見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

茶碗の中の星空/曜変・油滴天目 茶道具名品展(静嘉堂文庫)

2013-01-31 23:41:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館 受け継がれる東洋の至宝 PartIII『曜変・油滴天目 茶道具名品展』(2013年1月22日~3月24日)

 「(静嘉堂文庫)美術館に行きますか?」と言って乗ってくる人で、バスが超満員だったので、びっくりした。『曜変天目』と『油滴天目』って、そんなに人気があったのか?

 私は、長いこと陶磁器の美が分からなくて、少し関心を持ち始めてからも「曜変」「油滴」は、なかなか好きになれなかった。このブログの過去記事を調べてみたら、静嘉堂の『曜変天目』に触れているのは、2010年、三菱一号館美術館で「見た」ことだけである。最近、ようやく「油滴天目」や「禾目天目」など華やかな茶碗に目が向くようになったので、今回は楽しみに出かけた。

 会場は、いつもより混んでいたが、『曜変天目』と『油滴天目』のケースに張り付きっぱなしというほど熱心な人はいなくて、ゆっくり見ることができた。『曜変』は、いわゆる天目茶碗の大きさで、文様の華やかさに比べて、慎ましく小ぶりである。しかも側面は黒一色なので、上から覗き込んではじめて、星空を封じ込めたような美しさにハッとする。

 それに比べると『油滴』は異様にデカい。口径19.7センチって…ヤツデの葉を広げたような感じだ。お相撲さんの賜杯とまでは言わないが、こんなのでお茶を飲むのか!?『油滴』は側面(裏側)にも文様があるので、展示ケースは、下からも照明が当たるように工夫されていた。それぞれに付随して伝わった天目台は別のケースに飾られていて、『曜変』の黒漆天目台『尼崎台』はシックだったけど、『油滴』の堆朱牡丹文天目台は全く名前どおりで派手。派手×派手の美学は、いつ、誰の創意なんだろう。どちらの茶碗も釉薬はたっぷりした厚塗りで、それが「胴裾で留まるよう、裾まわりの削りの角度に工夫がなされている」と、貰ったパンフレットにあった。こういう薀蓄は面白い。

 完成形の「曜変天目」は世界に三碗しかなく、全て日本に伝わっているというのは、最近仕入れた知識だったが、2009年に「曜変」の陶片(かなり完成形に近い。惜しい!)が杭州で発見されたことが、2012年に公表された、というニュースを壁のパネルで知った。へえ~中国、何でも出てくるなあ。

 会場は、ところどころ床の間ふうに軸物+磁器を取り合わせたものがあって、中峰明本の墨蹟+飛青磁とか、虚堂智愚の墨蹟+青磁(貫入・色むらが目立つ)など、魅力的だった。花入や茶入を載せている堆朱や塗物の皿(盆?)がさりげなくいい。展示品に数えられていないところが奥ゆかしい。

 あとは野々村仁清の『数茶入』十八口揃が面白かった。すべて形の異なる茶入で「手瓶」「湯桶」「尊」なんていうのもある。仁清が大徳寺に寄進した『数茶碗』は、もとは百客あったらしい。一つ一つ、微妙に風合いが異なる。地味な普段使いの茶碗だが、こういう仁清なら欲しいと思う。

 最後に会場の冒頭に戻り、岩崎弥之助ゆかりの茶入の名品『付藻茄子』『松本茄子』を見る。どちらも大坂夏の陣で焼失したかに思われたが、家康の命により焼け跡から探し出され、塗師(ぬし)藤重藤元と藤厳父子の漆繕いによって破片から現在の姿に修復されたという。確かに、X線写真を見ると破損の痕が歴然としているが、肉眼では全く分からない。日本人って、こういう修復は好まないと思ってきたけど、自然劣化ではなく、戦乱による破壊という緊急事態に対しては、徹底した復元も行われてきたんだな。それにしても、すごい技術である。修復を命じた家康が、できばえを絶賛して、両茶入を藤重父子に下賜したというのも、ちょっといい話。
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大胆で繊細/時代の美 桃山・江戸編(五島美術館)

2013-01-29 22:33:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 新装開館記念名品展『時代の美-五島美術館・大東急記念文庫の精華』第3部 桃山・江戸編(2013年1月5日~2月17日)

 新装開館記念名品展シリーズのその三。今回は展示替えがない。冒頭は琳派の書画。本阿弥光悦筆、俵屋宗達下絵と伝えられている『色紙帖(新古今和歌集)』と『 色紙帖(和漢朗詠集)』が、それぞれ盛大に開いていて、楽しかった。和歌の内容と下絵の図柄が、必ずしもピタリ寄り添っていないのがいいと思う。「新古今和歌集」は金銀の対比が中心だが、「和漢朗詠集」は青や緑などの淡彩に金色だけで絵を描いたものもあって、美しかった。

 尾形乾山筆『四季花鳥図屏風』は初見だろうか? そんなはずはないと思うのだが、初めて意識した作品。右端から視線を流していくと、どんづまりの左隻の左隅にうずくまっているシラサギたちの膨らみっぷりがかわいくて、思わず笑ってしまった。飛んでいるシラサギの翼も、レースを広げたみたいで愛らしい。

 光琳蒔絵『佐野渡硯箱』は大好きな作品。いま「光琳蒔絵」で画像検索をかけてみたら、この他にもいろいろ大胆なデザインがあることが分かった。伝統的な蒔絵を蒔絵だと思っていた人たちは、度肝を抜かれただろうな。光琳の楽茶碗にも言えることだけど。

 その茶碗は、光悦の『夕暮』『七里』、長次郎の『夕暮』など名品が勢揃いだったが、上から覗き込むタイプの展示ケースに収まっていたのは残念。私はひとつひとつ膝をついて、横からの姿を眺めたが、高齢者にはキツかったのではないだろうか。

 平台ケースには、狩野探幽自筆の『旅絵日記』や賀茂真淵自筆の『延喜式巻八 祝詞考』(びっしり推敲の痕あり)など、あまり見たことのない資料が数多く出ていて、面白かった。五島美術館ではなく、大東急記念文庫の所蔵らしい。出品目録をよく見たら、壁にかかっていた『加藤清正像』『清正母像』や武将の書簡も大東急記念文庫の所蔵なのだな。なんと上述の『四季花鳥図屏風』も! 江戸時代・18世紀の『十二ヶ月風俗絵巻』は、ちゃんと正月の場面を開けてあって、子どもたちが遊んでいる、紐のついた玩具は振振(ぶりぶり)だろう。

 第2室は桃山時代の陶芸のみ。書画の混じる第1室より、明るめの採光になっている。そのせいか、以前、第1室で見たことのある信楽一重口水指『銘:若緑』は、少し釉色の印象が異なる感じがした。古伊賀水指『銘:破袋』は、何度見てもすごい。これを「愛でる」感覚は、納得できるけど説明できない。古備前耳付花生(桃山時代)は、イヤラシイくらい肉感的で、思わずたじろいでしまった。ただの土なのに…。

 全体に線の太い、男性的な美学を重視した「桃山・江戸編」だと思う。私は嫌いではない。
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乱世のあしおと/双調 平家物語5~7(橋本治)

2013-01-28 22:31:58 | 読んだもの(書籍)
○橋本治『双調 平家物語』5~7(中公文庫) 中央公論新社 2009.8-10

 『双調 平家物語』1~4の続き。年明けの仕事が始まってペースダウンしてしまったが、「女帝の巻」(5)「院の巻」(5、6)「保元の巻」(7)まで読み進んだので、途中報告。

 「女帝の巻」は、まだ奈良時代。天平宝字2年(758)孝謙天皇は、病床の光明皇太后に仕えるためとして退位し、淳仁天皇が即位する。この時期に起きたのが藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)。私は、ちょうどこの巻を関西旅行中に読んでいて、仲麻呂が命を落とした近江の三尾埼(みおのさき)ってどこなんだろう?と気になった。調べたら、琵琶湖西岸の近江高島のあたりで、乙女ヶ池という場所が、仲麻呂一党の斬首された「勝野の鬼江」に比定されているらしい。でも、このひとは御霊として祀られたり、尊ばれることはなかったのか…。徹底して損な役回りを引いてしまった感がある。

 それから孝謙上皇の重祚(称徳天皇)、道鏡の専横、宇佐八幡宮神託事件など、相次ぐゴタゴタも、重要人物の退場(死)によって、ようやく終息を告げる。古代王朝の末期って、どの国もこんなものだろうか。

 院政期までずっとこの調子でいくのか、と思っていたら、平安盛期(平安遷都~道長の時代)は超スピードで飛ばして、「院の巻」の冒頭には、延久4年(1073)即位したばかりの白河天皇が登場した。弱冠20歳の白河天皇って、妙に新鮮。そして白河天皇の視点から、父の後三条院の特異な立場が語られる。後三条帝は170年ぶり(12代ぶり)の藤原氏を外戚としない天皇であった。その背景には、摂関家の長である頼通の怠慢があり、頼通と教通の確執があり、関白頼通と後三条天皇の不和があった。そのため不遇な東宮時代を過ごした白河天皇は、即位→太上天皇に至り、強大な権力を手中にしていく。まるで古代の天皇がよみがえったかのように。そのことを確認するため、長い古代史の前フリが必要だったのかな。

 「院の巻」以降は面白いけど、人間関係が複雑怪奇で、むちゃくちゃ登場人物が多い。主要人物は、なんとか去年の大河ドラマの配役を思い浮かべることができる。これが5割くらい。さらに私は、かつてこの時代の和歌集を読んだ経験があるので、あと1割くらいは補完できる(主に女性たち)。しかし初めて名前を聞く、あるいは聞いたかもしれないけど忘れている下級貴族が多数あって、何度も扉ページの系図を眺め直した。

 この時代の理解しにくさは、人々のよって立つ「ルール」が分かりにくいためでもある。強い兵を集めて、戦に勝てば天下が取れる、というような単純なルールではなく、人が到達できる地位は、生まれた家格によって決まっている。それを乗り越えるには、婚姻や養子縁組によって、作為的な家族関係を創り出さなければならない。娘の出世によって父親は栄達し、貴人の養子となることで卑賤の生まれがクリアされる、等々。そして、定まっているはずのルールも、未だかつてない寵愛によっては、未だかつてない変更が加えられることもある。さらに「寵」に基づくルール変更は、男女間だけでなく男性どうしの間にも生まれ得る。

 特に男寵盛行のありさまは、噂には聞いていたけど、こんなに詳しく読んだのは初めてのこと。「保元の巻」では、悪左府・頼長さま大活躍である。本書の記述をまるごと信じるのは危険かもしれないが、男寵の影響力を一切無視した歴史記述にも問題があると思った。

 第7巻の巻末では、近衛帝崩御の年となる久寿二年(1155)の訪れが予告される。1156年の保元の乱もまもなくのこと。いよいよ世の中は、乱世に向けて坂を転がり出す。不穏な空気を醸し始めたのは、摂関家における藤原忠通・頼長兄弟の確執。一方、鳥羽院の寵妃・美福門院得子は、待賢門院璋子腹の崇徳院を権力の座から遠ざけようと画策する。世の趨勢を見きわめた忠通は得子と結託し、退けられた頼長は、崇徳院に接近する。

 ちなみに、ここまで源氏も平家も、武士はほとんど登場しない。源義家が、あまりの人気ゆえに白河院に厭われ、不遇に追いやられたこと、鳥羽院も源氏を嫌って伊勢平氏を重んじたことが、軽く触れられているくらいだ。しかし、無理やり武士を主人公にするよりも、朝廷人たちの近親間の「好き」「嫌い」が発端というほうが、話は分かりやすい。理想も信念もなくて、しょぼい話だけど。
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贅沢な空間演出/新春の国宝那智瀧図(根津美術館)

2013-01-26 21:46:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 コレクション展『新春の国宝那智瀧図-仏教説話画の名品とともに-』(2013年1月9日~2月11日)

 折りしも「大寒」の東京は、先週末の雪がまだたっぷり消え残っていた。根津美術館のアプローチに雪が積もった風景は、初めて見たが、なかなか素敵だ。



 新春を寿ぐコレクション展は、中世仏教説話画の名品とともに、国宝『那智瀧図』が登場。2009年秋の同館新創記念特別展以来の公開だと思う。うれしい。

 冒頭は『絵過去現在因果経』(鎌倉時代)。かなり長めに開いているので、物語の筋を絵で追うことができる。8巻本の4巻目にあたり、釈迦の出家を描いた巻だそうだ。釈迦(太子)は白服・角髪(みずら)姿で登場。愛馬カンタカをはじめ、馬の描写がかわいい。途中に剃髪する太子の図があるのだが、その後も角髪姿で登場し続けているように思う。後半に、野人のような仙人が三人組で登場し、だんだん増えていく。ドワーフみたいで、これもかわいい。

 「南都眉間寺」の墨書を持つ『羅漢図』2幅(鎌倉時代)は、かなり変わっていると思った。丸顔・太りじしの羅漢たちが、ほとんど余白なく、画面いっぱいに描かれている。調べたら、大和文華館にも同一セットの作品が3幅あって、1999年に展示公開されている。(季刊「美のたより」No.129/PDFファイル)。

 色彩の美しい明兆筆『羅漢図』2幅(南北朝時代)は、安定の定番図様。50幅セットで、うち45幅が東福寺、2幅が根津美術館にあるそうだ。画中に「東福寺」の墨書(印?)あり。右側の画幅の右下隅に落款みたいな文字があったけど読めなかった。

 『天狗草紙絵巻』は、評定の場に集まった天狗たち(仏教の諸派を代表)の名前を面白く眺める。『矢田地蔵縁起絵巻』は、地獄の鬼たちに愛嬌があってかわいい。絵師がいい人だったのかなーと思ったりする。9/11、10/9、11/19など、この日に参詣すると特別のご利益がある地蔵縁日が記されているが、12/24に参詣すると「往生確定」だそうだ。知らなかった!クリスマスイブを祝っている場合じゃないぞ。

 『融通念仏縁起絵巻』は、勧進僧の良鎮が大量に制作した肉筆諸本の一だそうで、真面目に描いているが下手。建物がゆがんでいるし、阿弥陀来迎の聖衆ダンスも変。そこが味わいでもある。それに比べると、『高野大師行状図画』は巧いなーと思う。特に「神泉祈雨事」の条、立ち起こる風を紙垂(しで)のなびき方で表現していたり、画面の縦幅いっぱいに広がった青い水面が波立ち、金色の小蛇を乗せた大蛇(善女竜王)が現れた場面は、美しくて感動した。

 それにしても、第1室に肝腎の『那智瀧図』がないので、あれっ?と思いながら見て進んだ。第2室で驚愕。今回は、この一室をまるごと『那智瀧図』だけの展示に使っているのである。初の試みじゃないだろうか。東博の国宝室みたいだ。邪念なく作品と向き合うことができて、素晴らしい演出だと思った。滝の周囲の岩壁や樹林に、点々と青い飛沫だか水苔だかが流れ下るように散っていて、視線の向きを上下に誘うので、本当に水流が動いているように感じられた。そして、非常に敬虔な気持ちが湧いてきて、画幅の前に礼拝具があっても違和感がないような気がした。『那智瀧図』ファンの皆さんには、ぜひこの贅沢な空間演出を味わってほしい。

 いま根津美術館のトップページでは、『那智瀧図』部分の超拡大図が提供されているが、山上の紅葉がとてもきれいだ。気になるのは右肩に顔を出している「月輪」で、私はどうしても「日輪」に見えてしまう。たぶん熊野→八咫烏→太陽の連想があるためだろう(※以前の記事『春日の風景』)。

 3階、展示室5は「吉祥文様のやきもの」。日本・中国・朝鮮のやきものが並んでいたが、やっぱり「吉祥」という言葉がふさわしいのは中国陶磁である。展示室6は「寿ぎの茶会」。めでたさを表現するには、あまり個性を主張せず、伝統や格式にのっとった安心のデザインが一番。そんな取り合わせだった。
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エアコン故障につき取替え

2013-01-25 22:31:53 | 日常生活


1/15(火)の夜から、突然エアコンの温風が出なくなった。
賃貸マンションなので、不動産屋から大家さんに連絡してもらい、日曜に電気屋さんを呼んだが、室外機(コンプレッサー)の故障で、もう10年経っているので、買い替えなさいとのこと。

その旨、大家さんに連絡してもらい、昨日(1/24)ようやく新しいエアコンが入った。

取り付けには、二人組の男子が来て、2時間弱でサクサク仕事を済ませて帰っていった。やっぱり現場スキルのある職人はカッコいいなー。

コタツと電気ストーブで暮らした10日間はつらかった(泣)。
やっと生き返った気持ち…ありがとう。
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続きは会場で/白隠展(Bunkamuraザ・ミュージアム)

2013-01-24 21:28:04 | 行ったもの(美術館・見仏)
Bunkamuraザ・ミュージアム 『白隠展』(2012年12月22日~2013年2月24日)

 江戸時代中期の禅僧・白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685~1768)が残した大量の書画から、大作を中心に約100点(展示替あり)を厳選。質、量ともに「史上最高の白隠展」を目指した展覧会。

 冒頭に掲げられたのは、長野・龍嶽寺の『隻履達磨』。大きな禿頭、丸々した三白眼の主(達磨)が、異様に小さい手に小さい靴の片方を携えている。山下裕二先生の解説によれば、左右の瞳の位置が著しくずれているという。なるほど、さらに瞳の大きさもずいぶん違う。ぞろりとした長衣をまとい、体を少し傾げて「ぬらり」と現れ出たところは、ちょっと妖怪じみている(ポーズがねずみ男みたいだ)。下絵の線を全然気にしていないのも愉快。

 本展は、白隠が生涯かけて描いたキャラクターを「釈迦」「観音」「達磨」「布袋」「福神」などに分けて、紹介していく。白眉は、円形に配置された「達磨」のセクションだろう。大分・万寿寺の『半身達磨』は「東日本初公開」とあった。そうなんだっけ? この作品、書籍や山下先生の講演で何度も見ていたので、初見とは思えなかった。墨で塗りつぶした漆黒の背景、赤い衣、そして上気した白人のように薄い朱を引いた顔面が、大胆で美しい。その隣りの静岡・清見寺の『半身達磨』は墨画だが、全く迷いがなく(下絵を描いてないのかな?)清冽な作品。83歳の制作だという。

 これらに比べると、白隠が30代、40代に描いた「達磨」には、「上手く描こう」と焦りながら、その顕示欲に忸怩として悩む、神経質で小心な作者の姿が投影されている。そうだよなあ、30~40代なんて、こんなものよ。できないことがたくさんあって当たり前なのだ。小さくまとまった大人になろうとしなかった者だけが、白隠80代みたいな境地に至り得るんじゃないかと思う。

 と思って、ふっと振り返ったところにあったのが『眼一つ達磨』(個人蔵?)。これ、瞬間的に、あ、知っているぞ、と思ったのだが…山下先生の講演か何かで写真を見たのだろうか。ぞっとするようでもあり、可笑しくもある謎の作品。それにしても、この展示スペースの面白さは、どうしても展示ケースのガラスに背後の作品が映り込んでしまうのだが、それが却って効果をあげていたこと。比較的小さな『眼一つ達磨』に向き合っているとき、万寿寺の『半身達磨』の巨大な顔面が、同時に視界に入っていたりするのが面白い。

 キャラクター的には大燈国師も好きだ。人を取って噛みちぎりそうな怖い顔をしている。大徳寺の開山・宗峰妙超のことで、私はこのひとの書跡も好きなのだ。布袋、すたすた坊主、お福さんなど、おなじみの庶民派キャラのほかに、関羽像なども描いているのか。戯画もいろいろ。意味不明なれど『びゃっこらさ』の白狐が私の好みだ。そして、最後の「墨蹟」がまた独特である。

 会場内では、山下先生と俳優の井浦新さんが掛け合いで登場する音声ガイドを借りた。はじめは、どちらも「脚本を読んでいる(読まされている)」感があったが、だんだん乗ってくると、本当に二人で喋っているようで面白かった。

 最後に、この展覧会について、特筆しておきたいことがいくつかある。まず、監修者その1、その2として名前を連ねている芳澤勝弘先生と山下裕二先生。こういう研究者個人の視点を強く打ち出すスタイル、公立の美術館や博物館では難しいのかもしれないけど、私は好きだ。そして、監修者が顔を出す楽しいイベントがたくさん企画されているが、私が気づいたときは、どれも定員に達して締め切っていた。無念。

 デパートの附属施設だから当たり前かもしれないが、連日10:00~19:00、金・土は21:00まで開館というのは、勤め人ばかりでなく、忙しい学生にとっても来やすいと思う。それから、展示ケースの奥行が狭いので、舐めるような至近距離で作品を味わうことができるのも嬉しい。会場の様子は展覧会詳細ページに貼り付けられたYouTube動画で、ほぼ全体像を見ることができる。「隠す」よりも「見せる」ことで人を呼び込むのは、正しい戦略だと思う。ただし『眼一つ達磨』は映していないんだな。あれは会場で驚くほうがいい。こういう周到な配慮も好ましく感じた。では、続きは会場で!
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東都にようこそ/尾張徳川家の至宝(江戸東京博物館)

2013-01-23 22:46:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特別展『尾張徳川家の至宝』(2013年1月2日~2月24日)

 久しぶりに名古屋の徳川美術館を見てきた翌週、そうそう、こっち(東京)も始まっていた、と思って行ってきた。冒頭は、尾張家初代・徳川義直が用いた銀溜白糸縅具足。品のよい拵えである。太刀、采配、弓、馬具、鉄砲の展示が続く。あ、徳川美術館の第1室と同じ構成だな、と思う。石首魚石入蝋色塗刀拵(いしもちいしいりろいろぬりかたなごしらえ)というのが、ドット柄で愛らしかった。

 次は茶道具。まず、伊賀耳付花生の斬新な造形が気に入って、横から見たり、後ろから見たりしてみる。これは、徳川家伝来でなく、名古屋の豪商・岡谷家(岡谷鋼機)からの寄贈品。茶碗では、小ぶりな油滴天目(星建盞)(青がきれい!)と黄天目が好きだ。なぜかめずらしく茶杓も気に入って、しばらく目を離せなかった。

 そして能面・能装束。ここまで徳川美術館そのままじゃないかと思っていたが、次は「香」をテーマに、香炉、香合、香木、華やかな香道具などを展示。たぶん、男性的な武家文化から趣きを変えて、特別出品の『源氏物語絵巻』と『初音の調度』につながりやすくしたのではないかと思う。

 『源氏物語絵巻』は「柏木(三)」と「東屋(二)」が来ているが、私が行った日は、どちらも田中親美による模本だった。これだけ迫真の模本なら、ゆっくり見られて満足。『初音の調度』(家光の娘・千代姫が尾張家に婚嫁する際持参した調度)からは蒔絵貝桶が出ていた。日本蒔絵史上の最高傑作なのか…きれいだと思うけど、いまひとつ価値がよく分からない。

 むしろ、春姫(義直正室)所用の琴(銘・小町)の側面の飾りに息を呑んだ。冊子や扇の精巧なミニチュアが可愛い! 蒔絵の碁盤・将棋盤・双六盤もあった。双六盤は、正倉院御物から19世紀・江戸時代まで、基本的に変わらないんだな。同じく19世紀・江戸時代の毬杖(ぎっちょう)の道具もあった。杖の先には槌でなく網が付いていて、ラクロスのスティックみたいだった。

 最後の書画は、詞書を秀忠が書いた『源氏物語画帖』とか、伝・家康筆『夷図』とか、面白いものもあったが、優品は出し惜しみしている感あり。まあ仕方ないだろう。神谷晴真・楠本雪渓筆『百鳥図』が面白かった。もとになった『百花鳥図』は、清・康煕帝が作成を命じ、雍正帝の時に完成したカラフルな豪華図譜で、乾隆2年(元文2/1737年)に日本に渡来したが、原本は中国に残っていないそうだ。展示品は、幕府所蔵の『百花鳥図』を尾張家で写したものとあった。

 常設展示室の企画展『笑う門には福来る』(2012年12月11日~2013年1月27日)と『浮世絵の中の忠臣蔵-江戸っ子が憧れたヒーロー』(2012年12月11日~2013年1月27日)もついでに見ていく。後者は、歌川国芳の『誠忠義士伝』シリーズ50点(揃)が見られて、嬉しかった。ほんとカッコいいわー。国芳には、より写実的に人物をクローズアップで描いた『誠忠義士肖像』の連作もある。これは今回、展示4点。刊行点数はもう少し多かったと思う。
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奇跡の文庫/古事記1300年 大須観音展(名古屋市博物館)

2013-01-22 23:31:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
名古屋市博物館 特別展『古事記1300年 大須観音展』(2012年12月1日~2013年1月14日)

 最終日(1/14)に参観。玄関前に、ずいぶん人が多いと思ったら、地下の講堂で成人式のイベントが始まるところだった。まあそうだよな、と納得して中に入ったが、展示会場も意外と人が多かった。少なくとも前半は、ひたすら文書資料が続く地味な展示なのに、やっぱり地元の力なのかな。よいことだ。

 展覧会趣旨に云う。――節分や門前町のにぎわいで多くの市民に親しまれている名古屋市中区の大須観音。この大須観音が国宝『古事記』を初めとする古典籍の宝庫「大須文庫」を持つことは、意外と知られていないのではないでしょうか。

 うむ、知らなかった。古事記の最古写本が「真福寺本」であることは、どこかで習ったけど、その真福寺がどこにあるのかは、考えたことがなかった。以前、愛知県岡崎市の真福寺に行くことになって、「真福寺本古事記の?」とわくわくしていたら、全く勘違いだったことがある。実は、「その真福寺」は岐阜県羽島市桑原町大須にあって、現在も「元祖 大須観音」を名乗っている。名古屋の大須観音は、正式名称を北野山真福寺宝生院といい、400年前の慶長17年(1612)、現在地へ移転してきたのだという。

 展示の冒頭「大須観音のはじまり」は、鎌倉時代末期、能信上人による創建と精力的な聖教収集活動が紹介される。能信は武蔵国高幡不動堂の儀海から真言密教の法流を伝授され、高幡からさまざまな聖教を写し持ってきた。西東京人として、こんなところで高幡不動の名前を聞くのは、ちょっと意外。真言密教ってアーカイブズとの親和性が高いんだなあ…。

 東大寺東南院と所縁が深かった二世・信瑜、"貴種"(法親王)三世・任瑜らの努力によって、大須観音(宝生院)には、仏書だけでなく、漢籍、神道書、東大寺文書、さらに往生伝や禅書、仏画など、多様な資料が蓄積されていく。展示には、聞き覚えのある古典籍がキラ星のごとく並んでいた。『日本霊異記』『遊仙窟』『本朝文粋』『将門記』『和名類聚抄』など。奈良時代写の『漢書食貨志』(国宝)も。

 こうして、中世日本の「知」の拠点がつくられていく過程の一例を見ていると、吉見俊哉氏が『大学とは何か』で描いた、写本を求めて旅する中世ヨーロッパの学者たちと本質的には変わらないのかも、と感じられた。

 大須文庫には、貴重な宋刊本(漢籍)もあるが、圧倒的多数は写本である。そして、マイクロフィルムとかデジタルメディアとか、保存・複製技術はいろいろあるけど、やっぱり「写本」最強だろう、と思った。書写者の「念」が、文庫を守っているような気がするのだ。オカルトっぽいけど。そうでなければ、木曽川と長良川の中洲に誕生し、名古屋の稠密な市街地に営まれながら、水難にも火難にも遭わず、今日に伝わってきた奇跡が説明できない。特に、昭和20年の空襲で大須観音の伽藍が街もろとも焼失したときも、耐火建築の文庫だけが残ったという話には、天明の大火で焼け残った京都・冷泉家の御文庫(土蔵)を思い出した。

 注目の『古事記』は第2室にあった。私は、大須本(真福寺本)古事記が最古写本(応安4-5/1371-72年写)と判明するまでの経緯を、今回の展示で初めて詳しく理解した。書写年を発見したのは、尾張藩士・稲葉通邦(1744-1801)である。通邦は、糊綴じの部分に、書写者と思われる賢瑜という人物の名前と年齢のメモ書きを発見する。そして、のちに別の資料の奥書に、賢瑜の年齢と書写年が記されているのを発見し、大須本古事記の書写年を特定したのである。残された通邦の上申書によれば、これが1797-8年頃のことらしい。私は稲葉通邦の名前も、今回初めて知ったのだが、その文化的功績は、『古事記伝』著者の本居宣長以上に称えられてしかるべきじゃないか、と本気で思う。

 通邦は大須本古事記の出版を考えていたが、果たせずに急死してしまう。無念だったろうなあ…。会場で、宣長(1730-1801)の『古事記伝』出版が、1790-1822年という年表を見ながら、宣長は大須本を知らなかったんだろうか?と思ったが、展示図録の解説によれば、1786-7年頃、大須本の写本を取り寄せ(←たぶん通邦から)校合作業を行なった記録があるという。なるほど、ちゃんと『古事記伝』出版前に見ているんだな。ただし、同写本が「日本最古」と確定するのは、明治以降のことだ。なお、大須本古事記は、鴨院文庫(藤原摂関家伝領の文庫)→東大寺東南院を経て、伝わったものと考えられている。

 江戸時代には、『続群書類従』編纂のため、塙保己一が調査に訪れたり、尾張藩寺社奉行所による蔵書整理が行なわれた。昭和初期には、黒板勝美による目録整備がなされた。そして、現在も名古屋大学文学研究科と名古屋市博物館を中心に、調査・整理作業が続けられており、「平成の新発見」が相次いでいるという。

 こういうフィールドワークは、ロバート・キャンベル先生ふうに言えば「研究以前の作業」と見なされる面もあると思う(※東大ホームカミングデイでの講演)。しかし私は、需要な「作業」だと思う。ああ、私が生涯かけて仕事にしたかったのは、こういう作業だったかもしれない、と思った。

 次回はぜひ、庶民の信仰の街・大須観音にも行ってみよう。
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京都~愛知史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く

2013-01-20 21:00:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
■浄教寺(京都市下京区)(再訪)

 前日(2013/1/13)の続き。朝から京都を発って、名古屋に向かう予定にしていたが、その前に、もう一回、寺町四条下ルの浄教寺に寄ってみる。すると、さすがお寺さんは朝が早くて、門が開いていた。境内の車の背後に見える石碑に「内大臣平重盛公之碑」という文字が、なんとか読めた。



 三連休最終日は、京都も名古屋も冷たい雨。名古屋市博物館で『古事記1300年 大須観音展』を見る(これは別稿)。その後、大須観音にお参りすることも考えたが、今回は割愛。

熱田神宮(名古屋市熱田区)

 記憶を探ると、20年くらい前に一度来て以来である。今回は、源頼朝の母・由良御前(大宮司・藤原季範の娘)のゆかりで訪ねてみた。



 宝物館で、新春特別展・創祀千九百年記念『熱田神宮名宝展』(2013年1月1日~29日)を見ていく。刀剣類が多くて、しかも非常に美しい。そうか、ここは草薙の剣がご神体だったな、と迂闊にもようやく気づく。あらためてWikiで「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」について読んでみたら、いろいろ面白かった。結局、現在の所在については諸説あるのかー。

 そして、ますます強まる雨に心くじけそうになりながら、せっかくここまで来たので、神宮前駅から名鉄に乗車、次の訪問予定地へ。

野間大坊(知多郡美浜町)

 名鉄特急で約1時間。知多半島を走る知多新線の終点の1つ手前が野間駅である。ここが平治の乱で敗れた源義朝の終焉の地と伝えられ、大御堂寺(野間大坊)には義朝の墓所が営まれている。駅前はこんな感じ。見事に何もない。



 折りたたみ傘を風に吹きあおられ、枯れた田野を眺めながらトボトボ歩いていくと、10分ほどで、少し人家の密集した集落に着いた。山門の正面が大御堂寺の本堂。左に客殿があり、知多四国八十八ヶ所では、本堂が大御堂寺(50番札所)、客殿が野間大坊(51番札所)とされている。



 また、本堂の右手にあるのが、源義朝公の墓所。多数の小太刀(木刀)が供えられている。奥に小さく見えている立札は「鎌田政家夫妻之墓」。鎌田政家(政清)は義朝の郎党だが、義朝とともに、舅の長田忠致に討たれた。幸若舞に「鎌田」という曲があると知って、また少し調べたくなった。



 知多四国八十八ヶ所の霊場だけあって、ほかにも数組の参拝客が来ていた。客殿で大御堂寺と野間大坊、二ヶ所のご朱印をいただける。これで、私のご朱印帖は、昨年末から、六波羅蜜寺→元八幡宮(鎌倉)→白旗神社(鎌倉)→蓮華王院・三十三間堂→法住寺→熱田神宮→大御堂寺→野間大坊という並び。平家、源氏、院が入り混じって、にぎやかでよろしい。

 なお、客殿の納経所で授与いただける「ぼけ封じ」や「トイレのお札」はともかくとして、「おふろのお札」は買って帰っても、風呂場で暗殺された義朝がチラついて、怖くて張っておけないと思うのだが…どうなの?!

 駅へ戻る途は、雨が上がって、少し歩きやすくなった。濡れた靴も新幹線の中でなんとか乾いたのに、東京に帰ったら大雪でびっくり。
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京都史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く

2013-01-20 12:32:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
 新春の京都で、また「源平ゆかりの地」を巡ってみた。例によって「平安京探偵団」のサイトと京都市歴史資料館の「いしぶみデータベース」のお世話になっている。

■積翠園(しゃくすいえん)

 平重盛の邸宅「小松殿」の庭園と伝えられる「積翠園」。京都国立博物館に向かうバスを、少し手前(北)の馬町の停留所で降りる。かつては、東大路通りに面して東山武田病院(旧:京都専売病院)があり、病院の構内にある庭園を自由に見学することができたらしい(2011年夏頃の記事)。ところが、同院は2011年12月に閉院、2012年夏には解体工事が始まった。跡地にはフォーシーズンズホテル京都が2015年に開業予定だという。そんな超高級ホテルの私有地になってしまったら、客にならない限り、小松殿を偲んで立ち入れないのかしら…。現状はこんな状態↓



蓮華王院(三十三間堂)

 博物館に入ろうと思ったら、向かいの三十三間堂に、朝から晴れ着の女性たちの集団が吸い込まれていく。そうか、今日(1/13)は「通し矢」の日だ!と気づいて、物見高い私もふらふらと三十三間堂へ。「通し矢」の会場とは別に、境内には立ち食いの露店が立ち並ぶ。こんな世話にくだけた三十三間堂は初めて見た。無料公開のお堂の中は、思うように動けないほどの大混雑。壇上の千体仏より拝観者のほうが多い(笑)というのも、見たことのない光景だった。混雑の理由が分かったのは、ご本尊の前あたりに来たとき。お堂の正面に張り出すように特設スペースが設けられており、拝観者は順番に、高僧から柳の枝でお加持の浄水を振りかけてもらうという「楊枝(やなぎ)のお加持」を受けることができるのだ。ありがたや。

■法住寺

 三十三間堂を出ると、すぐそばの法住寺で「本日、大根炊き」の立て看板が目に入ったもので、またふらふらと寄ってしまう。護摩木と大根炊き引換券がセットで700円。阿弥陀堂では後白河法皇の木像(江戸期の模造)が特別公開されていたので、お座敷にあがって年賀のご挨拶を申し上げる。大きなお碗に山盛りの大根炊きは、味の沁みた厚揚げがポイント。後白河さんから「食うて参れ」と勧められているようで、ありがたくいただく。
 


■平家一門邸宅跡

 博物館を出たあと、バスで九条へ南下。「平安京探偵団」の「『平家物語』を読むための平安京図」によれば、九条河原口に平清盛が生涯を終えた盛国邸があったというので、そのあたりに行ってみて往時を偲ぶ。さらに、東寺の西側に平重衡邸があり、八条北側(JR線路のあたり)に重盛邸、頼盛邸、宗盛邸が並んでいたらしいが、見事に何も(後世の顕彰碑すら)ないんだなーと思いながら歩く。

 ところが翌日(1/14)、早々に京都を離れて帰京したあとで、まさにこの日に「平清盛終焉推定地(高倉天皇誕生地)」碑の除幕式があったことを知って、びっくりした。
→歴史と地理な日々(新版):平清盛終焉地碑、除幕目前
→平安京閑話:平清盛終焉地の石碑、の巻

 まあ、また次の機会に訪ねてみる楽しみが増えたと思おう。

■高松神明神社(高松殿遺址)など

 京都駅→京都文化博物館に寄り、すぐそばの「三条東殿遺址」の碑を確かめたあと、烏丸通りを渡って西へ進み、高松神明神社を見つける。もと源高明の邸宅で、保元の乱の際は後白河天皇の本拠地となったところ。西隣りが信西(藤原通憲)邸宅跡でもある。



 烏丸通りに戻って北上。このへんに頼盛、経盛邸があったらしい。清盛の兄弟世代の邸宅は二条~三条へんなのに、息子世代の邸宅は八条に集まっているのが面白いと思う。

 丸太町通りに出ると、京都御苑の南端の九条池に、小さな厳島神社がある。平清盛が母の祇園女御のために祀ったのが始まりとされるが、この所伝はあやしい。

白河北殿白河南殿遺址など

 丸太町通りを岡崎方面へ。鴨川を渡ったあたりが、保元の乱で崇徳上皇方の拠点となった白河北殿である。昨年5月にもこのへんをうろうろしたのだが、京都大学熊野寮の一角に「白河北殿址」の碑があることを知ったので、あらためて見にきた。いちおう寮の構内に入らなくても、丸太町通りから見えるように配慮してくれているのかも知れないが、明らかに放置状態。



 「白河南殿跡」の碑は疎水の南岸にある。桜の季節はきれいだろうな。



 疎水に沿って、東大路通りを渡ると「得長寿院跡」。平忠盛が鳥羽院の御願寺として造営したもの。現存する三十三間堂と同規模の建築であったといわれ、ドラマでは三十三間堂がロケに使われていた。



 このあと、少し南下して、二条通りを東に進み、六勝寺のうち「尊勝寺跡」の碑が京都会館側に、「成勝寺跡」の碑が府立図書館側に、ひっそり立っているのを確認。そろそろ夕闇せまる中を、さらに東に進んで、白河院(藤原北家の別荘、藤原師実から白河天皇に献上された)の旧跡とされるあたりまで歩いた。

 今回の散歩の参考にしたガイドブック『乗る&歩く京都編』には「白河院跡」の碑は載っていなかったので、和風旅館「白河院」の看板が見えてきたところで終了とし、法勝寺のバス停からバスに乗った。あとで調べたら旅館の庭園内に「此附近 白河院址」の碑があるらしい。うーん、見てみたいが、私には高級すぎる…。
→京都寺社案内「白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園」
→和風旅館「京都 白河院」

浄教寺

 すっかり日も暮れてしまったが、最後に四条河原町のホテルから、寺町四条下ルの浄教寺に行ってみた。「平安京探偵団」によれば、平重盛が東山に建立した灯籠堂の後身であるという由緒を持つお寺である。残念ながら山門はもう閉じていた(非公開寺院)。



 四条通りを少し外れるとはいえ、人も車もひっきりなしに行き交う繁華街の中心部。不夜城のような商業ビルのまぶしい照明の間におさまった小さな山門は、絵本「小さいおうち」を思わせ、過疎化の進む地方のお寺を維持していくのとはまた別のご苦労があるだろうな、と思った。
コメント (2)
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