見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2013年3月の展覧会@東京

2013-03-31 01:08:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
諸事情あって、新年度から北海道で仕事をすることになった。3月中にあわただしく東京で見た展覧会を覚え書き程度に。

東京都写真美術館 『夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 北海道・東北編』(2013年3月5日~5月6日)

 2007年の「関東編」に始まったこのシリーズも、これで最後だろうか。古写真は、なんといっても人物写真が多いのだが、意外と風景や建物写真が多くて面白かった。明治期天災記録写真のコーナーには、言葉が出なくなるような凄まじい光景の写真もあった。入館者(先着)に、洋装の土方歳三の肖像写真をポストカードでプレゼントというのは、ちょっと反則。

山種美術館 特別展『琳派から日本画へ-和歌のこころ・絵のこころ-』(2013年2月9日~3月31日)

 平安の和歌色紙、琳派の絵画、近代の日本画と、いろいろなものが一気に楽しめる展覧会。平安和歌は、料紙の美しさに注目を促しているのだが、個人的には「書」に見とれてしまう。石山切(貫之集)の定信の筆跡が見られて嬉しかった。近代の作品は、伊勢物語など和歌を主題にした作品、および歌人の肖像を描いた作品が選ばれている。日本文化の背骨みたいな伝統が感じられて、面白かった。

東京国立博物館・総合文化展(常設展示)

 本館・11室(彫刻)は、法隆寺献納宝物唯一の木彫像(飛鳥時代)など、いつもより古い仏像が多いように感じた。奈良時代の伎楽面「酔胡従」は、三井高大氏寄贈というのに驚いた(三井記念美術館ではおなじみの名前)。そして「文殊菩薩騎獅像および侍者立像」は何度見てもいいなあ。私も4月から海を越えるので、心の中でよく拝んできた。13室(金工)の「鏡像と懸仏」も面白かった。和歌山の那智山出土品と奈良の吉野山出土品が主。「懸仏」と言っているけど、神仏の境界が定かでない。

 東洋館・8室(中国の絵画)では、『呂紀「四季花鳥図」と花鳥画の精華』(2013年2月26日~4月7日)を開催中。いつも『中国書画精華』の宋元絵画ばかり狙ってきていたが、明清の花鳥画もなかなかいいではないか。でも、江戸の花鳥図(応挙とか若冲とか)に比べると、おおらかというか、意外と造形が雑だなあ、とも感じた。

 ところで、私は東博ポスタープレゼントで、井浦新さんの「博物館に初もうで」「東洋館リニューアルオープン」の2枚のポスターを当ててしまった! 1枚でも当たるといいなあと思って、自分の名前と母の名前で葉書を出したら、まさかの2枚当選。しかもポスターの種類は選べなかったのに、ちゃんと2種類をGET。おそろしい幸運。大事にします。(日に焼けないよう)押入れの内側に張ってある慈尊院の秘仏・弥勒仏坐像のポスターと同じくらいに。
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中華天子の夢/永楽帝(檀上寛)

2013-03-29 00:34:03 | 読んだもの(書籍)
○檀上寛『永楽帝:華夷秩序の完成』(講談社学術文庫) 講談社 2012.12

 最後にあとがきを読んで、本書の原著が『永楽帝:中華「世界システム」への夢』(選書メチエ、1997)であることを知った。たぶん書店の棚で何度か見ているはずだ。でも中身に既読感はなかったから、今回が初読だと思う。私は、もともと中国の古代史が好きで、のちに近現代史にも関心を持つようになったが、中途に挟まれた「明」という王朝は、最後までよく分からなかった。

 それが、たまたま1年ほど前、『大明帝国 朱元璋』という中華ドラマを見た。朱元璋を演ずる胡軍(フー・ジュン)という俳優さんが好きで見始めたのだが、全46話を完走して、明王朝成立の過程と登場人物がだいたい分かるようになった。おかげで本書も非常にスムーズに読めた。やっぱり映像の力はあなどれない。ドラマは朱元璋の死によって幕を下ろすのだが、その後、早世した皇太子・朱標の息子の建文帝から皇位を簒奪したのが、叔父の朱棣(のちの永楽帝)である。ドラマには、まだ元気いっぱいの初々しい若者として登場する朱棣(朱元璋の四男)を見ながら、これがのちの永楽帝か~と感慨にふけったものだ。

 洪武帝・朱元璋が打ち立て、永楽帝が確立した「明初体制」というのは、誰が見ても魅力的とは言い難い。岸本美緒氏は「固い」体制と表現しているそうだが、強大な権力を付託された皇帝が、社会を統制し、秩序を維持する体制。それは中国社会の「体制的帰結(完成)」であり、同時に新しい時代への分岐点でもあった、と本書は述べている。

 貧農から身を起こした朱元璋が、広大な国土を掌握し、権力の正統性を確立するには、恐怖と独善を伴う強固な専制体制が必要であったことはうなずける。悪名高い「三跪九叩頭」の礼も朱元璋のときに始まったものだという。しかし朱元璋は、単なる戦争上手ではなく、統治手法をよく勉強し、政務に恪勤した皇帝でもあった。1日二百通あまりの上奏文に目を通し、四百件以上の案件を処理したというのだから呆れる。このくらいこなせないと大中国の皇帝は務まらないのだ。

 そして、簒奪者の負い目をもって皇位についた永楽帝も、中華の天子として、周辺諸国を取り込んだ華夷秩序を打ち立てることに、狂おしいまでの情念を注ぎ込んだ皇帝だった。建文朝の四年間は正史から「革除」され、洪武帝の『太祖実録』は再々編纂が命じられて、三修本で決着した。初修本と再修本は破棄されて伝わらないという。中国って怖いなあ。でも中国の正史に伝わらない史実が、隣国の『朝鮮王朝実録』から窺えることもある、というのは面白かった。

 日本と中国の間に、遣唐使の廃止以来途絶えていた正式な国交が結ばれたのは永楽帝のときである。これを「屈辱外交」と見て非難する立場を、本書は「見当違いもはなはだしい」と退ける。15世紀初頭の東アジアは、永楽帝の主導のもと、急速に国際秩序が回復していったが、周辺諸国の側が、自政権の正当化や貿易のため、主体的に華夷秩序を利用しようとしたことが、この時期の特徴であるという。足利義満と永楽帝の間も、一種「持ちつ持たれつ」の面があった。え~本当かな。私は中国かぶれの足利義満が、平清盛と同じくらい好きなんだけど、面白い。

 そして、華やかな「永楽の盛世」を実現したかに伝えられる永楽帝の最期が、意外に寂しいものであることは初めて知った。持病に苦しみ、モンゴル親征の最中、内モンゴル自治区の楡木川で急逝したという。反対勢力の多い南京を嫌って北京遷都を敢行したが、不満はくすぶり続け、落雷によって紫禁城が炎上した際は、多くの官僚が南京還都を奏上し、天子の沽券は丸潰れになった。なんとなく清盛の福原遷都を思わせるエピソードである。

 息子の洪熙帝は南京還都を実現しようとしたが、在位10か月で崩御し、次の宣徳帝は遷都の意思がなかったため、北京が首都として今日に至ることになった。紫禁城(故宮)に行くと、清朝の宮城というイメージが強いのだが、次回はぜひ永楽帝のことを考えながら歩いてみたい。
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教師の責任/教室内(スクール)カースト(鈴木翔)

2013-03-25 23:33:13 | 読んだもの(書籍)
○鈴木翔著、本田由紀解説『教室内(スクール)カースト』(光文社新書) 光文社 2012.12

 スクールカーストとは、主に中学・高校(小学校から萌芽は見られる)のクラス内で発生するヒエラルキーのこと。子供たちは、集団の中でお互いを値踏みし、ランク付けをおこなう。その結果、彼らは自分のランクに応じた行動をとらなければならないという葛藤に、日々悩まされる。

 こう聞いて、あるある、とうなずく人は多いのではないかと思う。はるか昔、昭和の高校生だった私でも、当時のクラスに、こうした構造があったと記憶している。「スクールカースト」という言葉は、2007年に森口朗『いじめの構造』が用いて以来、メディアや教育評論家の間で用いられてきたが、「公の文書」に登場することはまずない。理由は想像がつく。

 児童生徒を悩ませる「いじめ」事件。これが明確な「加害者」や「原因」を特定できるものであれば、公権力は、その除去に関して有効な手を打てる。しかし、何だかもやもやした息苦しさをもたらすスクールカーストについては、教師も教育委員会も対処の下しようがないだろう。本書は、スクールカーストを「いじめ」の文脈から切り離し、生徒や教師へのインタビューによって、冷静に実態を見極めることに力を尽くしている。その結果、生徒が指摘する「スクールカースト」の様相は以下のとおり。

・上位グループの特徴…「にぎやか」「気が強い」「異性の評価が高い」「若者文化へのコミットメントが高い」
・下位グループの特徴…特徴がない。強いていえば「地味」「目立たない」

 「若者文化へのコミットメントが高い」というのは、格別、容姿端麗でなくても、流行に敏感で、メイクや髪型に気をつかって努力し(努力が自信を生む)、さらにダンスやバンドなど若者文化的な活動に親和性の高い生徒が、自然と上位グループに位置づけられるという。

 教師もだいたい児童生徒と同じように実態をとらえている。問題なのは、本書に登場する教師たちが、意外とスクールカーストを肯定的に考えていることだ。彼らは、スクールカーストを能力による序列と考えている(児童生徒はそう思っていないのに)。上位者は「リーダー性」「生きる力」「コミュニケーション能力」などの点で優れており、自分の意思を通し、学校生活を有利に楽しく過ごすことができる。一方、こうした能力に恵まれない者(下位者)は人生を損しているから、努力で改善を図る必要がある。え~嫌だなあ、こんな考え方をする教師。

 考えてみると、私はずっとスクールカーストの下位グループで過ごしてきた。「目立たない」ほうがラクだったし、王道的な「若者文化」には興味がなかったし…。でも楽しみはたくさんあったので、放っておいてくれと言いたい。幸いなことに、私が学生時代を過ごしたのは、自由な校風の女子校で、カースト上位者には、ほぼ上記の特徴があてはまるにしても、下位者に向かう力関係の分布は、比較的なだらかだったように思う。

 本書は日本の学校文化についての考察だが、実は社会人集団でも「スクールカースト」の特徴は、意外と温存されているのではないかと思った。「にぎやか」で「気が強い」集団が仕切る社会。ある程度、仕方ないのかもしれないけど、あまり固定化されるのは願い下げである。
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十三仏と十王/救いへの祈り(金沢文庫)

2013-03-25 00:15:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 企画展『救いへの祈り』(2013年2月15日~4月21日)

 初七日、四十九日、一周忌など、死者を悼む供養に込められた祈りの姿をたどる展覧会。会場の展示資料配置図が「死去」に始まり、「初七日」→「二七日」→「三七日」と忌日の順番どおりになっているのが可笑しくて、申し訳ないけど、ちょっと笑ってしまった。

 それぞれの忌日には、関連する王と仏が割り当てられており、初七日から三回忌までの10回の忌日には十王が、さらに(初七日から)三十三回忌までの13回の忌日には十三仏が定められている。十三仏の順番って、あまり意識したことがなかった。何しろ、都会の法要は、葬式当日に初七日が来たことにしてしまい、次は七七日(四十九日)を内輪で営む程度が普通だと思う。

 十三仏の一覧表を見ながら、初七日は不動明王なのか、二七日の釈迦如来→三七日の文殊菩薩→四七日の普賢菩薩っていう順番も(理由が全然わからないけど)面白いな、などと考えてしまった。かつては、それぞれの忌日に、該当する仏の掛軸を下げて供養することが行われていたらしい。なるほど、世の中に伝わる仏画が、本来、何のために作られたのか、ようやく分かったように思った。

 十王図は、個別の年忌供養というより、追善供養の「仕組み」を学ぶ絵解きのために作られたのではなかろうか。本展には、江戸時代の十王図と、中国・元代の陸信忠筆(墨書あり)十王図が出陳されている。陸信忠の作品は、工房作なのだろう、奈良博が持っている重文の『十王図』に似ているところもあるが、あまり巧いとは思えない。

 死去から四十九日まではインドの土着信仰に起源があり、百か日から三回忌までは中国の祖霊祭に由来し、さらに三十三回忌までは日本で加わったこと、ただし、もとは天皇家や摂関家など限られた人々のみの習慣だったものが、次第に広く行われるようになった、という説明も興味深かった。

 しかし若い頃は、身内のために1年間喪に服す(社会的な活動を停止する)なんて、断じてありえないと思っていたが、今はやってみてもいいなと思う。忌日ごとに新たな仏を供養し、静かに祈り続ける。1年くらいの精神的休止期間があってもいいんじゃないかと思う。本気で。
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逗子・鎌倉史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く

2013-03-24 22:32:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
今日3月24日は、寿永4年、壇ノ浦の戦いで平家一門が敗れた日である(ユリウス暦では1185年4月25日)。そのことを意識しながら、3月20日の春分の日、逗子に行ってきた。久しぶりに平家の嫡流・六代(平清盛→重盛→維盛の嫡男)の墓に詣でたくなったためである。

私は10年ほど前、一時期、JR逗子駅近くに住んでいたことがあり、何度か六代御前の墓に詣でたこともあるので、場所はよく覚えていた。当時はもっと人気のない寂しい場所だったように思うが、今はすぐそばまで住宅地が迫っていた。



こんな厳めしい柵なんてあったかしら。



丘の下には、平成21年に逗子市教育委員会が立てた金属製の案内板がある。昭和36年に立った木製の案内板も現役で、全く文字が掠れていない。文章は文語体で格調高い。さらに駐車場の入口には「六代御前最後之故址」と記した大きな石碑があり、裏側に昭和29年「六代御前法要謹修の趣旨」が刻まれている。これも文語体。読み比べてみると、けっこう面白い。

さて、逗子から小坪海岸を経て、鎌倉まで歩く。何度も歩いたことのあるコースだ。途中にある「六角の井」は、伊豆大島に流された源為朝が、光明寺裏山の天照山をめがけて遠矢を放つと、十八里の洋上を飛び越えて、六角の井の中に落ちたという伝承を持つ。案内板に「やじりは、今も竹筒に封じて井戸の中段にまつってあります」と書いてあったが、中は暗くてよく見えなかった。ちょうど通りがかったおばさんたちが「あたしが子供の頃は、こんな覆いなんてなかったわねえ」と話していた。そうなのか。



光明寺を経て、材木座の来迎寺へ。このお寺には、ミモザの大木があって、ちょうどこのくらいの時期に見事な花をつけていたのが、来てみたら、なくなっていた。調べたら、2010年12月の大風で枝が折れてしまったのだという。残念だなあ…。

もうひとつ好きだったのは、本堂の裏にある三浦大介義明家来衆の墓。以前は、もうちょっと野趣に富んだ風景だったような気がするのだが、こんなに整備されていたかしら。



よく知っているつもりの散歩道でも、久しぶりに歩くと、風景の変化に驚かされる。

このあと、鎌倉駅で地元住人の友人と落ち合って、夕食。
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まっすぐ歩こう/京の町家小路散歩(JTBパブリッシング)

2013-03-23 23:55:03 | 読んだもの(書籍)
○『京の町家小路散歩』(大人の遠足BOOK) JTBパブリッシング 2009.8 改訂2版

 ありきたりの観光ガイドでは満足できなくなってきたら手に取ってほしい、ユニークな京都案内。中国の条坊制にならった平安京を基礎する京都の町は、今でもほぼ碁盤目状に「東西」「南北」の通りが走っているが、本書は、この通りを、ひたすらまっすぐ歩くコース50本を紹介している。「南北」が21本、「東西」が29本。

 錦小路、寺町など、観光客になじみの通り名だけでなく、小さな生活通りにもちゃんと名前がついているのが、よそ者にはめずらしく、奥ゆかしい。ヨーロッパの古い街も、こんなふうだったな、と思う。名前の由来も勉強になる。平安京の大路小路名を引き継いでいるものもあれば、みちくさ「コラム」には、平成15年に名付けられた「鉾参通」なんてのも紹介されている。豊臣秀吉の京都大改造(天正18年/1590)によって生まれた通りが、思っていた以上に多い。通り名が移動するというのも本書で仕入れた知識で、富小路通は、以前は一筋東にある麩屋町通を指していたとか、不思議だなあ。

 通りの全長はさまざまで、南北だと10kmに及ぶものもあるが、本書で紹介するコースは、そのハイライトエリアに絞って、歩行距離は2~3km、歩行時間は長くても1時間強に設定されている。うまくアレンジして、1日に2~3コース歩いて見るのも面白いかもしれない。

 京都観光といえば「東山」「御所周辺」みたいなエリア分けか、「幕末を偲ぶ」「平安時代を歩く」みたいな時代分けが定番だと思ってきた私には、意外なスポットが同じ通りの端と端に並んでいることが分かったりして、新鮮だった(特に東西の通り)。また、定番観光スポット(二条城とか北野天満宮)はカバーされているものの、かなりマイナーな寺社や史跡が、写真つきで大きく扱われているのも面白かった。

 堀川通の伊藤仁斎邸跡なんて、何度もバスで通っているのに気づいたことがなかった(二階建ての書庫が今も残る?!)。しかも一筋西には山崎闇斎邸があったのか(石碑のみ)。今度行ってみなくては。食事とお土産のみちくさ情報も、地元で愛されるお店が多く感じられた。

※写真は旧版の表紙。
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夢は京(みやこ)を駆けめぐる/院政・源平京都めぐり地図(ユニプラン)

2013-03-20 09:18:30 | 読んだもの(書籍)
○ユニプラン編集部『院政・源平京都めぐり地図』 ユニプラン 2012.5

 橋本治の『双調 平家物語』(中公文庫版)を読んでいて、不満だったことがある。各巻には非常に詳しい系図と人物紹介が付いているのだが、地図が一切付いていないのだ。そのため、八条院の御所では…とか、大炊御門大路を東へ…などの地名が出てくると、面倒でもキーボードを叩いて(途中からスマホで)参考資料を探した。

 無料でアクセスできる参考資料にも、そこそこ役立つものはあるのだが、小説にハマるにつれて、物足りなくなってきた。そんなとき、ユニプラン社のサイトで本書を見つけた。「本書」と言っても1枚物の地図(928×616mm)である。ケースと索引つき。「立ち読みはこちら(拡大)」で中味を見たら、これは詳しい!!「貴族の邸宅・寺院・神社の跡地や史跡、史跡や事件の跡地、平安・源平時代を彩った人々の墓やゆかりの地、約330件を現在の京都の地図に重ね合わせたもの」だという。そして、1月に京都に行ったとき、京都駅八条口のふたば書房に本書があったので、迷わず購入した。

 読書の随伴にもよかったけど、この地図をぼんやり眺めているだけでも楽しい。おや、この人の邸宅がこんなところに、というのが随所にある。ううむ、と唸ってしまったのは、平清盛の広壮な西八条第と、その東側に並んでいた平家一門の屋敷が、いまは完全にJR東海道線・新幹線およびJR山陰本線の線路の下になっていること。もう掘っても何も出なかったんだろうか。東海道線を別のルート(たとえば九条通の南側)に通す案はなかったのかなあ、と悔やんでみる。

 今後は京都駅に降り立つたびに、このへん(西側)が頼盛邸で、このへん(東側、南北通路のあたり)が八条院御所で、一時は後白河院も身を寄せていらした、なんて考えてしまいそうだ。

 ちなみに本書は平盛国邸(清盛逝去の地)は、九条通の北側(東山橋のたもと)説を取る。「平清盛終焉推定地」の碑は八条に立ってしまったけど、さて今後、どちらの説が優勢になるのだろうか。

 本書で見つけて、行ってみたいと思ったのは、まず建仁寺の矢の根門(勅使門)。六波羅第の重盛邸あるいは教盛邸から移築されたと伝えられる。また東福寺の六波羅門は、ネットで調べると「平氏の六波羅門とも北条氏の六波羅政庁にあったものとも」言われているが、まあ後者だろう。でも鎌倉時代前期の門というから古い。どちらも過去に訪ねていそうだが、あらためて行ってみたいと思った。門の移築(再利用)って多かったんだな。本書は「物件」と「物件(痕跡なし)」を分けて表記しているのもありがたい。

 それから、源頼義創建の若宮八幡宮社。もと六条堀川の辺に建てられ、慶長10年(1605)に五条坂へ移転したあと、現在は、もとの場所に社殿が再興されている。その再興された八幡宮には昨年訪ねたが、五条坂の八幡宮も、今度行ってみよう。特に古い建築や文化財が伝わっていなくても、○○創建・△△勧請と伝え聞くだけで、何となくなつかしい奇がする。後白河法皇ゆかりの「京都三熊野」とか、清盛が西光法師に命じて建造したという「京の六地蔵」も、いつかきっと。

※画像はユニプラン社のサイトから借りています。御海容を請う。
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ひとへに風の前の塵に同じ/双調 平家物語14~16(橋本治)

2013-03-17 11:26:10 | 読んだもの(書籍)
○橋本治『双調 平家物語』14~16(中公文庫) 中央公論新社 2010.5-2010.7

 『双調 平家物語』11~13の続き。ようやく全巻読了。「治承の巻II」(14)は治承4年(1180)の以仁王の挙兵とその帰結、京都の不穏な空気を嫌って敢行された福原遷都を物語る。「源氏の巻I」(14,15)は舞台を東国に移し、頼朝の挙兵と東国武士たちの動向。「落日の巻」(15,16)は清盛の死、木曽義仲の入京。「灌頂の巻」(16)は義仲の敗北、平家の滅亡が慌しく描かれる。

 原典「平家物語」では、と言うべきか『双調平家物語』では、と言うべきか、これまでも多くの死が描かれてきたが、この3巻では、さらに多くの者が死んでゆく。これだけ多くの死を、ひとつひとつ印象的に描いた文学って、日本文学の中でも珍しいのではないかな、と思う。

 とりわけ、私が心打たれたのは、まず源三位頼政の最期。原典「平家」で、あまりこの人に魅力を感じたことはなかったので、本作品の周到な描き方が成功しているのだと思う。勝機を失った頼政に従う郎党たちも魅力的だ。あと私自身が年齢を重ねて「老武者」たる頼政の心境に共感できるようになったこともあるのかもしれない。

 それから木曽義仲。木曽殿最期は「平家物語」で最も好きな箇所だ。原典「平家」の義仲は、田舎者の愚かしさと武に生きる者の清々しさが表裏一体となって(計算の上というより結果的に)陰影のある人物像を作り上げていると思うのだが、本作品は、原典「平家」ほど、義仲の田舎者ぶりを揶揄する描き方をしない。無欲で慎重な武将・義仲に道を誤らせる役は、ちょろちょろと小賢しい叔父の行家が負っている(ほんとにダメだな、こいつ)。義仲は、原典に比べて「愚かさ」の描写が不足である分、文学的な悲劇性が薄まっているようにも感ずるが、やっぱり素敵だ。

 清盛は原典どおり熱病で、わりとアッサリ退場していくのだが、死の直前、頼朝を憎む気持ちとともに、頼朝の助命を嘆願した継母の顔がよみがえり、さらに幼い頃、わけもなく「風にそよぐ葉叢」をじっと見ていた記憶が浮かんで、闇の中に消えていく。本作品全体のトーンからすると、例外的に抒情的な描写だ。基本的に原典「平家」は、外にあらわれる行動しか描かないから、こうした内面描写を加えたくなるんだろうな、作家としては。

 印象的な「死にゆく者」の傍らには「生き抜く者」がいる。清盛の死後、天下に再臨する後白河法皇のしぶとさ。義仲の敗北、平家の滅亡を経ても、鎌倉を動かない頼朝。非常に短くしか語られないのだが、二人の対峙には、てのひらに汗がにじむような鋭い緊張感がある。朝廷の秩序に組み入れられること(=官を上らせ、やがて断崖に追い詰められること)を拒んで、武者を率いる「征夷大将軍」の官のみを願う頼朝と、それを絶対に許さない後白河院。このかけひきの政治的な意味を理解していた同時代人は少なかっただろうと想像する。院の死後、頼朝はついに征夷大将軍の官を得て、鎌倉に幕府を開く。が、その頼朝も病に倒れる。死ぬも生きるも、差はひととき。「平家」冒頭の「ひとへに風の前の塵に同じ」というフレーズがよみがえる。

 やがて、鎌倉幕府に起きる血腥い政争。「武」を取り戻そうとした後鳥羽院の挙兵。それらの後日談を足早に語って、本作は幕を下ろす。著者は最後に映像を巻き戻すように、清盛の妻・二位の尼時子が、「武=力」の象徴である宝剣を腰に差し壇ノ浦に沈んだシーンに戻り、このとき「王朝の一切は終わっていた」と結ぶ。「平家」の物語は、後世への影響の射程が長いため、どこで切り上げるかが難しいんだな、とあらためて思った。本作の結びは、納得できるものであるけれど、長い長い物語の終幕としては、もう少し余韻がほしい気もした。その点では、原典「平家」の灌頂の巻、すなわち大原御幸は、よくできたエピローグだと思う。

 最後に著者による「文庫版のあとがき」あり。この作品を書きながら感じた疑問の数々は『権力の日本人』『院政の日本人』という2冊にまとまっているという。後日、読んでみよう。
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春の準備

2013-03-17 08:30:38 | 日常生活
東京は、すっかり春の陽気。



4月1日から北国の住人になることが告げられ、先週末からその準備にかかっている。宮仕えの身は、いつもこんなもの。

もっとも、最初に慌てたより時間的な余裕があるので、東京に名残りを惜しんで、週末は適度に遊び歩き、だらだらしている。今のうちにやったほうがいいことはいくつもあるのだが、まあ何とかなるだろう。

いまの生活環境を離れるに当たっての儀式や宴が、ありがたいが面倒くさい。

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虎・牛・イヌ・ネコ/かわいい江戸絵画(府中市美術館)

2013-03-11 23:55:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
府中市美術館 企画展『春の江戸絵画まつり かわいい江戸絵画』(2013年3月9日~5月6日)

 「かわいい」をキーワードに、江戸時代の絵画の中に表現された、さまざまな感情に注目してみる展覧会。まず、幕開けに並ぶのは、文句なく「かわいい」(と企画者が判断した?)作品。対青軒印(宗達筆)の真っ黒な子犬。松花堂昭乗のまんまるい袋にもたれる布袋。うむ、まるくて重心が低くて、コロコロしているものは、だいたいかわいい。え?でも長谷川等彝の、アバラの浮き出た洋犬図はかわいいか? じゃれあう子犬に注目しろということらしいが、このへんはすでに微妙。

 続いて「かわいい」に含まれる、さまざまな感情を分析してみる。「かわいそう」「健気」「慈しみ」などのキーワードで、作品を並べているが、うーん、そうかな?と首をひねるものが多かった。おかしかったのは、開き直ったような「微妙な領域」という括りで、若冲の『布袋図』、仙義梵の『老子図』(う、牛!)など、画家は全然かわいく描こうとしていないのに、微妙にかわいい。「ぽつねんとしたもの」の、池大雅筆『鼓を打つ動物図』(ネズミ?)にも、うまく言えない微妙さがある。蘆雪の『鶏雛図』にも。私は、文句ない直球の「かわいさ」よりも、どこか情けなかったり、気持ち悪かったりする、微妙な「かわいさ」のほうが好きだ。

 蕪村の『捨篝図』は好きだが、私の中では、ちょっと「かわいい」とは違う範疇に含まれる。中村芳中の『蝦蟇鉄拐図』の蝦蟇仙人は、バカボンのパパみたいな顔をしていて、腰をひねった一本足の蝦蟇は、みうらじゅんの絵みたいである。

 少し途中を急いで、私がいちばん感激した「虎の悩ましさ」のセクションに進もう。応挙の『虎皮写生図』(本間美術館)は、大きな(実物大?)の虎の毛皮の写生図と、何枚かの虎図を屏風仕立てにしたもの。写生図の一部は、はみ出して屏風の裏面に続いている。ここには、岸駒、宋紫山など、さまざまな画家が試みた虎図が集められている。展示替えのため見られなかったけど、後期に登場の横井金谷や菊田伊州の虎図も見たかったなー。

 でも、長澤蘆雪の虎を見ることができたので満足としよう! 最も有名な、飛び出す『虎図』じゃないけど、前期は『四睡図』(草堂寺/和歌山県立博物館寄託)と『豊干禅師図』(個人蔵)が出ていた。後者は、甘えるように禅師の身体に巻きつけた、もふもふの尻尾に萌え死ぬ。蘆雪の虎はいいなあ。猛獣の顔と姿を捨てていないのに、同時に愛らしい。蘆雪というのも、そういう人物だったのかな、と思う。後期登場の、もう1枚の『四睡図』(本間美術館)は、ヘンなポーズをとる後ろ足が、寝相の悪い子どもみたいだ。

 「応挙の子犬、国芳の猫」というのも、面白い注目ポイントだと思った。犬も猫も、古代から愛玩動物として人間のそばにあったが、「かわいい」犬や猫の絵は、江戸時代、新しい描き方をする画家の登場によって成立する。でも私は、応挙の子犬より、それを崩したような蘆雪の子犬のほうが好き。国芳の猫は、それほどかわいく見えないのだが、猫好きにだけ分かる「かわいさ」が描き込まれているような気がする。

 楽しい作品の多い展覧会。出品目録を見直して「個人蔵」の多さに感嘆した。ずいぶん見ているはずの若冲や仙でも、まだまだ初めて見る作品があるものだ。ほぼ入れ替えとなる後期展示作品は、読み応えある解説とともに図録でチェック。
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