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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

武道家の思索/街場の戦争論(内田樹)

2014-10-30 23:00:41 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『街場の戦争論』(シリーズ22世紀を生きる) ミシマ社 2014.10

 内田先生が「『街場の戦争論』発売5日目で4刷、28000部となりました」とつぶやいているくらい、売れに売れているようだ。すでに多くの読後感想がネットに流れているが、私はいつか自分で読み返すためにまとめておく。

 本書の、少なくとも第1章と第2章は一気読みがふさわしい。というか、そうせざるを得ない迫力がある。著者は今のわれわれの置かれている時代を「負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」の「戦争間期」と考える。今の空気の軽薄さ、無力感の深さ、無責任さ、暴力性などは、戦争間期に特有なものではないか。私は精神のうそ寒さを感じながら、著者の直観に同意した。

 近づきつつある「禍々しいもの」を避けるには、せめてそれが「何であるか」を予測するには、どうして先の戦争に日本人はあんな負け方をしたのか、戦争に負けることで何を失ったのかを、きちんと総括しなければならない。そう宣言して、本書は重苦しい思索の幕を開ける。回答。われわれが戦争で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの知力である。つらいなあ、これ。

 著者は「もし1942年に(ミッドウェー海戦後に)講和が実現していたら」という仮想実験を試みる。街の景観、文化的意味での「山河」が残っていたら。戦後の再建を担う人的資源(大正生まれ世代)がもう少し残っていたら。日本は、こんな「異常な敗戦国民」ではなく「ふつうの敗戦国民」になれていたかもしれない。

 戦後生まれの私たちは、すべて「アメリカに対する従属国」の国民である。「帝国臣民の記憶」すなわち「主権国家の国民の意識」を知っている者は、誰一人いない。ここでは、戦前の帝国主義と戦後の民主主義、右翼と左翼のような、手垢のついた二分法を乗り越えて、まっすぐ真実に切り込むような論法が展開する。まさに武道家の思索だなあ、と感心する。

 第3章は、自民党の「時代遅れ」の改憲案がどこから出てきたかを考え、国家と株式会社を同一視するという、安倍政権の誤謬を批判する。国民国家の目的は「成長すること」ではありません、生き延びることです、という著者の言葉は、何度でも引用しておきたい。元気づけられるので。

 教育とか医療とか第一次産業とか、国民国家が「生き延びる」ための産業に従事している人間は、目先の利益に目がくらんで、自分の役割を放棄することがあってはならないと私は考える。こうした分野にも「グローバル化」を迫る圧力は、いっこうにやまないけれど。もしも教育のグローバル化に意味があるとしたら、著者の指摘のように、先の敗戦を総括する知力も主体性も失い、国民国家と株式会社の区別もつかない日本が、どれだけ異常かということを、世界標準から見直す視点を獲得することくらいだろう。

 第4章は、教育と労働論。著者にとっては(そして読者にとっても)古い、馴染みのテーマだ。文中に「自分にはまだ黒帯の力がないから」と自己規制をして、いつまでも有段者にならない(なれない)人の話が出てくる。師の判断に異を唱えてはいけません、というのが著者のメッセージだが、社会生活や職業生活に置き換えても、分かるような気がする。「君ならできる」と任された仕事は、とりあえず受けてみるべきものなのだ。

 第5章は、特定秘密保護法をネタに、インテリジェンス(諜報活動)とは何かを考える異色の章。ここでも「生き残る」能力が問われる。「非常時対応」能力というのは、システムが崩れるとき、局所的に生き残っている条理を見つける能力であると説明されている。ううむ、難しいな。私はこういうリーダーには絶対になれない。でも、正しいリーダーを直感的に見分けて、その指示の下、局所的な秩序を作り上げるフォロワー(技術者)の役なら、何とか、かなりのところまで出来るんじゃないかと思う。頑張ろう、この不穏で不透明な時代を生きのびるために。
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変化する都のかたち/京都〈千年の都〉の歴史(高橋昌明)

2014-10-29 23:00:14 | 読んだもの(書籍)
○高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書) 岩波書店 2014.9

 目次を見たら「平安京の誕生」から「江戸時代の京都」まで、ほぼ千年の歴史を新書1冊で語ろうとしているので唖然とした。そんなことができるのか?と怪しみながら、おそるおそる読み始めた。京都の地理に明るい高橋先生らしく、本書の視点は、時には空に駆け上って、大づかみに市街地のかたちを把握し、時には地を這って、汚泥や屎尿の臭いをまざまざと嗅ぐ。その緩急が面白かった。

 以下は「京都のかたち」の変遷を中心にまとめているが、このほかにも、宅地(町)の変遷や、飲料水の確保、糞尿の始末、葬送、宗教者、手工業者、エタ・など、個別事項について、興味深い話が多数取り上げられている。

 平安京は、左京(東側=洛陽城)のみ栄え、右京(西側=長安城)は早くに廃れてしまったというのは有名な話だが、厳密にいうと、平安京は未完のまま造営が中断した都である。「左京の東南部、右京の北西端・南西端」は全く市街地化されなかった。右京のほぼ西半分は一部に条坊が設定されただけで、その他はそれすらなかったらしい。ううむ、日本史の資料集やムック本で見る、仮想的な平安京復元図って、かなり罪作りだな。

 中世の「京都」は、平安京の外側へ、いびつな、しかし旺盛な発展を遂げる。白河の六勝寺。洛南の鳥羽殿。摂関家の宇治。平家の六波羅殿。後白河法皇の法住寺殿。これら周縁部に集まった冨と権力と栄華、そして内裏の荒廃を地図上にプロットして思い浮かべると感慨深い。すでに条坊制に基づく都城プランなんて、影も形もないではないか。なお、余談だが、高橋昌明先生は、NHK大河ドラマ『平清盛』の「時代考証その1」の人。本書に頻出する「王家」の使い方を噛みしめてみると、ほかに置き換えようのない用語だということも感じた。

 南北朝から室町時代にかけての京都について、私ははっきりイメージしたことがなかったが、内裏の北に相国寺の広大な寺域があり、相国寺惣門の左(東)に七重大塔(高さ108メートル。法勝寺の九重塔や東大寺の七重塔を上回る空前の大塔)、右(西)に室町殿が置かれた。天皇家の首ねっこを抑えるような配置である。

 驚いたのは、16世紀戦国期の京都。応仁の乱以後、大火と疫病で人口が激減し(3万人程度まで)、市街地と呼べるのは、内裏の北・相国寺の西の「上京」と、いまの三条~五条の間の「下京」しかなくなってしまう。両者の間には広大な空地が横たわり、わずかに室町通がその間をつないでいた。これ、今度、機会があったら歩いてみよう。しかし、果たして往時の風景を想像できるだろうか。治安の悪化は、自警・自衛のための「構(かまえ)」をもたらし、集落は土塀や堀で固く防御された。そうかー築地の崩れから出入りするなんて平和な風景は平安時代だけなんだな。

 織田信長、次いで豊臣秀吉は、京都の大改造を行う。特に秀吉は、平安京の大内裏跡(内野)に聚楽第を造営し、京都を全国政権の中枢にふさわしい都市に造り替えた。聚楽第の周囲には武家町をつくり、東洞院土御門内裏のまわりに公家町を再編し、寺町・寺之内の設定など、次々に新しいアイディアを形にしていく。その結果、人口は急増し(17世紀には20万人)、上京と下京はひとつの市街地に戻った。こういう歴史を知ると、今の大都市だって、いつ荒地になるか分からないし、過疎化・衰退の進む地方も、何かきっかけさえあれば、状況は反転するのではないかと思う。

 晩年、秀吉は聚楽第を破却し、伏見に移り、さらに大坂に移ってしまう。秀吉と聞いて、まず京都を思い浮かべる人は少ないのではないか。しかし、彼の御霊は、大阪でもなく名古屋でもなく、京都東山の豊国神社に眠っているのだ。

 本書の記述は、徳川政権期を経て、わずかに近代に及ぶ。京都が第二次世界大戦の被害を免れることができたのは、「アメリカが文化財を護ろうとしたため」というのは、根拠のない推測に過ぎず、近年の研究では、原爆投下の第一目標にされていたことが明らかになっている。原爆の威力を正確に測定するため、通常の空爆を控えたのだという。さきの戦争で、私たち日本人はたくさんのものを失った、というのは、本書の次に感想を書こうとしている内田樹さんの『街場の戦争論』の論点だが、とりあえず京都が失われなくてよかった。もし京都が失われていたら、私の人生が、どれだけ無味乾燥なものであったか、仮(かりそめ)にも想像したくない。
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消えた神仏の風景/神々の明治維新(安丸良夫)

2014-10-28 22:55:23 | 読んだもの(書籍)
○安丸良夫『神々の明治維新:神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書) 岩波書店 1979.11

 1979年刊行だから、もっと早く出会っていてよさそうな本だが、先日、ふと書店で目に入って、面白そうだったので買ってしまった。著者の名前に覚えがあるような気がしたが、自分のブログに検索をかけても出てこない。編著か引用文献で見ているのかなあ。不思議なものだ。

 とにかく内容は面白かった。これまで漠然と「知っている」と思い込んでいた明治の「廃仏毀釈」について、自分が何も知らなったことを思い知らされた。一般に「廃仏毀釈」とは、明治新政府が慶応4年(1868)に発した太政官布告(通称:神仏分離令、神仏判然令)等によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。神仏分離令は「神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた」というのは、現時点のWikiの解説である。

 しかし著者は、以下のように述べる。神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた「特定の神々」であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏にように聞こえるが、現実に廃滅の対象になったのは、「国家によって権威づけられない神仏のすべて」である。要するに、皇統と国家の功臣を神として祀り、村々の産土神をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏との間に国家の意志で絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目指されたことであった。

 本書は、廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史には「根本的といってよいほどの大転換」が生まれ、そのことが現代の私たちの精神のありようを規定している、と主張する。そうだと思う。日本人の精神史の伝統というのは、一部の人々が楽観的に信じているように、誰でも振り返ればそこに見えるものではなくて、きわめて慎重に、本物とまがい物を選り分けていかなければ、手に入らないものだと私は考える。

 具体的に、明治の廃仏毀釈で、どんなことが起こったか。比叡山麓の日吉山王社には、社司・宮司たちと武装した神官の一隊が押しかけ、神体として安置されていた仏像や仏具・経巻を取り出し、破壊して焼き捨てた。指導者である日吉社の社司・樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て快哉を叫んだ、って、『新・平家物語』の清盛の逆バージョンみたいだ。奈良の興福寺では、あっという間に「一山不残(のこらず)還俗」してしまった。「僧たちはなんの抵抗も示さなかった」って、なんだこの無節操は!

 吉野山は、金峰神社を本社とし、山下の蔵王堂をその「口宮」とすることが定められたが、三体の蔵王権現像は巨大すぎて動かすことができないので(そりゃそうだw)、前面に幕を張り、鏡をかけ幣式(ぬさ)を置いて、神式をよそおったという。竹生島は、大津県庁から「延喜式に見える都久夫須麻(つくぶすま)神社がないのはどうしたわけか」と難癖をつけられ、弁財天像は観音堂に移されて、新しい神社が作られた。いま、舟廊下の出口にある、あの神社のことと思われる。

 有名寺社に関する興味深い話は、ほかにも多数あるが、山の神、塞の神、地主神など、名前や由来のはっきりしない小祠が統廃合され、記紀神話に基づく神名がテキトーに割り当てられ、庶民の信仰や行事・習俗が一変させられたことは記憶にとどめなければならない。開明的な政策が必然的にもたらす「啓蒙的抑圧」は、その遂行者が確信的な善意の持ち主であるほど、始末の悪いものである。

 新政府の方針に諾々と従った僧侶も多かった一方で、存在感を示したのは東西両本願寺だった。明治初年、神道国教主義的な風潮が強まっても、真宗だけはほとんど勢力をそがれなかった。さすが真宗。最近、日本の精神史で「宗教」と呼べるのは真宗しかないんだな、ということをじわじわと納得しつつある。やがて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶・島地黙雷の建言によって、教部省が置かれ、民衆を教化する(キリシタンに陥らないよう導く)宗教官吏・教導職が定められた。はじめは神職者が優勢だったが、次第に仏教側が圧倒的な多数を占めるようになる。それはまあ、民衆教化に必要な「説教」能力では、僧侶に一日の長があるだろう。

 というわけで、とりとめもないが、薄いベールを剥ぐように、明治初年の日本の風景が見えてくる本である。
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大学総長の責務/言論弾圧(将基面貴巳)

2014-10-26 23:19:23 | 読んだもの(書籍)
○将基面貴巳『言論弾圧:矢内原事件の構図』(中公新書) 中央公論新社 2014.9

 内容とは無関係だが、将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)さんって、ずいぶん難しい名前だなあ、と思った。あとから知ったことだが、主に海外の大学でキャリアを積んでいらして、『ヨーロッパ政治思想の誕生』で2013年のサントリー学芸賞を受賞されている。

 「矢内原事件」とは、東大経済学部教授であった矢内原忠雄が、政府に批判的な論説を発表したことによって職を辞した事件である。私が初めてこの事件の梗概を学んだのは、立花隆の『天皇と東大』だった。同書の内容は詳しく覚えていないが、軍国主義に抵抗し、思想・学問の自由を貫いた矢内原に肩入れする立場から書かれていたと思う。それから竹内洋さんの『大学という病』も読んだ。こちらは、昭和初期の東大経済学部における教授たちの権力闘争を描いたもので、「矢内原事件」はその一挿話のような扱いだったと思う。

 矢内原は、内村鑑三門下の無教会キリスト者であり、『中央公論』『改造』などの総合雑誌を中心に活躍した「講壇ジャーナリスト」の先駆者であった(著者いわく、昭和初年度においては、大学教授が総合雑誌上で一般読者向けに論説を発表することは今日よりも一般的だったように思われる。へえーそうなのか)。

 事件の直接のきっかけとなったのは、昭和12年(1937)、盧溝橋事件勃発により世間の雰囲気が激変する中、矢内原が『中央公論』9月号に寄稿した論文「国家の理想」だった。巻頭に掲載されるはずだった同論文は、当局の指示で削除(不掲載)処分になったが、処分は完全に実行されたわけではなく、一部には掲載されて流通した(読んだ、という同時代人の記録がある)という。ええ~面白いものだな、全国の図書館に残っている同誌を調べてみたい。

 当時の『中央公論』編集者の回想によれば、出版社は、雑誌を商業ベースに乗せるため、あえて発禁のボーダーラインすれすれを狙った誌面づくりをしていた。そして、当局から「発禁」の通知が出て、問題の雑誌が返納されると、社員総出で発禁論文を物理的に切り取って、また書店に流していたという。本書は、大きな問題を扱っているわりに、こういう細かい具体的な描写が豊富で、非常に面白かった。

 政府当局において矢内原の言論抑圧の火付け役になったのは文部省教学局であり、その中心人物は、伊東延吉と菊池豊三郎であった。文部省を中心として(!)ほかの省庁や政治家も、一斉に矢内原攻撃を仕掛けたが、彼らの多くは、蓑田胸喜の主宰する雑誌『原理日本』の購読者だった。

 これらの荒波が最後に到達したのが、東大経済学部の教授会であり、土方成美学部長と長与又郎総長の協議、さらに長与総長と木戸幸一文部大臣の協議である。当初、長与総長は矢内原を守る決意を固めていた。しかし、文科省は再び長与総長を呼び出し「矢内原辞職に決す」旨を伝える。その理由は、前述の「国家の理想」とは別に、キリスト者を対象とした講演「神の国」における矢内原の発言「日本の理想を生かす為に、一先ずこの国を葬って下さい」が、「国体精神と全く相容れない」ためだという。

 ううむ、駄目なのか、これ。無教養な官僚や政治家が、思想的・文学的修辞を理解できないのは仕方ないとして、東京帝国大学総長が、たったこれだけの文言で「余としても到底許容出来ぬ文章あり。自発的に辞職せしむる外に道なし」と決心してしまうのか。著者が「矢内原事件」の核心を、「当局」対「一大学人」ではなく「大学総長」、「文部省からの一撃に大学総長があえなく屈した」点に置いていることは重要である。組織内(フォロワー)に対するリーダーシップがどれだけあっても、外圧に対して腰砕けになる総長を選んではいけない、という教訓を引き出しておきたい。

 また「愛国心」について、著者は以下のように指摘する。矢内原の愛国心とは、日本の国が掲げるべき理想を愛することであり、理想から離れた現実の日本を批判することだった。一方、土方成美は、いったん国策が決定し、現に戦争が行われている状況で、戦争に反対したり、時局を軽視することが「愛国的であるとはどうしても考えられない」と述べている。さらに蓑田胸喜は「真理とは日本国体なり」と述べる。理想はすでに日本国体(あるがままの日本)に顕現しているのであり、国体に対する、いかなる懐疑、批判も「侮日的」「抗日的」であることになる。

 ああもう、ここを読んだとき、最近のネットを賑わす「反日」の意味はとってもよく分かった。彼らが信奉するのは、歴史上、現実に存在した日本国ではなく、「原理日本」なんだな、たぶん。(でも断っておくが、私は蓑田胸喜という人物はそんなに嫌いじゃないのだ。本書の「あとがき」を読むと著者もそうではないかなと思う)

 戦後、矢内原忠雄は東大に復職して、社会科学研究所の初代所長になるんだなあ(感慨)。矢内原の著作『余の尊敬する人物(正・続)』(岩波新書)を読んでみたくて、いま、探している。エレミヤ論の末尾に、ひそかに「蓑田胸喜」の四文字を折句のように句頭に据えて、反撃を試みた部分があるというのは、本書で初めて知った。あと、本書からの情報ではないが、東大駒場キャンパスには、かつて「矢内原門」という通用門があり、今はその「跡」を示す石碑が立っているそうだ。大学って、よいことも悪いことも、こうして歴史を積み重ねていくところが好きなのである。
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第11回鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台(鈴木邦男、上祐史浩)

2014-10-25 01:06:52 | 行ったもの2(講演・公演)
○第11回鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台:いま、語るべきこと(2014年10月21日、18:00)

 鈴木邦男シンポジウム「日本の分(ぶん)を考える」シリーズ第11回を聴きに行った。ツイッターに「次回のゲストは、ひかりの輪代表・上祐史浩さんです」という情報が流れてきたときは、さすがに、え!と驚いた。

 私は、昨年6月、同シンポジウム第2回(ゲスト:中島岳志さん)を聴きに行ったとき、鈴木さんが上祐史浩氏の話をしたことに触発されて、上祐史浩氏、鈴木邦男氏、徐裕行著氏の鼎談『終わらないオウム』を読んだ。以来、ずっと上祐氏のことが気になっていたので、生で話が聴ける機会、絶対逃すまい、と思って、申し込んだ。

 はじめに鈴木邦男さんが短い話をした。かつて「朝まで生テレビ!」で、オウム真理教と幸福の科学が対決したことがあって、あのとき、ああ、オウムの皆さんは本物だなと思った。非常に真面目だと思った。しかし、その真面目な人たちが、おそろしい存在になってしまって、一方、幸福の科学は、不真面目だけど楽しそうに続いている。鈴木さん、いつもながら、ひょうひょうと本質をついたことを言うなあ、と思った。幸福の科学の人たちとカラオケにいくと、あっ地獄に落ちちゃう、とか言いながら、楽しそうなんだよね、という体験談が、目に浮かぶようだった。

 そのあと、上祐氏が、オウム入信から、教団の武装化、偽証罪で収監され、3年の懲役に服し、出所後、教団の改革につとめるも主流派の排撃に遭い、麻原への信仰を捨てて今日に至る話をした。ううむ、不謹慎を承知でいうが、面白かった。いつか20世紀末を代表する奇譚として語り継がれる説話になるんじゃないかと思うくらい。そのあと、10分ほどの休憩を挟み、会場から寄せられた多数の質問に答えながら、二人の対談がおこなわれた。

 上祐氏によれば、オウム真理教が衆議院選挙に立候補したのは、民主的な方法でこの世を変えようと思ったからだという。しかし結果は惨敗。「民主的な方法では駄目だ」ということで、急速に教団の武装化が進んだ。このとき、信者たちは、選挙の惨敗は「悪の組織」が妨害したためだと本気で信じていたという。地下鉄サリン事件は、普通の生活者にとっては、反社会的な集団が、突如、凶悪な攻撃をしかけてきたとしか思えなかったが、彼らの主観においては、追い詰められた末の「反撃」だった。無論、だから許される行為だったとは思っていない、という点は、上祐氏も明言していたと思う。しかし、この「自分は被害者だから、やり返す」「反撃しなければ、潰される」という感覚は、かつて日本が戦争に突き進んだときもそうだったし、いまの日本社会にも蔓延している危うさではないかと思う。

 ただ、上祐氏は、選挙の失敗の頃から、麻原を疑う気持ちが少し芽生えてきたという。鈴木さんが「幸福の科学は、選挙に失敗しても平気だよね」と振ったら、「だっておかしいじゃないですか、絶対者が予言を外すなんて! どうして平気でいられるのか、全く分かりません!」みたいな、向きになった返答をしていて、この人、面白いなあと思った。この選挙結果に関しては自分でおこなった出口調査をもとに、「悪の組織の陰謀」を主張する麻原に反論を試みた。すると、少し上の世代の信者たち(早川さんとか)にこぞってたしなめられ、「お前は大学を出たばかりで、世間が分かっていない」などと説得されたという。なんだか、どこにでもある中小企業の古参職員と新入社員みたいな話で可笑しかった。

 宇宙開発事業団(現在のJAXA)に就職しながら、1ヶ月でやめてしまったのは、アメリカがSDI(スターウォーズ計画)を発表し、このままでは軍拡競争に加担することになると思ったから、とか、オウム真理教でのいちばん辛かった修行として、5日間飲まず食わずで地中に埋められたことがあるとか、めんどくさいほど真面目で、いい加減なことができない人柄が垣間見えた。たぶん多くのオウム信者たちも、真面目さが災いして、あそこまで突き進んでしまったんだろうな。殺人の罪を犯して地獄に落ちることを恐れるのは自己保身だと詰め寄られると反論ができない。自分も命じられればサリンを蒔いていただろう、という。上祐氏が、ときどき不意につぶやく「井上は」「村井は」など、かつてマスコミをにぎわせた名前を、私は不思議な懐かしさをもって聞いていた。彼らは特異な社会の変種ではなく、オウムの物語は、ずっと私の中で「現在の問題」として留まり続けているように思う。

 上祐氏は、10年かけて、麻原彰晃(松本智津夫)に対する信仰から脱却した。その過程には、大自然や聖地を巡ったり、修験道の大家に会ったり、さまざまな体験があったという。そのひとつとして、京都・広隆寺の弥勒菩薩に出会ったとき、もう麻原がいなくても大丈夫だと感じた、と語っていたことが印象的だった。あの仏像は、そんなふうに多くの人々の救済にひっそり手を貸してきたのかもしれないと思われた。それから上祐氏は「親への感謝」を語っていた。「大衆の一人」でしかない自分に価値が見出せるとしたら、それは親への感謝、尊敬を通じてではないか。「孝行」という古くさい徳目の意味が、初めて分かったようで新鮮だった。
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ニッカウヰスキー余市蒸溜所を見に行く

2014-10-22 22:36:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
 NHKの朝ドラ「マッサン」が面白い。昨年の「あまちゃん」で朝ドラの楽しみを覚え(見るのは夜か週末だが)、「ごちそうさん」は完走し、「花子とアン」はあまり気に入らなくて半年休んでいたが、また視聴習慣が戻ってきた。どうも私はNHK大阪の制作作品のほうが趣味に合うようだ。

 ドラマの感想はいずれ書くとして、先週の土曜日、天気がよかったので、ニッカウイスキー、いやニッカウヰスキーの余市蒸溜所を見学に行ってきた。札幌からは鉄道で1時間ちょっと。ただし小樽から先の乗り継ぎは時間に1本くらいしかない。車窓からは、青い海と色とりどりの紅葉が同時に楽しめる。

 余市駅で降りると、駅前広場から見えるくらいの近距離に、余市蒸溜所がある。



 広い構内には、ウイスキーの製造工程に沿った見学コースが用意されている。まず大麦を乾燥させ、粉砕・糖化し、麦汁を取って、発酵させる。そして、蒸溜器(ポットスチル)で蒸留する。むかしながらの石炭直火蒸溜法を取っていて、ポットスチルの下の釜に石炭をくべる様子を見ることもできる。全て西洋風なのに、ポットスチルの首にしめ縄がかかっているのも面白かった。



 竹鶴政孝が事務所として使用した建物の室内。名前にちなんだのか、「鶴」の絵が多かった気がする。ドラマでは、あれが全て「亀」の絵になるのかしら。



 金色の傘を広げたような秋の樹の下に建つ、小さなイギリス風の一戸建ては旧研究室。「リタハウス(Lita House)」という看板がかかっている。内部は公開休止。その隣の旧竹鶴邸は、一部屋だけだが、靴を脱いで、上がってみることができた。



 創立時に建てられた第1号貯蔵庫では、ウイスキー樽の作り方や、ウイスキー熟成に果たす樽の役割を学ぶことができ、ウイスキー博物館も見どころ豊富。私は、こういう施設に入ると、何でも面白がってしまう性質なのである。ニッカの商標は「キング・オブ・ブレンダーズ」というのか。



 最後に試飲コーナーに行く。この日は、アップルワインと余市と鶴と、アップルジュースがいただけた。「甘いですよ」と言われたアップルワインが美味しくて、気に入った。いまはアサヒビールの弘前工場で造られているようだ。ボトルで欲しいぞ。

 工場見学なんて、1時間もかからないだろうと思っていたら、2時間近くを費やし、帰りの列車に乗るため、慌てて駅に引き返した。余市駅の売店で売っていた焼きたてアップルパイも美味しかったな。りんご大好きな私には幸せなミニ旅行だった。
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後鳥羽院に会いに/水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)

2014-10-22 20:54:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
 水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)は、後鳥羽上皇によって営まれた水無瀬離宮址にある。配流先の隠岐で没した上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240)御影堂を建て、上皇を祀ったことに始まるとされている。丸谷才一さんの評論『後鳥羽院』を読んだのは、もう何十年も前なのに、ようやくここを訪ねることができた。

 最近、山田雄司さんの『怨霊とは何か』(中公新書、2014)で、『保元物語』の崇徳院怨霊像が創造された背景には、後鳥羽院の怨霊問題がある、という指摘を読んで、非常に納得できたので、あらためて水無瀬神宮を訪ねてみようと思っていた。

 そうしたら、秋の関西旅行をセットする段になり、もう京都市内の宿がどこも取れないので、しかたない、高槻のビジネスホテルにするかーと決めたとき、もしかして高槻って水無瀬神宮に近いのでは、と思い出した。こういうとき、私は神仏に「呼ばれている」感じがする。

 水無瀬神宮へは阪急京都線なら「水無瀬」駅下車、山崎方面に向かって、線路沿いに15分弱歩く。住宅街の中にこんもりした緑の森が見えてくると、そこが水無瀬神宮である。



 境内は開放的で、人の姿が多いなと思ったら、名水「離宮の水」をいただきに車で立ち寄る人たちだった。ポリタンクを2つも3つも抱えて、汲み出し口に並んでいる。私は、マスコットになりそうな、小さな和歌絵馬をいただいていくことにした。



 調べてみたら、鎌倉の鶴岡八幡宮の北奥(鶴岡文庫の後方)にも、後鳥羽院を祀った「今宮」があることが分かった。今度、行ってみよう。
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2014年10月@京都:国宝 鳥獣戯画と高山寺(京都国立博物館)再訪、他

2014-10-21 23:17:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 修理完成記念『国宝 鳥獣戯画と高山寺』(2014年10月7日~11月24日)

 10月三連休の最終日(10/13)台風の影響で予定を変更し、京都で目覚めることになってしまった。窓の外は明るい。風は少し不穏な生ぬるさを感じさせるが、まだ雨も落ちてきていない。とりあえず、観光に出かけてみることにする。前日、心残りのあった京博の『鳥獣戯画』展を再訪。この日は開館(9:30)前に行って、入口からそれほど遠くないポジションに並んだ。

 構内に入ると、たぶん台風対策だろう、雨除け・日除けのテントがたたまれている。列は徐々に進んで、館内に入った。前日、あきらめた甲巻を見ることが今日の目的なので、まっすぐ中央ホールに向かう。中央ホールは、左右の壁に展示ケースが設置され、中央の空間は、ジグザグに折り返す待ち列を収容する体制になっていた。まだ待ち列は、ごく短い。はじめのケースに展示されていたのは、「鳥獣戯画」甲巻を描いた探幽縮図。当初の姿を復元する手がかりとなる重要な資料だが、冒頭の「かいるさるうさぎ」という表記がかわいい。そして、ようやく到達した甲巻。前期展示は、巻頭(渓流での水遊び)から弓遊びなど。カエルとウサギの相撲、サルの僧侶とカエルの仏様など、どちらかというと有名な場面は後半(後期展示)に多いかな。見たい場面が見られず、残念がっているお客さんもいた。

 私は、巻頭、鼻をつまんで(?)ゆっくり背中から水中にダイビングするウサギの描き方の巧さに、ほとほと感心した。隣りには、異時同図法なのか、一回転して波間に頭から落ちたウサギの両足が見えている。巧いなあ、ほんとにアニメーションだわ。それから、ウサギの目が大きな黒い点で描かれていて表情に乏しい(でも可愛い)のは、キティちゃんに通じると思った。そして、あらためて会場をひとまわりして10時半頃に退出。この日も多数のお客さんが長い列をつくって、本館(明治古都館)のまわりを取り囲んでいた。

■京都国立博物館 平成知新館オープン記念展『京へのいざない』(2014年9月13日~11月16日)

 常設展示館(平成知新館)へ移動。基本的に9月と展示内容は変わっていないが(10/15~後期)、ほんの少し展示替えがあったはずなので、そこだけ確認しようと思った。すると、入館してすぐ、10:40頃だったと思う、館内アナウンスがあり、「京都と大阪に暴風警報が発令されたため、本日は12時で臨時休館します」という。一瞬だけどよめきがあったが、平成知新館のお客さんはわりと冷静だった。本館の『鳥獣戯画』展に入館待ちしていたお客さんは大変だったろうな、と今にして思う。

 展示替えであるが、2F-5室(中国絵画)では、大徳寺・高桐院の李唐筆『山水図』2幅と『牡丹図2幅がなくなって、それぞれ『秋景冬景山水図』2幅(金地院)と『牡丹図』1幅(知恩院)に替わっていた。いま展示リストを見たら『布袋図』(眠り布袋)も『朝陽図』に替わっていたようだが、これには気づかなかった。

 金地院の『秋景冬景山水図』2幅は「東山御物」で、徽宗筆の伝承を持つ。東京・三井記念美術館の特別展『東山御物の美』に11/4から展示される予定で、見たいと思っていた作品だが、まさか一足先に京都で遭遇しようとは思わなかった。これ、右隻には中空にうっすらと二羽の鳥が飛んでいて、左隻には樹上にサルがいるのよね。ハイライトの白(胡粉)の使い方が面白い。このほか、巻替えのあった1F-2室(絵巻)など、いくつかの展示室を選んで参観。

 11時半頃、外に出ると、もう本館の周囲に列は見えなかった。無理やり館内に入れたのか、門の外に追い出したのかが気になる。入口は既に入館禁止の措置が取られていたが、防護柵を挟んで複数のお客さんが、警備員に食い下がっている。「何かあったら自己責任でいいから中に入れろ」ということらしいが、いや、従業員だって安全なうちに帰宅させなくちゃいけないのだし、諦めようよ、と思う。

 このあと、龍谷ミュージアムと承天閣美術館に行くことを考えていたのだが、念のため、龍谷ミュージアムに電話をしてみると「本日は休館しました」の返事。承天閣美術館は「開館してますよ」と明るい返事だったので、行ってみることにする。ちなみに、まだ雨は落ちてきていない。

承天閣美術館 『花鳥画展 室町・桃山・江戸・中国宮廷画壇の名品』(2014年10月4日~2015年3月22日)

 会場に入ってすぐ「肉形石」の展示に笑ってしまった。『國立故宮博物院展』で、東京の翠玉白菜に対し、九州国立博物館の目玉になっていたのが、東坡肉そっくりの「肉形石」である。故宮の名品ほどの、とろけるような脂身の質感はないが、類似品が京都にもあった!

 今回の展示は、日本の絵画と中国の絵画がほどよく混じっていて面白かった。第一展示室には、元・王若水(王淵)筆『花鳥画』2幅。右隻には白雉の雌雄。白黒ツートンカラーの羽色、赤い足の雄に対して、雌は地味。左隻はオナガの、雌雄ではなく親子と説明にあった。『中観音左右猿猴図』3幅対は、中央の観音が探幽、右が尚信、左が安信で、「探幽三兄弟」のコラボレーションである。

 第2展示室、明・文正筆『鳴鶴図』は、翼をひろげて、斜めに滑空する鶴の印象が強いが、地に足のついた鶴の図と双幅である。どちらもスリムな体型。痩身の老人などを形容する「鶴のような」という慣用句を思い出す(若冲の鶴って丸過ぎだなあ)。徽宗筆『白鷹図』、牧谿筆『柿栗図』など。まあ伝承作者をどこまで信じるかは鑑賞者次第だろう。辺文進筆『百鳥図』は、はじめて見たときの衝撃が薄れて、ああ、鳳凰だ~とフツーに受け入れるようになってしまった。慣れてくるとバランスがいい画面だと思う。能阿弥筆『雲龍図』は龍の顎(あご)の下にフリルのような雲が描かれているので「よだれかけの龍」とも呼ぶ。このセンス、好きだw

 ゆっくり見終わって13時頃。外に出ると、ポツポツ雨が落ち始めていた。バスで京都駅に向かう途中、国立博物館の前を通ったら、相変わらず、入口で押し問答しているお客さんの姿が見えた。職員や展示会業者でなく、警備員さんが対応させられていることに同情を感じた。

 JR新快速で神戸三ノ宮に到着したときは、雨も風もかなり強くなっていた。幸い、駅から至近のホテルを予約していたのだが、わずか数分でも外を歩くことを躊躇したくらい。地下街でつながってないかな?と思ったが、ダメだった。15時過ぎにチェックインして、しばらくテレビで台風上陸の様子を見ていたが、やがて、うとうと寝入ってしまった。

 翌朝、神戸は快晴。台風はまだ北日本にいるらしいので、帰りの旅路を心配したが、飛行機はちゃんと飛んで、札幌に帰ることができた。ふむ、休み明けに半日休むことができれば(午後から出勤)、この「朝帰り」スタイルは悪くないな。また次回、やってみよう。
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2014年10月@滋賀:三井寺 仏像の美(大津市歴博)、台風接近

2014-10-20 00:06:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
大津市歴史博物館 智証大師円珍生誕1200年記念企画展(第65回企画展)『三井寺 仏像の美』(2014年10月11日~11月24日)

 引き続き、大型台風19号の接近が気になる三連休の中日(10/12)。京博から大津に移動。弘仁5年(814)年生まれの智証大師円珍の生誕1200年を記念して、三井寺とその周辺に伝来する優れた仏像や仏画を紹介する本展を参観する。なお、三井寺(園城寺)の慶讃大法会と秘仏公開は、1週間遅れのスタート(10/18~11/24)のため、今回は参拝できなかった。

 京博『鳥獣戯画』展の喧噪と混雑から逃れてきたので、静かな館内にほっとする。冒頭には円珍さんの坐像(木造)。行者堂に伝来した江戸時代の作。特徴的な頭のかたちでそれと分かるが、あとで図録の写真を見ると、平安・鎌倉の像とは、目のかたちや口のかたちがだいぶ異なっている。

 「三井寺前史」と題して、大津京の遺址から発掘された軒丸瓦や塑像断片を少し並べたあと、大小さまざまな仏像がずらりと並ぶ。新しいものが多いのかな、と思っていたら、古代の仏像(平安時代)が20件近く。「初出陳」がかなり多い。美的にすぐれたものばかりではないが、歴史資料としての価値は高い。目立つのは不動明王。行者堂の木造不動明王坐像(2体あり)の1体は、傷みが進んで、目も口元も定かでなくなり、1本の木材に還ろうとしているが、かえって霊力を感じさせる。

 法明院伝来の不動明王坐像は、粘土をこねあげたような、かなり個性的な容貌。しかし、よく見ると体部はオーソドックな都ぶりで、古像の頭部を転用(接合)したのではないか、と推測されていた。12世紀の不動明王が多数残っているのは、当時、密教修法が流行し、三井寺僧が、平安貴族たちの求めに応じて盛んに修法を行っていたためだという。不動明王信仰って、戦国武将など、もう少し後の時代の流行かと思っていたが、院政期から武士の世の始まりが、むしろ最盛期なのかな。不動明王には「弘法大師様」と「智証大師様」があることを覚える。

 金堂の大日如来像は、腕が細く、きゃしゃで、おだやかな印象。大師堂伝来の小さな釈迦如来坐像は、平安後期の金銅仏という珍しいもの。一度、たまたま「千団子祭」に行き合わせたことのある護法善神堂の護法善神立像(鬼子母神像?)も公開されていた。控えめな彩色が美しい。左手に棒つきキャンディみたいなザクロの実を持つ。

 「中世~近世の仏像」も20件ほど。二十八部衆など「セットもの」が多いので、単体の数はもっと多い。鎌倉もの(慶派)の不動明王や毘沙門天立像は、やっぱり洗練されている。護法善神堂の木造愛子(あいし)像は、母親の愛情を体いっぱいに受けて、無邪気に飛び跳ねる子どもの像で、見ていて、心なごむ。訶梨帝母像に付属していたのではないかという。

 いかにも宋風な宝冠釈迦如来坐像(乾漆)、江戸時代の七条仏師の技を感じさせる日光・月光菩薩、経堂の天井裏から発見された円空仏、「寺院名非公開」の明時代の菩薩坐像(脱活乾漆仏)など、多様で個性的な仏像を見ることができた。

 次の部屋に移ると、今度は絵画史料が多数。「仏像の美」って彫刻だけではなかったのね。そして、仏像だけでなく「神像」の絵画が(この境界は曖昧だが)たくさん見られたことも面白かった。岩の上に座って玄武(絡み合う亀と蛇)を見つめる『鎮宅霊符神像』は、かつて『道教の美術』展で(これを?同様の図を?)見たことがある。中国絵画を参考に室町時代に描かれたもの。三井寺にゆかりの深い新羅明神像には、壮年バージョン、老齢バージョン、そして肥満体バージョンというのがある。それにしても、室町時代の「肥満体」新羅明神像、一種のパロディじゃないか?と思われるくらい、人相がよろしくない。

 国宝「黄不動尊」はさすがに出ていないが、これを江戸時代に原寸大で模写した資料が展示されている。平置きの薄いケースで、かなり肉薄して鑑賞できるのがうれしい。ほかにも、江戸時代の一時期に寺宝の調査・記録プロジェクトがあったのだろうか、新羅明神像や尊星王像などを豊かな色彩で精緻に写した資料が大量に公開されている。本物が一番なのはもちろんだが、こういう二次資料も興味深いと思う。墨画の『修験八祖図』は下絵らしいが、生き生きした線が魅力的だった。

 さて、スマホでチェックすると、台風19号は着々と西日本に向かってきているらしいが、まだ、それらしい影響は現れていない。小浜の秘仏めぐりバスツアーを主催しているミフクツーリストさんに電話を入れて様子を聞いてみると、「明日は朝8時頃に状況を判断する予定です」とのこと。意外と現地はのんびりしている。今夜の宿は小浜に予約してあるので、それじゃあ、小浜に向かおうと覚悟を決める。別所から皇子山に移動。JR湖西線で近江今津に出て、いつもの若江線バスに乗り継いでいこうと考えた。

 そして、ホームで近江今津方面行きの列車を待っていると「明日のJR西日本の運行についてお知らせします」というアナウンスが入った。「明日は、台風の接近に伴い、午後2時頃から間引き運転を行い、午後4時頃から全ての在来線が運休となります」という、耳を疑う告知。え?しばらく意図がつかめず、呆然とする。こんなに早い運休決定って、ありなのか?!

 しかし、本当に近畿地方の在来線が全面運休してしまうと、明日(10/13)のバスツアーが催行されて参加できたとしても、小浜で足止めされてしまう。明日中に神戸へ移動できないと、10/14朝の飛行機で札幌に帰れず、昼から出勤できないと、いろいろ差しさわりがある…。ということを5分ほどの間にぐるぐると考え、ホームに入ってきた近江今津方面行きの列車に乗ることを断念した(あと1時間くらい来ない)。

 小浜の宿とバス会社に電話し、事情を話して予約をキャンセル。JR西日本の発表はまだニュースになっていないらしく、バス会社の方に「運休って何線ですか? え、全部って言ってるんですか?」と逆に聞かれた。今夜は京都市内のホテルに空きがあったので、予約を入れて、京都方面に向かう列車に乗った。

 そして、ついに台風襲来の翌日に続く。
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2014年10月@京都:国宝 鳥獣戯画と高山寺(京都国立博物館)

2014-10-19 01:23:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 修理完成記念『国宝 鳥獣戯画と高山寺』(2014年10月7日~11月24日)

 大型台風19号がじわじわ迫る三連休の中日(10/12)京都にいた。前日、京都市内のホテルはどこも取れなくて、高槻泊になってしまったので、水無瀬神宮に参拝して、京都には10時前に着いた。それから京都国立博物館に出かけても、特に問題があるとは思っていなかった。ところが、バスを下りてみると、博物館の敷地を取り囲むように長い列ができている。これだけ長年、京博に通っていても初めての事態で、はじめ、何が起きているのか飲み込めなかった。最後尾には「入館まで120分」の札を持った背広のお兄さん。はあ?

 この日は京博のあと、大津市歴史博物館に寄って、さらに小浜まで移動しなければならない。いろいろ所要時間を計算して、とりあえず並ぶ。しかし「中央ホール(甲巻展示)は館内でさらに80分待ちです」とアナウンスしているので、中央ホールは諦めようと考える。並んでおいて言うのも何だが、『鳥獣戯画』にこれほどの人気があるとは全くの想定外だった。東京人には、2007年サントリー美術館の『鳥獣戯画がやってきた!』展の記憶がまだあるのだけれど、かえって関西では、甲乙丙丁4巻がまとめて展示される機会は久しぶりなのかもしれない。

 主催者の予測はかなり精度が高くて、結局110分くらい待って、12時少し前に館内に入った。そして、ここでまた少し「想定外」を体験する。この展覧会は「鳥獣戯画と高山寺」がテーマなので、前半は(鳥獣戯画の所蔵者である)高山寺と明恵上人に関する展示品がひたすら続くのだ。いや明恵さんが大好きな私はうれしいけど…。『鳥獣戯画』が見たくて来た人は、抹香臭い展示物ばかりでしびれを切らすんじゃないかな。あるいは『鳥獣戯画』を明恵上人の作だと誤解するんじゃなかろうかと、余計な心配をしてしまった。

 まず何と言っても『明恵上人像』(樹上座禅像)。リスと小鳥を見逃さないように。これは前期のみ。『夢記』『大唐天竺里程書』などの自筆文書。『仏眼仏母像』は、明恵さんがこの仏画の前で片耳を切り落としたとされるもの。「モロトモニアハレトヲモホセミ仏ヨ キミヨリホカニシルヒトモナシ」の片仮名書きの和歌が書き付けられているのが、凄絶でもあり、甘美でもある。「無耳法師之母御前也」とも。「耳なし芳一」の伝説とは無意識の深い層でつながっているのかしら。勘ぐりすぎか。

 明恵さんが片耳を切り落としたとき、虚空に金獅子に乗った文殊菩薩が現れたという説話に基づく『文殊菩薩像』は、目を剥き、牙を剥き出した獅子の形相が異様な迫力。全身を覆うほどの緑のたてがみに金(黄土)色の体躯も異例である。ちょっと可愛らしい『五秘密像』という仏画は、先だって、奈良博の『醍醐寺のすべて』で見たものと同じ図様だった。

 基本的に、明恵さんは「可愛い、美しいもの好き」だったんだろうなあ、と思われるのは、高山寺に伝わる工芸品の数々。『阿字螺鈿蒔絵月輪形厨子』は、手のひらサイズの円形の厨子に金身の弥勒菩薩坐像が収まっている。大阪のおばちゃんが「見て見て、あめちゃんの缶みたいのに仏さんが入っとるわー」と感嘆していたので笑った。『転法輪筒』は、万華鏡ほどの筒で、周囲は白地にゆるキャラみたいな諸仏が淡彩で描かれている。子どものおもちゃみたいだと思ったが、実は、筒内に怨敵の形像を描いたものを封じて調伏する、おどろおどろしい秘法の道具だという。

 そして、白光神立像は天竺雪山(ヒンドゥークシュか?)の護法神。善妙神立像は、アップ写真で見ると意外と意志の強そうな表情をしている。これらに加えて、久しぶりに見る『華厳宗祖師絵伝』の「元暁絵」と「義湘絵」。ところが、これら高山寺の名宝の並ぶ第3、第4展示室には、中央ホールをはみ出した『鳥獣戯画』甲巻待ちの列が伸びていて、観覧に邪魔なこと、この上ない。第5展示室は「高山寺の典籍」で、国宝・重文目白押しなのに、ほとんど無視されているのは勿体なさすぎる。定番の「玉篇」や「論語」「荘子」はさておき、唐時代の「冥報記」って知らない書名だったな。「今昔物語」など我が国の説話文学にも影響を与えたと見られているそうだ。

 ようやく中央ホールに到達するも、幾重にも折り返す長蛇の列を避けて素通り。後半は『鳥獣戯画』乙巻の展示から。不思議なことに、ここはあまり人が溜まっていないので、ゆっくり見られる。何度か並び直すことも可。前期展示は、牛、馬、犬などを描いた前半で、龍、麒麟など、空想上の動物を描いた後半は後期(11/5~)展示。この巻は、リアルな動物の姿態を描いているのに、表情だけは人間くさい。手塚治虫のマンガに似ている。

 丙巻も前半(さまざまな遊びに興ずる人間たち)展示。後半(動物たち)は後期。丁巻も同じ。ほかに、東博所蔵の甲巻断簡が出ていた。後期は、根津美術館に出ていたMIHOミュージアム所蔵の断簡(壺装束のサルやキツネ?)に入れ替わる。それから『将軍塚絵巻』が出ていたのはうれしかった! もっと評価されていい作品である。詞書がないのもすがすがしくてよい。ちなみに山下裕二先生は、雑誌『美術手帖』2008年6月号「京都アート探訪」で、本作品を「絵巻BEST1」に推している。

 最後の部屋。ずっと「わんこ」いないなあ、と思っていたら最後にいた。よかった。展示図録の解説だと「寺伝では快慶作」になっているが、私が高山寺に行ったときは「伝運慶作」の説明がついていた。まあどっちでもいいのだ。時代を越えて、応挙の仔犬にもちょっと似ている。それから、馬、獅子・狛犬たち。雌雄の神鹿は、記憶より大きかったことと、表情のリアルなことに驚いた。雌鹿の口元からは、晩秋の奈良で聴く「ピー」というもの悲しい高音が聞こえてきそうだった(と書いて、秋に鳴くのは雄鹿だと気づいたけど、鹿の鳴き声というと、あれしか思い浮かばない)。

 なお、鳥獣戯画展については後日談あり。別稿にて。
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