見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

全国津々浦々/雑誌・芸術新潮「神の空間を旅する 神社100選」

2016-08-31 22:19:51 | 読んだもの(書籍)
○雑誌『芸術新潮』2016年8月号 創刊800号記念特大号「神の空間を旅する 神社100選」 新潮社 2016.8

 読むというより眺める記事が多いので、7月末に購入して以来、気が向くとパラパラ開いて眺めている。「神社100選」は「神社の誕生」「神話の神様とその現場」「神社名建築紀行」「神と仏の千年史」「人、神となる」「山は神さま」「国宝あります」「諸国一の宮めぐり」の8つのカテゴリーに計100社を選び、写真・基本データ(祭神、社格、所在地、行き方など)・短いもので200~300字の紹介文が掲載されている。「日本全国」と言いたいところ、沖縄はあるが、北海道は1社もない。私は、わずかな期間だが道民だったことがあるので、ちょっとショックだったが、まあ妥当かなあ…。江差の姥神大神宮を入れてほしかった。よく見ると、ほかにも1社も入っていない県があって、岩手、山梨、徳島、佐賀が該当する。

 100社のうち、行ったことがある(記憶がある)のは、半数を少し超える程度だった。コンプリートだったのは「人、神となる」の10社。日光東照宮とか大宰府天満宮とか明治神宮とか、現代の日本人にとって、最もポピュラーな神社が多いカテゴリーである。私は寺好きだから、「神と仏の千年史」のカテゴリーもかなり踏破している。全滅だったのは「山は神さま」で、山登りを伴う神社には全く行けていないことを自覚した。

 個人的に、リストに入れてほしかったな~と思ったのは、島根県の揖屋(いや)神社。入沢康夫さんの詩「わが出雲・わが鎮魂」に登場する神社である。それから、和歌山県の天野社(丹生都比売神社)。逆に、よくこんなところが入ったなあと驚いた(嬉しかった)のは滋賀県の油日神社。のんびりした雰囲気を思い出して懐かしかった。写真を見て、行きたい!と思った第一は、長崎県・対馬の和多都美神社。海上に立つ二基の石の鳥居、見てみたい。社前には不思議な「三柱鳥居」があるという。京都の吉田神社は、参拝したことはあるのだが、奇妙な外観の大元宮という建物は記憶にない。今度、見てこなくちゃ。

 さて「神社とは何か」「神道とは何か」「カミとは何か」については、多方面から解説記事が書かれている。私は「神話の神さま名鑑」(死後くん・イラストレーション)の記事がけっこう気に入った。女性にモテモテのオオクニヌシノミコトとか武闘派のタケミカヅチノカミとか、実にイメージどおりで笑った。ただ、スミヨシ三神は、私は老人のイメージである。「人を神として祭るということ」は、茨城大学教授の伊藤聡さんの解説。Q&A方式で分かりやすい。内容をよく分かった人が編集しているなと感じた。ここも別府麻衣さんのイラストレーションが可愛い。日本国の大魔縁となった崇徳院、可愛すぎるw

 神社の外観は、お寺に比べると変化に乏しいから、つまらないかと思ったが、けっこう眺めて楽しめるものである。本誌は、日常のたたずまいを中心に掲載しているが、神社は「祭り」のときだけ、全く別の空間に変わってしまうもので、その魅力は、記憶と想像で補う必要がある。
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中国統治のマヌーヴァー/習近平の中国(宮本雄二)

2016-08-31 20:25:16 | 読んだもの(書籍)
○宮本雄二『習近平の中国』(新潮新書) 新潮社 2015.5
 
 この夏、久しぶりの中国旅行に出かけるとき、成田空港の書店で買って、行き帰りの飛行機の中で読んできた。罵倒と嘲笑だけの嫌中本は避けようと思い、直感で選んだ本書は、全く知らない著者の本だったが、中国に対する深い理解に支えられていて、好感を持った。

 著者は外務省で長く中国関係の仕事に携わり、2006年から2010年まで駐中国大使もつとめている。冒頭の回想によると、2001年のはじめ、北京勤務から帰国した著者は「中国共産党の統治は長く持たない」という見通しを持って、「今後5年持つかどうか」という数字を入れたペーパーを、外務省内で配ったことがあるそうだ。江沢民政権の末期の話である。しかし予測は外れた。以後、著者は、もっと中国人のものの考え方を理解すること、中国共産党の統治能力を過小評価しないこと、を自戒とする。私はこの箇所を読んで、あ、この著者は信頼できるという確信を得た。

 はじめに共産党の統治実態についての解説がある。党の基本構造や党と行政組織の関係は、一般的な解説書でも見たことがあるが、彼らの組織運営の基本が「個別醞醸(うんじょう)」という話し合い方式であるというのは知らなかった。筋を通しながら、柔軟かつ上手に組織をまとめ、物事を決めていくには高い能力を必要とする。だから共産党は、優秀な人材の確保に強いこだわりを持っているという。

 少し歴史を振り返ってみよう。鄧小平は自分の後継者に、胡耀邦と趙紫陽を考えていたが、どちらも民主化問題でつまずいてしまった。そこでダークホースとして浮かび上がったのが江沢民である。江沢民時代の中国は、基本的に鄧小平が定めたラインで進んだ。社会の安定と順調な経済発展をもたらしたのは江沢民の手腕だが、腐敗防止の取組みは進まず、国民の格差は拡大した。このことに「国民は本当に怒っている」と著者は書いている。

 次の胡錦濤も鄧小平が決めたリーダーだった。しかし胡錦濤時代になっても、江沢民の影響力が政治常務委員会を支配していた。「独裁」と見られがちな共産党だが、その基本原則は「集体領導、民主集中、個別醞醸、会議決定」の16文字だという(2002年決定)。中国は意外とルール重視の国なのだ。ルールの制約の中で目的を実現するには、ルールを操って事を進める実力がなくてはならないのだが、胡錦濤にその力はなく、既得権益層の抵抗を突破できなかった。「中国国民は本当に怒っている」と著者は再び書く。

 そこに登場したのが習近平である。共産党が統治を継続するには、既得権益層を倒して、大改革を成功させ、国民の信頼を回復させなければならない。そのためには、強いリーダーシップをとれる総書記が必要である。この危機感が、習近平への権力の集中に党内のコンセンサスを与えている。

 習近平は、特に党内の引き締めと反腐敗闘争に力を入れている。反腐敗は国民へのアピールでもあるが、共産党を「規律正しい能力の高い実働部隊に本気で変えたいのだ」と著者は言う。このへん、やっぱり長い歴史を持つ政治の国のリーダーだなあ、と私は単純に感心する。「トラ(大物)もハエ(小物)もともに叩く」と宣言し、盟友・王岐山とともに徹底した取組みを行い、「大トラ」徐才厚と周永康(どちらも江沢民と関係が深い)を処断した。しかし、これ以上の大トラ退治はないだろうと著者は見る。反腐敗闘争をやりすぎると、党の分裂を招いたり、党に対する国民の信認が決定的に下がる可能性がある。そこは微妙なバランスが求められているのである。

 共産党が国民の不満に敏感で、いつも「統治の正当性」の強迫観念におびえていることについて、著者は「易姓革命」の伝統から説明している。なるほど。「中国共産党のものの考え方の中には、われわれの想像以上に、国民との関係が大きな位置を占めていることを頭に入れておく必要がある」という指摘はとても面白い。全く逆の観察をする中国ウォッチャーも多いだろうが、中国の歴史を知っていると非常に納得がいく。

 「統治の正当性」の回答として、江沢民は2001年に「三つの代表」理論を掲げた。共産党は中国の「最も先進的な生産力」「最も先進的な文化」「最大多数の人民の利益」を代表するというものだ。共産党は階級闘争を捨て「みんなの党」になろうとしたのだが、上手くいかなかった。中国社会の急激な変化と多様化は、古い制度を無意味にし、新たな制度とそれを運営できる新たな人材が求められている。経済は、もはや成長モデルからの転換が急務である。伝統的な価値観が廃せられたあと、社会の中心となる価値観が定まっていない。共産党は、かつての無知で貧しい国民ではなく、賢く豊かで、自己主張する国民を「指導」していかなければならない。「民主」の問題は絶対に避けられない。

 等々、とにかく課題山積の中で、中国共産党は統治の継続に挑戦している。変わり続ける中国が、今後どうなっていくのか、習近平の仕事ぶりを虚心坦懐に見守りたい。むかし、内田樹先生が『街場の中国論』という本で、13億人の大国を統治するのに必要なマヌーヴァー(攻略)は、当然、日本のそれとは異なる、という趣旨のことを書いていたが、「中国統治のマヌーヴァー」の一端を垣間見たように思った。

 なお、最後に「中国の軍拡を必要以上に恐れるな」という章と「日中関係の行く末」についての著者の希望を述べた章があり、どちらも興味深いものだった。
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いつか必ずくる地震/南海トラフ地震(山岡耕春)

2016-08-30 03:02:07 | 読んだもの(書籍)
○山岡耕春『南海トラフ地震』(岩波新書) 岩波書店 2016.1

 関東育ちの私は、子どもの頃から大地震が来る来ると聞かされてきた。結局、個人的には幸いなことに、阪神淡路大震災でも東日本大震災でも大きな被害を蒙ることなく、半世紀を生きてきたが、そろそろ「当たり」が来てもおかしくないと思っている。むかしは「東海地震」が恐れられていたと記憶するが、近年、「南海地震」あるいは「南海トラフ地震」という名称をよく聞くようになった。

 「トラフ」とは飼葉桶の意味で、細長い海底の窪みのなかで地形の急峻なものを海溝、緩やかなものをトラフと呼ぶのだそうだ。伊豆半島の付け根の駿河湾から四国沖に至る南海トラフでは、フィリピン海プレートが日本列島の下に沈み込んでおり、過去に繰り返し巨大地震が発生している。白鳳地震、仁和地震、一部省略して、慶長地震、宝永地震、安政東海地震、近代では、1944年の昭和東南海地震、1946年の昭和南海地震など。

 南海トラフ地震に関する文書記録は、比較的豊富に残っている。影響範囲に、日本の政治的・文化的中枢が含まれていたからだろう。これに比べると、関東大地震(相模湾のプレート境界で発生する大地震)は、1923年の関東地震と1703年の元禄地震しか記録が残っていないそうだ。なるほど、地震の研究に古記録を利用するのは大切だけど、それだけを信用してもいけないのだな。

 では、南海トラフ地震とはどんな地震なのか。はじめに、2011年の東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震との違いを検証する。東北地方太平洋沖地震は、日本海溝沿いで太平洋プレートが沈みこむことで起きた。この地域では、ふだんからプレート境界がゆっくり動いている。一方、南海トラフはふだんは静かだが、いきなり巨大地震が発生するという特徴を持つ。陸地と震源域の距離は、南海トラフのほうが東北地方より近い。そのため、津波に加えて揺れも強くなる。また、東北地方太平洋沖地震では、地震発生から津波の到達まで、30分から1時間の余裕があったが、南海トラフでは、駿河湾沿岸で地震が発生した場合、おおむね20分、最悪3分で津波が到達すると考えられている。えええ、怖い。「揺れが続いている最中に津波もやってくる」って、著者はさらりと書いているけど、とても逃げられる気がしない。

 地震の社会的条件も考慮しておく必要がある。東日本大震災では、980万人(青森、岩手、宮城、福島、茨城県の人口合計)を、日本の残り人口1億1700万人が支援した。南海トラフ地震で、静岡から宮崎、鹿児島までの太平洋側の県が被災した場合、3500万人を9200万人が助けなければならない。これは大変。しかも太平洋ベルト地帯と呼ばれる東西交通の要が直撃された状態で、物流は確保できるのか。いざというときに備えて、中央リニア新幹線を早期に開通しておくべきだなあとか、東北の復興を急ぐことは、次の地震で、もしかしたら「支援する」側にまわる地域の体力を養っておくという点でも重要なことがよく分かった。

 さらに、都道府県別、あるいは東京・名古屋・大阪の大都市で、どのような被害が出るかという想定も紹介されている。抑制された筆致であるだけに、各地域の弱点がむき出しになっていて、ぞっとする。大阪湾に津波が押し寄せると、街中をめぐる堀川を遡上する恐れがある。大阪駅・梅田駅まで浸水域に含まれるという。また大阪府は住宅が密集しているため、火災による建物被害は全国最多となる見通しである。もっと詳しく見ると、三重県では、伊勢湾の中か外かによって、津波の被害が大きく異なる。濃尾平野は伊勢湾の奥にあり、津波の到達は遅いが、海抜ゼロメートル地帯であるため、もし地盤の液状化によって川の堤防が壊れると、すぐに浸水が始まる。うーむ、私は本書を読んではじめて、自宅周辺のハザードマップというものをダウンロードして開いてみる気になったが、なんだか分かりにくいものだった。

 余談だが、南海トラフ地震は富士山の噴火を引き起こす可能性もある。1707年の宝永地震がそうだった。関連して、JR三島駅付近には、溶岩流の痕跡の上に直接新幹線の高架が建設されている場所があるという。三島市内には、固まった溶岩流の割れ目を流れてきた地下水が、いきなり幅50メートルくらいの川が始まるところもあるそうで、いつか見てみたいので書き留めておく。「ブラタモリ」で取り上げてくれないかな。

 本書には、このほか、ライフラインの被害と復旧の見込み、日ごろ心がけておくべき防災対策、防災訓練についても詳しい解説がある。われわれは、どうしても地震予測に関心が向きがちだが、「予測だけでは被害は減らない」というのは、全くそのとおりだと感じた。
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理想と誇りの住まい/集合住宅(松葉一清)

2016-08-29 01:46:23 | 読んだもの(書籍)
○松葉一清『集合住宅:二〇世紀のユートピア』(ちくま新書) 筑摩書房 2016.8

 20世紀前半、世界中で建設された集合住宅は、庶民にも快適な生活を行きわたらせようという強い信念に支えられていた。この時代、建築家たちが目指した住空間を、本書は「ユートピア」と呼ぶ。

 店頭でパラパラめくったら、冒頭に長崎の軍艦島が取り上げられていた。日本で最初に鉄筋コンクリートの高層住宅が建てられた地として知られているが、最近読んだ『世界「最終」戦争論』で姜尚中先生が、格差と階層を色濃く反映した集合住宅だったことを指摘していて、関心を抱いていたのだ。

 本書では、三菱の社員と中国人や朝鮮人労働者の待遇の差という話は出てこない。むしろ、猛烈な風と高波に抗う厳しい自然環境が、資本家と労働者に一種の戦友意識をつくり出したと語られている。しかし、いずれにしても鉱夫を高密度で住まわせる目的に特化した結果、快適さに配慮した「都市計画」は存在しなかった。ピラネージの「監獄」を思わせる光景。今日の廃墟には「ディストピア」の暗さが漂っているという。

 軍艦島の章からあとは、しばらく海外の集合住宅の紹介が続く。フランクフルト、ウィーン、アムステルダム、パリ。いずれも20世紀前半(つまり軍艦島と同じ頃)に建てられた集合住宅が現役で残っている。それらは、規格化・工業化によって建築生産の効率を上げることで、大都市労働者の住宅問題の解決を図る試みであった。より多くの人々に「生活に最低限必要な機能」を満たす(この意味は、多くの日本人が考えるよりも、かなりレベルが高い!)住空間を提供すること。それが建築家の社会的使命であり、モダニズムの志向する「ユートピア」だった。私は初めて、モダニズム建築の真の意義を理解したように思う。

 写真と著者の訪問ルポで紹介されている各都市の集合住宅は、それぞれ異なる背景や設計思想を持つ。しかし共通している点もあって、個別の住空間以上に、コミュニティのデザイン(都市計画)に注意が払われていることはそのひとつだろう。ベンチの老人たちが子供たちを見守るような、コミュニティの機能が今も健在であり、多くの住民が自分の住宅の歴史に誇りを持って、百年近い歳月を経た集合住宅を維持管理しながら住みこなしているというのは驚きだった。日本の集合住宅の場合、どうしても仮住まい意識が強くて、なかなかそれほどの愛着を持てないと思う。

 そして再び日本へ戻る。1930年、関東大震災からの帝都復興が進む中で、建築家・山田守(1894-1966)が紹介したヨーロッパのモダニズム建築、とりわけドイツ語圏でいう「ジードルンク」(集合住宅団地)に注目が集まり、同潤会アパートメントが生み出される。「同潤会」の建築家には、ただの「ねぐら」でなく、暮らしの全てをまかなう小宇宙=ユートピアを目指す意識が明確にあった。同じ意識をもって、江東区のスラム・クリアランスのための集合住宅も手がけた。

 1980年代、同潤会アパートの老朽化が進み、建て替えが始まると、保存運動が起きたことは、私も記憶している。著者は、ノスタルジーの対象としてではなく、「ユートピア」志向を語り継ぎ、それを学ぶために残す価値があったと振り返る。しかし、老朽化の状況(まっすぐ歩けないほど床がうねり、傾斜していた等)を考えると取り壊しはやむを得なかったとし、ヨーロッパの同時代の集合住宅と比べて「彼我の技術、そして建設後のメンテナンスに対する知識の落差」を嘆いている。特に後者の差は大きいのではないかと思う。2015年までに同潤会アパートは全て姿を消した。

 なお、世界の集合住宅ルポに登場しなかったイギリスでは、「田園都市」構想による労働者救済が試みられた。「田園都市」の提唱者であるハワードは、レッチワースに職住近接の住宅都市の実現を図った。緑に囲まれたなかに住宅の街区があり、居住者はそこから徒歩で仕事に出かけるのだ。これもまた、今なお健在であるという。うらやましい…というか、やっぱり日本人の「健康で文化的な最低限度の生活」に対する感覚は、もっと是正されるべきなんじゃないかと思う。本来の「田園都市」は労働者の快適な生活のためのものであって、一握りの投資資産家のものではないのだ。

 「ユートピア」を目指した同潤会アパートが完全消滅し、軍艦島が世界遺産として残ったことに対する思いを著者は「歯がゆさ」と表現している。今はせめて、この「歯がゆさ」だけでも未来に継承していくしかないと思った。
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留学生の暮らす街/帝都東京を中国革命で歩く(譚璐美)

2016-08-28 19:29:57 | 読んだもの(書籍)
○譚璐美『帝都東京を中国革命で歩く』 白水社 2016.7

 辛亥革命前後の1900年代初頭から1920年代にかけて(大正から昭和の初め)中国では日本留学ブームが巻き起こり、日本には中国人留学生があふれていた。今、この歴史に関心を持つ日本人は少ないが、中国の側から見ると、日本留学組を無視して中国近代史を語ることは絶対にできないと思う。

 著者の自己紹介によると、著者の父親は19歳で革命運動にのめり込んで軍事政変に巻き込まれ、すんでのところで命拾いして日本に脱出し、早稲田大学で学んで、以後も日本に暮らし続けた。高校生のとき、広東大学で行われた孫文の講演会の記録係をしたことがあって、1日目「民族主義」の講演では会場に人が入り切らず、2日目「民権主義」の講演では聴衆が半分に減り、3日目「民主主義」の講演では、7、8人になってしまった。孫文は「お前らに民主主義がわかるか!」と怒って出て行ってしまった、という。著者のお父さんの話が巧いのか、あまりにも出来過ぎだけど、決して聖人君子でなかった孫文らしいと思ったので書いておく。

 本文は「早稲田」「本郷」「神田」の三部構成になっていて、各五章ずつのエピソードが紹介されている。早稲田→本郷→神田は、おおよそ時代順でもある。早稲田は、鶴巻小学校の正門前あたりに早稲田大学の清国留学生の宿舎があり、周辺には中華料理店が多かった。戊戌政変で清国を追われて日本へ亡命した梁啓超も、一時、早稲田鶴巻町に住んだ。

 本書には、各章ごとに現在の関連場所の地図と、明治30年、明治39年、明治43年、大正11年の地図の図版が掲載されているが、図版ごとに縮尺が違っていること、古地図の体裁に倣った結果、必ずしも地図の上が北でない(そのことを注記していない)ことなど、分かりにくい。梁啓超の旧居も、番地まで分かっているのだから、現在の地図でどこに当たるのか、もう少し特定できそうに思うのだが、それをしていないのも不思議である。そして「梁啓超旧居跡」の現状写真とか、おすすめ散策ルートとかがないのは、本書の編集者が、あまり街歩きに興味のない人なんだろうか? なお、著者は梁啓超が大好きだそうで「彼ほどハンサムで辮髪の似合う人はいないだろう」と書いている。私も梁啓超ファンなので、大いに同意。しかし、それなら辮髪の写真を載せてくれればいいのに、この点も気が利かない。

 ほかに早稲田に関係する者としては、宋教仁、蒋介石。蒋介石のことはよく知らないのだが、現在の東京女子医大の場所にあった振武学校(清国人専用の軍事予備学校)で学び、卒業後は新潟県高田町の陸軍連隊に配属されて、馬の世話ばかりしていたとか、辛亥革命の成功を知って帰国するとき、水盃で祝ってくれたのが師団長の長岡外史だというのはちょっといい話だと思った。

 本郷については、まず革命家の黄興。それから、魯迅が西片町の貸家(直前まで夏目漱石が住んで『三四郎』を書いた家!)に留学生仲間を誘って五人で住んでいたというのは、初めて聞いた気がする。そして漱石の新聞連載『虞美人草』を、魯迅は日本留学時代に読んでいただろうというのは、とても想像力を刺激された。日本の近代文学から中国への影響って、ほんとに「ダイレクト」に伝わっていたのだな。本郷に関係して、関東大震災発生時の日華学会(日中の文化交流、特に中国人留学生を支援するための団体)の活動や、麟祥院(文京区湯島)に建てられた中国人留学生の慰霊碑のことも紹介されている。

 神田といえば周恩来。このひとは借金に苦しみながら安い下宿を求めて転々とし、現在の東中野のあたりにも住んだことがあるというのは初耳。京都大学に提出した直筆の入学願書が今も保存されている(その後、願書を取り下げて帰国)というのも知らなかった。それから神田にはあまり直接の縁故はなさそうだが、秋瑾、孫文も登場する。

 近年、日本政府は留学生の受け入れを強く推進しており、どこの大学に行っても中国人留学生の数は圧倒的に多い。しかし、これは初めて出来した事態ではなく、ちょうど100年前の東京もこんなふうだったんだな、ということを本書を読んで感じた。今の留学生たちにも、やがて日本で過ごした日々を懐かしんでもらえたらいいなあと思う。
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沖縄の自己決定/沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか(安田浩一)

2016-08-27 21:05:05 | 読んだもの(書籍)
○安田浩一『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』 朝日新聞出版 2016.6

 著者が取材のために沖縄へ飛んだきっかけは、作家・百田尚樹氏の発言だった。2015年6月、安倍晋三首相に近い自民党の若手国会議員らが開いた勉強会「文化芸術懇話会」において、講師に招かれた百田氏が、講演後の質疑応答で「沖縄のあの二つの新聞社(沖縄タイムスと琉球新報)はつぶさなあかんのですけれども」と発言した。管見の限りでは、これに対する世間の反応は、言論弾圧を煽る不適切発言という批判と同時に、百田氏に賛同を示す声も少なくなったように思う。

 このとき百田氏は、上記以外にもいろいろ、沖縄の「左翼勢力」に対して批判的(というより揶揄的)な発言をしている。もともと普天間基地は田んぼの中にあったのだが、基地の周りが商売になるということで、みんなが住み出したとか、沖縄の米兵が起こしたレイプ犯罪よりも、沖縄県全体で、沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪のほうがはるかに高い、など。本書の中で著者は、こうした発言の不当性をひとつひとつ、丁寧に暴いていくのだが(詳しくは本書で)、それよりも著者が問題視するのは、発言に潜む「嫌沖」の心理、沖縄に対する差別のまなざしである。

 そこで著者は沖縄の人々に会いに行き、話を聞く。戦後、普天間基地内になってしまった土地にあった集落に生まれ、基地の鉄条網に張り付くように生きて来た老人。1995年、米兵による少女暴行事件に抗議する県民総決起集会でスピーチをした女子高校生のその後。辺野古の基地建設に対する抗議運動の最前線に立つリーダーのひとり、など。

 「沖縄タイムス」「琉球新報」の記者たちが背負う背景と立ち位置もさまざまである。沖縄で生まれ、明るい未来を信じて復帰運動のデモに参加し、日の丸を振った子ども時代の記憶を持つ記者。なんとなく記者になったあと、糸満市に建設された「平和の礎」の除幕式を取材して、戦没者遺族の話を聞くうち、想像を絶する壮絶さに衝撃を受け、取材が続けられなくなってしまった経験を持つ女性記者。沖縄を出て、東京の大学に入学した結果、沖縄への偏見を体験し、新聞記者になろうと決めた若者。どの人の話も興味深く読んだ。

 本書には基地反対の立場をとる人たちの登場が圧倒的に多いが、最後まで読んだ上で、私はそれを「偏向」と断じるつもりはない。途中に、山根安昇が「新報」の副社長だったとき、「僕は日米安保に賛成なんですが、記者としてつとまるでしょうか」と新人記者から質問を受けたエピソードが紹介されている。山根は「賛成でも反対でもどうでもいい。とにかく仕事しろ」と答えた。沖縄では、何を報道するにも、どんな現場にも「安保が染み込んでいる」。そして、真面目に仕事をしていけば、誰もが沖縄戦に行きつく。沖縄のマスコミ人は、保守も革新も戦争のためにペンをとらないことを誓ってきた。「沖縄は戦っていくんですよ。武器とするのは二つ。ひとつは、米国からもらった民主主義。もうひとつは日本国憲法。この二つを高く掲げて沖縄は生きていく」。この言葉には泣けた。

 「重たい」ことにこだわるのは、当世の流行りでないのだろうけど、やっぱり沖縄の戦争体験は格別に重いのだと思う。そして、沖縄の硬直した振舞いを非難し、あるいは嘲笑し、「偏向」と決めつける人々に共通するのは、思想と言動の「軽さ」である。2011年11月、辺野古環境アセスの評価書提出時期をめぐって防衛相の局長が、オフレコ懇談の席で「犯す前にこれから犯しますよと言いますか」と発言したこととか、自民党の小池百合子が米国務省元日本部長のケビン・メアにコンビニの支払いを奢りながら「思いやり予算よ」と発言した(沖縄のある記者がたまたま聞いていた)とか、彼らの世界では気の利いたジョークであるものが、別の世界の人々を限りなく傷つけているという、世界の非対称性を感じる。

 2013年1月、翁長雄志沖縄県知事が県議らとともに上京し、オスプレイ配備反対の建白書を政府に届けるデモを行ったとき、都心の沿道で待ち構えていた在特会などから「非国民」「中国のスパイ」等の罵声を浴びた。しかし、のちに翁長は、本当の意味で失望したのは、罵声を飛ばす差別者集団よりも、何事もないように銀座を歩く「市民の姿」だったと語ったそうだ。この指摘は本当に重い。そろそろ私たちひとりひとりが、無関心を改めなければ、日本は引き返せないところに行ってしまうのではないかと思っている。

 民主主義の基本は自己決定権である。自分たちの(地域の)未来は、一義的に自分たち住民で決めたい。これはあれだ、SEALDs本の『日本×香港×台湾 若者はあきらめない』で、中国の大国主義に脅かされる香港や台湾の若者たちが語っていたのと同じ主張だと思った。

 なお、琉球新報と山陰中央新報が共同で取材・執筆した『環りの海:竹島と尖閣 国境地域からの問い』(岩波書店、2015)という本があることを知ったのは本書の余得。読んでみたい。
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張家界・鳳凰古城2016【補遺】食べたもの・気になったもの

2016-08-24 23:31:49 | ■中国・台湾旅行
武陵源のホテルの夕食に出た張家界名物の竹筒飯。竹筒の容器に入っていたのは、ご飯ではなくおかずだった。魚の辛味煮込みや豆腐など数種類が出た。



武陵源のホテルは、めずらしくアメニティセットが有料(10元)だった。これは日本でも広まってもいいな。



武陵源から鳳凰城に向かう途中、トイレ休憩を取った道端のお店で売っていた草餅。1個2元。よもぎがぎっしり。ザラメ砂糖のじゃりじゃりする餡入り。素朴な甘さで美味。



そして、このお店の外に放置されていた椅子。むかし(※2005年9月)日本民藝館のミュージアムショップで買った「張家界製」の椅子と全く同じデザインだった。今でも私はこの椅子を使っている。毎日、このブログも「張家界製」の椅子に座って書いている。



鳳凰古城のある鳳凰県の特産はキウイ。中国語では「奇異果」が一般的だと思うが、ここでは「猕猴桃」(mi2 hou2 tao2)という表記をよく見た。



古城街を流れる異臭の正体は香豆腐。臭豆腐を揚げたもので、湖南省の名物。



湖南省といえば唐辛子。ツアーの食事は、日本人向けに辛味を抑えたものばかりだったが、唐辛子はあちこちで見た。



鳳凰古城の名物・姜飴(生姜飴)は、どの店も店先で、叩いてこねて伸ばすパフォーマンスをやっていた。



なお、現地で張家界森林公園の地図を見たとき、「百龍天梯」(ガラスのエレベーター)の降り口のそばに「張良墓」という記載があって気になった。ネットでいろいろ調べてみたら、漢高祖・劉邦の軍師であった張良は、仙人になることを求めて青岩山という地に移り住み、張良の名にちなんで「張家界」と呼ばれるようになった、という伝説があるそうだ。まあ伝説だけど。
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張家界・鳳凰古城2016【最終日】上海→成田

2016-08-21 23:14:28 | ■中国・台湾旅行
朝早い帰国便に乗るため、最終日のモーニングコールは5時半。しかし、この上海大衆航空賓館、空港のターミナルビルと通路でつながっている。たいへん便利でありがたい。今回の旅行は、連日ホテル着が遅くて、中国のテレビ放送を見る時間がほとんどなかったが、最終日の朝、チャンネルをまわしてみたら、人気ドラマ『琅琊榜』の再放送をやっていて、思わず見入ってしまった。私はBSもCSも見られない環境なので、最近、YouTubeで中国語字幕版を見始めたところである。



機内食は中華おこわ。これは旨い。たぶん炒飯より日本人好み。前日の張家界→上海でも中華おこわの軽食が出て、夕食を食べたあとにもかかわらず、半分くらい食べてしまった。



成田には時間どおり、無事、到着。しかし翌日(8月22日)が台風で大混乱になったことを思うと、台風と台風の間をうまくすり抜けたラッキーな旅行だった。そして、やっぱり中国は、トラブルを含めて楽しい。ツアー参加者の中には、いろいろ細かい不満を漏らしていた人もいたけど、私は全く不満なしだった。また行きたい。

(8/22記)
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張家界・鳳凰古城2016【4日日】鳳凰古城→張家界→上海

2016-08-20 23:51:05 | ■中国・台湾旅行
観光最終日は、鳳凰古城の中心部を徒歩で観光。古城街の広場に朱鎔基さんの「鳳凰城」の文字があった。好きな政治家だったので懐かしい。しかし字はお世辞にも上手くないなあ。朱鎔基さんは湖南省長沙市の出身だが、鳳凰城との関係はよく分からない。明太祖・朱元璋19世の子孫であるというのは、今、Wikiを見て知ったが、そう言えば朱元璋も癖字だった。



沱江の南岸に、城壁に囲まれた古城街(写真右側)がある。ただし、表通りは、ほぼ観光商店街と化している。



明清の古建築は、強く反った瓦屋根を乗せた「うだつ」が特徴。写真は2階と3階部分で、1階部分は現代的な店舗になっているものが多い。



街歩きのあと、10人乗りの小船に分乗して、30分ほど川下り。川幅が広いので湖のようだ。船頭さんは長い竹竿とオールを使い分けて、器用に船を操り、船歌も聞かせてくれる。川岸にせり出した高床式の「吊脚楼」という建物が櫛比し、どこか東南アジアの国に来たような感じ。日差しが刺すように強く、暑い。



万名塔。清・嘉慶年間にあった字紙炉(文字を書いた紙を焼くための炉)の塔を前身とし、1980年代に人々の寄附で建てられたもの。



下船後、二層式の虹橋(風雨楼)の二階から眺望を楽しみ、銘菓・生姜飴の老舗「鎮竿張氏」でショッピング。銀製品や織物・水牛の角製品・楽器の店も多かった。



少し早い昼食を済ませ、予定どおり、高速道路を使って張家界市内へ戻る。昨日のような生活感のある車窓風景には出会わなかったが、起伏に富み、緑に覆われた雄大な風景は、黄土高原の高速道路では見られないもので、楽しかった。

空港の近くで夕食。遠くの山並みに穴が開いたように見えるのが「天門山」であると、ガイドの王さんが教えてくれた。慌てて写真を撮ろうとしたが、結局、張家界空港の滑走路からがいちばんよく見えることを発見。来たときは夜遅かったので、まわりの風景に気づかなかったのだ。



ツアー31人のうち、東京組は19時出発の便で上海浦東空港へ。関西組6人は11時過ぎの便に乗ったため、上海到着は深夜3時近かったとのこと。

(8/22記)
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張家界・鳳凰古城2016【3日日】武陵源→鳳凰古城

2016-08-19 22:12:50 | ■中国・台湾旅行
朝は索渓谷自然保護区の宝峰湖で遊覧船観光を楽しむ。ガイドの王さんが「ベトナムのハロン湾の風景に似ていると言われます」と言っていたが、確かにそんな感じ。湖岸にしつらえた小屋に民族衣装の歌い手さん(男性・女性)が待っていて、通りすがりに船の中から拍手で呼ぶと、民謡をひとふし歌ってくれる。



お茶屋さんに寄って、土家(トチャ)族の苺茶などを試飲し、ショッピング。午後は昨日に続き、森林公園地区の中に入って、金鞭渓流を観光。この銅像は、画家の呉冠中(1919-2010)で、あまり知られていなかった武陵源の絶景を絵に描き、世の中に広めた人なのだそうだ。



そう言われても思い出せなかったが、2012年の東京国立博物館『中国山水画の20世紀 中国美術館名品選』に作品が出ていて、私は、わざわざ名前を挙げて「すごく好き」と書き留めていた。ガイドの王さんの説明では、伝統的な山水画を描いたように聞こえたが、抽象画のような、全く新しい墨画を描いた人である。

それにしても、武陵源地区が1980年代に発見された名勝である、というのも面白い。そのため、中国の名勝古跡にありがちな、岩壁に刻まれた大きな文字(たいてい赤く塗ってある)が全くないのが、非常に新鮮でよい。

金鞭渓流の遊歩道では野生のサルに遭遇。アカゲザルという種類らしい。ニホンザルに似ているが尻尾が長い。しかし、姿勢によっては尻尾を尻の下に巻き込んで座るので、素人には、ニホンザルと区別がつかない時がある。東博の名品、南宋絵画の『猿図』はこのサルだろうか、と思う。



当初、この日は高速道路で一気に鳳凰古城に向かい、翌日、苗(ミャオ)族の村を観光しながら張家界に戻ることになっていたが、予定を変更。観光最終日に余裕を持たせるため、この日は一般道を走って、5時間以上かけて鳳凰古城に向かう。車窓から眺める人々の生活風景が楽しい。全土に高速道路網が張り巡らせる前の、90年代くらいの中国旅行を思い出して、懐かしかった。

日が傾く頃、ミャオ族の村に到着。険しい山に張り付いた一本道で、どこに村があるのかと思ったら、車道から川に向かって下りていく斜面に瓦屋根の木造家屋が肩を寄せ合うように固まっている。人々が普通の生活を営みながら、その一部を観光客に公開していた。



村の入口に「脱貧到小康」というスローガンが掲げられていたけれど、こうした観光収入も役に立っているんだろうか。



渋滞に苦しみながら、鳳凰古城(湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州鳳凰県)に入り、ホテルに到着したのは夜の9時過ぎだった。夕食後、ガイドさんの案内で、徒歩でライトアップを見に行く。ライトアップと聞いて、嫌な予感(笑)がしていたが、中国人って、ほんとにやることが徹底している。



水量豊富な沱江(だこう)には、新旧さまざまな橋がかかる。水遊びで涼をとる家族連れ、川沿いのバーやディスコで楽しむ若者など、深夜になっても賑やか。



ガイドさんが引き上げたあとも、ツアーの仲間と自由散策を楽しみ、ホテルに戻ったのは午前0時過ぎだった。こういう盛りだくさんの1日も、むかしの中国ツアーみたいで懐かしかった。

(8/22記)
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