見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2013年10月・東京の展覧会拾遺

2013-10-31 23:01:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『京都-洛中洛外図と障壁画の美』(2013年10月8日~12月1日)

 10月20日(日)に駆け足でまわった展覧会。まずは東博から。「本邦初!国宝・重要文化財指定『洛中洛外図屏風』全7件が一堂に」というのが売り文句だが、残念ながら一度に全てを見ることはできない。でも大好きな岩佐又兵衛の『洛中洛外図屏風(舟木本)』が全期間展示なので、わくわくしながら見に行った。舟木本は東博の所蔵だが、私の記憶では、あまり実見したことがない。記録では、2007年12月の常設展で一度見ている。2010年新春にはVR(バーチャルリアリティ)上映があったが、本物は見逃したみたい。

 今回、会場に入ると空っぽの第1室が、大画面を使って高精細画像の上映というのは新機軸だと思ったが、私は「現物を見るために博物館に来る」古いタイプの人間なので、ここは後回しにして、第2室から見始める。前期展示で見られたのは、狩野永徳の上杉本と歴博乙本、舟木本、富山の勝興本、岡山・林原美術館の池田本。あとの2件は初見ではないかと思う。現場では、十分に見えなかったが、図録で見ると、それぞれ個性的で楽しい。続く第3室には、かつて京都御所を飾っていた賢聖障子絵、唐人物図屏風など(仁和寺ほかに伝存)。天皇の御座が、びっしり唐人物図に囲まれていたって知ったら、最近のウヨクさんはどう思うんだろう。

 第二会場の冒頭も展示はなくて、環境ビデオみたいな「龍安寺石庭の四季」が上映されていた。そのあとは龍安寺の襖絵、さらに二条城の障壁画。もとの空間イメージを再現するため、配置に心を砕いているのは面白かった。

■東京国立博物館・東洋館8室 東洋館リニューアルオープン記念 特別展『上海博物館 中国絵画の至宝』(2013年10月1日~11月24日)

 中国に行ってもなかなか見ることのできない中国絵画の名品40件を展示。ただし宋元画は前期・後期で入れ替わるので、一度に見ることができるのは約半数である。『閘口盤車図巻(かいこうばんしゃずかん)』は、五代・10世紀の作品。水門に設けられた楼閣で水車がまわり、さまざまな身分・職業の人々が立ち働く市井のありさまを描く。洛中洛外図に通じる画趣だが、日本はまだ平安盛期の貴族社会だ。北宋の『煙江畳嶂図巻(えんこうじょうしょうずかん)』の、夢見る童画のようなやわらかさ。馬麟の款を持つ『楼台夜月図頁』の、安藤広重みたいなもの哀しい静謐。どれも好きだー。

 明末清初には、私の好きな画家たち、呉彬とか朱耷(八大山人)とか石濤とかが並んでいて、テンションが上がる。うわーん、見に来てよかった。とはいえ、やっぱり中国絵画の見どころは分かりにくいので、音声ガイドを借りるのがおすすめ。学芸員の塚本麿充さんも声のご出演。読みごたえのある図録に加えて、別冊(別売)「釈文・印章編」も出してくれた配慮に感謝。

大倉集古館 『描かれた都-開封・杭州・京都・江戸-』展(2013年10月5日~12月15日)

 北宋の都・開封を描いた中国絵画至高の名品『清明上河図』に対し、明代になると「構図等を踏襲し、蘇州の風景を描いた清明上河図が多く制作された」というのは、かつて、ここ大倉集古館で学んだこと。同館所蔵の伝・仇英筆本『清明上河図』は、蘇州の風景を描いたものと考えられている。今回は、やはり江南ののんびりした風情が感じられる清代の”清明上河図”が2件展示されている。そして、南宋の都・杭州と西湖の図。多くは、中国の風景など見たことのない日本人画家の作品であるのが面白い。

 目を転じて、日本は京都の名所遊楽図、洛中洛外図など。ふと「長谷川巴龍筆」の黒々したサインが目に留まって、記憶の中から、超脱力系の「素朴絵」屏風であることを思い出した。さらに江戸は名所図絵から、なんと山口晃画伯の『六本木昼図』と『広尾-六本木』も。楽しかったが、私より先に見に行った友人が「欲張りすぎて、印象散漫」と語っていたのも否めないところ。発売が遅れていた展示図録は、10/23(水)からようやく売り出しになったそうだ。

国立公文書館 平成25年秋の特別展『旗本御家人III-お仕事いろいろ』(2013年10月5日~10月24日)

 国立公文書館の展示にはいろいろあるが、江戸城の紅葉山文庫→内閣文庫の資料を駆使した「旗本御家人」シリーズ(時代劇みたいだw)が、やっぱりいちばん面白い。地味な展示だと思うのに、熱心なファン(?)がずいぶん来ていた。大奥の女性たちのさまざまな職種紹介が興味深く、中には髪を剃った「御伽坊主」と呼ばれる女性たちもいたのだな。「暴れん坊将軍」吉宗も、晩年には「介護」の記録が残っているというのも感慨深い。しかも吉宗とは一歳しか違わず、小姓時代から近似した小笠原政登の書き残した記録というのが、さらに。書物奉行や天文方の仕事が取り上げられていたのも嬉しかった。
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手のひらで感じる/2013東美特別展(東京美術倶楽部)

2013-10-31 00:10:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京美術倶楽部 第19回『東美特別展』(2013年10月18日~20日)
  
 早く書かないと忘れてしまうと思いながら…。10月19-20日の週末は東京に出かけた。目的のひとつがこれ。毎年秋に秋に行われる美術品の展示即売会(アートフェア)で、2008年に初めて覗いてみて以来、やみつきになった。三年に一度の特別展は「展示会」の要素が強くて、参加店舗数は少ないが、選ばれた店舗(65店)が選りすぐりの名品を出展する。

 いつものように4階から。古美術を中心に見ていく。古筆の軸に吸い寄せられたのは「五月堂」。二条切が140万円。広沢切は値段の表示がなかったが、別のお店で、そういう場合は値札の裏を返すと、さりげなく書いてある場合もあるのを発見。「加島美術」は「奇想の画家」をタイトルに掲げて、岩佐又兵衛、若冲、蕭白、蘆雪という取り合わせ。嬉しい。「思文閣銀座」は、宗達の烏図双幅(阿吽なのか?)、同じく宗達のモコモコした虎は、口元にうっすら赤が配されていたが、舌なのか、何か咥えているのか、よく分からなかった。「甍堂」には、興福寺千体観音の一体。両手を欠いているが、夢見る童子のような表情が愛らしい。全く知らなかったが、仏教美術愛好家にとっては憧れの仏像なのだそうだ。定信筆「兼輔集切」は、本当に小さな断簡だったが、450万円という価格に驚く。「ふるさとの三笠の山 とほけれど 声はむかしに うとからなくに」の和歌が気に入って、書きとめて来た。水鳥のかたちをした金銅の水滴(鎌倉時代)など、小さくて品のよい骨董がさりげなく並んでいて、贅沢。

 「中村好古堂」で驚いたのは、中尊寺経(紺紙金銀字交書)の美しさ。ガラスケースなしで見る金泥、銀泥って、こんなに輝くのか! 「壺中居」は中国の石仏特集で、雲崗の仏頭3000万円、北魏の小さな石仏が3500万円。でも青銅器に見入っているおじさんがいたら、店員さんが、気軽にぱかっと蓋を開けて内側を見せていた。「小西大閑堂」の玉眼の不動明王と制吒迦、矜羯羅童子像、よかったな~。鎌倉ものかしら。阿弥陀仏の左右に来迎衆を描いた三幅対の仏画も好き。以上でようやく4階を終了。

 3階、「瀬津雅陶堂」は琳派特集で、宗達のカモと白鷺に見とれる。「万葉堂」で見た古染付の、網目のまんなかに小魚を描いた器が気に入る。なんでもない皿のようで、網目七寸皿120万円。重之と敏行を描いた「時代不同歌合」は、詞章の行が、それぞれ中央から左右に向かって書かれているのが面白かった。「はせべや」には賀茂の競馬を描いた六曲一双の屏風。

 「浦上蒼穹堂」で、店員さんが「これ、薄いんですよ」と説明しながら耀州窯の器を撫ぜているのに刺激され、自分も手を出して、触ってみる。おお~。耀州窯って、見た感じよりも、薄くて軽いんだな。「古美術木瓜」であったか、根来の瓶子を見たときも、千載一遇のチャンス!と思って、持ち上げてみた。これはずしりと重かった。なるほど、形は不安定だが、これなら倒れる心配はないのだと分かった。

 2階はお座敷で、茶道具多し。1階「祥雲」に正倉院御物の撥鏤(ばちる)の尺や碁石の模作があった。守田蔵さんという方が制作されているらしい(→写真)。かわいい…。「寿泉堂」で見た相阿弥もよかった。美術館や博物館という「ついのすみか」に収まる前の作品たちと、軽く浮気するような、楽しいひとときだった。では、また来年。
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小石を拾う/街場の憂国論(内田樹)

2013-10-30 22:34:06 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『街場の憂国論』 晶文社 2013.10

 疲れているとき、内田樹さんのエッセイを読むと、いつも少し元気になる。未熟な若者、分からず屋の教師、勘違い政治家などに対して、どんなに厳しいことを言っていても、相手への敬意や信頼が根底にあるからだろう。著者のいう「呪いから身を逸らすための作法」の余得が読者に及ぶのだと思う。ただし、それは、相手が「ひと」である場合に限るようだ。本書は、日本という国家、顔の見えない「政治システム」を対象としているだけに、本物の危機感、あるいは絶望感に近いものがにじんでいて、重たかった。

 「危機」の表象となっているのは、自民党安倍政権、日本維新の会。彼らと足並みをそろえる改憲派、排外的ナショナリスト、市場原理主義者、グローバル企業とその支持者たち。けれども、本書は、彼ら――浮足立って「改革だ、グレートリセットだ」とわめき散らす」とか、「とりあえず金が要るんだよ」という耳障りで雑駁な主張を繰り返すとか、「座して貧乏になるようなバカばかりの日本なんか、もうどうなっても知らない」と言い放つ人々(以上、たまたま目についた箇所の引用)と、派手な罵り合いをするための著作ではない。危機を乗り越えるために、どういう振る舞いが求められているかは、蟻の穴を塞ぐために黙って小石を拾うような「アンサング・ヒーロー」(顕彰されない英雄)という比喩が、いちばん分かりやすいのではないかと思う。

 私が非常に感銘を受けたのは、著者が平川克美氏から勧められて読んだという、下村治著『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』という本だ。下村治は明治生まれの大蔵官僚で、池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした人だという。この紹介は、ちょっと警戒を誘うが、書いていることは、なかなかいい。下村は、経済の基本は「国民経済」であり、国民経済とは「この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きていくかという問題である」と喝破する。ううむ、新鮮だなあ。

 このブログを書き始めて、いまや9年目。過去ログを見ればバレてしまうことだが、私はずっと国民国家を目の敵にしてきた。国民国家が解体に向かうのは、望ましいことだと思って来た。だがそれは、生まれた土地から出ていくことのできない多くの人々が、飢えてもいいということでは絶対にない。全国民を食わせるには、全国民に就業機会を与えなければならない。それには大量の雇用を引き受けれる(したがって、生産性が低い)産業が、産業構造の一部に必要なのだ。「勝てる産業」の育成だけに問題を単純化する自由貿易主義者なら、絶対に認めない理屈である。こういう経済学者の存在を知っただけでも、本書を読んだ価値はあると思った。

 それから、今や手垢のついた日本語「情報リテラシー」についての内田流解釈。情報リテラシーが高いというのは、自分がどういう情報に優先的な関心を向け、どういう情報から意識的に目を逸らしているかをとりあえず意識化できる知性のことである。この定義でいくと、情報リテラシーはスキルの問題ではなく、知性の範疇に入ると思う。さらに情報リテラシーの習得は、個人の知的能力だけで達成できるものでなく、必ず「公共的な言論の場」が必要であるという。これも刺激的な卓見。一方、「情報難民」とは、自分が所有している情報の吟味を請う言論の場から切り離されてしまった人々のことだ。この指摘、自分の仕事とも関連して、いろいろ考えさせられる点が多い。
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2013年10月・京都の展覧会拾遺

2013-10-23 23:23:42 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都府立総合資料館 開館50周年記念『東寺百合文書展・筆跡』(2013年10月12日~11月10日)

 10/14(月)三連休最後の一日は、東京の友人と入れ替わりに、京都在住の友人につきあってもらう。渋い選択で申し訳ないと思いながら、私の趣味で、まず文書展。ユネスコ記憶遺産推薦候補に決定した「東寺百合文書」から47件を展示。私は、2005年に同館で開催された『国宝・東寺百合文書展』も見ているし、さらに遡って、1998年に東京の根津美術館で開催された展示会も見ているので、感慨深い。今回、東寺の近くの路地に軒を連ねて住んでいた庶民の名前や、家の中にあった財産(衣料、食器、食品など)目録とか、こんなものまで残っているのか、と驚く記録資料がいろいろあった。テキストだけでなく、情報を「図示」して書き留めた文書も意外と多い。八条大宮西の地図に「門脇平中納言跡」(平教盛だ!)という文字を見つけて、にやにやしてしまう。

 解説が分かりやすく、古文書が読めなくても楽しい、という声をネット上で見た。確かにそのとおりだが、自分が行ったときは、解説パネルだけ読んで、実際の文書を見ていない人が多かったのが残念。全展示資料の翻刻文が欲しかったというのはわがままだろうか。私が興味を持った資料は、ちょうど無かったので。

承天閣美術館 開館三十周年記念『円山応挙展~相国寺・金閣寺・銀閣寺所蔵~』(2013年10月11日~12月15日)

 次は絵画。承天閣美術館で応挙!? ということは、当然アレも出るんだろう、と思って行く。第一展示室には、応挙だけでなく、蘆雪や呉春の作品もあった。円山四条派って、関東人の私から見ると「京都」の香気が芬々と感じられて、憧れである。第二展示室に、出た!『七難七幅図巻』(福寿巻、人災巻、天災巻)、同下絵と同画稿。連れの友人は何も知らないので、「福寿巻」に見入っているが、私は既にドキドキしている。血まみれの「人災巻」は、度胸を決めないと、眼をそむけずに見ることができない。なお、今回は2010年のような奇妙な順路になっておらず、全て右から左に進むことができた点はありがたかった。

 写生図も各種。樽の中に入ったような人物を頭の上から描いた図が、ツボにはまる。応挙って、奇想の画家ではないけど、この偏執的な写生好きは絶対おかしいと思うのよねーと感想を述べてみる。

泉屋博古館 『仏の美術-ガンダーラから日本まで-』(2013年9月7日~10月20日)

 ガンダーラの石彫や中国の金銅仏・仏具、日本の木彫仏など、アジア全域に拡がる仏教美術の諸相を多角的に紹介。たぶん一度は見ているのではないかな、と思ったが、やっぱり仏像は魅力的。同館コレクションのほかに、京大人文科学研究所、龍谷大、奈良博、京博などの所蔵品が出陳されている。「京都・西寿寺」の阿弥陀如来坐像というのは、どこのお寺かよく分からなかったが、2005年に「京都西寿寺阿弥陀如来坐像が平安後期の作と判明(2005年4月2日)」という記事の残っている、右京区鳴滝の西寿寺のことだろうか。本展の目録では「鎌倉時代 13世紀」の制作になっている。何度か見ていても好きなのは、雲南大理国の観音菩薩立像。すらりとしたプロポーション。北魏時代の獅子像、有翼獅子像もかわいい。

 蓮弁形の光背を背負った黄金の弥勒仏立像(北魏・太和2年、重要文化財)は、同館仏像コレクションの中でも白眉の名品だと思うが、よく見ると、台座に線刻された供養者は、中国美術には珍しいくらいの脱力系である。台上の弥勒仏の威容と、どうしてこんなに差があるのか、不思議で仕方ない。これに比べると、日本・平安時代の線刻仏諸尊鏡像(国宝)は端正すぎて、ゆるキャラ度で負けている。
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2013秋@大徳寺:高桐院宝物曝涼展、黄梅院、龍源院

2013-10-23 20:57:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
■高桐院 宝物曝涼展

 10月第二日曜は大徳寺本坊大方丈だけでなく、塔頭寺院の高桐院でも宝物曝涼(むしぼし)が行われる。そこで本坊拝観のあとは、こちらにも寄る。



 入口で東京の永青文庫のポスターが目にとまり、理由も考えずに、懐かしく眺めた。あとから、高桐院が細川家の菩提寺であると知って納得。拝観受付を済ませると、細長い書院に通される。細川忠興(三斎)の肖像など、細川家ゆかりの書画(桃山~江戸時代)が10点ほど掛けられていたが、本坊の曝涼があんまり凄かったので、え?これだけ?という感じ。

 書院の奥の一室は「意北軒」と呼ばれ、千利休の邸宅書院を移築したと言われる。壁も襖も薄墨色で、褪色した銀かと思ったら「イカ墨を練り込んでいる」という解説を見つけた。さらに奥は、忠興(三斎)がつくった茶室「松向軒」。

 あぶなくこれだけで帰ってしまうところだったが、連れの友人と「お抹茶をいただいていこう」という話になり、受付に申し出る。すると、書院とは逆の方向を示され、「この先の、赤い布が敷いてあるところでお待ちください」と言われた。見通しのよくない廊下の先に広い本堂(客殿)があり、濡れ縁に緋毛氈が敷いてあった。そして、本堂の中央に掛けてあったのが『山水図』二幅を左右に従えた『楊柳観音像』。この『山水図』がもう、遠目にも息が止まるくらい凄い。まずは、庭を眺めながら、運ばれてきたお抹茶で一服。

 おもむろに立ち上がって、絵画を拝観。絹本墨画で、左右の山水図は南宋の李唐筆。特に私は、向かって左、手前の踊るように身をよじる巨木と、重なりあって次第に霞む山の峯が、見るものの視線を奥に誘い込む構図に惹かれる。動的な風景とは裏腹に、大きな荷物をかついでのんびり歩む旅人が見える。向かって右は、画面を覆い尽くすような岩壁、中ほどより下に流れ落ちる滝。話し込む二人の高士の姿がある(と、私のメモにあるのだが、高桐院で入手した冊子に載っている写真は左右が逆)。中央の『楊柳観音像』は、とびきり太い線をぐにゃぐにゃさせた衣の表現がオドロオドロしい。これは国宝『山水図』の附(つけたり)。もとは無関係だった作品を、いつの頃からか取り合わせたものらしい。

 その先(右)の部屋には、絹本着色『牡丹図』二幅。たたずむ雲雀を配した「静」と、雀の群れを描く「動」の対比。銭選(銭舜挙)筆と伝える。美術館でもめったに見られない元代絵画の傑作を前にして、テンションが上がる。秀吉の北野大茶会に用いられたという解説を読んで、北野大茶会のイメージを、かなり修正しないといけないな、と思った。

 そのあと、庭内限定のスリッパ(クロックス)を借りて、庭に下りる。潅木を効果的に配置し、狭いながらも多様な表情を見せる庭で、由来のある石灯籠や手水鉢が点在している。それにしても、細川忠興が愛好のあまり、参勤交代にも持ち歩いた石灯籠って…どれだけ数寄者なんだ。袈裟型の手水鉢は、加藤清正が朝鮮の王城の羅生門礎石を持ち帰り、忠興に贈ったものという。故国に知れたら、返せと迫られそうだな。低い塀の外側には、細川家の墓所もあった。

 再び本堂に戻ると、柱の前に座って拝観客の様子を見守っていた背広姿のおじさんが、絵画の説明をしているので、聞き耳を立てる。「この三幅対は、ふだん京都国立博物館に寄託されています。平成2年にうちで修復をさせていただいて以来、20年間、毎年10月の第二日曜には、ここで公開しています。台風で大雨の年もありましたよ。曝涼が終わると、またすぐ京博に持ち帰ります」云々。おじさんは、表具と文化財修復で有名な宇佐美松鶴堂の方らしい。なるほど、この『山水図・楊柳観音像』にとって10月第二日曜は、「曝涼」というより「里帰り」の日であるのだな。でも、20年間、そうやって我が子のような絵画の晴れ姿を見守り続ける仕事っていいなあ。うらやましい。

 以上、大徳寺の「曝涼」は予想をはるかに超えてすごい!ということを実感。興奮さめやらないまま、遅めの昼食を泉仙で。

■黄梅院

 まだ少し時間があるので、特別公開中の塔頭をいくつか拝観していくことにする。まず寄ってみたのがここ。毛利家、織田家の墓所、小早川隆景、蒲生氏郷などの墓塔があるという説明に惹かれたのだが、これらは非公開。院内には、創建時の古い建造物もあるが、大人数の参拝客の受入にも配慮した近代的な施設が建て増しされており、要所要所に案内人が待っている。親切といえば親切。「禅寺では庫裏に韋駄天を祀ります。足の速い神様なので、お金まわりがよくなるという意味もあるようです」という説明を聞いて、本当かな?と思ったが、和尚に書いていただくご朱印が千円と知って、宜(むべ)なるかなと思う。

■龍源院

 仕切りなおして、すぐ隣の龍源院に寄る。ここは、ふだんから拝観可能な塔頭寺院。参拝客はほったらかしで、写真も撮り放題。実は大徳寺内で最も古い寺院のひとつで、由緒も格式もあるのだが、そうとは思えない「ゆるい」雰囲気に和む。直球勝負みたいな石庭もいい。奇をてらって、却って平凡に堕す作風の真反対。キツネの妖怪・白蔵主(はくぞうす)の屏風が気になったので、調べたら、作者の鈴木松年(1848-1918)って、ずいぶん面白そうな画家だ。覚えておこう。ご朱印がもらいたかったが「和尚さんもいないし、もう書いたのなくなっちゃたの」と受付のおばあちゃん。またお訪ねします。

※参考:2008年、京博常設展で李唐筆『山水図』を見たときの記録→こちら
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2013秋@大徳寺曝涼(むしぼし)の至福

2013-10-22 22:30:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
 10月の京都には何度も行っていたはずなのに「第二日曜に大徳寺で曝涼(むしぼし)がある」ということは、この夏、雑誌『Pen』で板倉聖哲先生が紹介しているのを読むまで知らなかった。幸か不幸か、今年の第二土曜は福井県の小浜に泊まっている。翌朝、7:50発の若江線バス(小浜→近江今津)に乗り、新快速に乗り継げば、京都駅に10:30には着くことができると分かって、友人をつきあわせることにした。

■大徳寺

 大徳寺到着。「秋の特別公開」で、ふだん非公開の塔頭寺院のいくつかが開いており、賑わっているが、まずは寺宝の曝涼(むしぼし)が行われている本坊大方丈を目指す。↓本坊の入口。



 玄関の靴脱ぎにはたくさんの靴。うわー混んでいそうだなあ、と覚悟したが、会場全体が広いので、それほどではなかった。「玄関」には手荷物預かり所と、座れる休憩スペースがあり、座敷には、什物の箱が広げられていた。短い渡り廊下を挟んで「方丈」に移る。

 Wiki「大徳寺」によれば「通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式」だとある。曝涼は、南側の庭に面した4室と、北側の左右隅の2室を使って行われていた。室ごとに印象に残った作品を挙げておきたい。

【第1室】
・いきなり鴨居の上の(伝?)陸信忠筆『十王図』に驚く。元代の絵画だ。
・巨大な高麗仏画『楊柳観音像』。華やかな瓔珞と長いベールをまとい、片足を膝に乗せて、ゆったりと岩坐に坐す。足元に珊瑚。
・素朴絵ふうの『釈迦八相図』。暖色の多い明るい色彩。李朝絵画ではないかという。
・織田、豊臣家の人々の肖像画(桃山~江戸)も並ぶ。

【第2室】
・左右の壁に『十六羅漢図』8幅ずつ。全て「明兆筆」の題箋が貼ってある中に1点だけ「等伯筆」が混じっている。虎、猿、オウム、インコなど、画中の動物たちがかわいい。
・牧谿筆『龍虎図』二幅。不服そうにニラむ虎、三白眼のデカい顔だけの龍。かわいくないのに面白い。
・牧谿筆『観音・猿鶴図』三幅。枝の上の無表情な親子猿がかわいい。

【第3室】
・書状、墨蹟が中心。花園天皇、大燈国師などが目立つ。花園天皇の穏やかな(いくぶん弱々しい)筆跡と、後醍醐天皇の雄渾な筆跡をしみじみ見比べる。

【第4室】
・頂相多し。舶来もの(南宋、元時代)も。
・狩野正信筆『釈迦三尊図』は、単純化した線と色彩が面白い。獅子も白象も愛嬌がある。文殊菩薩はキリストふうの長髪イケメン。普賢菩薩はめずらしく山賊の頭目ふうの髭面オヤジ。
・入口の鴨居の上に南宋時代の『五百羅漢図』六幅が掛かっていた。「百幅のうちの六幅」という説明から見て、以前、奈良博の『聖地寧波』展に出たものである。大徳寺は82幅を所蔵。あとで展示図録を売っていたお寺の方に「あれは毎年、公開されるものが変わるんですか?」と聞いたら「いいえ」とおっしゃっていたが、どうなのだろう。

【第5室】
・書状、宸筆。花園天皇、後醍醐天皇に加え、時代の下る江戸時代の天皇も。

【第6室】
・長沢蘆雪筆『龍虎図』二幅がカッコいい! その間に挟まれた『大燈国師像』(江戸期の模写)が、どこか困った顔をしているのが笑える。
・明時代の『猫狗図』二幅。かわいい。猫はキジトラである。
・そして再び高麗絵画の『楊柳観音像』。第1室の楊柳観音像とほぼ同じポーズだが、やや硬い感じがする。足元には波が寄せ、蓮の葉に乗った小さな善財童子や龍王が慕い寄って、観音を拝する。龍王の眷属たちは、ボッシュの描く怪物みたい。岩の天蓋(?)の隅に描かれた花喰い鳥にも注目。これほどの名品を、ガラス壁も挟まず、舐めるような近さで拝観する至福。

 以上、6室のほかに、渡り廊下でつながった起龍軒という別棟があって、探幽の『四季松図屏風』が飾られ、床の間に、伝・牧谿筆『芙蓉図』が掛かっていた。薄墨のにじみの面白さを生かした八大山人ぽい小品。利休の目利き添状つき。

 表庭に面した濡れ縁で『大徳寺の名宝 曝涼品図録』を売っていた。(たぶん)全点カラー写真つき、どの部屋のどこに展示されているかの見取図もあって、非常に便利。平成9年発行とあるから、基本的に毎年、同じ作品を同じ位置に掛けるのだろうな。なお、これとは別に拝観受付で『大徳寺』という冊子も売っているが、これは塔頭寺院の紹介が主で、宝物はごく一部しか載っていない。

 続いて、高桐院の曝涼を拝観したが、これは別稿とする。
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仏像、城跡、王の舞/若狭・敦賀 歴史読本

2013-10-20 23:29:56 | 読んだもの(書籍)
○「歴史読本」編集部編『若狭・敦賀 歴史読本』 中経出版 2013.10

 小浜に秘仏探訪に行って一泊した。翌朝は、早いバスで京都に向かうことになり、街の中にコンビニがなかったので、駅の売店でパンとコーヒーを買って朝食にした。そのとき、レジ台に置かれていたこの本を見つけたのである。しばらく迷ったが、朝食と一緒に買ってしまった。952円。全頁カラー、A5判のハンディサイズである。

 表紙には「読む・見る・歩く おとなのための街歩きガイドブック」とあり、背表紙には小さく「別冊・歴史読本2号(38巻5号/857号)」と記されている。「歴史読本」といえば、いかにもドラマや小説で安直に歴史を学ぶことが好きな中高年サラリーマンの愛読雑誌、という偏見を持っていたが、こんなこじゃれた街歩き本の別冊シリーズを出しているとは知らなかった。「会津」「横須賀」「呉・江田島」「出雲国」「熊本」などの既刊本があるようだが、「御所(ごぜ)歴史読本」は、マニアすぎて笑ってしまった。私は欲しいけど。

 『若狭・敦賀』編であるが、まず「祈りの旅路 若狭の名仏を訪ねる」の巻頭特集がうれしい。16寺20件をカラー写真で紹介。昨年と今年のバスツアーで拝観できた仏像もあるし、まだ見ぬ秘仏も掲載されている。東博の『大神社展』においでになっていた、神宮寺の男神・女神坐像の御姿も。「なぜ若狭にすぐれた仏像が伝わったのか」の寄稿は、若狭歴史民俗資料館の芝田寿朗館長である。若狭歴史博物館(仮称)2014年夏、リニューアルオープンの記事もあり。でも今年(平成25年)の「みほとけの里 若狭の秘仏」特別公開とバスツアーの日程を掲載しているのは、時期的に意味があったのかな。奥付には、9月12日印刷・10月12日発行とあるのだが。

 私の小浜に対する関心は主に仏像にあるが、城跡紹介も面白く読んだ。(松前藩につながる)若狭武田氏の本拠は、小浜湾に面した後瀬山城なのか。石垣や堀がよく保存されているそうだ。そして、昨年、法事の最中で拝見できなかった栖雲寺が若狭武田氏の菩提寺なのだな。伝統芸能と祭りの紹介も面白い。赤い鼻高面を被って舞う「王の舞」、見たいなあ。舞楽の「散手」「貴徳」など鉾を使う一人舞が変化したものと考えられている。美浜町・若狭町の神社で4~5月に行われるそうだ。敦賀市立博物館長の外岡慎一郎館長の「若狭・敦賀の歴史を読む」も、簡潔にまとまっていて、ありがたい。

 読みものとして面白いだけでなく、実際の街歩きガイドブックとしてもポイントが高いと思う。一般の「観光」ガイドでは、まず無視されるであろう寺社や資料館、史跡などを丹念に拾って紹介してくれている。必ず写真付きで、住所とアクセス方法も記載。旅の楽しみ、グルメ・レストラン・お土産ガイドが付いているのも嬉しい。福井出身の五木ひろしさん、大和田伸也さん、高橋愛さんのインタビューと朝ドラ「ちりとてちん」の記事もあり。目配りが広い。

 また来年の秘仏ツアーまで、本書を座右において過ごそう。
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2013秋@関西:小浜「みほとけの里 若狭の秘仏」

2013-10-17 23:34:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
○「みほとけの里 若狭の秘仏:平成25年度秋の文化財特別公開」若狭姫神社~竜前区薬師堂~神宮寺~明通寺

 今年も小浜に行ってきた。8月初め、今年のバスツアーの日程が福井県のホームページにUPされたので、友人を誘って、いろいろ検討した結果、10/12(土)の半日コースと10/13(日)の1日コースにしようと決めた。ところが、8月中というのに、すでに10/13の「おおい秘仏の旅」コースは満席になってしまっていた。びっくり! というわけで、今回は「遠敷(おにゅう)の里めぐり」半日コースのみ参加。昨年と重なる訪問先が多くて、あまり新味がないが、若狭歴史民俗資料館の館長の特別ガイドつきというのに惹かれた。



 札幌を金曜の夜に出て、名古屋泊。翌日、名古屋から特急で敦賀、小浜線に乗り換えて、昼前に小浜に着く。東京から出てきた友人とは、米原で合流した。駅前を出発するバスには、若い女性の添乗員さんが乗り込む。昨年のベテランガイドさんと違って、なんだかたよりないなあ、と思っていたら、道の駅で「かたりべさんの説明がありますので、みなさん降りてください」と促された。「かたりべさん」って誰かと思ったら、見覚えのある若狭歴史民俗資料館の館長さんが待っていた。道の駅にあるパネルの前で、小浜の文化財(仏像)の概要について、説明を聞く。京(みやこ)の仏像と同じ様式でつくられたものが多く、京から運ばれてきたと思われるものが多いこと。海に面しているが、外国の影響を受けたものはないこと、など。そして、いよいよ秘仏めぐりに出発するとなったら、若い添乗員さんは降りてしまった。ガイドは館長さんひとりなのか。ご苦労様。

 ずっと館内で仕事をしてきましたが、昨年から、うちの資料館も(福井県立)恐竜博物館と同じで、稼いで来いということで、外に出て喋るようになりました、みたいなことを笑いながらおっしゃっていた(ニュアンスが違っていたらごめんなさい)。その資料館は、現在改装中で、平成26年夏ごろ、リニューアルオープン予定だという。そっちの仕事もあって、大変ですわ、と館長。

■若狭姫神社

 最初の立ち寄り先は、昨年も訪ねた若狭姫神社。この日は同社の祭礼・遠敷祭りで、社前に提灯が下がり、かすかなお囃子が流れていた。神事は10月10日で、その前後の週末は、例年境内に露店が出たりするのだが「今年は九月の台風の影響で、自粛気味ですね」とのこと。この神社の鳥居には、遠敷明神を祀る「遠敷神社」という額が、20年くらい前まで掛かっていたが、いつの間にかなくなってしまった。奈良の二月堂の北東には遠敷神社があるが、現在の小浜に「遠敷神社」は無いそうだ。

 ここは説明する宮司さんがいないので、館長が小浜の成り立ちに関する詳しい説明をしてくれて、とても面白かった。神宮寺との関係。東大寺(≒朝廷)と若狭の特殊な関係。若狭は皇室に食料を献じた「御食国(みけつくに)」のひとつとされているが、文献上に明確な証拠はなく、木簡の出土状況による推定であること、等々。

 バス移動の車中では、『伴大納言絵巻』『吉備大臣入唐絵巻』『彦火火出見尊絵巻』(もう一作品挙げていたか?)が、若狭国松永庄新八幡宮に伝えられたという文献記事(看聞御記・1441年4月26日)が残っているが、この「新八幡宮」がどこにあったかは定かでない、という話も出た。これだけの美仏に絵巻が揃っていたら、私にはパラダイスだわー。別のところで、窓の外の斜面は三昧(埋葬地)で、別のところに墓石を立てる。小浜の習俗は両墓制です、という解説もあった。

↓若狭姫神社の山門(?)の随身像。


■竜前区薬師堂

 昨年は、開ける・開けないで揉めたお堂だったが、今回はスムーズに拝観できた。※昨年のレポート

■神宮寺

 東大寺二月堂への「お水送り」が行われる寺。本堂に入ると、正面の左端は十一面千手観音で多聞天と不動明王を脇侍とする。その右(中央)は、ゆったりと大きな薬師如来坐像。日光、月光、十二神将を従える。その右は板壁で、二柱×三枚の神号掛軸を掛ける。中央から左端へ「白石鵜之瀬明神/手向山八幡大神」「和加佐比女大神/和加佐比古大神」「志羅山比女明神/那伽王比古明神」(※ありがたいことに、ちゃんと図に起こしてくれているサイトがあった)。その右には、かつて本尊の御前立ちだったらしい薬師如来。

 本堂での説明は、神宮寺の和尚さんがしてくれた。ちょっとイケてる和尚。



 館長とは幼なじみだそうで、「説明?俺がするの?」みたいな、気の置けないやりとりが可笑しかった。この春、東博の大神社展に男神像・女神像を出陳するにあたっては、和尚からいろいろ相談を受けたそうである。

■明通寺

 昨年に続く再訪だが、今年は国宝三重塔の初層内部を公開。アクリル板を設置して、扉を開放しても雨風を防げるようにしたということだが、反射して内部が見にくいのは残念。ま、仕方ないか。夜のライトアップの準備が着々と進んでいた。塔へ続く長い石段には、般若心経の一文字一文字を記したロウソクが立てられていた。

 ここの説明は、たぶん去年と同じ若住職。さっきの神宮寺さんには檀家がないという話だったが、ここはわずか7軒だと館長がおっしゃっていた。大変だなー。前回は気づかなかったが、参道のまわりの木々は、檜皮(ひわだ)を剥がれたところだという。葺き替えも自前なのだ。

 他にもいろいろ書きとめておきたい、心に残る話がたくさんあったのだが、このくらいにしておく。「よければ、また来年もおいでください。あの和歌山県博の観仏三昧見ていてください」とおっしゃっていた。

 そして、今年は小浜で1泊。居酒屋の夕食も美味しかった。
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信じるもののために/血盟団事件(中島岳志)

2013-10-16 22:50:13 | 読んだもの(書籍)
○中島岳志『血盟団事件』 文藝春秋 2013.8

 たぶん日本史の教科書にも載らない「血盟団事件」なるものを私が知ったのは、立花隆の『天皇と東大』が最初ではないかと思う。それから、竹内洋さんの大学史研究、特に戦前の国家主義もしくは日本主義と呼ばれる学生思想運動史をめぐる著作にも出てきたかもしれない。いずれにせよ、「帝国大学の学生がかかわった右翼テロ」という文脈で、私はこの事件を理解していた。帝国大学に入れるだけの知性を持ちながら、右翼テロに加担した学生たちは愚かだと思っていたし、血盟団の首魁・井上日召については、前途ある帝国大学生をまどわせた妖僧というイメージがあった。

 それが、著者の『帝都の事件を歩く』を読んだあたりから、真相は別のとろにあるらしいことに、もやもやと気づき始めて、本書を心待ちにしていた。本書は、短い序章のあと、血盟団の指導者として若者たちに仰がれ、彼らに「一人一殺」を命じた井上日召(1886-1967)という人物の生い立ちから始まる。著者は感想や批評めいた言葉をほとんど挟まず、もっぱら資料(公判記録等)の引用に語らせている。

 そこに立ち現れる日召の姿は、驚くほど真面目で純粋だ。自分は何者か?という根源的な問いを抱えて、宗教を渡り歩いた青年時代。神秘体験を経て、法華信者としての自己を確立する。世界恐慌の中、貧困に苦しむ農民たちのために泣き、私利私欲を貪る指導階級に憤る。そして、日蓮のように闘い、国家革新運動に殉じることこそ天命と信じるに至る。

 やがて、日召のもとには、彼より二十歳ほど年少の若者たちが集まってくる。著者は彼らを「大洗グループ」「東京帝大グループ」「京都グループ」等に分けている。血盟団の中心メンバーは「大洗グループ」で、小学校の教員や、大工の徒弟、工員、販売員などの職を転々としている農村青年たちだった。彼らは、農村の疲弊、庶民の生活苦、格差社会、政党政治の無策などを肌身で体験していた。

 1930年(昭和5年)11月の浜口雄幸狙撃事件を機に、いよいよ革命を実行に移すべく、大洗グループは上京。日召のもとには、東京帝大グループ、海軍グループなど、本来交わるはずのない煩悶青年たちが吸い寄せられてくる。帝大生や海軍将校などエリート青年の背後には、安岡正篤、大川周明、北一輝、権藤成卿などのビッグネームが見え隠れする。しかし、日召は権力の掌握にも、新たな国家経営にも関心を持たず、ただ「破壊」のみを志し、青年たちに国家改造の「捨て石」になることを求めた。日召が真に信頼できたのは、大洗の農村青年たちだけだった。

 そして、1932年(昭和7年)2月、小沼正による井上準之助の暗殺。3月、菱沼五郎による団琢磨の暗殺。ここに至って、本書はほとんど紙数が尽きる。純朴な農村青年たちが凶行に至るまでの長い長い曲折に比べると、嘘のように慌ただしく事件は起き、一斉逮捕をもって幕を閉じる。実際に彼らの多くは、恩赦等によって、長い後半生を生きることになるのだが。

 深く印象に残るのは、彼らの可憐なほどの純粋さである。格差と貧困に追い込まれた末の凶行ということで、「現代と変わらない」「現代にも通底する問題」という表現で、血盟団事件を語る書評をいくつか読んだ。しかし、現代の多くの事件には、「得をしている誰か」と「損をしている自分」の比較に苛立つ自己愛が噴出していると思う。大洗の青年たちのように「捨て石になる」という覚悟に基づく事件は、いま私には思い当らない。

 彼らが聖人だったというつもりはない。著者は冒頭の短い序章に、井上日召の娘と会った体験を記し、民衆の救済を志しながら、妻と娘を貧困の中に置き捨てて、神楽坂の芸者を妾にした日召の姿を描いている。あたかも読者に釘をさすように。

 そして、やっぱり思い起こすのは、1995年のオウム真理教事件である。私の知る同時代史では、あれこそ最も純粋に「破壊」のための凶行だった気がする。オウム教団をどう片づければいいのか、いまだに分からないのと同様に、この血盟団事件も、簡単な善悪だけでは片づかない事件だなと感じた。

 帝大生の四元義隆だったと思うが(今その箇所が探せない)、井上日召と大洗の青年たちの隔てなさをうらやましく思い、酒の席で和尚(日召)に抱きついてみた、というエピソードがあったと思う。むかし、オウム教団の幹部(高学歴青年)が、教祖・麻原彰晃の父性的な包容力の魅力を語っているのを読んだ記憶があるのを思い出した。時代が変わっても、疎外感に悩む青年の求めるものは似ているのかもしれない。

 蛇足だが、血盟団メンバーが使っていた権藤成卿の別宅(空き家)が代々木上原にあったというのは初耳だった。私が、ずっと東京で住んでいたところの近くだ。当時の番地では「代々幡町代々木上原1186番地」らしい。いつか戻ることがあったら、痕跡を探してみたい。
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京都旅行・食べたもの

2013-10-15 00:14:07 | 食べたもの(銘菓・名産)
日曜は、朝から小浜→京都に移動。大徳寺で、年に一度の「宝物曝涼」を見る。方丈と高桐院。雑誌『Pen』の板倉聖哲先生の記事から得た情報を、さっそく活用させていただいた。至福のひとときのあとは、昼食もリッチな気分で、門前の老舗・泉仙の雲水弁当。あ~京都の精進料理って、どうしてこんなに美味しいのだろう。



東京の友人が一足先に帰ったあと、三連休最終日は、京都の友人と展覧会めぐり。京都府立総合資料館(古文書)→相国寺承天閣美術館(絵画)→泉谷博古館(仏像)とめぐる。途中、今出川通りの中華・燕燕でランチ。カフェふうのきれいなお店。う~ん、毎日でも通いたい!



そして、旅行の〆めに連れていってもらったのが、新熊野の甘味屋さん、梅香堂。このボリューミーなホットケーキ。今回はひかえめに1枚だけにしてみたが、生地の甘さや脂っこさは控えめなので、ダブルでも行けるかも。



見てきたものの記事は、追々。
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