうだった。『吉野龍田図屏風』は、桜・紅葉それぞれの画面に描き込まれた短冊の和歌の解説が添えられていた。古今集と玉葉集から。趣味がよいと思う。『夏草図屏風』は咲き乱れる草花の群れが、右隻から左隻へ屏風を跨いで滝のように続く。「対」の片方だけでは鑑賞できない例として紹介されていた。

 工芸は壺や徳利、刀の目貫など、いろいろなものがあったが、茶道具の羽箒が一般に「対」で用いられる(炉用と風炉用)ことを初めて知った。展示は『青鷺羽箒』で、炉用は羽根の幅が少し広く、風炉用は細めだった。

 展示室2は三幅対、四幅対など。中国では仏画を除いて三幅という形式はないというのが面白かった。しかし狩野探幽の『富士・育王山・金山寺図』(中央が富士山)というのも不思議な組み合わせである。春木南冥筆『三夕図』、土佐光起筆『三夕図』(東博)など、西行・定家・寂蓮の「秋の夕暮れ」の和歌を三幅対にした例を初めて知った。三首の順番は一定でないようだ。どれもぼんやりした景色で、絵画としてはインパクトがないのが面白い。

 三幅以上の作品は分割・分有されてしまうことが多いという説明として、同館所蔵の『売貨郎図』(中国・明代)2幅の横に、芸大所蔵の同名作品2幅の写真が添えてあった。なるほど、一連の作品らしかった。

 展示室5は『百椿図』と子年にちなんだ作品。『百椿図』には、ネズミが登場するというので、探しながら眺めたら、ピンクの散り椿に白と黒のネズミを配した図があるのを見つけた。金島桂華筆『夜の梅に鼠』(昭和時代)は、木箱に入った羊羹(虎屋の夜の梅!)をネズミが窺っている図。それから京博で見た灯り台『鼠短檠』も出ていた。人気があって普及していたのかな。

 展示室6「初月の茶会」はどことなく華やかだった。

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スサノオの末裔/出雲の神楽(国立劇場)

2020-01-28 23:40:54 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 第135回民俗芸能公演『出雲の神楽』(2020年1月25日 )

 東京に住んでいると、なかなか見る機会のない神楽の公演があるというので見に行った。佐陀神能(さだしんのう)は、松江市の佐太神社(出雲二の宮)に伝わる神楽で、採物舞(とりものまい=道具を持って舞う)の「七座」、「式三番」(≒三番叟)、シテ、ワキなど能の形式で演じられる「神能」の三種で構成される。最も特色ある「神能」に基づき、芸能全体も「佐陀神能」と称している。

 大土地神楽(おおどちかぐら)は、出雲市大社町の大土地荒神社に伝わる。出雲大社の門前町として、盛んだった芝居興行の影響もあり、観客を楽しませる所作・演出が多い。以上はプログラム冊子の解説だが、公演を思い出して、なるほど、とうなずいている。

・第1部(13:00~)佐陀神能「入申(いりもうす)」「七座:御座」「神能:三韓」/大土地神楽「七座:悪切(あくぎり)」「神能:八戸(やと)」

 幕が上がると、薄暗い舞台の中央に簡素な舞台。左右に篝火(のようなつくりもの)が置かれていて、野外の雰囲気を表現している。舞台の奥の板壁には垂れ幕が張られていて、ここから演者が出入りする。幕の前には演奏者が四人。銅拍子(摺り鉦)、笛、小太鼓、大太鼓。正確には締太鼓、鼕(どう)長太鼓というそうだ。この鼕長太鼓の響きに全身をゆだねるのは、実に気持ちよい。調べたら、松江には「鼕行列」という行事もあるそうだ。

 「入申」は神楽の開始を告げる奏楽。鼕長太鼓の演奏者が、拍子にあわせて五七五七七の和歌のような唱え言をいくつか述べる。「御座」は、畳んだ茣蓙むしろを持った舞人が登場し、舞台の四方を繰り返し清め、神様を迎える準備をする。詞章はなし。「三韓」は、能というより、かなり砕けた演劇的な神楽。神功皇后と竹内宿禰が軍勢を集めて韓国へ渡る。新羅王、百済王、高麗王が現れ、竹内宿禰とくんづほぐれつ、わちゃわちゃと戦う(ここが笑いどころ)が、最後は日の本に降伏する。なお、日本側は、竹内宿禰だけが戦い、神功皇后はただ影のように座っているだけ。神功皇后を除く登場人物は、かなりキャラクターを誇張した仮面を被る。

 休憩後、幕が上がると、左右の篝火がなくなり、舞台の上に紙製の灯籠がふたつ下がっていた。垂れ幕も「大土地神楽」のものに替わり、演奏者は笛三人、小太鼓二人、大太鼓(大鼕)の構成。舞人(神官)が登場し、舞台前方の机に用意されていた剣を取り上げて舞う。詞章は地方と舞人の掛け合い。東・南・西・北・中央・黄竜(?)の悪を鎮め、場を清める。途中、襷で袖をしぼり、抜き身の剣をバトンのようにくるくる回し、前後左右に激しく動き回る。息があがるのも当然。解説の方が、むかしは真剣を使っていた、とおっしゃっていた。今回、いちばん見応えのある演目だった。「八戸」は、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治を演劇化したものだが、このオロチが、どう見てもワニかトカゲだった。足があり、左右の手には榊の束を持ち、それを顔(仮面)のまわりで振るって、恫喝する(というか、ヒトを小馬鹿にしているようだった)。

・第2部(17:00~)大土地神楽「入申」「七座:茣蓙舞」「神能:野見宿禰」/佐陀神能「七座:剣舞」「神能:八重垣」「成就神楽」

 第2部、舞台は大土地神楽の設定でスタート。「茣蓙舞」はお多福の面をつけた孕み女(アメノウズメ)が登場。お多福は男性の性器をかたどった木の棒を帯に差している。次に晴れ着姿の少女(小学校低学年くらい?)が茣蓙を肩に乗せて登場。大国主命の娘である下照姫命という設定である。お多福の扇の誘導に従って、少女は茣蓙を左右に持ち替えたり、広げたり畳んだりしながら、舞台の四方をゆっくり歩きまわり、舞う。愛想笑いを見せない少女なのが、神聖さを感じさせてよかった。「野見宿禰」は、所作で笑わせる仮面劇。出雲の住人である野見宿禰が、大和の国で当麻蹴速と相撲を取り、勝利をおさめる。

 休憩後、舞台は再び佐陀神能の仕様に戻った。「剣舞」は四人の舞人が、前半は幣と鈴、後半は剣を持って舞う。わりとゆっくりした舞で、あまり緊張感は感じなかった。「八重垣」は再びスサノオのオロチ退治。佐陀神能のヤマタノオロチは、上下とも蛇を表す三角紋(鱗紋)をまとう、鬼面人身の姿である。ヤマタノオロチ in 神楽というと、巨大な蛇腹のイメージしかなかったが、多様な表現方法があるのだな。

 舞台上で簡潔でユーモアのある解説をしてくれたのは、出雲市にある万九千神社(まんくせじんじゃ/まくせのやしろ)の宮司の錦田剛志さん。スーツ姿だったので、最初、どこかの大学の先生かと思った。

 以前、国立劇場で島根県の「石見 大元神楽」を見たことがあって、このときは動きもさることながら、よく喋る芸能であることに驚いたが、今回の出雲神楽は、音楽の心地よさが際立っていて、喋りの印象は残らなかった。同じ「神楽」でも特徴はいろいろなのだ。無造作に「ニッポンの伝統芸能」みたいに括ることには、なるべく慎重でありたい。

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無謬のPDCAサイクル/大学改革の迷走(佐藤郁哉)

2020-01-27 00:32:19 | 読んだもの(書籍)

〇佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書) 筑摩書房 2019.11

 新書としては法外な分量(478頁)にひるんでいたのだが、信頼している大学人の方が「大学業界内部の人が皆わかっているのに、外部の人がわかってくれないことを、ほんとうに丹念に丁寧に説明」した本という論評をしているのを見て読んでみた。

 この数年、日本の大学の「危機」や「崩壊」を唱える書籍や記事が次々に世に現れたが、著者の射程はかなり長い。1991年、大学審議会の方針に基づいて実施された、大学設置基準の「大綱化」が1つの出発点になっている。文部省・文科省は、この大綱化の原則に基づいて各大学に改革を促し、評価・指導を行ってきたのである。

 しかし、30年にわたる大学改革政策は、大学における教育と研究の基盤をかえって脆弱なものにし、現場を停滞させてきた。これは、大学業界の関係者なら(教員に限らず)ほぼ誰もが同意することだが、外部の人には初めて聞く話、意味が分からない話かもしれない(改革が現場を停滞させるって?)。

 そこで著者は、欧米のシラバスとは似ても似つかぬ「和風シラバス」、PDCAサイクルへの過剰な期待ど具体例を挙げて、懇切丁寧に説き起こす。PDCAが日本の工学者たちの提唱したモデルだというのは初めて知った。PDCAの現実:無謀な計画を上司が立案→現場に丸投げ→適当にお茶を濁した評価→問題先送り、という風景には、既視感がありすぎて大笑いした。また、PDCAを機能させるには率直なCheck(評価)が必要だが、失敗が絶対に許されない官僚の世界では、そもそも機能するはずがない、というのも鋭い指摘だと思う。

 このほか、現場の実状に合わない数々の押し付け政策に対して、大学側は消極的な抵抗しか選択の余地がなかった。ほどほどのお付き合い、もしくは脱連結(面従腹背)である。この対応が政策の形骸化を生んだ一因であることは否定できない。著者は、大学関係者が「大人の事情」を優先させて、教育への信頼を損ない、子どもたちの未来を奪ってきたことの反省を求めている。

 しかし、より厳しく追及されているのは、やはり政府・文科省と各種審議会委員の責任である。まず高等教育に対する公財政支出の乏しさに関して、30年間、改善の空手形を切り続け、近年はその空手形さえ引っ込めてしまった政府と文科省。社会保障費や災害対策費の増大で、高等教育への支出が増やせないことは分かるが、その状況で世界ランキング100位以内に10校などというKPIを掲げるのは、戦前・戦中の精神論と何ら変わらない。舞台の大道具をなおざりにした「小道具偏重主義」というのも、膝を叩きたいくらい分かる。

 大学院の量的拡大が招いた若手研究者の就職難について、著者はこの30年あまりの資料を遡って、専門家(高等教育研究者)が表明してた懸念が全く活かされてこなかったことを明らかにしている。最も明白な失敗は法科大学院制度の破綻であろう。著者によれば、法科大学院の閉鎖や募集停止に至った大学は、ほぼ例外なくホームページ等で「お詫び申し上げます」と謝罪の言葉を述べているという。しかし、文科省は謝らない。官僚機構は無謬だから、決して謝罪しないのだ。これでよいのか?

 さらに言えば、文科省の政策方針に「お墨付き」を与えるための装置である審議会というもの、そこで発言する委員たちも責任を取らない。みんなで決めたことには誰も責任を取らないという、丸山真男のいう「無責任の体系」、著者の言葉でいう「集団無責任体制」は今も健在なのだ。あらためてこの恐ろしさを思い、自分のまわりからでも変えていかなければならないと思った。

 「EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メーキング)」が日本の官僚制の下では「PBEM(ポリシー・ベースト・エビデンス・メーキング)」になりがちとか、「GIGO(ガーベージ・イン・ガ-ベージ・アウト=屑データからは屑の結論しか出ない)」とか、たいへん興味深い用語も覚えることができた。胸に刻みたい。

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厨子甕と十王図/祈りの造形(日本民藝館)

2020-01-23 23:26:52 | 行ったもの(美術館・見仏)

日本民藝館 特別展『祈りの造形-沖縄の厨子甕を中心に』(2020年1月12日~3月22日)

 世界各地で作られた「祈りの造形」を紹介する特別展。その中心は沖縄の厨子甕(ジーシガーミ)、すなわち骨壺である。屋根をかぶせた家型のものを、何度か同館で見たことがあった。しかし特別展の主会場である2階の大展示室を覗いたときは驚いた。三方の壁沿いと部屋の中央と、色も形も多様な厨子甕が、ざっと数えたところ30件並んでいた。大展示室の外にも大小5件くらいの展示があったと思う。

 すごい!こんなに厨子甕を所蔵していたのか!と驚いたが、あとで読んだ展示図録(今回は珍しく作られている)によれば、2018年12月に長澤正義氏から寄贈を受けた25基(こう数えるのか)の厨子甕が中心になっているという。

 展示品のうち、最も多いのは家のかたちで、御殿(うどぅん)型と呼ぶそうだ。多くは正面に扉または窓を持ち、その両側に僧形の人物(地蔵?)や蓮の花を表す。屋根のかたちは寄棟、入母屋、二階立などさまざま。いろいろな装飾を貼り付け、華やかなものもあれば、簡素で素朴なものもある。素材も多様で、白っぽいサンゴ石灰岩(素朴な彩色が映える)、干したヘチマのような凝灰岩、陶製で褐釉を掛けたものなどがある。少数だが、甕型のものもあった。

 展示室の壁には拓本が多く掛けられていた。正面には、白っぽい厨子甕3基の間に『開通褒斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)』。左右をかわるがわる眺めて悦ぶ。沖縄の橋(たぶん石橋)の拓本も珍しくて面白かった。確か「世持橋欄干」と「観蓮橋勾欄」。お客さんに質問された係員の方が「今はもうない橋だそうです」と答えていた。

 なお展示図録『祈りの造形 日本民藝館所蔵・厨子甕』はとてもよい。色や文様がはっきり分かる解像度である。必ず全点を前後側面から写す、みたいな網羅性・資料性はないのだが、光のあて方、角度など「最も美しく見える構図」が選ばれていると思う。時々、拓本や掛け軸と取り合わせて床の間に置いたり、民藝館の庭で撮った写真もある。眺めていると不思議と心温まる写真集。こんな骨壺なら、ずっとそばに置いていても悲しくない。自分もこんな愛らしい器に収まることができたら幸せだろうと思った。杉野孝典さん撮影。

 併設展も「祈り」と「沖縄」に関するものが多かった。北斉の『水牛山般若経』は「舎利弗汝問云」で始まる、縦九文字・横6行の大きな拓本。展示図録には、素朴な石灰岩の厨子甕と取り合わせた写真が載っている。筆画が全て太くて丸っこくて、動きの少ない文字に癒される。木喰仏、円空仏、多数の絵馬、ペルーの土偶やニューメキシコの聖女像もあった。紙や紐を用いた神酒口・注連縄の特集も興味深く見たが、保管が大変だろうなあと思った。

 2階をひととおり見終わって、1階に下りる途中の踊り場で、ふっと目の端に気になるものが入った気がした。気になって顔を上げると、2階の左側の通路、階段を見下ろす位置の壁に小さな八曲屏風らしきものが掛けてある。なんと!昨年『日本の素朴絵』展で観客を魅了した(と私が思っている)ゆるさの極みの『十王図屏風』ではないか!慌てて2階に戻る。日本民藝館を知っている人なら分かると思うが、展示室3→4を通り抜けると、この狭い通路は見逃してしまうのである。よかった~気がついて。

 今回『十王図』は、いわゆる露出展示で壁に直接掛けてあるので、ぎりぎりまで近寄ってじっくり見ることができる。楽しくてうれしい。これ、見つけたときの喜びを倍増するため、わざと分かりにくいところで展示しているのかしら?と勘ぐってみる。

 1階は沖縄関連が多く、首里城復興に向けた募金箱がさりげなく置かれていた。「屋根獅子(シイサア)」という振り仮名つきの説明板があったが、柄の長い匙のような形をした「ジーファー」が何だか分からなかった。しばらく考えて、かんざしだと気づいた。

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縄文に始まる/やきもの入門(出光美術館)

2020-01-21 22:26:44 | 行ったもの(美術館・見仏)

出光美術館 『やきもの入門-色彩・文様・造形を楽しむ』(2019年11月23日~2020年2月2日)

 出光美術館の「やきもの」企画展には何度も行っているので、あまり新味はないかな、と思いながら出かけた。そうしたら、やっぱり面白かった。

 会場に入ってすぐは縄文土器と埴輪のコーナー(中国の彩陶もあり)。予想もしていなかったが、確かに日本のやきものの始まりはここからだ。これらが全て館蔵品であることも驚き。展示No.1の縄文土器は、比較的シンプルなつくりだが、口縁の左右の飾りの片方が大きく、片方が小さい。破損したのかと思ったら、最初からアンシンメトリーな造形だった。

 古墳時代から室町時代までは、須恵器、灰釉陶器など、色味の少ない簡素なやきものがつくられた。猿投窯、丹波窯など。灰色もしくは黒、赤茶など、ほぼ土そのものの地肌に、苔のような抹茶のような、沈んだ緑色の釉がひと流し、掛けられていて、その自然さが尊い。

 同じ頃、中国からは多彩な色と形のやきものが流入する。三彩や青磁のほか、「長沙窯」という種類を初めて認識した。『黄釉褐緑彩鳳凰文皿』は、その名称の華麗さには程遠く、庶民の普段使いみたいなお皿だった。『青磁貼花鉄彩水注』はヨーロッパのスリップウェアを思い出す色味で、西域ふうのパルメット文を貼り付ける。長沙窯はイランなど西アジアに輸出されており、輸出先の好みに合わせたと考えられるそうだ。磁州窯『白地黒花龍文壺』は、ギャグマンガみたいに両目の寄った龍の顔がかわいい。

 鎌倉から桃山の茶陶は、唐物と和物に分けて並べられていた。唐物『禾目天目』(健窯)は、内側に虹が見えた。和物は鼠志野の草花文がおしゃれで好き。黄瀬戸は油揚肌というのだな。「黄瀬戸は歪みを持たない」という解説に、あらためて納得する。

 桃山から江戸への転換期、展示室3の始まりに、初めて見る『盆栽図屏風』が展示されていた。六曲一双だが展示は一隻ずつで、私が見たのは左隻。遠山と金の雲を背景に11個の盆栽(盆山)がぱらぱらと並んでいる。そのうつわは、青磁らしきものもあれば、七宝らしきもの、色絵や青花のやきものもあった。

 桃山のやきもの、絵唐津も好きなので、たくさん出ていて嬉しかった、ぐりぐり文も丸十も松文もよいが、陶片『絵唐津兎文大皿片』のウサギがとてもよい。小山富士夫氏は「野武士のような」と言ったそうだが、私にはカブトムシみたいに見える。初期伊万里も好き。

 古九谷は、私の好きな青手の大皿がなかったことが残念。それと「古九谷」の産地に関する説明がなかったのはなぜなんだろう。九谷(石川県)と有田(佐賀県)の両説があることは承知しているが「入門」をうたう展覧会なのだから、そこは解説が欲しかった。ちなみに会場内には、さまざまな「コラム」のパネル(マンガで解説も)が掲示してあり、見て楽しく、読んでためになる展示だった。

 古伊万里、鍋島、柿右衛門、京焼の百花繚乱。どれも好きだ。柿右衛門(磁器)の肌は吸水性がないので、絵筆で鋭く繊細な描線を表現しやすく、京焼(陶器)は吸水性があり、絵筆や金銀で輪郭線を引き、色面で構成する手法が選ばれたという解説がとても腑に落ちた。

 最後は近代のやきもの。ポスターにも掲載されている、超絶技巧の『白磁松竹梅文遊環付方瓶』は出石焼・盈進社の作品。ちょっと中国の徳化窯っぽいと思った。

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没落する貴種/公家源氏(倉本一宏)

2020-01-20 23:26:14 | 読んだもの(書籍)

〇倉本一宏『公家源氏:王権を支えた名族』(中公新書) 中央公論新社 2019.12

 「源氏」と聞くと、どうしても清和天皇もしくは陽成天皇から出た武家の源氏に目が行きがちだが、実はほとんどの源氏は京都で貴族として活躍していた。本書は、日本の権力中枢に深くかかわりながら、あまり表面に現れて来なかった公家源氏(武家源氏と区別するための本書の用語)の、主に鎌倉時代初期までの様相を紹介するもの。

 その発端は平安時代初期(9世紀)、嵯峨天皇が皇子女8人に源朝臣の姓を賜り、臣籍に降下させたことだった。理由としては、財政問題の解決、自分の子を藩屏化する政治的意義、皇位継承者の削減など、さまざまな説がある。なお「源」氏の由来は北魏の太武帝が南涼王の禿髪破羌に源姓を与え、源賀と名乗らせた故事だという。一字名も源賀に倣ったというのは知らなかったのでここにメモ。

 以後、淳和(源氏賜姓の記録なし)、仁明、文徳、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐、村上、冷泉(なし※)、円融(なし)、花山(※冷泉源氏とも称する)、一条(なし)、三条天皇まで、それぞれ即位の事情や政治状況を紹介し、婚姻関係、皇子女とその子孫が網羅的な系図で示されている。すごい。これ、平安文学や史料を読むときのハンドブックとして使える。

 なじみのある名前もたくさん発見した。応天門の変で放火犯の濡れ衣を着せられかけた源信(嵯峨源氏)は『伴大納言絵詞』に描かれた貴公子。光源氏のモデルと言われる源融も嵯峨源氏。「近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」のエピソードは昔から好きだ。光孝源氏の源是忠は、賜姓後に再び親王に戻された。その曾孫が仏師の康尚である。これは知らなかったので、本書の目配りの広さに感心した。

 公家源氏は、臣籍降下直後はそれなりの優遇を受けたが、二世、三世になると、天皇のミウチ意識が薄れ、急速に官位が低下していくのが常だったようだ。その中で、村上源氏だけは、藤原道長の妻・源明子と源倫子に始まり、摂関家と一体化して繁栄を続けた。

 本書には「公家源氏のすごい人たち」という章が設けられていて、政治中心の記述では漏れてしまった「すごい人」が多数紹介されているのも嬉しい。大学者・源順(嵯峨源氏)もここに登場する。歌人の源重之(清和源氏)、源宗于、源公忠、源道済(光孝源氏)。「〇〇源氏」で整理すると、同世代(同時代)感がよく分かる。安倍晴明の相棒にして琵琶の名手・源博雅も、『宇治大納言物語』を編集したと伝えられる源隆国も醍醐源氏だ。王朝文学と公家源氏のかかわりは深い。しかし河原院に集った安法法師(源融の末裔)の名前が出てきたときは驚いた。大学でこのあたりを亡き恩師に習ったので、とても懐かしかった。あと、『鳥獣戯画』の鳥羽僧正・覚猷は源高明(醍醐源氏)の子孫なんだな。おお、天台座主・明雲も醍醐源氏だ。

 中世以降は、後三条、後白河(以仁王である)、順徳、後嵯峨、後深草、後醍醐、正親町天皇に源氏賜姓の例がある。院政期以降は、村上源氏が摂関家をしのいで大いに権力を振るった。北白川の鉢伏山の北斜面に、村上源氏一族の墓地があるというのも覚えておこう。村上源氏は、天皇家とのミウチ関係を続け、大臣を輩出しながら明治維新に至る。一方、公家源氏が地方に下って武士となった家も、数は少ないが存在するという。肥前の松浦党、近江源氏などがそうだ。

 「貴種」に淵源を持ちながら、世代が下るに従い、大量の没落貴族を生み出した、悲しい運命の一族。そのわずかな例外だけが、学問や芸術の領域、あるいは地方に生きた証をとどめたのだと思うと感慨深い。

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この世界に生きる意味/中華ドラマ『慶余年』

2020-01-19 23:49:59 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『慶余年』第1季:全46集(騰訊影業他、2019年)

 架空世界を舞台にした古装ドラマ。しかし、いろいろと仕掛けがある。大学生の張慶は、ウェブ小説コンクールに投稿するSF小説を、尊敬する葉教授に読んでもらおうとする。その小説の主題は「生命重来(生まれ変わり?)」、題名は小説『紅楼夢』の中で歌われる創作曲「留余慶」にちなんで「慶余年」という。英文タイトル「Joy of Life」の意味らしい。

 ナレーションによれば、小説の冒頭、重症筋無力症(中国語は肌無力症)を患っている現代青年が目覚めると、古装世界の赤ん坊になっていた。その子は范閑と名づけられ、現代世界の記憶を保ちつつ、海辺の街・澹州で育っていく。やがて青年に育った范閑は、南慶国の帝都・京都に暮らす父親の招きを受ける。范閑は私生児で、母親を知らず、祖母に育てられていたのだ。范閑を幼い頃から見守ってきた五竹は、かつて范閑の母の従者だったが、記憶の一部を失っていた。

 南慶国は皇帝の直下に監察院(鑑査院)という組織を備えていた。京都への出発直前、なぜか范閑は監察院から派遣された刺客に襲われる。刺客の滕梓荆はかえって范閑の護衛となり、身分を超えた友情を深める。

 京都で范閑は、さまざまな人物に出会う。父親・范健とその家族たちとはすぐに打ち解けた。人々に畏れられる監察院長の陳萍萍は、范閑にだけは優しい顔を見せる。亡き母・葉軽眉は監察院の設立者だった。婚約者の林婉児とは、思わぬ出会い方をして相思相愛になる。食わせ者っぽい皇帝の慶帝、監察院内部に渦巻く不穏な動き、太子と二皇子の両派の対立。慶帝の妹・長公主(林婉児の母親)は邪魔になる范閑を除こうと陰謀をめぐらせ、その結果、范閑を守ろうとして滕梓荆は命を落とす。

 さて南慶国は北方の北斉国と緊張関係にあったが、北斉国に間諜として潜り込んでいた言冰雲が捕えられたとの情報が入る。南慶国は、監察院の地下牢につながれていた肖恩を送還し、言冰雲の身柄と交換しようとする。范閑は勅使として北斉に赴く。

 北斉の宮廷も皇帝派と太后派の対立、太后お気に入りの権臣・沈重の専横、沈重と対立して遠ざけられている大将軍・上杉虎(この名前w)など複雑だった。沈重は送還された肖恩を幽閉し、秘密裡に殺害しようとする。それを助け出した范閑だったが、深手を負い、死を覚悟した肖恩は最後に驚くべき秘密を范閑に語って聞かせる。はるか北辺の山上にある神廟の秘密。それは、南慶国の陳萍萍と慶帝がどうしても欲しがったものであり、范閑の出生にもかかわるものだった。

 重大な秘密と陳萍萍に対する疑惑を胸に帰還を急ぐ途中、范閑一行は南慶国の軍に襲われる。最終回の最後の2分くらい、突然、文章の並んだパソコンの画面が映り、これまでのドラマが、葉教授が読んでいた小説の内容だったことを思い出す。「これで終わり?」とつぶやく葉教授。ノートPCを閉じて鞄に仕舞い「もちろん、まだ」と微笑む大学生の張慶(范閑と二役の張若昀)。洒落た演出だが、ドラマ本編の終わり方が衝撃的すぎて、続きは~!第2季は~!と暴れたくなる。

 范閑は私たちの世界の記憶を持っている設定なので、杜甫や李白の詩を暗唱して絶賛を浴びたり(しかし彼らの世界に黄河や巫山は存在しないらしい)、現代科学用語を口にして理解されなかったり、現代人ふうの行動が出てしまったり(朝食にハムエッグもどきをつくっていた)、くすっと笑えるシーンがところどころにある。一方で滕梓荆の死を「たかが護衛」と言われることに反発し、人の命は平等だ、と言い続けるのも現代人の感覚ならば納得ができる。

 また基本的にはおちゃらけた性格の范閑が時々ふっと真面目になり、自分はなぜこの世界にいるのか分からなくて、ずっと孤独で寂しかった、と述懐するところも共感できた。たぶん、違う世界の記憶を持って生まれ変わったらそう感じるだろう。いや、自分の世界しか知らなくても、人は時々そういう孤独を感じるものだ。林婉児に出会うことによって、范閑はようやく自分がこの世界に生きる意味を見つける。

 もうひとり、范閑が北斉で出会うのが海棠朶朶(辛芷蕾)。武功高手で北斉の聖女と呼ばれているが、規律に縛られず、自由に生きていて、范閑と意気投合する。この二人の関係性は現代的でとてもよいのだが、第2季以降どうなるんだろう? このほか、魅力的な脇役には事欠かないドラマであるが、話数のわりには登場人物が多すぎて、動かし切れていない感じがした。第2季に期待する。

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2020博物館に初もうで(東博)+KANNON HOUSE

2020-01-17 22:07:25 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 本館・特別1-2室 特集陳列『博物館に初もうで 子・鼠・ねずみ』(2020年1月2日~1月26日)

 新春恒例、干支にちなんだ「博物館に初もうで」展。今年は三が日を台湾で過ごし、次の週末は関西旅行に出かけていたので、ずいぶん遅くなったが見てきた。各種のネズミ色の着物とか、焼きものの鼠志野とか、切り口が工夫されているが、インパクトはいまいちだった。やはり水滴や印籠など、小さい工芸品が多いので、迫力に欠けるのだろうか。『金庾信墓護石拓本』と『十二類合戦絵巻』は京博と共通だった。

 面白かったのは『隼人石像碑拓本』。頭はネズミ、体は人間の人物が、褌姿の裸体で、胸元で両手を重ね、長い杖を持っている。奈良市法蓮佐保山の那富山墓(なほやまばか)内にあり、ネズミのほか、ウシ、イヌ、ウサギが見つかっているそうだ。これ、近いうちに見に行きたい。あと歌舞伎にちなんだ浮世絵もいくつか出ていた。私はネズミといえば『伽羅先代萩』の二木弾正、『頼豪阿闍梨恠鼠伝』の頼豪阿闍梨だと思うのだが、正月だから、あまりおどろおどろしいネタは駄目なのかな。

 「鼠と言えば猫」という発想で、猫に関する古文書や浮世絵も展示されていたが、子歳の私からすると、それは違うだろ、と言いたい。

前回の子歳(2008年)の展示レポート

 そのほか国宝室は、これも新春恒例『松林図屏風』(2020年1月2日~1月13日)。特別公開『高御座と御帳台』は相変わらず混んでいるのでパスしてしまった。仏教の美術で『不動利益縁起絵巻』を久しぶりに見ることができて嬉しかった。安倍晴明の祈祷を受けている(?)怪異のものたちがかわいくて大好き。

 アジアギャラリー(東洋館)は、最近、最上階の朝鮮絵画のコーナーから見るようにしている。「猫図」4点+「虎図」1点がミニ特集になっていて面白かった。黒と白のはちわれっぽいこの子たちがキュートで気に入った。

 中国絵画は特集陳列『生誕550年記念 文徴明とその時代』(2020年1月2日~3月1日)。文徴明(1470-1559)は明代中期を代表する文人で蘇州生まれ。50代で北京で3年間の官僚生活を送り、帰郷してからは、蘇州の芸苑、呉派の中心的人物として活躍した。本展は、文徴明だけでなく、祝允明の書、唐寅や謝時臣、李士達、盛茂燁の絵画など、さまざまな作品が楽しめる。明代の文化って、以前はあまり魅力を感じなかったけれど。最近、興味が湧いてきている。

びわ湖長浜KANNON HOUSE 『正妙寺 千手千足観音立像』(2019年12月24日~2020年3月15日)

 正妙寺(長浜市高月町)の千手千足観音立像がいらしていると聞いて、会いに行った。初めて参拝したのは、2010年の高月「観音の里ふるさとまつり」で、見たことも聞いたこともないお姿にびっくりしたことを覚えている。その後、展覧会などで何度かお見かけしている。

 この展示場はカメラOKなので、畏れ多くも写真を撮らせていただいた。嬉しい。異形の神仏は力強くて頼もしい。

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先史時代~唐・安史の乱/中華の成立(渡辺信一郎)

2020-01-15 20:42:15 | 読んだもの(書籍)

〇渡辺信一郎『中華の成立:唐代まで』(シリーズ中国の歴史 1)(岩波新書) 岩波書店 2019.11

 新たに刊行が始まった岩波新書の「中国の歴史」シリーズの第1巻。全5巻で、時間的には先史時代から20世紀(中華人民共和国の成立)まで、空間的には草原・中原・江南・海域を包括的に扱うことを目指している。その全体図(各巻の守備範囲の見取図)を見たときは、これから始まる壮大な物語を想ってわくわくした。

 しかし第1巻を読んだ感想としては、新書5冊で中国三千年の歴史を一望するのは、かなり無謀な試みだと分かった。第1巻は、まず新石器時代(紀元前5000年紀~)における農耕社会の形成を短く語り、夏(二里頭文化)、殷周時代を経て、秦漢帝国に至る。ヒトゲノム解析によれば、2500年前の「中原」には、現代ヨーロッパ人に近いパン・ユーラシアンが暮らしていたが、紀元前後の秦漢時代に漢族(東アジア人類集団)の形成が進んだと見られている。

 秦始皇帝の専制統治の根幹をなす郡県制、漢高祖による郡国制の創出というあたりは、渡邉義浩『漢帝国』を思い出すと参考になった。漢武帝の時代には三輔(首都圏)-内郡(漢人の住む地域)-辺郡(諸種族が混住する)という中心-周辺構造が意識された。辺郡のうち帝国直轄領域が「天下」であり、三輔と内部が「中国」である。帝国領域では、郡県制と封建制と貢献制という、異なる原理に基づく重層的な支配従属関係が形成された。なるほど、教科書みたいに一つの原理では割り切れないのだな。そして帝国領域外からの貢献は、皇帝の徳治の及ぶ範囲を実証するものだった。正月に故宮博物院で「朝貢図」の特集展示を見ながら、このことを思い出していた。

 王莽の国政改革は、のちの歴代王朝が参照する「中国における古典国制」を成立させた。その根底にある秩序原理が生民論と承天論である。天の生みなした民衆には統治能力がないので、有徳の天子が天から統治を委任されるというもの。漢代については「均田制」の実態探求も面白かった。当時の人々にとって「均等」とは、一律均等ではなく、貧富・貴賤・長幼に基づく分配が「均」(公平な分配)と考えられていたという。

 後漢の衰退によって、中国は分裂時代を迎える。魏晋南北朝、五胡十六国時代。この頃、華北では二頭の牛に鉄製犂をひかせて耕起・整地を行う大農法が普及し、農村の聚落形態、家族形態などに大きな変化をもたらした。中家層が没落し、大家層(富家層)と貧家層への二極化も進行する。

 最終章、あと40ページくらいでようやく隋唐帝国の始まりに至り、もう無理だろ~と頭を抱えたくなった。限られた紙数の中で詳しく述べられていたのは、隋文帝による礼楽、特に楽制(宮廷音楽)の再建と革新。民間音楽との区別を明確にし、「中国民族音楽」形成の出発点となった。また、元会儀礼(新年拝賀)において参加者が臣従を誓う「舞踏」礼も定められた。これらは、日本の王朝文化への影響も大きいと思う。今度、雅楽を聴くときは隋文帝の名前を思い出そう。

 唐太宗は隋の事業を引き継ぎ、国制を整備していく。中国と北方遊牧世界の王権を一人で兼ね、天下の主となり、天河汗と号した。北の遊牧世界と南の中華世界の相互作用が生み出した新たな中国(第二次中華帝国)の誕生である。本書を読んでいると、過去の中国人が描いてきた(現代中国人にも基本的に共有されている)世界像が分かる気がしてくる。そしてそれは、現代中国の玄幻(ファンタジー)小説やドラマの設定にも強い影響を与えていると思う。

 玄宗は唐王朝の最盛期をもたらすが、その裏側で農民の戸籍離脱が増加し、財政・軍制の危機を高め、律令制は次第に変質を余儀なくされた。このへんは、昨年、氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国:隋唐時代』で読んだところ。本書は安史の乱の始まりをもって終わる。

 本書は、中国史をある程度知っていれば、新たな視点の知識を得ることができて、たいへん面白い読みものだと思う。「天下」「中国」など、歴史的なキーワードの正しい理解にもつながるし、王莽、隋の文帝など、歴史上の人物が果たした役割についての認識も変わる。ただし「おわりに」で著者が述懐しているとおり、(この時代の)「全体史とはとてもいえない」ので、初学者には不満の残る著作かもしれない。適切な読者に選ばれて読まれてほしいと思う。

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関東人の大阪新春散歩2020

2020-01-14 21:44:59 | なごみ写真帖

国立文楽劇場で初春公演を見て、高津宮に参拝したあと、もう1ヵ所、行きたいところがあった。

昨年9月にリニューアルオープンした大丸心斎橋店本館である。2015年12月30日に閉館したあと、アメリカ人建築家ウィリアム・メリル・ヴォーリーズの名建築として名高い旧本館の雰囲気をできるだけ残すかたちの建て替え工事が行われ、このたびグランドオープンした。

実際、予想以上に旧本館の意匠が踏襲されていて感激した。ありがとう、大丸!

↓これはイソップ童話の場面かな?

私は2016年の正月にも大阪に来て(文楽新春公演を見て)閉館直後の大丸の外観を眺めている。そのときの孔雀レリーフの写真(※こちら)だと、レリーフを保護するように半円形の屋根(?)が取り付けられているが、リニューアル後は屋根がなくなって、レリーフらしくなった。

参考:大丸心斎橋店スペシャルサイト

文楽太夫の織太夫さんなど、5人の方が心斎橋店の思い出を語る動画を掲載している。そこで気づいたのだが「心斎橋店(しんさいばしみせ)」なのね! 東京人の私はずっと「心斎橋店(しんさいばしてん)」だと思っていた。

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