見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

戦時下の真実/物語 岩波書店百年史2(佐藤卓己)

2014-01-29 23:26:39 | 読んだもの(書籍)
○佐藤卓己『物語 岩波書店百年史2:「教育」の時代』 岩波書店 2013.10

 2013年に創業百年を迎えた岩波書店の社史全3冊。第1巻『「教養」の誕生』(紅野謙介)、第2巻『「教育」の時代』(佐藤卓己)、第3巻『「戦後」から離れて』(苅部直)という全貌を知って、わーどれから読んでも面白そう!と思ったが、いちばん美味そうな巻から手をつけることにした。第2巻は、1930-1960年代。戦前と戦後をまたぎ、創業者・岩波茂雄(1881-1946)の死をまたぐ30年間である。

 こういう労作を読むと、自分が、まだまだこの時代(戦争とその前後)の実像を知らないこと、自分だけではなく、日本社会がいろいろな記憶を忘却していることに気づかされる。まず、1929年の世界恐慌の影響で下降をたどっていた岩波書店の業績は、1931年の満州事変以後、上昇に転じ、1942年まで好況が続く。岩波書店の社員・編集者だった小林勇は「検閲と統制が強化された。ほとんどの出版社がこぞって戦争に協力した。景気がよくなった。そして戦争が進むにつれてこの勢は強くなった」と戦後に証言しているのだが、かえりみる人は少ないのだろう。

 軍部は岩波書店を嫌っていた(らしい)が、大陸の戦線にいっている若者たちは、恤兵品(軍人に対する献金や寄付)として岩波文庫を要求する声が強かった。そのため、陸軍恤兵部は陸軍将兵向け慰問品として、岩波書店に岩波文庫20点×各5000部の注文を出している。このセレクションが掲載されているのだが「意外にも文化的に味わいのある選定」で面白い。うわー荷風まで。

 関連して、ある心理学者が、戦線の兵士は活字に飢えており、どんなものでも読もうとすること、就中、死に直面して人生に深い省察を求め、中卒以下の兵士にも古典熱が広まったことを語っている。これも目からウロコの落ちるような証言。

 戦没学生の遺稿集『きけ、わだつみの声』の出版をめぐっては、いろいろ悶着があったことは知っているが、日高六郎の証言が興味深い。この遺稿集は、平和主義の観点から「戦争にたいしてやや批判的だった学生の手記」を中心に集められた。著者はこれを「青年はつねに進歩的である(べきだ)」という信念に寄りかかって編集されていた、と分析する。「しかし、日高によれば、戦時期の教訓とは青年がむしろ老人よりも保守的あるいは反動的になりえるということだった」とも。この前後は、2014年のいまの状況を考え合わせて、納得できるところが多い。日高の、学生たちは「たいへん巧妙に、流行おくれになるまいと新しい衣装に手を出しているうちに、いつのまにか時の流れに流されてしまったのでした」という言葉を、いまの10代、20代の若者に読んでほしい…。

 引き続き、戦後についても印象的な記述を抜き出していくと、清水幾太郎の「私たちは謙虚な態度でアジアへ帰ろう」とう言葉。「地元に帰ろう」みたいですけど。「日本のインテリが、何とかして、ヨーロッパやアメリカに留学しようと努力していた時、日本の大衆は、無理遣り、兵隊としてアジアの各地へ送られていたのである」という箇所を読んで、いまの大学が、グローバル人材などとおだてながら、酷い就業条件でアジアの各地へ送られていく若者を量産している状況を思い合わせた。

 また、網野善彦は、江戸時代の庶民の識字・計算能力について、「その知的水準の高い日本の民衆が300年にわたって江戸幕府の専制体制を支えつづけたということも事実です」という刺激的な発言をしている。「知的能力が専制支配に対する物わかりのよさにもなるわけですね」「知的能力の高さのみをよしとするものの考え方こそ批判しなくてはならないと思うんですね」と刺激的。これは1987年の発言。ううむ、今思えば、ずいぶん風通しのよい時代だったなあ。

 岩波茂雄と岩波書店の1930-1960年代は、網野のような考え方が立ち現れる「以前」にある。「知的能力の高さ」を良しとすることに疑問を抱かない思想。エリートであれ、小僧さんであれ、兵隊さんであれ、鍛えられ、教育されて、あるべき人間になるという思想。「岩波文化」に対立するのは、「人をきたえない」「人を教育しない」文化類型ではないのか、という記述は示唆的である。こういう「教育」主義的な出版って、東アジアの伝統に即している感じがするが、欧米ではどうなのだろうか。
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2014初春いろいろ

2014-01-22 23:18:19 | 日常生活
1月前半は、いろいろ多事多端だった。

三連休は大阪・伊勢に出かけていた。水道管の凍結予防に水抜きをしていったのだけど、帰ってきて、復旧が不十分な状態で風呂を焚こうとしたら、釜を壊してしまった。週末まで修理に来てもらえなくて、ビジネスホテルに外泊したりした。風呂場の蛇口から分岐している洗濯機も使えないと思って、かなり難儀した。

土曜の午後に状況を見に来てもらい、交換部品の手配にまた1週間くらいかかるのではないかと思ったが、幸い、その日の夜に直してもらった。3万円ちょっとかかったが、釜の内部を掃除をしてもらったら、別製品のように着火が簡単になった。

ハンドルを回して着火する旧式タイプで、こんなものだろうと思って四月から使っていたのは、何だったのか…。点火を確認する窓が見にくいのも老眼のせいだと思っていたら、呆れるくらいクリアに快適になった。こんなことなら、早く点検修理をしておけばよかった。

風呂釜の構造をきちんと教えてもらったのもよかった。なるほど、浴槽(追い焚き)用と給湯用と、中の釜は別になっているのか。浴槽に水が張ってあるから大丈夫と思ったもので、給湯用の釜で空焚きしてしまったらしい。昨年4月にガス屋さんから教わった水抜き手順も再確認できた。

それから治療済みの奥歯のかぶせものが外れて、慌てて歯医者に行った。欠けてしまったので、作り直したほうがいいと言われ、これもお金はかかったけど、一件落着。

あとは、灯油の調達。ポリタンク4缶入れてもらったけど、これで暖かくなるまで持つかしら。

仕事は、綱渡りしながら切り抜けている。ふう。


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個性と調和/茶道具取り合わせ展(五島美術館)

2014-01-20 00:04:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 『茶道具取り合わせ展』(2013年12月7日~2014年2月16日)

 五島美術館の最得意分野の茶道具取り合わせ展。正月休みに行ったものだが、記憶を呼び起こして書いておく。展示室に入って、あ、いつもと違う!と思ったのは、壁に沿った展示ケースに全て畳が敷かれていたこと。そして、床の間・違い棚などをしつらえて、茶室の雰囲気を再現したものが三か所。

 冒頭には、秀吉の消息と千利休の書をそれぞれ掛軸にしたものが並ぶ。表具が二人の対照的な個性をそのまま表していて、面白い。そして、最初の再現「茶室」(富士見亭)には、武野紹鴎の消息を掛ける。以下、小鉢、皿、茶入と仕覆などが並ぶのだが、茶入がデカい。リンゴの大玉くらいある。焼きものは伊賀、備前など、男っぽいもの多し。五島慶太のイメージにぴったりくる。

 徳利に盃の取り合わせが何組か並んでいたが、古備前の徳利に赤絵金襴手の盃と盃台、祥瑞(染付)の徳利に黄瀬戸の盃、絵粉引徳利に色絵和蘭陀盃、どれもよかった。楽しいな~。敢えて同じテイストで揃えないところがよい。

 再現「茶室」は、ほかに古経楼と松寿庵。古経楼は田健治郎が台湾檜を用いて建築した茶室で、のちに五島慶太の所有に帰した。木肌がみずみずしく、柄が大きいのもよい。狭くて暗いだけが茶室ではないのだから。松寿庵は、古経楼の中に五島慶太が作ったものだそうだ。

 珍しかったのは、名物裂と裂手鑑や裂箪笥。個人的にお気に入りは、明代の青貝布袋香合。古伊賀の水指『破袋』も出ていたが、あまりに個性が強すぎて「取り合わせ」の中では、少し浮いていたように思う。

 なお、映画『利休にたずねよ』とはタイアップ企画らしく、展示室2に、撮影用に作られた茶道具などが展示されていた。まあこの映画は見ないでいいだろうと思っている。
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2014年1月@伊勢神宮に初詣

2014-01-19 00:25:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
 昨年(2013年)10月、式年遷宮を終えたばかりの伊勢神宮に初詣に行ってきた。京都から近鉄特急で2時間15分。いまは伊勢市駅が参拝・観光の玄関なのね。古い人間なので、宇治山田駅で降りてしまった。レトロモダンな駅舎を見上げて、ああ伊勢に来たなあ、と思う。

 参拝も伝統と格式を尊重して、外宮(豊受大神宮)から。ご祭神は豊受大神(トヨウケビメ)。食物の神様である。こちらは遷御を終えた古いほうの社殿。私は、10~15年前に一度、参拝に来ているので、そのときの社殿はこっちだったはず。



 こちらが、新しい社殿。拝殿の左脇に神主さんたちの詰所(?)みたいな小さな建物があって、白い狩衣(?)姿のおじさんが前に出て、かしこまって参拝客の列を見守っていた。小さい女の子が好奇心を示して近づいていったら「おじさんな、24時間ここにおるのよ」と小声でささやいているのが聞こえた。



 続いて、内宮(皇大神宮)。ご祭神は天照坐皇大御神。外宮と内宮の間は、全員座れるように調整したバスが運行している。鳥居が、外宮より縦長な感じがしたけど、気のせいだろうか。正殿が建つ御敷地には入れないので、垣根(真垣?)の外から眺めると、拝殿から正殿に向けて、白石が道のように敷きつめられている。一瞬、建物の影?という錯覚を起こしたが、そうではなくて、色の違う石を敷いているのだ。



 こちらは古いほうの社殿。20年経つと、こんなに古さびてしまうものなんだな(すでに就職から勤続20年を超えた身として感無量)。



 最後に、外宮前で食べた赤福ぜんざい(冬期限定)。高台の高い、絵唐津っぽいお椀が可愛かった。どこかで手に入らないものかなあ。(株)赤福のホームページを見に行ったら、夏期限定の赤福氷も食べてみたくなった。


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2014年1月@京の冬の旅+円山応挙展(承天閣美術館)

2014-01-18 19:40:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
 連休2日目は「第48回京の冬の旅 非公開文化財特別公開」の寺院を中心に、のんびり京都市中を歩く。

 まず、地下鉄今出川駅から寺之内通を西へ、妙顕寺を目指す途中、何やら由緒書を掲げたお寺を見つける。近寄ってみると「光琳菩提所 興善院旧跡」とある。泉妙院というお寺だ。へえー。残念ながら観光寺院ではないので、お参りはできなかった。



■大本山 妙顕寺(上京区)

 その少し先に妙顕寺。敷地が広い。客殿に三つの庭園がある。孟宗竹林の坪庭には、大和文華館の展示室を思い出した。光琳曲水の庭は、白砂で曲水を描き、その周囲に、複雑な枝ぶりの松や梅が植わっている。花が咲いたら『紅梅白梅図屏風』を思い出さないでもないかも。



■報恩寺(上京区)



 妙顕寺の少し西。石碑や看板を見ると「鳴虎 報恩寺」とある。この名称は、かつて寺宝の鳴虎図を豊臣秀吉が聚楽第に持ち帰ったが、夜中に虎の鳴き声が聞こえて安眠できなかったため、寺へ戻されたという故事に由来する。鳴虎図は寅年の正月三が日に限って公開されてきたが、黒田長政の終焉の地であり、黒田官兵衛と息子・長政の位牌を祀ることから、今年の大河ドラマ関連で特別公開となったようだ。快慶ふうの阿弥陀三尊像など、仏像もなかなかよい。鳴虎図には「仁智殿 四明陶佾(しめいとういつ)」という署名があるので、中国の寧波(=四明)の画家が描いたものと考えられるが、どうなのかなあ。朝鮮画っぽい感じもする。

※参考:朝日新聞デジタル:毛並み本物並み 報恩寺「鳴虎図」長さ・方向、1本1本描き分け(2012/11/1)(板倉聖哲先生のコメントあり)

 今出川駅まで戻って、相国寺に寄ろうとぶらぶら歩きの途中、さっきの妙顕寺の並び「茶道具みやした 寺之内通店」のショーウィンドウ前で足が止まってしまう。女性の店員さんの「どうぞー」という優しい呼びかけに誘われて、つい中へ。仁清写しとか楽茶碗写しとか、名碗の「写し」が多いが、これなら鑑賞にも満足のいくレベル。欲しいわ~。

 相国寺は美術館だけ寄っていくつもりだったが、以前、悪左府こと左大臣藤原頼長の墓を探しにきて、見つけそこねたことを思い出し(※2年前の記事)もう一度、墓地に行ってみることにする。今回は碑文に「宇治左府首塚也」云々とあるのを確認。黙って手を合わせてきた。



承天閣美術館 開館三十周年記念『円山応挙展・後期 障壁画を中心に展示』(2013年12月21日~2014年3月23日)

 後期は相国寺開山堂襖絵など、本邦初公開作品を含む障壁画を中心に展示。という売りだが、私は第1展示室で、応挙が学んだ中国絵画の数々を見られたことが面白かった。「応挙」の号は「銭舜挙」に由来するんだったのね。辺文進の『百鳥図』は、若冲ふうの鳳凰(という説明が一番分かりやすいので)を囲む鳥たちの図。鳳凰の尾羽根の色が赤・白・緑のイタリアンカラー。劉俊筆『陳南浮浪図』は、大きく描かれた人物が悠揚迫らぬ感じでいいなあと思って見ていたが、背景の波頭の描き方が琳派の波涛図を思わせるところがある。

 第2展示室には「七難七福図」の画稿(墨画)が一部出ていた。応挙の写生帖(三井南家伝来)はいつ見ても面白い。ニワトリ、カエル、魚などの図。ニワトリは全体図がパネルになっていて、ありがたかった。

■阿弥陀寺(上京区)

 葵橋の北、賀茂川を背にして寺院の並ぶ寺町にある。この一帯には、一度迷い込んだことがあって「織田信長公本廟所」の石碑を見つけ、へえ~と思った記憶がある。本能寺の変の際、同寺の開山・清玉(せいぎょく)上人が駆け付け、信長の遺骸を運び出して埋葬・供養したという言い伝えがある。↓織田信長、信忠父子の墓石。



 信長の「墓所」と伝わる寺院・神社は各地に多数あるが、かつて明治天皇から「最も正統性があるのはどこか」(?)とのご下問があり、帝国大学の先生たちが調べた結果、この阿弥陀寺と定まったという、おじさんの解説が面白かった。

 最後に祇園に出て、京都ゑびす神社に寄っていく。「残り福」も最終日だったので人は少なく、ゆっくりお参りできた。

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音曲を愉しむ/文楽・近頃河原の達引、壇浦兜軍記、他

2014-01-16 23:28:32 | 行ったもの2(講演・公演)
国立文楽劇場 新春文楽特別公演(2014年1月11日)

 大阪市から文楽協会への補助金をめぐるゴタゴタがあって、あれで技芸員のみなさんが本気になったと言われるのは心外だが、一文楽ファンである私の行動には、多少の影響を及ぼしている。東京で見られる文楽を、わざわざ大阪まで見に行こうとは思わなかったのだが、最近は積極的に大阪に遠征するようになった。大阪公演のほうがチケットが取りやすいのだ。

・第1部『二人禿(ににんかむろ)』『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)・九郎助住家の段』『傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)・新口村の段』

 今回は、朝、札幌を出て、神戸空港着。国立文楽劇場に直行する。到着したのは12:00少し前で、上演中に客席に入れていただき、ほんとにすいません。ちょうど『源平布引滝』の山場で、瀬尾十郎と斎藤実盛が九郎助夫妻に詰め寄っているところだった。木曽義賢の愛妾・葵御前が生んだ赤子の詮議に訪れた二人。ところが、生まれたのは「女の片腕」だという。荒唐無稽な拵えごとを、故事を引いて「そういうこともあるだろう」と言い繕う実盛。瀬尾十郎が去ってのち、実は九郎助夫妻の娘・小まんの片腕であると語る実盛。みるみる御座船の情景が浮かぶような語りの至芸。咲大夫さん、いいわ~。

 湖で引き揚げられた小まんの死骸が運ばれてくるが、源氏の白旗をあてると一時蘇生するとか、いけすかないと見えた瀬尾十郎が小まんの実の父で、孫の太郎吉に手柄を立てさせ、駒王丸(生まれたばかりの赤子)の家来に取り立ててもらおうと、わざと命を捨てるドンデン返しとか、ありえないんだけど、理性の深層で感動してしまう。こういうのが「古典芸能」の力なんだろう。この作品、『平家物語』の登場人物が総登場するようなストーリーなんだな(→あらすじ)。通しで見てみたい。

 『傾城恋飛脚』は、近代に通じる抒情に満ちた作品(脚本)。そして、蓑助さんの操る梅川も、近代的な女性の個と内面美を感じさせる。

・第2部『面売り(めんうり)』『近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)・四条河原の段/堀川猿廻しの段』『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)・阿古屋琴責の段』

 続けて、第2部も鑑賞。『近頃河原の達引』は、あ、猿まわしの出るヤツね、という知識があったくらいで、たぶん初見。玉女さんの猿廻し・与次郎がよかった。玉女さん、二枚目よりも、こういうコミカルな役に味わいがある。気性のまっすぐな伝兵衛、思慮深く誇り高い遊女のおしゅん。「人の落目を見捨てるを廓(さと)の恥辱とする」という科白は印象的だったけど、やっぱり有名なのか。笑わせながら泣かせる脚本が最高。三味線のツレ弾きはカッコよかった! 何より楽しませてくれたのは二匹の子猿を操っていた黒子さんなのだけど、プログラムには名前がないのね。

 ちょっと調べたら、おしゅん伝兵衛の恋情塚が、京都・聖護院塔頭の積善院準提堂にあると知って驚いた。もと崇徳天皇廟にあったために崇徳地蔵がなまって「人喰い地蔵」と呼ばれる石仏のあるお寺である(※訪問の記録)。『源平布引滝』と『壇浦兜軍記』に挟まれて、平家物語つながり?

 そして『壇浦兜軍記』の阿古屋琴責の段。これも内容は知っていたけど、面白いのかなあ、と疑問で見ようとしたことがなかった。結論をいうと、ストーリーよりも、とにかく耳に面白い。琴、三味線(ツレ弾き)、胡弓の演奏で、目まぐるしく(耳まぐるしく?)楽しませてくれる。特に胡弓は、ほかの演目で、物憂い雰囲気を醸し出すBGMとして(御簾の内で)使われるのは聴いたことがあったが、この作品では、床に出て顔を見せて演奏する。その音色の華やかでスピーディなこと。馬頭琴みたいだと思った。「三曲」は鶴澤寛太郎さん。脇役に徹し、無表情を通しているのがカッコいい! 第1部は下手の端(けっこう前方)で人形の所作がよく見え、第2部は上手の床に近い席だったのもラッキーだった。

 「阿古屋琴責め」は、為政者(人の上に立つ者)の良し悪しを、さりげなく示してもいる。文楽補助金は減額されるのかもしれないが、誰の汚点として歴史に書かれるかは明らかなことだと思う。
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2014年1月・関西旅行(志津屋の干支パン)

2014-01-15 23:46:02 | なごみ写真帖
正月の東京帰省中に見て来た展覧会レポートも書き終わらないうちに(五島美術館がまだ!)三連休は関西に出かけてきた。

目的は、第一に大阪で文楽を見ること。
翌日は「京の冬の旅」の特別公開寺院を巡礼。
最終日は伊勢神宮に参拝して、中部国際空港から帰ってきた。

宿泊先や移動中は、黙々と仕事。そうまでして観光に行きたいかと言われれば、行きたいのである。
休み明けもまだ宿題を引きずっていて、ブログ更新を怠っているが、そのうち何とか。

↓志津屋の干支パン。今年は午(うま)。

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師弟の絆/下村観山展(横浜美術館)

2014-01-09 23:59:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
横浜美術館 特別展『下村観山展』(2013年12月7日~2014年2月11日)

 あらためて横浜美術館の公式サイトを見にいったら「(下村観山)生誕140年記念」に「岡倉天心生誕150年・没後100年記念」が重ねてあって、謳い文句が「日本歴代屈指の筆技を観よ」であるのに笑ってしまった。「日本歴代」って大きく出たなー。あと誰が入るのか、教えてほしい。

 下村観山(1876-1930)の名前は知っていたが、まとめて作品を見るのは初めての機会で、紀州徳川家に仕える能楽師の家に生まれたことも、幼い頃から非凡な才能をあらわしていたことも知らなかった。入口を入ったところに、大礼服姿の観山の写真があって、秀でた額、高い鼻の西洋人みたいな容貌にびっくりした。もうひとつ驚いたのは、「ごあいさつ」パネルの陰に身をひそめるように、平櫛田中作の岡倉天心のブロンズ像が据えられていたこと。天心先生、なぜここにwと、笑ってしまった。観山とは対照的に、腫れぼったいアジア人顔の天心は、拗ねてふてくされているようにも見えた。

 展示は、観山が十代の頃の画稿から始まる。狩野派の伝統教育にしたがって、さまざまなお手本を写している。成長期の子供にとって、模写って意外と楽しいんだよなあ。自由な絵を描いてごらんと言われるより、数倍も楽しかったことを思い出す。

 明治22年(1889)、東京美術学校に第1期生として入学。卒業後、ただちに助教授に抜擢されたが、明治31年(1898)校長・岡倉天心が辞職すると、ともに美校を去り、「日本美術院」設立に参加する。この頃の作品で好きなのは『春日野』や『春秋鹿図』。明治34年(1901)、美校に教授として復帰し、その2年後、文部省の命により英国留学。当時の日本人にとっての「海外体験」の大きさを、しみじみ思う。ラファエロの油彩を、紙に水彩あるいは絹本着色で模写したものが残っているが、狩野派の「模写」教育、侮るべからずと言っておこう。

 岡倉天心の没後、観山は横山大観とともに日本美術院の再興を図る。この頃から「茫漠とした空間を特徴とする高い精神性に満ちた画面」を特徴とする名作が、次々と生まれる。東博でよく見る『弱法師』もこの頃。そして、李白、陶淵明など、観山が繰り返し描いた「中国の高士」像は、どれもよく似た顔をしており、師・岡倉天心の面影を宿しているという。『酔李白』(北野美術館)を前に、入口で見た天心のブロンズ像を思い出して、大きくうなずいた。

 それにしても、晩年の作品の美しさ。「精神性」というのは陳腐な言葉だけど、ほかに言い表しようがない気持ちの落ち着きと清々しさを感じる。妙に頂上が広くて平たい富士山も好きだ。それから「観山」のサインの文字も。
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幼心、遊び心/Kawaii 日本美術(山種美術館)

2014-01-08 23:49:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 特別展『Kawaii 日本美術 -若冲・栖鳳・松園から熊谷守一まで-』(2014年1月3日~3月2日)

 正月3日に行ったら、玄関ロビーに和服姿の女性が立っていて、張りのある声で「いらっしゃいませ」とご挨拶をいただいた。あとで同館の館長だと気がついた。

 本展は、時代を超えて日本人の心を捉えてきた「Kawaii(かわいい)」に注目する展覧会。2013年の府中市美術館『かわいい江戸絵画』、さらには2008/2009年の松濤美術館『素朴美の系譜』を思い出さないでもない。同館の得意とする近現代の日本画が中心だが、若冲、蘆雪、森狙仙などの江戸絵画も混じる。さらに、室町時代の『藤袋草子絵巻』『雀小藤太絵巻』『新蔵人物語絵巻』が、サントリー美術館から出ていたのは、嬉しいサプライズだった。

 展示構成は、まず「子ども」。奥村土牛の『枇杷と少女』初めて見た。キャンバスいっぱいに描かれた枇杷の木。画面の隅に身を寄せるように少女の姿がある。ふと坪田譲治の『びわの実』という童話が好きだったことを思い出す。関山御鳥の『琉球子女図』、こういうエキゾチシズムには弱い。

 続いて「動物(生きもの大集合)」。印象ではイヌとウサギが多かった。日本画家は、ネコよりイヌ好きが多いのかも。奥村土牛の『鹿』のべたっとした茶色の質感が、すごく鹿の毛皮らしいと思った。竹内栖鳳の『みみづく』、山口華陽の『木精』も好きだ。ミミズクって、私は見たことがないが、身近な野鳥だったのかなあ。作品解説に、山口華陽は「飼っていた木菟(みみずく)を(描き)添えた」とあった。

 最後が「小さい・ほのぼの・ユーモラス」。松岡映丘の『斎宮女御』をここに出すのは、ちょっと無理がある。谷内六郎は、そんなに好きではないけれど『うさぎ うさぎ』の見事なストップモーションは笑えてかわいかった。

 なお、若冲の『樹下花鳥獣図屏風』は後期(2/4~)展示。いま見られるのは『鶴亀図』『托鉢図』『伏見人形図』の3点だが、いずれも楽しい。私は図録の解説を読んで、『鶴亀図』の二羽目の鶴を見逃していたことに気づいた! 楽しいなあ~。
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2014博物館に初もうで(東京国立博物館)

2014-01-07 22:49:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
1月2日、東京国立博物館の新春企画『博物館に初もうで』に行ってきた。年々定着してきたのか、観客が増えて、本館1階のコインロッカーに空きがなかったので、東洋館から見ることにした。

■東洋館 8室 『中国の絵画 歳寒三友-中国文人の愛した松竹梅-』(2014年1月2日~2月9日)

 自分のブログを遡っていたら、2006年の新春にも同室で『新春特集陳列 吉祥―歳寒三友を中心に―』をやっていた。当時の私が注目しているのは呂紀の『四季花鳥図(冬)』で、今回とは、かなり雰囲気の違うラインナップだったんじゃないかと思う。今年は、墨画または淡彩の作品が多く、全体に文人らしい清雅な気品が感じられた。私のお気に入りは、丁仁筆『梅花図』。

■東洋館 8室 特集陳列『中国の書跡 顔真卿と蔡襄』(2013年12月3日~2014年2月2日)

 隣りの「書」エリアは、この特集陳列。顔真卿は、私の好きな書家の一人である。これって巧いの?と首をひねりたくなるような、臆面のない正攻法の楷書を書くところが好き。蔡襄(さいじょう)の名前は忘れていたが、朱墨の拓本『万安橋記』を見て、これは見たことがあると思い出した。こういうとき、スマホは便利。その場で検索して、2011年に台東区立書道博物館が『尚意競艶-宋時代の書-』と題し、蔡襄の生誕1000年企画展を開催していたのを見つけ出した。このとき、同館所蔵の顔真卿筆『告身帖』は、蔡襄による跋文だけが開いていて、顔真卿の自書は巻かれた状態だったが、今回は顔真卿の自書と蔡襄の跋文をどちらも眺めることができる。

■本館 特別1室・特別2室 特集陳列『博物館に初もうで-午年によせて-』(2014年1月2日~1月26日)

 さて、本館。今年の干支「午(うま)」は、二次元も三次元も「絵」になるなあ。馬にまたがった羅漢図(十六羅漢像・第五尊者)があったのにはびっくり。 鞍(くら)や鐙(あぶみ)が並んでいるだけでも、美々しく飾った馬の姿が浮かび上がって、わくわくする。

■本館 新春特別公開(2014年1月2日~1月13日)など

 同時に名品を期間限定で公開中。国宝室には長谷川等伯筆『松林図屏風』が出ていた。大勢の人に見てもらうには、こういう公開も大事だけど、たまには閑散期にそっと出してほしい。雪舟の『破墨山水図』は遠目に見て回避。「書画の展開-安土桃山~江戸」は、前回参観(11月末)と変わっていなかったが、今出ている作品には、長沢蘆雪の『蝦蟇仙人図』、岡田半江の『虎渓三笑図』など好きなものが多いので、得をした気分。「武士の装い」には変わり兜(黄金のサザエ)も!!

 1階の11室(彫刻)には、島根・赤穴八幡宮の八幡三神坐像(八幡神・息長足姫・比売神)が出ていた。というか、私は、いちばん目立つところにいらした八幡神坐像に心を奪われ、恐れ多くも写真を撮ったり、夢中になっていて、息長足姫と比売神の像があったことを全然覚えていない。ショックだ~。でも展示は3月2日まで続くらしいので、もう一回見に行くチャンスはあるだろう。なお、15~19室は閉室中。「歴史資料」と「近代美術」の部屋が閉まっていると、ちょっと寂しい。

 最後にミュージアムショップで「古筆カレンダー」を買っていこうとしたら、売り切れていてショック。何年か前も、正月に買いに来たら売り切れ寸前だったので、危惧はしていたのだが…。店員さんが、発売元の書藝文化新社のチラシを探してきてくれて「ここにお電話してみてください」と教えてくれた。その後、5日に五島美術館で残部を見つけて購入できた。今年も古筆の美を眺めながら一年を暮らしていくことができて、嬉しい。

↓今年の新春企画のメインビジュアル(めでたい)。

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