見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

崩れゆく王朝/双調 平家物語11~13(橋本治)

2013-02-27 00:53:29 | 読んだもの(書籍)
○橋本治『双調 平家物語』11~13(中公文庫) 中央公論新社 2010.2-2010.4

 『双調 平家物語』8~10の続き。「平家の巻」(11)「治承の巻I」(12)「治承の巻II」(13)と続くこの3冊は、原典・平家物語に描かれた時代に重なる。本書を「平家物語」の現代語訳として楽しみたい向きは、11巻あたりから読み始めるとちょうどいいと思う。

 ずっと影の薄かった平清盛も、中年を過ぎて、ようやく出番が増えてきた。11巻で、後白河上皇が清盛と武者たちを従え、八条烏丸の内裏に経宗・維方を召し捕りに赴く、前代未聞の「御幸」の場面にはぞくぞくした。だが、この二人、そのまま天下掌握に突っ走らないところが面白い。崩れそうで崩れきらない王朝の世。またゆるゆると時は過ぎてゆき、12巻では、清盛に寵された白拍子の祇王と仏御前、高倉帝と小督など、女性たちのエピソードがこってり語られる。

 13巻には俊寛と従者・有王の物語も。当時の政治権力史を語るだけなら、なくてもいいような脇道だが、やはり平家の物語を名乗る以上、欠かせないという判断なのだろう。そして、この「脇道」に登場する人物たちは、現代的(小説的)な解釈を交え、とても魅力的に描かれている。

 12巻の白山の神輿入京(安元事件というのか)の顛末も面白かった。本書を読んでいると、後世の歴史観で「大事件」とされるものと、当時の人々の感じ方には、ずいぶんズレがあるんじゃないかと思う。保元・平治の乱は、せいぜい数百騎の攻防だが、このときでは数千人の大衆が動き、重盛に率いられた三千騎が内裏を警護したという。本当ならすごい規模だ。

 本書の重盛は「忠ならんと欲すれば孝ならず」なんて、みみっちい弱音は吐かない(この出典は「日本外史」)。むしろ父・清盛の前に敢然と立ちはだかり、歯ぎしりさせる一徹ものである。足の引っ張り合いに長けた公家たちの中に入って、一門の着実な栄達を目指し、神経をすりへらしながら戦い続けた。弓矢は取らずとも、精神は最後まで武勇の人だったように描かれている。

 13巻に登場する老武者・源三位頼政もいい。「戦いを回避する」都の武者として生きてきた頼政は、平治の乱で見た義朝・義平を思い返し、「戦うこと」を本分とする東国武士の姿に受けた衝撃が忘れられず、ついに挙兵を決意する。ああ、人生って、確かにこういうことあるよなあと思う。ある体験が、20年も30年も先に、じわじわ効いてくることって。

 そして、迫り来る武士の世に、ふてぶてしく抵抗し続ける王朝の男たちも、それぞれ魅力的である。この時期の重大事件の数々には、亡き信西の後裔がかかわっているものが多いという指摘は、系図を眺めなおして、なるほどと思った。小督も信西の孫なのね。

 官を辞して福原に退いていた清盛は、最大の難敵だった息子・重盛の死によって、再び(実質的に)一門を率いて、政局に関与し始める。福原には、すでに唐船を迎え入れることのできる泊が築かれているが、本書はその経緯や清盛が描いた国づくりについては触れない。本書の清盛は、自ら頂きに立とうとする者ではなく、後白河院の寵臣たることを求めて、思い通りにならない怒りと悲しみから、強硬策に駆り立てられていく。あ~こういう解釈もありか。

 平氏の武力によって院政を停止された後白河院は(治承三年の政変)、一時鳥羽殿に幽閉された。そこから移された先が、八条烏丸の旧・美福門院御所で、平家一門の(名目的な)棟梁である宗盛の邸宅にも、西八条第にも近かったため、というような説明を読みながら、頭の中に、ふむふむと京都駅周辺と洛南の地図を広げるのも楽しい。

 何事も旧例墨守をよしとする貴族たちにとって、頼政の三位昇格が平氏一門の栄達以上に「あさましき」事件と思われたこととか、高倉院の厳島御幸(石清水や賀茂神社をさしおいて)が信じがたい大事件であったことなど、小説の描写に助けられ、想像をたくましくしながら読んでいく。船に乗って海に出るって、我々が南極に行くくらいの勇気を必要としたのではないかな。あと3冊。
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交流の足跡/時代の美 中国・朝鮮編(五島美術館)

2013-02-25 23:58:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 新装開館記念名品展『時代の美-五島美術館・大東急記念文庫の精華』第4部 中国・朝鮮編(2013年2月23日~3月31日)

 昨年10月の新装開館から半年にわたった記念名品展も、いよいよ大詰め。出し惜しみ(?)されていた同館の中国・朝鮮コレクションがようやく見られる、と思うと嬉しくて、初日から足を運んだ。展示室に入って、前半(右列)の壁には軸物が並び、後半(左列)が陶磁器であることは、すぐ把握できた。正面(奥)には一見何もなくて、あとで近寄ったら古版本や古版経が寝ていた。

 軸物のはじめは墨蹟(禅僧の書いた書)である。いいわー。むかしは、こんなもの何がいいのか、サッパリ理解できなかった。今でもきちんと言葉で説明することは難しいが、眺めていて、じわじわ染みわたる気持ちのよさは共感できるようになった。巧い字ばかりではないが、鷹揚だったり謹直だったり、それぞれ個性的な人格と向き合っている感じがする。ところどころ読める熟語を拾ってみると、自然と「日本」「日東」の文字が多いことに気づかされる。解説にも「(中国の禅僧が)帰国後、日本の大檀越に向けて送ったもの」とか「日本から入元した僧に与えたもの」「日本に帰国する弟子に与えた餞別の偈」などの説明が頻出する。当時の人々に国境や国籍の概念がどのくらいあったのか、よく分からないが、海を越え、はるかな距離を越えて師弟の交わりを持った人々がいて、その遺墨が守り伝えられてきたことに感慨を深くする。

 続いて、絵画が数点。伝・徽宗皇帝筆『鴨図』は、あくまで伝承筆者なのね。伝・牧谿筆『叭々鳥図』は、MOA美術館と出光美術館が有する同図と、もとは三幅対だったという。ネットで画像検索して、なるほどねと思う。私は何気ない坊さんの図、南宋の『対月図』と元の『政黄牛図』が好きだ。

 そして、展示室のいちばん奥に到達して、古版本・古版経を眺める。重文『宋版 石林先生尚書伝』は細い筆画がきれいだ。痩金体っぽい。五島美術館の表札を思い出す。静岡県の清見寺を意味する「清見寺常住」の朱印が押されている、という解説を読んで、おや?と思い当たることがあり、調べたら、やっぱり白隠の『達磨像』を持っているお寺である。展示箇所には「慶福院」印と「江風山月荘」印もあり。後者は稲田福堂という蔵書家の印らしい。

 ほかに文献資料はないかな、と前に戻って、清初に刊行された絵画制作の手引き書『芥子園画伝(かいしえんがでん)』を見つける。すごいわーこれ。Wikiによれば「寛延年代(1748年ごろ)以来、日本でも翻刻本が何度も出版されている」そうで、私もこの題名を持つ和本を何種類か見たことがあるが、本書は「初版に近い精巧さを保った早期の刊行本」。色数は、日本の浮世絵のように多くないが、品があって美しい。五彩の磁器の色付けみたいだ。

 明代の『十竹斎箋譜初集』は、箋紙(便箋)に添える小さな図案集。実は中国にもこういう(小さくかわいいものを愛でる)美意識があるんだな。そして、なんと精妙な多色摺りの技術。漢籍(中国の古い本)は基本的に白黒の世界だ、と言っていたおじさんを思い出し、うそつき~と思う。本を扱うのに、文学や歴史・思想の研究者の言葉だけを聞いていてはいけません。

 さらに敦煌経など隋唐の古写経を見て、一挙に年代がさかのぼるなあと思っていたら、いきなり紀元前13~11世紀の玉製品が出てきて、めまいがしそうになった。そのほか、銅鏡、陶芸、(別室に)金銅仏、仏頭(雲崗由来)などあり。中国ものが多く、朝鮮半島の陶芸は別室に集められている。

 多くは伝来品か将来品だと思うが、銅鏡に「千葉県で出土」「奈良県(大和国)出土」という説明があって、面白いと思った。また展示室2には、宮崎県西都原古墳群で出土した金銅馬具類(新羅時代)が展示されている。不思議なお宝を持ってるんだなあ、五島美術館って。

 中国の陶芸は、だいたい記憶にある品が多かったが、新しい照明になったせいか、以前より見栄えがよくなった気がする。特に青磁とか緑釉とか、単色の釉薬のトロリとした感じが美しい。
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日本美術関連のAndroid版アプリ

2013-02-23 22:30:43 | 見たもの(Webサイト・TV)
 今年の正月に携帯をスマートフォンに変えた。若者みたいにガンガン使いこなすつもりはハナからないのだが、ようやく分相応に必要な使い方は分かってきた気がする。最近、落としてみたアプリが3つ。どれも無料だ。

「e国宝」

 東京国立博物館のサイトに、2013年2月5日付けで「Android版をリリースいたしました」というニュースが載って、やった!と思った。「国立文化財機構の4つの博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館)が所蔵する国宝・重要文化財を高精細画像で鑑賞できる」アプリである。2010年からWeb上に公開されている「e国宝」と内容は同じ(たぶん)。以前はiOS版しかなかったので、スマホを持つなら、やっぱりiPhoneかなーと、かなり真剣に悩む要因になっていたもの。

 Webアプリなので操作性は通信速度に依存する。私の機種だと、残念ながら詳細画像はサクサク閲覧というわけにはいかない。でもかなり嬉しい。正月に京博で展示していた十二天像や山水屏風もこれに入っているので、もうちょっと公開が早かったら、手元で拡大図を確認しながら現物を鑑賞することもできたのに、と思う。

根津美術館

 これもWebアプリ。開いたときに次々に画面を流れる高精細画像はかなり楽しい。しかし「デジタル・ギャラリー」から個別の作品を開こうとしたら「お使いの機種は Adobe Flash Player がサポートされていません」というメッセージが出てしまった。え? Android用フラッシュの配布が2012年8月15日に終了していたなんて、全然知らなかった(スマホ初心者です)。

 何か方法はあるに違いないと思い、Google Playを探しまわり、はじめはあやしいインストーラーに手を出して、慌てて削除したりしたあげく、昨日、「非公式」を名乗っているけれど、どうやら信用のできそうなインストーラーを見つけた。(2日前にこんな紹介記事が出ていたのを、さっき発見)

 flashをインストールすると、一部の画像は見られるようになったが、古いレビューどおり、細部まで拡大表示できる作品もあれば、画像は見られるけど拡大できない作品、いくら待っても表示されない作品もある。画像のバージョンとflash最新バージョンとの相性なのかな? 国宝『那智瀧図』は拡大再生できたけど、最大表示すると画像の精度が追いついていなくて、やや興ざめ。あと、そもそも絵巻の類は全体を流しながら見たいのに、Webギャラリーと同じで、ぶつ切りの部分画像しかないというのも不満に感じる。

細川家の名宝「長谷雄草紙」

 「本アプリケーションは、2012年1月より開催される九州国立博物館『細川家の至宝』展開催を記念して、2012年3月までの限定公開版アプリケーションです」とあるが、2013年の今でもGoogle Playで入手できる。以前、iPadアプリ「細川家の名宝」の発売(2011年)に驚いた記事を書いたことがあったが、偏愛する『長谷雄草紙』だけ入手できれば、私は満足。

 これはすごい。詞書も含め、巻頭から巻末まで一続きの画像を、指で左右にスライドさせながら、楽しむことができる。まさに掌中の絵巻ものだ。かなりの拡大にも堪える画質で、しかし重すぎないのがよい。これくらいの品質で、日本絵巻大成が全部アプリ化(電子書籍化)されたら幸せだなあ。むろん有償でも買うぞ。
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浅草文庫の記憶/資料館における情報の歴史(東博・本館16室)

2013-02-21 23:55:45 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・本館16室(歴史資料) 東京国立博物館140周年特集陳列『資料館における情報の歴史』(2013年1月8日~3月3日)

 展示趣旨に「資料館は、明治5年の東京国立博物館の開館時に、英国の大英図書館をモデルに設置された日本最初の官立図書館である『書籍館』に由来しています」と、いきなり言われても、一般利用者には何のことか、分からないだろう。私も分からなかった。

 東博のTOPページで、それらしいメニューを捜して「調査・研究」にカーソルをあわせると、「資料館利用案内」というリンクが現れた。「東京国立博物館資料館は、1872年(明治5年)の博物館の創設以来、博物館が収集・保管してきた写真・図書などの学術資料を、研究者を中心に広く公開する施設として、1984年(昭和59年)2月1日に開館しました」とある。なるほど、この施設のことらしい。博物館附設の、ライブラリー兼アーカイブズみたいなものかな、と納得する。

 その資料館の「情報の歴史」を紹介する展示ということだが、最初に目に入ったのが、1990年代のレーザーディスクプレーヤーだったので、この展示、何をする気なんだろうかと苦笑してしまった。確かにLD(レーザーディスク)は、もはや歴史である。Wikiを見に行ったら、1970年代に「誕生」して、2007年には「終焉」していた。

 それ以外は、博物局編の博物図譜とか蕃書調所伝来の洋書とか、ああ、この室でよく見る資料だな、と思っていたら、浅草文庫書庫の写真(和田一郎撮影)というのがあって、目が留まった。



 浅草文庫とは、明治時代初期の短期間(明治7/1875-明治14/1881)浅草蔵前に開設された官立図書館で、博物館の付属施設だった。複雑な由緒・沿革は、なかなか覚えきれないのだが、細身で読みやすい「浅草文庫」の蔵書印は、図書館や古書市で、たびたび目にしたことがある。しかし、建物の写真を見るのは初めてのことで、こんな野ッ原に建っていたのかーと呆れた。ま、国会図書館の関西館の周囲も(開館当時は)こんなものだったけど。

 ↓浅草文庫の鬼瓦。鬼瓦や蔵書印に使われたのは三条実美の字で、その原書を表装した巻子も一緒に展示されていた。



 他にもいろいろ面白い資料があったが、ひとつだけ紹介。明治41年(1908)の例規録である。



 「今般本館ニ文庫ヲ設ケ従来各部各課参考トシテ備置ク所ノ図書ヲ同庫ニ集メ以テ共同閲覧ノ便ヲ開カントス 依テ各部各課ニ現在ノ図書ハ一切庶務課文書掛ニ引継グベシ」という「御達案」を発している総長は、誰あろう、森鴎外である。解説によれば、このとき書籍だけでなく、本館の報告・統計・雑誌などの諸記録および館有の列品台帳・保管証なども一箇所に集められ、共同閲覧の便宜が図られたという。

 ミュージアムの運営には同時にアーカイブズの整備が必要なことを、ちゃんと理解していて実行に移し得た明治人は、いまの文化官僚より数段えらいと思う。そして、綿密な推敲の入った蔵書目録の類を見ていると、博物館の一隅で黙々と仕事に励んだ文庫担当者の姿が想像されて見飽きない。
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劇場空間の成長/歌舞伎 江戸の芝居小屋(サントリー美術館)

2013-02-20 22:15:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 『歌舞伎-江戸の芝居小屋-』(2013年2月6日~3月31日)

 私は、いまの歌舞伎は全く見ないので、大丈夫かな(楽しめるかな)?と少し心配しながら見に行ったが、面白かった。特に「第1部 劇場空間の成立」には、桃山~江戸初期の絵画資料がたくさん出ていて、さすが「屏風の」サントリー美術館だな、と思った。他館からの出陳資料も多い。多すぎて、展示替えがものすごくややこしいことになっているのは、何とかならないものか。

 本展のチラシや公式サイトのバナーを飾っている華やかな画像は、徳川美術館所蔵の『歌舞伎図巻』。私は幸い、見ることができたが、展示は2/25まで。役者も観客も、緻密な模様の描き込まれた華やかな着物をまとっている。観客の中には、南蛮人や朝鮮人(それとも明人?)の姿も。日本の侍も着物の上に洋風の付け襟をしていたり、腕よりも長いキセルを構えていたり、厭味なくらいお洒落。

 京博の『阿国歌舞伎図屏風』(重文、17世紀)は、まだ人物の動きも硬く、服装もやや地味。私が教科書で覚えた阿国像の原型だが、2/27-3/11展示で、会場では見ることができなかった。

 大和文華館所蔵の『阿国歌舞伎草紙』は、名古屋山三と思しき人物が、舞台の下の客席から立ち上がり、舞台上の阿国と目を見交わしている。山三の隣りの観客が、その様子を振り仰いで驚き呆れている。ああ、丸谷才一さんが言及していた「観客の中から山三の亡霊が出てくる」図だ、と感慨深かった。まさにこの場面を描いた資料は、少ないのではないかしら。

 近代の歌舞伎座関係の資料に見覚えがあったのは、山種美術館の『知られざる歌舞伎座の名画』展と重なるものが多かったためらしい。というか、会場に来てはじめて、この展覧会が、2013年4月に迫った新しい歌舞伎座の開場を祝賀するものだと気づいた。

 歌舞伎ファンの皆さんは、江戸の役者絵や番付を見ても「団十郎よ」「海老蔵だって」と楽しそうだった。なるほど、名跡というシステムには、こういう効果があるのだな。私は月岡芳年描く『岩倉の宗玄 尾上梅幸』に思わぬ再会をしたのが嬉しかった。会期後半は『市川三升 毛剃九右衛門』に展示替え。どっちも好きだなー。

 衣装や小道具も出ていて、贅沢だなあと思ったのは、「助六」揚巻の打掛け。白地に、当代一流の画家が絵を描いている。私が見に行ったときは、山口蓬春の作品と堅山南風の作品が出ていた。展示替えで、前田青邨や東山魁夷の作品も出てくるらしい(世田谷美術館所蔵)。面白いな。いずれ山口晃や会田誠が描いたりしないかしら。
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森の中へ/飛騨の円空(東京国立博物館)

2013-02-19 23:59:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 140周年特別展『飛騨の円空-千光寺とその周辺の足跡-』(2013年1月12日~4月7日)

 円空展に行ってきた。会場は本館大階段の奥の特別5室である。広すぎず狭すぎない広場のような空間、絶妙な暗さ、作品配置がとてもよかった。会場内を行き交う人の群れは、次の展示ケースへの視線を遮断するくらいの混み具合で、草むらを掻き分けながら、深い森の中を歩いているような感じがした。ときどき天井を見上げては、夜空の星が見えるのではないかと思った。

 会場を入ってすぐにあったのは賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)坐像。丸い頭部が立体的に彫り起こされており、円空仏としては写実的な部類だと思う。側面にまわって、あまりにも薄い体躯に驚く。その裏側に、唯一伝わる円空の肖像画(百年ほどのちの模写)が掛かっており、かなり面白い画像なのだが、視線は反対側の大きな木彫仏の列(護法神、不動明王、金剛神)に吸いつけられてしまった。

 護法神立像(二体)、金剛神立像(二体)はいずれも2メートルを超す。魚の骨のように上に向かって切り込みの入った垂直な柱の上に、不敵な笑みを浮かべた頭が乗っており、見ている間にもずんずん背が伸び上がりそうだ(山の中にはそんな妖怪がいたな)。不動明王立像は、ずんぐりした体形だが、それでも172センチある。眉間、目と鼻のまわりに深い皺が刻まれ、厳しい自然とともに生きてきた山人の表情を思わせる。こういう円空仏は好きだ。

 本展は、岐阜・千光寺所蔵の円空仏61体を中心に岐阜県高山市所在の100体(46件)を展示する。思わずほっと微笑みがこぼれるような、素朴で愛らしい仏像もあるが、厳しさ、恐ろしさ、グロテスクな奇ッ怪さを感じさせる作品もあり、(自然が本来そうであるように)両者をあわせて円空の魅力だと思っているので、「微笑み」路線に偏らない、この展覧会はとても感じがよかった。

 会場の最奥に鎮座した両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)には、魂を奪われる感じがした。髪を逆立てた丸顔が二つ。中央の大きな顔の右横に、少し小さい顔が張り付いている。よく見ると両肩の後ろに置かれた手があって、双子の片割れが、背後からひょいと顔を出しておどけているようにも見える。中央の像は膝の上に重たそうな斧を置き、腰には刀らしきものを差している。斧に添えた大きな両手が印象的だ。童子のように無心にも見え、凶暴さを秘めた邪悪な神にも見える。

 全く余談だけど、私は、両面スクナ(飛騨の国に住む怪物=仁徳紀)の登場する舞台芸術をテレビで見た記憶がある。かなり古い話。日本神話を題材にしたオペラかミュージカルだと思うのだけど、何だったんだろう…。

 両面宿儺と向かい合うように置かれた金剛力士(仁王)立像も、異様な迫力だった。地面から生えた立ち木に彫ったものを、のちに根を切断したと伝える。木の節くれだった形がそのまま残っていて、ものすごい異形。

 ほかにも、倒立した竜の頭が噛み付いたような龍頭観音立像とか、私は大きい彫像に無条件に惹かれるが、小さくて魅力的な像もたくさんある。秘仏・歓喜天立像は、象頭というより獏(バク)みたいな長い顔の二神が抱き合っているが、全くエロチックでない。夢見るような表情が幸せそうでかわいい。トグロを巻く宇賀神像や八大龍王像、逆三角形顔の迦楼羅(烏天狗)や稲荷像も面白い。写実的で、洗練された柿本人麿像も好きだ。

 会場では、井浦新さんの語る音声ガイドを使用。このひとの声は深みがあってよい。特別展ブログの記事によれば、トークイベントでは「いつか役者として、円空を演じてみたい」という発言もあったそうで(無理に言わせてないか?)楽しみである。

展覧会公式サイト

飛騨千光寺(岐阜県高山市)
井浦さん、千光寺にも行っているのか!(2012/11/10記事)
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京都史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く(洛南その2)

2013-02-16 21:10:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
安楽寿院(京都市伏見区)とその周辺

京都史跡散歩(洛南その1)の続き。近鉄竹田駅で下りて、安楽寿院に向かう。前回は、2009年の「京の冬の旅」で特別公開されていた阿弥陀如来坐像が見たくて訪ねた。現地に来てはじめて、白河院や鳥羽院の院政の地であることを知り、発掘・復元(ほんの一部)されつつある鳥羽離宮の遺跡を興味深く眺めた(※記事)。

非公開日はどうなっているのかな?と思いながら来てみたのだが、人のいる気配はなく、たまに物好きな観光客が立ち止まるくらいで、やわらかな苔に覆われた庭で猫が遊んでいた。

↓近衛天皇陵。


多宝塔を用いた天皇陵はここだけ。というような調べものは、宮内庁の「天皇陵」データベースで検索することができる。

↓鳥羽天皇陵。森閑とした木立に覆われている。


↓白河天皇陵。安楽寿院から少し西へ歩き、高速道路をくぐった先にある。


なぜか駐車場付き…誰が使うんだろう?!


前回はここで引き返したのだが、ついでに城南宮に参拝していこうと思い、歩き続けると、御陵の先、道路沿いに大規模なラブホテルが林立していた。さすが白河院(立地が似合いすぎる)と苦笑してしまった。

城南宮のさらに西、京阪国道(国道1号線)を苦労して横断すると、住宅街の中に鳥羽離宮跡公園(野球場)と鳥羽殿跡の石碑の立つサッカー場があった。



※おまけ。城南宮の参道で買った椿餅。ふとWikiで調べたら「源氏物語」にも記述があり、和菓子の起源とする説もあるそうだ。



むかし(20年以上前)、祇園の八坂神社の南に椿餅だけを売る和菓子屋さんがあったことを知る人も少ないだろうな。餡も入っていなくて、俵形の道明寺餅を椿の葉の間に挟んだだけの素朴なお菓子だった。
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京都史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く(洛南その1)

2013-02-16 10:06:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
JR宇治駅で降りると、「源氏物語のまち」をPRする看板が目につく。まあフィクションの中ではそのとおりだが、歴史上では、むしろ宇治って、治承4年(1180)の以仁王・源頼政と平家方との戦いや、寿永3年(1184)の源義経軍と源義仲軍との戦いなど、激しい戦乱の故地である。もっと古代にさかのぼれば、藤原仲麻呂(恵美押勝)も、平城京を脱出して宇治へ入り、さらに近江国を目指したのだった。

宇治橋の西詰に立てられた「夢の浮橋」古跡を示す石柱や、まだ新しい紫式部像を見ながら、後世の人間の記憶って恣意的だなあ、としみじみする。

平等院(京都府宇治市)

鳳凰堂は「平成の大修理」で、2012年9月3日から2014年3月31日(予定)まで拝観停止になっている。だが、長年、寺社めぐりをしていると、拝観停止中のめずらしい風景こそ目に焼き付けておきたい、写真に残しておきたい、と思うのだ。↓今、こんな感じ。東南アジアの水上建築みたいで、とてもきれいだ。



ミュージアム鳳翔館では、国宝平等院鳳凰堂平成修理記念『極楽を夢見て』(2013年1月19日~3月29日)を開催中。この中に、昭和の大修理(昭和25~32年)を描いた河原悦人の絵画『鳳凰堂簀(す)屋根』が初公開されている。工事風景を写実的に描いているのに、不思議な抒情がにじみ出ている。どこか日本画ふうの油絵。

源三位頼政の墓所にもお参り。なお、藤原忠実が宇治に隠棲(謹慎)していた邸宅「西殿」跡は、2004年に宇治市宇治妙楽の「宇治市街遺跡」から見つかっている。へえ~これは今、仕入れたばかりの知識なので、次回は様子を見にいこう。

※四国新聞社「藤原摂関家が宇治の町割り/碁盤の目道路跡が初出土」(2004/10/15)

※【新着ニュース】京都新聞「鳳凰堂、平安期の瓦1500枚 創建50年後 屋根ふく?」(2013/2/14)
創建(1053年)の50年後=1103/康和5年。お~白河院の院政時代である。

法界寺(京都市伏見区)

日野に出て法界寺へ。初めて訪ねたのが20年くらい前で、それ以来ではないかと思う。去年の大河ドラマの序盤、「こうして白河院は世を去った」みたいなナレーションの退場場面で、伊東四朗さん演ずる白河院が伏し拝んでいたのが、ここの阿弥陀如来で、あ、ロケ地は法界寺だ、と懐かしく思った。

平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像によく似ているが、いくぶん厳しい感じのする、こちらのお像のほうが私は好き。動きのある繊細な光背も。20年前もそうだったと記憶するが、受付兼務のお寺の方の説明を少し聞くと、あとはほったらかしなので、堂内を自由に見せていただける。平安の香りを残す巨大な阿弥陀さまと二人きりになる気分はなかなか贅沢でよい。

別のお堂に安置されている本尊・薬師如来は秘仏である。ご開帳ってないのかな…。探してみたら「防災訓練のときに見られる」という書き込みは見つけたが。

平重衝墓

南都焼討で名高い平清盛の五男。この近傍の木津川畔にて斬首されたことにちなみ、重衡妻の大納言典侍が一時身を寄せていた場所とも伝える。

20年前に初めて法界寺を目指して来たとき、偶然、道端でこの石柱を見つけて、感慨にふけった記憶がある(当時から平家びいきだった)ので、再訪してみたいと思った。

法界寺門前の道を北へ15分くらい。「合場川を渡り300mほど」という情報を、あらかじめ得ていたのだが、なかなかそれらしい物件がない。実は、写真↓の金網前に見える石柱が目印。



前(北側)にまわってみると「従三位平重衡卿墓」とある。これ、法界寺側から歩いて来ると見落としやすいなあ。石柱の角を左に折れると、



集合住宅の間の空き地に墓所が整備されている。背後は枝垂れ桜だろうか。花の季節は艶やかだろうと思われた。



向かって右の、鏡餅みたいな五輪塔くずれが微笑ましい。
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京都史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く(京都駅前)

2013-02-15 22:01:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
旧暦2013年の元旦(2月10日)は、京都駅前から史跡散歩をスタート。1月14日に建碑序幕式の行われた「平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地」を探しに行った。

NPO法人「京都歴史地理同考会」のブログには「京都市下京区東之町(須原通八条上がる)・JR京都駅八条口から八条通りを東へ徒歩約10分」とあったので、線路沿いに東へ。河原町通を横切ってさらに東へ進む。「須原通」は町名表示板のない(たぶん)細い通りなので、行き過ぎやすい。

集合住宅の前に立つ「崇仁の名の由来と銭座場跡」の史跡案内板が目印。



そのすぐ先の角を左(北)に曲がると目的地が見える。敷きつめた白石が、まだ初々しい。



北側を高架線が通っているので、大阪方面に向かう新幹線や奈良線の車窓から見えるかもしれない。



八条通を進んで、もし水路(高瀬川の末?)に突き当たってしまったら、行き過ぎなので戻ること。

石柱の三面には「平安京左京八条四坊十三町」「此附近 平清盛終焉推定地」「此附近 高倉天皇誕生地」とあった。説明板には「平安京における平家邸宅」の地図が掲載されていて、興味深かった。
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京都史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く

2013-02-13 21:46:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
「源平ゆかりの地を歩く」史跡散歩を続けているうち、だんだん京都市中も迷わなくなった。龍谷ミュージアムを出たあとは、ナチュラルローソン隣りの「左女牛井之庭(さめがいのにわ)」を通り過ぎ、源頼義建立と伝える若宮八幡宮を再訪(※前回散歩の記事)。北に進み、五条通の手前が楊梅通という細い路地。義朝の愛妾、常盤御前がひそんでいた楊梅小路の名残りともいう。

五条通を渡る。いま読んでいる『双調 平家物語』では、平重盛と悪源太義平が「五条堀川」で市中戦を繰り広げることになっているが、当時の五条大路は現在の松原通なので、さらに2ブロック北上して、堀川松原あたりで往時を偲ぶ。

五条天神

その松原通の南側にある五条天神社。桓武天皇が平安遷都に際して勧請した古社で、元来、菅原道真とは無関係。写真は西洞院通に面した鳥居。



源義経が弁慶と出会ったのは五条天神社境内とする伝承もある。よって、松原通商店街には、このフラッグ。



松原通の東の先、鴨川にかかっていたのが、かつての五条大橋で、渡れば平氏の六波羅第。

平安宮一本御書所跡

堀川通をバスで北上し、「堀川下立売」で下車。下立売通を西に進むと、智恵光院通を渡った先に「平安宮一本御書所(いっぽんごしょどころ)」の旧跡がある。平治の乱で後白河上皇と上西門院統子さまが幽閉されたところ。大内裏の内側、陽明門と待賢門の間にある(※大内裏図)。



いしぶみデータベース」の解説によれば、(1)世間に流布する書籍をそれぞれ「一本」(一部)ずつ書き写して保管していた、(2)「一本書」(一冊しかない稀覯本)を納めさせ保管していたという2つの説があるそうだが、現場にあった解説板は(1)の説を採っていた。へえ~一種の納本制度ではないか。平安時代には、貴族の私設文庫だけでなく、朝廷(おおやけ)にもこうした文化保護システムが整備されていたことを初めて知った。後白河院は、いわば貴重書庫に幽閉されていたわけだ。

現在は、格子戸の上に「あぶら」の文字が見えるとおり、山中油店の店舗となっている。

平安宮内裏綾綺殿跡

さらに少し下立売通を西に行くと「カフェ&ショップ綾綺殿(りょうきでん)」の案内板が立っている。綾綺殿は、宜陽門を入った内裏の中にあり、内宴や相撲節会に用いられた建物(※内裏図)。その旧跡では、山中油店直営の町屋カフェが営業している。



さっくり揚がったエビフライとから揚げが美味。食べ応えもあり。



あまり来たことがなかったけど、この一帯が、まさに平安京の中心地だったんだな…と、はるけき往時を偲ぶ。

■おまけ:伏見稲荷大社「しるしの杉」

最後に、この日(2月9日)は旧正月前夜にして、さらに初午だったので、伏見稲荷に参詣して「しるしの杉」をいただいてきた。



一見、源平合戦とは何の関係もなさそうだが、『平治物語』によれば、熊野参詣の途中、三条殿夜討を知って京に引き返した清盛は、「先づ稲荷の社にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして六波羅へぞつきにける」というので、上の「平安宮一本御書所」と、ちゃんと即応しているのである。

※参考:藤の花咲く都~平安朝小事典
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