見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

暑苦しさと寒々しさ/ルポ 良心と義務(田中伸尚)

2012-06-30 10:17:47 | 読んだもの(書籍)
○田中伸尚『ルポ 良心と義務:「日の丸・君が代」に抗う人びと』(岩波新書) 岩波書店 2012.4

 国旗国歌法の制定(1999年8月)から13年になるという。もうそんなになるのか…。当時、すでに成人していて、比較的、思想も行動も自由で、安定した職場に身を置いていた自分は、くだらねー法律つくりやがって、くらいにしか考えていなかったのに。本書を読んで、初中等教育の現場は、なんだか大変なことになっているんだなあ、と溜息が出た。

 ただし、それは、「日の丸・君が代」に抵抗している人びとへの共感を意味しない。正直にいうと、「日の丸・君が代」を強制すべく奮闘している学校管理職も、良心や心の自由を盾に抵抗している教員たちも、私にはどちらも滑稽に見えた。無地のソックスが原則のところ、10円玉大のワンポイントを認めるかとか、マフラーをコートの衿の中に入れさせるか、外に巻いてもいいかとか、実にどうでもいいことが、大真面目な議論の種になる。学校とは、そういうところだ。20年以上も前になるが、教員をしていた自分の経験に照らし合わせて、何も変わっていないように感じた。

 私は、かつて教員の職を探していたとき、「毎朝、国旗掲揚があります」という私立学校から内定を貰って、それはちょっと勘弁してくれ、と思って、内定を断った経験がある。だから本書では、就職したあとで、職場に「日の丸・君が代」を持ち込まれて、困惑している教員たちに同情・共感がないわけではない。

 だが、自分の「抵抗」を埋もれさせないために、きちんと不起立を「視認」してほしいと校長に訴えるとか、「処分」されないことを不満とする感覚、それを立派な抵抗の態度として称える著者の感覚になると理解できない。そんなもの、なあなあで済ましておけばいいのに。現実の社会には、本音と建前があるから、建前がいくら息苦しくなっても、隙間を探せば、どんな変わり者でも生きていける、ということを若者たちに教えてあげたほうが、彼らも生きやすくなると思うのだが、それでは駄目なのだろうか。

 竹内洋さんが『革新幻想の戦後史』で皮肉っぽく描いていたけど、教員や進歩的ジャーナリストって、体質的に「使命感を掻き立てるもの」を必要とする人々なのではないかと思う。あと原武史さんの『滝山コミューン1974』に描かれていたように、この問題で、生徒ひとりひとりの良心や個性を尊重すると言っている教員たちの目指す「民主的教育」も、子どもたちにとって「圧力」である点は、あまり変わらないんじゃないかと思う。

 それから、良くも悪くも「日の丸・君が代」特に「日の丸」に対する抵抗感は、この十数年で、ずいぶん薄れてきたと認めざるを得ない。この点で、本書の著者は、どうにも時代の変化を汲み取れていないように感じられた。もちろん、どれだけ少数者であっても、その良心や思想の自由は尊重されなければならないのだが、宗教上の理由から、たとえば慣行的な「お宮参り」や「夏祭り」あるいは「クリスマス」などの押し付けにも、苦悩を抱えている人たちが日本社会の中にいるということを、著者やここに登場する教員たちは、考えたことがあるのだろうか。

 国旗国歌だけを突出した問題と考えるのは戦後日本の特性かもしれないけど、暑苦しさと寒々しさだけが残るルポルタージュだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あきらめる力/0点主義(荒俣宏)

2012-06-28 00:13:29 | 読んだもの(書籍)
○荒俣宏『0点主義:新しい知的生産の技術57』 講談社 2012.5

 「0(ゼロ)点主義」の説明には、このようにある。人生の知力とは、ここぞの場面で相手を空振りさせる「決め球」を磨くことだ。こういう球は、出題者が決めた枠にストライクを投げられるかどうかを判定すれば、ボール、つまり0点にしかならない。ふむ、野茂のフォークボールみたいなのをイメージすればいいのかな。

 荒俣さんの知性のユニークさには全く異論がないが、本書は、その魅力を十分に引き出しているとは言いがたい。特に前半は「0点主義」と言いながら、どこか「損して得取れ」みたいないじましさが感じられる。

 私が著者の真骨頂だと思うのは、「あきらめる力」「見込みのないこだわりを捨てる決断力」について語った章段。「成功したい。お金持ちになりたい。異性にモテたい」という、誰もが叶えたいと思うベスト3を人生の目標から外してしまえと著者は提言する。プライドを捨て、自分の評価を低いほうにおいたほうが楽に生きられるし、学べることが多い。それから、伸びしろの少ない長所に頼るよりも、短所に目を向けることのほうが重要である。これら、私が共感した記述は、全て本書の後半(というか終盤)に一気にあらわれる。

 一般的には「成功したい。お金持ちになりたい。異性にモテたい」という目標を「諦めたフリをする」ことに同意はできても、本気で「諦める」人生に同意できる人は少ないんだろうなあ…。でも、それでは荒俣宏にはなれないのだ。

 終盤には、読書に関してユニークな見解を述べた箇所も、いくつかあった。たとえば、「タイトルに惹かれたり、はじめの2~3行を読んでおもしろいと感じたら、自分にとっていい本である可能性がかなり高い」。読書慣れしていない人には、眉唾に感じられるだろうが、私は経験的に同意できる。

 あと、勉強や読書は、あまり批判的にならないほうがいいという意見。これには、心から同意する。昨今、ものごとを批判的に読んだり見たりすることを評価しすぎではないか。批判を忘れ、素直に感動し、惑溺し、その結果、多少だまされても気にしないくらいの態度が、読書の楽しみには必要なのではないかと思う。

 また「定年退職後に(暇になったら)勉強しよう」では遅い、という高齢者に対して容赦ない叱咤激励も見られた。そのとおり。好きなことを学ぶのに、遠慮などしていてはいけないのである。荒俣さん、「地獄に堕ちてもなお学ぶ」と、求道者のような言明をサラリと書いている。そこは「あきらめない」のだな。見習いたい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く

2012-06-27 06:23:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
六孫王神社(京都市南区)

 源氏三神社をめぐる週末。日曜の午前中に河内の壺井八幡宮を訪ね(※記事)、昼過ぎ、京都駅着。大きな荷物を八条口のロッカーに預け、そのまま線路に沿って西へ歩く。見えてきたのが六孫王神社。清和天皇の六男を父として生まれ、源の姓を賜わった源経基(六孫王)の住居跡と伝えられている。由緒書を読んだら、あ、ここが今昔物語にいう「六の宮」、芥川龍之介の「六の宮の姫君」の舞台でもあるのか。



 授与所にはどなたもいらっしゃらなかったが、封筒が用意されていて「ご朱印をご希望の方は、住所とお名前を書いて300円を入れておいてください。郵送します」とある。ものは試しと思って置いてきたら、今日(火曜日)ちゃんとご朱印が送られてきた。送料込みのつもりで400円置いてきたのだが、律儀に100円分の切手が同封されていて恐縮した。南に下り、九条通からバスに乗る。

若一神社(京都市下京区)

 JRの線路下を潜り、西大路八条で下車。目指すは、平清盛公創建と伝える若一神社(にゃくいちじんじゃ)である。バスを降りると、向かい側の歩道に出張ったあやしい植え込みが目に入って「あれだ」とすぐに分かった。



 ご朱印をいただきながら、お聞きしたこと。この一帯は、太政大臣にのぼった平清盛が営んだ広大な別邸(西八条殿)の旧跡である。羅城門から下関に至る山陽道と、丹波口から山陰地方に至る山陰道のどちらにも近く、交通の要所であった。なるほど、西国経営を基盤とした清盛が、この地を拠点にした意味がよく分かった。それにしても、「源氏祖廟」の多田神社のご朱印と「平清盛公守護社」のご朱印が並んでしまって、大丈夫かな?と苦笑。



 表通り(西大路通)に背を向けて立つ清盛公の石像あり。境内では、おじいちゃんが餡入りヨモギ餅の「清盛餅」を出張販売していた。日曜以外は七条通の湯浅金月堂という和菓子屋さんで売っているそうだ。なお、この周辺、やたら道幅が広いこと、大きな街路樹(しかもプラタナス)が植わっていることなど、かすかに異国的な雰囲気が漂う。続いて、徒歩で北上して七条通で東へ折れる。

■源為義の墓/権現寺(京都市下京区)

 このところ、すっかりお世話になっているサイト「平安京探偵団」の情報。「下京区にある権現寺(下京区朱雀裏畑町)の横には、源為義の墓と伝えられる石塔が建っています」というので、行ってみた。Googleマップで権現寺の位置を確認していたので迷わなかった。七条通から七本松通という脇道を南に曲がると、目隠しの長い塀があった。権現寺が公開寺院でないことも把握していたので、たぶんこれだな、と思ったが、表札も出していない徹底ぶりに戸惑う。

 これは境内に入れてもらえそうにないな、と一瞬涙目。いや待て、表門は別にあるのかも…と思って、塀に沿って、七条通に平行した細い路地に入っていくと、左手の住宅地(権現寺の反対側)の隅にぽっかりと、低い塀に囲われた空き地が現れ、濃紫色のアジサイに彩られた五輪塔が見えた。これか!



 嬉しさと懐かしさのあまり、手を合わせるのも忘れて、何枚も写真を撮ってしまった(すいません!)。この為義墓所(供養塚)の存在は、ずいぶん前に「平安京探偵団」のサイトで知って、何度か訪れる機会はあったのだが、ドラマで為義が斬られるのを見てからお参りしようと思って、敢えて先延ばししていた。そのおかげで、石塔のまわりの紫陽花が最も美しい季節にめぐり合うことになって、よかったと思う。それにしても悲運の為義に似つかわしくないほど、妖艶な紫陽花の洪水だった。どなたか、石塔に手向けてくださった方もいるんだな、としみじみした。

 手前の石柱(明治43年建立)には「六条判官源為義墓」とあり。その隣りに石塔の由緒を記した(と思われる)平たい石碑が建っていたが、近づけなかった。あと…写真をよく見ると、正しい五輪塔ではなくて、丸石が団子みたいに二つ縦に連なっている(!)のがじわじわと可笑しい。

 路地の突き当たりを左に折れて、七条通に戻る。↓写真は七条通(南側)の入口である。こちらから来たほうが分かりやすかった。



 (1)が七条通。向かって左はフードマーケット、右は鮮魚屋さんが新装開店していた。(2)突き当たりが権現寺の小さな正門(閉門)。(3)の位置に為義墓所(供養塚)がある。

 これで今回の史跡散歩の目的は全て達し、いちばん近いバス停(たぶん七条千本)からバスで京都駅に戻り、帰京の途についた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京阪神史跡散歩・源氏の里を訪ねる

2012-06-25 21:33:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
多田神社(兵庫県川西市)

 何度でも書くけど、私は今年の大河ドラマ『平清盛』を面白く見ている。面白いので、いろいろ調べると、知らなかったことを学べる。清和源氏発祥の地に源満仲(多田満仲→坊っちゃんの先祖)が建立したというこの神社も、ドラマの縁で、最近発見したもの。神戸に行く機会があったので、仕事の翌日(土曜日)、寄っていくことにした。

 能勢電鉄の多田駅下車。改札を出て、住宅街の中を道なりに歩く。駅から先は何も道標がないので、少し不安になり始めた頃、堅固な石組みに囲われた高台の森が右手に現れた。急傾斜の石段の正面には、朱塗りの欄干をもつコンクリート製の橋。豊富な水流が、岩床にぶつかって激しく渦巻いている。あとで地図を見て「猪名川」だと知った。歌枕じゃなかったかしら。



 石段を上がり、三門、随神門を潜り、こけら葺き屋根の美しい拝殿に進む。すごく気持ちがいい。たまたまかも知れないが、境内が掃き清められた直後で、白砂の上に木の葉一枚落ちていなかったのだ。



 授与所でご朱印をいただいたが、詰めていたのは巫女さんではなく、全員(3、4人)浅黄の袴の男性神職だった。なんだか清和源氏発祥の地に似つかわしい感じがした。

壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)

 翌日(日曜日)は、さらに行きたいところがあったので、大きな荷物をどこに預ければ効率的に動けるか、綿密に計画を練る。結局、朝、大阪(梅田)駅に荷物を預け、地下鉄→近鉄南大阪線を乗り継いで、上ノ太子駅下車。電車の本数はそれなりにあるが、下りてみると、見事に何もない駅だった。いや、家はあるのだが、ほとんど人が歩いていない。

 それでも要所に「歴史街道」の道標があるのに助けられ、やがて目的地の壺井八幡宮が見えてきた(田んぼの先に石造りの鳥居、右手の森になった高台に石段あり)。多田満仲の四男・源頼信公が河内守に任ぜられ、この地に居住して、河内源氏の祖となった。高台は香呂峰と呼ばれ、清水八幡宮の神霊を遷し祭ったのが、壺井八幡宮である。



 現在は、源頼信・源頼義・源義家を祀る壺井権現社が並んでいる。この日、権現社の社殿前には茅ノ輪くぐりのしつらえがされていたが、両社とも無人で、ご朱印はいただけなかった。

 壺井八幡宮から南下すると、左側に通法寺(河内源氏の菩提寺)跡、源氏館跡の碑、源氏三代の墓所などがあるのだが、これは分かりにくい。私は、だいぶ行き過ぎてから戻ることになった。むしろ南から北上してくるほうが「歴史街道」の道標を見つけやすいのではないかと思う。↓頼義の墓は平地にあるが、



 ↓頼信・義家の墓は竹やぶを登らなければならないため、遥拝で勘弁してもらうことにする。仕事のあとの寄り道のため、足元がローヒールとはいえ、パンプスだったので自重。(すいません)



 もと来た道を戻って、上ノ太子→大阪(梅田)で荷物をピックアップし、源平史跡めぐりは京都編に続く。向かうは「源氏三神社」の最後の一社、六孫王神社である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西国巡礼(2巡目)

2012-06-24 23:47:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
■西国第二十五番 御嶽山播州清水寺(兵庫県加東市)

 二巡目を志した西国巡礼が、なかなか進捗しない。が、諦めたわけではないので、神戸で仕事があったのを幸い、久しぶりに3箇所、まわってきた。せっかく兵庫県まで行ったので、1日2本しかバスの通わない播州清水寺へ。ここには「せんとくん」の籔内佐斗司氏が制作した十二神将像がある。前回は、叱られないかとびくびくしながら数点だけ写真を撮らせていただいたのだが(いちおう神仏像だし)、その後、市販のガイドブックに大きな写真が掲載されているのを見たので、今回は全点しっかり写真を撮っていくことにした。

 大講堂の西国札所ご本尊、金ピカの千手観音坐像は変わらず。ここはいつでもご本尊を拝観できる。新造のご本尊だが、品があって悪くないと思う。根本中堂の秘仏十一面観音は平成29年ご開帳予定なので、あと5年後。

 行きのバスの中でガイドブックを読み直したら、この寺は平氏と所縁が深く(山の中とは言え、播磨だものな)、祇園女御が多宝塔を、後白河法皇が常行三味堂を、池禅尼が薬師堂を建立したと伝えられているそうだ。へえー。この週末は西国巡礼×源平史跡巡りを同時並行の予定だったので、一度に両者を兼ねることができてよかった。

■西国第二十四番 紫雲山中山寺(兵庫県宝塚市)

 相野→宝塚→中山(阪急)。「子授け」「子育て」をご利益とするお寺だけあって、家族連れ・子ども連れの参拝客が多い。毎月18日開扉のご本尊お厨子はピタリ閉じられていたが、善男善女は、そんなことはあまり気にせず拝んでいく。

 レストラン「梵天」で、前回、未練を残した「蓮ご飯」を食べてみた。 

↓ミニうどんとのセット。単品もある。


↓赤い糸の結び目をほどくと、清々しい蓮の香が満ちる。


 このあと、源氏ゆかりの史跡・多田神社(川西市多田院)に寄るのだが、これは別稿とする。

■西国二十二番 補陀洛山総持寺(大阪府茨木市)

 まだ時間があったので、急ぎ、もう1箇所。ここもお厨子は閉まっていた。初午(旧暦)の4月15日より21日まで開扉なんだなー。覚えておこう。

↓境内の池にいた「首だけマーライオン」。違うか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨を忘れる/中世人の花会と茶会(根津美術館)

2012-06-23 22:24:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 コレクション展『中世人の花会と茶会』(2012年6月2日~7月16日)

 『中世人(ちゅうせいびと)の花会(はなのえ)と茶会(ちゃかい)』と読む。ずらりと並んだ同館コレクションの床の間飾りと茶道具。うう、渋い。私は根津嘉一郎(初代)の趣味が、とても好きなのだ。前半は、ほとんど唐物である。青磁、そして古銅。ところどころに掛け物を取り合わせる。室町時代の『柿本人麿像』(めずらしく和物)には青磁、牧谿筆『漁村夕照図』には古銅。横長の画面が、窓から見る実景みたいだ。鞆の浦の対潮楼の眺めを思い出した。頸の根元がきゅっと締まった古銅の花生のプロポーションがいい。古銅とか砂張(銅合金)とか南鐐(銀)とか、ストイックで寡黙な金属が実に美しい。これらに比べたら青磁なんて、まだまだ華やかで饒舌過ぎ。

 それから天目茶碗があらわれる。曜変天目、油滴天目、建盞天目と並べる大サービス。私は、天目茶碗はあまり好きではないのだが、この展覧会用につくられた根津美術館のサイトで、曜変天目の写真を見て、あ、これは綺麗だ、と初めて思った。注をつけておくと、根津美術館のこの茶碗は、一般には曜変天目に数えられないものである。確かに最上級の曜変天目(藤田美術館蔵、MIHO MUSEUM蔵、大徳寺龍光院蔵の3件)に比べると華やかさに欠けるのだが、そこが根津嘉一郎の好みであるように思う。私は、全体に白っぽく(白銀色に)感じられる油滴天目も好きだ。堆朱の天目台とよく似合っていた。取り合わせには、玉澗の『廬山図』の写し。

 青井戸茶碗(銘:柴田)、雨漏茶碗など、高麗茶碗の名品には、伝・蘇顕祖筆『山水図』。茶室には絶対掛けられない巨大な山水図で、その無茶ぶりが面白かった。

 しかし、この展覧会一の見ものである長次郎の赤楽茶碗(銘:無一物)が、展示室1にはない。あれ~どうして~と不審がりながら、次の部屋に進む。展示室2は「利休好み」をテーマに、日本製の道具や、日本で価値を見出された道具が増える。この室の中央に、ぽつりと、単独で展示されていたのが『無一物』だった。小さい。そして、写真(この展覧会のポスター)で見るより、ずっと白っぽい。土から生まれ、すぐにも土に帰りそうに見える。ひどく「野性的」で、光悦の赤楽茶碗とは大違い(どちらも好きだけど)だなあと感じた。

 根来のような朱塗の四角い盆に載った、黄色い獅子香炉(瀬戸焼か!)もかわいかった。月江正印の墨蹟(この展覧会唯一の墨蹟?)、唐銅三具(明代)との取り合わせもよかった。

 さて、1階がこんなに本格的な茶道具展だと、上の階の展示室はどうなっているんだろう、と思って3階にあがった。展示室5は「牧谿(瀟湘八景図巻)を写す」がテーマ。2010年の特別展で見た模本(※詳細)が全面開示されていた。おお、これ、全部見たかったので嬉しい。牧谿筆『瀟湘八景図巻』を徳川吉宗が集めて写させた記録は「徳川実記」に見えるが、これは、さらにその模本と考えられるものだそうだ。とりあえず、裏書からメモ。

(1)山市晴嵐 原本栄川院絵本出所不審
(2)遠浦帰帆 原本栄川院絵本出所不審
(3)遠寺晩鐘[ママ:一般には煙寺晩鐘] 紀州様御所蔵
(4)漁村夕照 松平左京太夫殿所持
(5)平沙落雁 松平又三郎殿所持
(6)江天暮雪 紀州様御所蔵
(7)洞庭秋月 御物
(8)瀟湘夜雨(後補)

 根津美術館が所有する(4)『漁村夕照図』は、この中では、比較的、山の姿がはっきりしていて、メリハリのある作品。個人的には、(6)の雪景色(の原本)が見てみたい。(7)は満月の姿が印象に残って好きだ。…と思ったら、(6)(7)の原本は現存していないんだな。残念。ほかに2件の図巻があって、『雪村倣牧谿瀟湘八景図巻模本』は、雪村が牧谿の別の瀟湘八景図巻(中軸)を写したものを、さらに写し伝えた模本であるという。人物が多くて楽しそうに見えるのは、雪村の個性だろうか。いちおう、八つの異なる画面が並んでいる。狩野常信筆『瀟湘八景図巻』は、牧谿の表現を踏襲しているが、八景を一画面に構成し直すなど、オリジナル要素が強い。

 展示室6は「雨の中の茶の湯」。梅雨の鬱陶しさを忘れる、端正でさわやかな取り合わせだった。

 以上は先週末に見に行ったもの。今週は、仕事上で大きなイベントに関わっていたので、準備→実行→疲労回復のため、しばらくブログ更新を休んでいた。昨日から大阪泊。この機を逃さず、遊びまわりつつ、溜まった記事も書かなくては。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲリラ戦トーク/日本の文脈(内田樹、中沢新一)

2012-06-17 19:48:00 | 読んだもの(書籍)
○内田樹、中沢新一『日本の文脈』 角川書店 2012.1

 2009年4月から2011年5月まで、計7回の対談を収録したもの。最初の対談は、大阪の相愛大学で、釈徹宗さんの司会のもとに行われ、2回目は内田樹さんの勤務校(当時)の神戸女学院大学祭で行われている。平川克美さんが加わっている回もある。公開イベント形式のものと、そうでないものが混じっており、よく読むと、会話の空気に多少の違い(聴衆を意識してサービスしているか否か)があるように思った。

 内田さん、相変わらず対話が巧いなあ。そして、こういう人文科学者が私は大好きだ。内容は、愕然とするほど新しいことを言っているわけではないので、お二人の関係についての紹介を続ける。

 お二人は70年東大入学の同期にもかかわらず、この対談企画が初対面だという。そうとは思えないくらい、対話が噛み合って、楽しそうだった。本書の前見返しと後ろ見返しに、それぞれの近影写真が使われているが、中沢さん、いい顔のおじさんになったなあ、と思った。80年代、『チベットのモーツァルト』でデビューし、若手アカデミシャンの旗手ともてはやされていた頃は、理由のない反感から、読んでみようとしなかったのだが。

 本書は「内向き」「非効率」「国際的でない」など、さかんに批判される「日本的なもの」(その反対が「効率性第一」「アングロサクソン型グローバル資本主義」)こそが、広く深い人類的な視点から見れば「王道」であるということを、手を替え品を替えながら、飽きずに語り続けることがテーマとなっている。

 たとえば、武道や能楽の身体性。交換の始原にある贈与。プリコラージュ(使いまわし)の知恵。高度な文明をもった未開人。正解よりも成熟を目指す学び。もっとくだけた表現では、二人とも自分たちのことを「男でおばさん」と規定する。男性ジェンダーと女性ジェンダーの中間にいたい。あっちもこっちも捨てがたい。そのふらふらした振る舞いが、日本人の本性ではないかという。

 別の箇所で、いまの日本は「女のおばさん」が減っている、という対話もあった。アカデミズムの世界は、特にそうなんだろうなあ。「おじさん」は自分自身が語る言語のローカリティを自覚しない。これに対して、世界なんか相手にせず、ローカルから始めるのが「おばさん」。この点で、フェミニズムは徹底的に「おじさん」的言説である、というのも分かる気がする。

 おばさんの戦いはゲリラ戦である。中沢さんは、恩師の宗教学者・柳川啓一から、宗教学者はゲリラ戦だ、どこへでも首を突っ込むが、ちゃんとした学問の正規軍が来たら引き揚げろ、と教わったという。これも面白かった。宗教学というより、現代の人文科学の役割って、そういうことかもしれない、と思った。

 なので、内田さんが「あとがき」に、中沢新一さんを見ていると、二人で落ち武者スタイルでとぼとぼと夕暮れの田舎道を歩きながら「また負けちゃったね」「でも、まあまた次があるよ」とぼそぼそしゃべっている光景が浮かぶというのに、涙が出るほど笑ってしまった。

 なんだかんだ言われつつも、大学というところには面白いセンセイがいる。文科省は、最近のトピックスを見ていても、世界を牽引するリーダーの養成を目指し、大学教育改革を推進しようと、躍起になっているみたいだけど、私は、文科省の目論見が挫折するよう、お二人みたいなゲリラ部隊に頑張ってほしいと思う。

 最後に気になった箇所のメモを取っておこう。教育とは、教えたいことのある人が「俺の話を聞け」と荒野で呼ばわることから始まった筈だ、というイメージは素敵だと思った。お二人が影響を受けたユダヤ的知性、レヴィナス、レヴィ=ストロースについての素描も興味深かった。どうでもいいような余談だが、毛沢東は『三国志』を読みすぎている、というのは簡潔にして明快。共産党の長征は、わざと苦難の道を選んで地獄めぐりをしている。十億の民を束ねるには、シンプルで雄渾な物語しかありえないからだという。

 それから日本の天皇について、先代(昭和天皇)もすごかったけど、当代もいいですよね、と意見が一致するところ。対談の最後の1回は、東日本大震災以後に行われたもので、内田さんがしみじみと、陛下はきっと宮中で原発事故以来ずっと呪鎮儀礼をしていると思いますよ、と述べている。建前上、近代文明のルールで動いている官僚機構もマスコミも、そんな「野生の思考」はないことにしている状態で、おばさんだけが、天皇の苦労をねぎらい得るのだと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多様な姿/紅型 BINGATA(サントリー美術館)

2012-06-16 22:46:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 沖縄復帰40周年記念『紅型 BINGATA-琉球王朝のいろとかたち-』(2012年6月13日~7月22日)

 紅型(びんがた)とは、沖縄を代表する伝統的な染色技法。琉球王朝時代は王族や貴族の衣装として用いられた。実は、多様な色と形を用いたものがあるのだが、私がすぐにイメージするのは、黄色地に、赤と青(藍)の文様を配した着物である。本展にも、黄色地に鳳凰、蝙蝠などの中国風の吉祥文を描き、赤衿が美しい、琉球国王尚家に伝わる紅型衣裳(国宝)が展示されている。Wikiによれば、黄色は高貴な色で着用出来るのは王族のみと決まっていたそうで、中国文化の影響が感じられる。

 ところが、展覧会に行ってみたら、それだけではない。枝垂桜や雪持笹など、日本の伝統文様も使われているし、小紋や絣に似たパターンもある。色合いも、藍・黒のみでまとめたシックなもの(年配者や下級士族向けで藍方[えーがた]と呼ぶ)、藍にわずかな赤・白を差した愛らしいもの、薄桃色、薄紫など柔らかな印象の中間色もあり、私のイメージと知識の貧困さを思い知らされた。

 途中に紅型の作り方を紹介するビデオコーナーがあって、30分は長いと思いながら、最後まで見てしまった。第二次世界大戦で多くの型紙や道具が焼失したにもかかわらず、技術者の粘り強い努力によって再興されたという。型紙をつくる→型紙を使って防染糊を置く→染める(豪華なものは、暈しの効果を出すなど、何度かに分けて染める)→糊を洗う(白地はこれで終了)→染め出した文様の上に防染糊を置く→地色を染める→糊を洗う、というような手順だった。

 思わず目を丸くしたのは、刃物で型紙を切り出すときの下敷きに、油を塗り、乾燥させた豆腐を使っていたこと。染料を染み込ませる筆は、若い女性の黒髪を細い竹(?)につめて作る。顔料の色止めには豆をすりつぶした豆汁を使っていた。材料も道具も、まわりの豊かな自然から貰っていることが印象的だった。

 ビデオの後半では、筒描き(つつがき)が紹介されていた。防染糊を置く→染めるという手順は紅型と同じだが、型紙を用いず、チューブから防染糊を絞り出すようにして、フリーハンドで文様を描くというもの。ああ、サントリー美術館が赤坂にあった頃、「筒描き」の特集展示を見に行ったことが記憶にある。

 琉球の伝統文化には知識が乏しいので、着物の仕立ての解説も、いろいろ気になった。袖口が切り落とし(耳)になっている方が、折り返して縫い止めてあるものより格が高いとか。紅型の衣装には、丈の長いもの(打掛け)と短いものがある。短いものはドウジンと呼ばれる胴衣で、下にカカンと呼ばれるスカート(裳)を穿く。なるほど、古代的というか、半島・大陸仕様なんだな。素材は、木綿または苧麻(ちょま、カラムシ)が一般的。染めは鮮やかだが、裏が透けるほど薄地で、涼しそうだというのも、近くで見て、はじめて分かった。あ、でも、ちゃんと冬物もあった。

 形染めした布を並べて後ろ身頃にする場合、左右の文様の向きを揃えたものと、線対称に合わせたものとがある。後者は、思わぬダイナミックな文様が出現することがあって、面白かった。

 ちょうど先週、ドラマ『テンペスト』の地上波再放送が終わったところで、画面で見た紅型衣装の数々を思い出しながら、本展を見ることができた。沖縄、また行きたい…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

留学生の街/特集・チャイナタウン神田神保町(雑誌・東京人) 

2012-06-15 22:33:47 | 読んだもの(書籍)
○『東京人』2011年11月号「特集・チャイナタウン神田神保町」 都市出版 2011.11

 神保町の大きな書店で見つけて、実は新刊だと思って買ってしまった。よく見たら半年以上も前の号だったのだが、楽しく読んでいる。

 私は神保町が大好きだ。もちろん理由は「本の町」だから。と思っていたのだが、言われてみれば、神保町には不思議と中華料理屋が多い。そこが、チャイナタウン好きの私の気持ちを落ち着かせるのかもしれない。

 この特集には、中華料理の話とあまり関係のない、川島真さんの「神保町界隈から見る日中関係」(留学生の街=勉学の街である以上に、政治運動の拠点だった神保町)や、森まゆみさんの「海を越えた文化人サロン『内山書店』」など、興味深い読みものもあるが、やっぱり心が留まるのは、勝見洋一さんの「留学生たちの舌の記憶をたどる」などの「味」談義である。

 勝見さんによれば、横浜と神戸は広東人が多く、長崎は福建人が多い。対して、神保町は山東と寧波から来た料理人が多かった。山東人と寧波人という混成部隊のチャイナタウンは、世界でも珍しいのだそうだ。へえー。でも日本文化の伝統とは平仄が合っている感じがする。本稿には、カラー写真つきで、勝見さんが再現した「明治期の寧波料理」「明治~戦前の山東料理」さらに「明治期の満族向け料理」などが紹介されている。

 中国人留学生受入れのルーツを江戸時代に探る、徳川家広さんの「湯島聖堂の、知られざる日中交流」も面白かったが、私は昭和20年代末から40年代半ばにかけて、斯文会(聖堂内にある公益法人)で中華料理の講習会が行われていたというエピソードに反応してしまった。お茶の水女子大学の教員が講師をつとめていたという。「史蹟で火を使っていたわけだから、しまいには文部省に叱られましたけど」って、おおらかな時代だったんだなあ。

 めずらしい古写真満載の一方で、たまに出てくるカラー写真は中華料理ばかり。ああ、あそこね、とすぐ分かるお店ばかりだが、私がもう一度行きたいと思っているのは、咸亨酒店。紹興に実在する居酒屋から名前を取っているが、寧波の家庭料理の味なのだそうだ。美味しかったなー。

※折りしも、神田神保町の公式タウンサイト『ナビブラ神保町』の今月(2012年6月)の特集は「食べ比べ×中華メン」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忤(さから)うなきを宗(むね)となす/ま、いっか。(浅田次郎)

2012-06-14 23:19:39 | 読んだもの(書籍)
○浅田次郎『ま、いっか。』(集英社文庫) 集英社 2012.5

 小説はほとんど読まない。したがって、小説家のエッセイも読まない私だが、浅田次郎氏の『蒼穹の昴』『中原の虹』シリーズは全部読んでいる。余勢を駆って『浅田次郎とめぐる中国の旅』なんて、中国紀行エッセイまで読んでしまった。今回は、ちょっと一息つけるような本を探していて、ベストセラー・コーナーで本書を見つけた。

 2006~07年頃に書かれた雑誌連載を2009年に単行本化し、文庫化された新刊である。ぱらぱら開いてみると、どの回も、書き出しの一文が実に巧い。さすが小説家だなあ…と感心した。たとえば「星を見ながら口笛を吹く癖がある」(星と口笛)。この一文で改行である。そりゃあ、誰だって、次の一文に読み進みたくなるだろう。

 「秋の深まるころ、北京から上海まで列車の旅をした」(夜汽車)。「ニューヨークの常宿はプラザのパーク・ヴューである」(42番街の奇跡)。「初めてネクタイを贈られたのは、まだ十代のころであった」(あなたに首ったけ)。ふむふむ、それで…と、続きを読まずにいられなくなる。最初の一文で読者の首根っこを掴む、手練(てだれ)の技を味わい尽くしたくて、本書を買ってしまった。だから、本当を言うと、内容はどうでもよかった。

 実際、冒頭に集められた話題は、老化と容姿。男の背広。福袋の秘密。義理チョコについて。春のスーツの選び方(著者は、婦人服業界に三十年近くもいて、作家になってからもしばらくブティックを経営していた)。このへんは、読んだ端から忘れていくような内容だった。

 中ほどの章で、著者の祖母が「深川の粋筋の出身」だったことが語られる。へえ、と思っていると、しばらくして、その祖母がまた顔を出す。昭和三十年代前半、著者の祖母は、正月三が日は日本髪を結い、おはぐろをして過ごしたという。博奕打ちだった祖父。妾宅に入り浸って帰ってこなかった父。身なりに厳しかった江戸前の気風。十六歳の家出。終盤に行くほど、さまざまなピースが合わさって、著者の肖像が見えてくる。まるで、よくできた小説みたいに。

 どこか投げやりな「ま、いっか。」のタイトルとは裏腹に、一途に小説家になることだけを目指してきた半生。著者はそれを「花の笑み、鉄の心」とも言い為す。また別の解説は、ネタバレになるが、「文庫版あとがき」にあらわれる。聖徳太子の十七条憲法第一条。「和を以て貴しとなす。忤(さから)うなきを宗(むね)となす」。ああ。私は、この前段のみ印象に強くて、後段を忘れていた。

 「和を以て貴しとなす」は美しい言葉だ。しかし、著者も言うように「誠実さは時にいさかいを招く」。だから、本当に必要なのは、後段なのかもしれない。性急に「和」を実現しようとするのではなくて、諍いを避けるための「ある程度のいいかげんさ」。そこで、著者は「以和為貴」に「ま、いっか。」のルビを振る。震災や原発事故や、格差や貧困問題など、強く正義を求める人の多い今日だからこそ、そこを敢えて「ま、いっか。」とへらへら笑っていよう。鉄の意志をもって。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする