見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

満を持して/蕭白ショック!!(千葉市美術館)

2012-04-30 01:22:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
○千葉市美術館 『蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち』(2012年4月10日~5月20日)

 千葉市美術館の『蕭白』、これはもう「キタ━(゜∀゜)━!!」を使うしかないでしょう、絵文字嫌いなんだけど。2000年に蘆雪、2001年に雪村、2004年に岩佐又兵衛、2010年に若冲と、奇想の系譜を連ねてきた千葉市美術館なればこそ。…と思ったら、同館は、すでに1998年に『江戸の鬼才 曾我蕭白展』という展覧会を開催していることをはじめて知った。そうなのか~。私の場合、2005年、京博の『曾我蕭白 無頼という愉悦』が、この画家を知った最初の体験だった。その後は、ずいぶん追いかけていたので、今回が「首都圏では1998年以来久々の蕭白展」と聞いて、え!と驚いた次第。

 出品数は、蕭白周辺の画家の作品をまじえて全109点。しかし、5/2~ほとんどの展示作品が入れ替わるので、1回で見られるのは、ほぼ半数。うーん、後期も行きたいなあ、行けるかなあ。冒頭「蕭白前史」では、蕭白に先駆けて、復古的かつ個性的な傾向を示した画家を紹介する。高田敬輔(蕭白の師)、大西酔月など、認知していなかった画家を少し覚えた。

 しかし、やっぱり蕭白の個性は隔絶していると思う。芸大蔵の『柳下鬼女図』や、エッチな目つきのおじさん『林和靖図屏風』など、おなじみの名品が来ていた。三重・西蓮寺の『鳥獣人物図押絵貼屏風』は、単純化された輪郭で描いた人物が面白かった。文句なく見とれたのは『月夜山水図襖』(鳥取県立博物館)。なるほど、蕭白って、何度も繰り返し、月夜山水図を描き続けるんだ。

 蕭白というと、私の場合、最初に思い浮かぶのは奇矯な人物画(あるいは人間くさい獅子や龍の顔)なのだが、彼の山水図は素敵だなあ、とあらためて思った。滋賀・近江神宮蔵『楼閣山水図屏風』(琵琶湖文化館で見たなあ)という傑作があることは論を俟たないが、ほかにも様々なタイプの山水図を描いている。滋賀・大角家の『楼閣山水図襖』は、奇想のカケラもないような、平明できっちり構築された山水図。鉄斎堂(お店なのか~)所蔵の『瀟湘八景図屏風』は、広々した余白に、屹立する、しかし、ほわわんと柔らかい山容が描かれている。へえ、これは私の知らなかった蕭白だ。図録の解説を読んだら「今回が初紹介となる屏風」だそうだ。

 既知の蕭白では、三重・継松寺蔵『雪山童子図』。童子の赤い腰布、赤い唇と、樹下の羅刹の青い身体が対比的。樹木から下がるオレンジ色の布(童子の衣か)もなにげに効いている。確か、京博の蕭白展のポスターだか図録の表紙だかに使われていた作品。久しぶりに「円山応挙が、なんぼのもんぢゃ!」の名コピーを思い出した。

 三重県立美術館の『竹林七賢図襖』は、あ~これ、見た見たと、鮮明に記憶がよみがえったのだが、調べてみると、2005年の京博展で見た記録しかない。え、そんなに古い記憶だったのか、と驚く。図録の解説には、七賢のうちの二人が、残る五人と袂を分かち去っていく場面と説明されていた。そうだったのかー。不思議な哀しさと懐かしさの交錯する作品で、私は、右端に遅れてきた一人を、もう一人が迎えに出る場面かと思っていたのに。

 最後に。辻惟雄先生や小林忠先生による記念講演会シリーズ、行き逃してしまった。2010年の若冲展で懲りたのか、往復はがきによる事前申し込み制にしたのは、正しい措置だと思うが、ネット中心の生活をしていると、郵便局に縁がないので、往復はがきを買いに行くって、意外とハードルが高いのである。残念。
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山水長巻の墨の色/毛利家の至宝(サントリー美術館)

2012-04-29 23:11:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 サントリー美術館・東京ミッドタウン5周年記念『毛利家の至宝 大名文化の精粋 国宝・雪舟筆「山水長巻」特別公開』(2012年4月14日~5月27日)

 防府の毛利博物館には、一度だけ行ったことがある。検索したら、このブログを書き始めた2004年の夏に山口県立美術館に行っていて、毛利博物館を訪ねたのは、さらに2年前のことらしい。ただし、このとき見た『山水長巻(四季山水図巻)』は模本だったように思う。2002年には、春に東博で『没後500年 雪舟』展が開かれていて、そこではホンモノを見たはずだ。しかし、実はあまり明確な印象がない。

 本展は「東京圏では10年ぶりに特別公開」がうたわれているので、今度こそちゃんと見よう、と思って、展覧会が始まると早々に出かけた。会場の冒頭には、毛利元就公と類代の肖像。像主の個性が描き分けられていて面白い。それから古風な中世の鎧(腹巻)。落ち着いて始めから見ようと思ったが、やっぱりダメ。『山水長巻』が気になるので、巡路を離脱して奥へ急ぐ。すると、最初の角を曲がってすぐ、第1展示室(4階)のいちばん横長の空間を使って、お目当ての品が展示されていた。およそ16メートル。

 幸い、1、2組のお客しか張りついていなかったので、好きなように行きつ戻りつして眺めることができた。毛利家の殿様はどうやって見たんだろう。こんなふうに座敷の畳に一挙に広げて眺めたのかしら。でも、歩きながら足元を眺めるのでは遠すぎる。座って、いざりながら眺めたのだろうか。

 日本の絵巻は、肩幅くらいに広げて、両手で繰りながら見てゆくものだと聞いたことがある。新たな場面が次々に現れ、また消えていくところに妙味がある。それに比べると、中国(漢画)の画巻は、こうして大きく広げたほうが楽しい。導入のゴツゴツした岩山の山中を行く高士(かな?)の姿を見つけたときには、その先に広がる白い雲海が視界の端に入っている。渓谷を抜けて、岸辺の人なつかしい漁村に到達すると、数歩戻って、人影のなかった山中を振り返ってみたくなる。

 毛利の殿様は、この画巻のどのへんに興味をもっただろう。私は、冒頭の人物が歩んでいる路が、断崖の下の切り込みみたいな路(片側の壁を落としたトンネルみたいな形状)につながっているのを見て「あるあるw」と思ってしまった。日本では、ごく稀にしか見ないが、岩山の多い中国では比較的よくある風景なのだ。

 最初の人物は、閲覧者の視線と同じく、左←右を向いているが、次に登場する人物は、変化をつけて、左→右に歩んでいる。ここは、うねうねと曲がりくねって遠景に消えていく水の流れと呼応して、絵に奥行きを与えていると思う。湖畔(河畔?)の家々は意外と立派だ。屋根が茅葺きでない。瓦屋根とは思えないけど、板葺きだろうか。高い塔が見えるが、屋根が反っていない。中国の寺院建築の屋根が、激しく反りかえり始めるのはいつの時代からなんだろう?

 終盤近く、山間の猫の額ほどの平坦地に、突然、大勢の人々が現れる。女性らしき姿もある。この画巻は、墨筆オンリーでなくて、冒頭から青と緑の淡彩が使われているのだが、この場面ではじめて、数人の衣服と、遠景の木の花(紅葉?)に赤が見える。それから、次第に樹木が少なくなり、城壁が見えはじめ、城壁の外から城市を眺める体の場面が続く。薄墨を流した空。輪郭だけを白抜きで表わした遠景の山。夜なのだろうか。城壁の上にも楼閣も窓にも人の姿がない。

 最後に再び、あの絶壁に穿った路が現れて、画巻は終わる。そう言えば『清明上河図』は、にぎやかな城市の中に入っていくのが見どころだったのに対して、『山水長巻』は、敢えて城市を迂回する気持ちを示しているのかな、と思ったりした。

 それにしても美しい墨色+淡彩である。展示ケースの上に、全巻の写真パネルが掲げられているのだが、現物と比較すると、写真図版の再現力が、まだまだであることを実感する。墨の微妙な濃淡がベタッとした黒インク色になっているし、墨と緑の溶け合った色彩が、黒+緑の「重ね摺り」に分裂してしまっている。残念ながら、図録の写真も同様の印象を否めない。ちなみに、図録収録の山下裕二先生の文章が、画巻の色彩の美しさに触れていて、うれしかった。

 不思議と私の記憶に残っていたのは、2005年に『片岡球子展』で見た「面構え」シリーズの「雪舟」が、似顔絵と一緒に『山水長巻』の一場面を描いており、しかも鮮やかな着彩を用いていたこと。作品を見たとき、さすが片岡球子、勝手なことをするなあ、と思ったのだが、球子は『四季山水図巻』本来の色彩の美しさに反応したのかもしれない、と考え直した。なお、伝・雲谷等顔筆と狩野古信筆の模本があるのだが、特に前者は別物すぎて、微笑ましい。

 さて、再び冒頭に戻る。私は、けっこう文書類が面白かった。現物が読めないので、もっぱら解説を読んでいたのだが「毛利家の几帳面さ」とか「当主の独断でない集団指導体制」とか、なるほどーと納得できる資料がいろいろ出ていた。あと朝鮮との交易に用いられた「通信符」(割印)および「日本国王之印」は、大内氏を経て毛利家に伝わっていたのか。国王印は、金印を亡失したため木印で代用された、という説明に笑ってしまった。いいのか、そんなことで。

 階下の第2、第3展示室では、茶の湯文化、特に井戸茶碗と高麗茶碗に萌える。さらに、サントリー美術館のある東京ミッドタウンが、長州藩毛利家の下屋敷であったという説明を読んで、驚く。そうだったのかー。それじゃあ、東京に勢ぞろいしたお家のお宝を見に、殿様たちの魂魄がそっと集まっているかもしれない。
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腰が軽くて、欲望に正直/中国人の腹のうち(加藤徹)

2012-04-28 14:03:00 | 読んだもの(書籍)
○加藤徹『中国人の腹のうち』(廣済堂新書) 廣済堂あかつき 2011.9

 近ごろ、中国及び中国人の評判が悪い。まあ根本から文化が違うので仕方ないと思うが、タイトルだけで的外れと分かるような、悪意と思い込みに満ちた中国解説本を見かけると、なんだかなあ、と首をかしげたくなる。

 本書の著者は、古典作品から現代風俗にまで通じた気鋭の中国文学研究者(本書の解説)。『京劇』(中公叢書、2002)、『西太后』(中公新書、2005)、『梅蘭芳』(ビジネス社、2009)などの著書は、このブログでもたびたび取り上げてきた私の愛読書である。加藤さんの本なら、嘘はないだろうと思って読み進めた。予想どおりで、大きく裏切られたところはなかった。

 いったん中国人の感覚を「是」として受け入れてみると、日本人の常識を再考する材料ともなる。たとえば「中国人はなぜルールを守らないのか」で、中国人は体面を重視する分、真実は別のところにあると思っているから、という解説がある。政府の発表する重大事件の真犯人、統計の数字、そんなものを中国人は信じていないという。逆に「日本人は、自国の政府を信用しすぎ」。国債赤字でも非正規雇用の問題でも「最終的には『お上』が何とかしてくれるのを期待している。水戸黄門の時代と変わりませんね」と言われると、そうだなあ、と思う。

 「中国人はなぜ他民族に噛みつくのか」は、中国は一つでなければならない、という強固な意識があることから説明される。しばしの分裂状態は許せても、必ず一番力の強い勢力が天下を統一しようとする。だから連邦制の導入はたぶん無理。

 ちなみに中国語の「皇帝」は、世界に一人しか存在してはならないもので(モンゴル人でも満州人でも構わない)、西洋の「エンペラー」とは概念が異なる。ドイツのカイゼルとロシアのツァーリが戦争(第一次世界大戦)をしたのは、利害が衝突したからであって、別に「世界に皇帝は俺一人だ」と争ったわけではない。おお、言われてみれば、そうだ。

 この「誤訳」を確信犯的に行ったのは新井白石だという。白石は「ちょっと国粋主義的な面があって、中国人だけが皇帝を名乗るのはおこがましいと考えて、ヨーロッパのエンペラーをわざと皇帝と訳したんです」という。お~学者って、こういうことをするんだ! 後世に与えた影響は大きいなあ。本書は気楽な座談の雰囲気で書かれているので、詳しい傍証や出典が挙がっていないのが残念だが、いつか納得できる先行研究に出会うまで、気に留めておきたいと思う。

 本書全体を通し、中国はなぜ民主化しないのか、という根本的な疑問に対して、いちばん近い民主国家である日本に魅力がないから、という答えは痛い指摘だと思った。欲望に正直な中国人は、魅力的なものは何でもパクる。新幹線をパクり、ファッションをまね、日本の土地を買いあさる。しかし、日本の選挙政治では、自分たちが選んだ政治家を国民が罵倒し、首相は威厳もカリスマ性もなく、政治は混迷し、国力は弱くなる。中国人は、そんな日本式の民主制をパクりたいとは思わない。

 もちろん中国には、政治的自由の制限を不満に思う人々もいる。しかし彼らは、自由や人権を求めるなら、自分がアメリカに行ってしまえばいい、と考えるのだそうだ。中国人は国家や国籍に対する考え方が、日本人に比べてずっとドライなのである。ああ、たぶん日本人が中国人の行動を「読み間違える」根本は、ここじゃないかなあ、という気がした。

 根底にあるのは、意外かもしれないが、中国人の「腰の軽さ」だそうだ。中国には「人間は動いてこそ生きる。木は動かすと死ぬ」ということわざがあるという。知らなかったので中国語サイトで調べてみた。出典は不明だが、確かに「人動活,樹動死」という言いまわしがあるらしい。中国人は、引っ越し・転職・国籍離脱もフツーのことで、何十年も同じことをやっているやつは、むしろ時流に乗れないバカだと考えるので、今も昔も「老舗」が育たないのだそうだ。

 笑ってしまった。そうだな、中国=悠久の歴史は正しいけど、彼らは、日本人がイメージするほど、途切れない伝統を重んじる国民じゃないんだよな、確かに。そのときどきで売りものとなる「歴史」を復活させているだけなのだ。

※参考※ 

京劇城
著者が運営する京劇情報サイト。いつもお世話になっています。

明清楽資料庫
わりと最近、訪ねあてた。カラオケが主だが、一部、著者の美声も聞ける。
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松永安左エ門の遺産/電力と国家(佐高信)

2012-04-28 10:41:43 | 読んだもの(書籍)
○佐高信『電力と国家』(集英社新書) 集英社 2011.10

 東日本大震災から1年経って、ようやく振っ切れたような感じで、関連書を読みあさっている。その何冊目だろうか。カバーの折り返しに「"電力の鬼"松永安左エ門」の名前を見つけて、そうそう、このひとのことが知りたかったんだ、と思い、購入した。

 経済史よりも美術史に関心の深い私は、松永安左エ門(まつなが やすざえもん、1875-1971)という名前より先に、「耳庵」という号のほうを聞き覚えた。耳庵旧蔵の美術品といえば、福岡市美術館所蔵の『五彩魚藻文壺』とか、京博の『釈迦金棺出現図』とか、大井戸茶碗『銘、有楽』とか、志野筒茶碗『銘、橋姫』とか…いや、こんな話は本書には出てこない。

 本書に描かれる松永は、徹底した実業人である。長崎の壱岐の生まれ。きかん気で早熟。福沢諭吉の『学問のすすめ』に感激し、慶応義塾に入る。ここにチラッと出てくる福沢先生がいい。教師に会って、深々とお辞儀をしていた松永の背中をポンポンと叩いて「うちでは教える人に逢ったくらいで、いちいちお辞儀をせんでもいいんだ」と声をかけたのが、股引に尻ッぱしょりの福沢だったという。福沢精神を体現した門人の筆頭は松永である、という著者の言葉は、本書を最後まで読むと、心から納得がいく。

 さて、学校を飛び出してからは、三井呉服店の売り子、日本銀行、石炭販売と転身し、電力事業に出会う。昭和に入り、台頭する革新官僚たちの「電力国有化」論に対し、徹底抗戦するが、昭和13年、「国家総動員法」とともに「電力国家管理法」が成立し、松永は敗れる。それからは、所沢の柳瀬荘、のち小田原に隠棲して、戦中・戦後の10年間、茶道三昧の日を過ごした。そうかー耳庵旧蔵の茶道具は、この「雌伏」の日々の友だったのか…。

 敗戦後、昭和23年に発足した第二次吉田内閣の下、松永は電力再編成審議会の会長に推されて就任する。時に73歳。そして、官僚、右派・左派政党、世論、GHQ、全てを敵にまわし(時には懐柔し)、現在につながる九電力体制をスタートさせる。近年、電力の「地域独占」として批難される「九電力体制」であるが、戦前戦中は国家の手にあった電力を、民間企業に取り戻す目的(それも多くの抵抗を押し切って)で成立したことは、記憶されなければならないだろう。

 「福沢精神」を受け継いだ松永は、大の官僚嫌いだった。国営、国家統制は、出発時点でこそ、効率的で公平な計画が描かれる。しかし、結局は無責任のもとに腐敗し、行き詰まる。時には国家を破滅に導く。「国営の下に役人どもが電気事業をやってもうまくいくはずがないが、さらに肝心なことは、民営でなければ大きな人物が育たない」というのは、アメリカ人の友人が松永に忠告した言葉だというが、私も50年生きて、日本の社会を見てきて、そのとおりだと思う。

 だが、松永が、現在の日本に掃いて捨てるほど湧いて出ている官僚嫌いと違うのは、「官」に媚びないと同時に、「民」にも「私」にも媚びなかったことだと思う。ようやく誕生した九電力体制の経営基盤を固め、日本経済の復興を果たすために、松永は電力料金の引き上げを打ち出す。当然、政府、国会、消費者、産業界から集中砲火を浴びせられるが、孤高の信念をもって、これをやりぬく。「官吏は人間のクズである」と広言した松永だが、電力再編成審議会で「多数決など存在せず」とも言い放っている。

 女遊びも骨董道楽もやった松永だが、「財産は倅および遺族に一切くれてはいかぬ」と遺言し、勲章位階は無論、葬儀も墓碑も戒名も一切不要と言い残して、世を去った。著者は本書の冒頭に「国家の支配する領土や領海の外に公(おおやけ、パブリック)が存在する」と記しているが、福沢や松永は、私企業の自由なエネルギーを信じつつ、この「公」を見据えていた人たちだと思う。

 松永の死後、今日に至る最終章「九電力体制、その驕りと失敗」を読むのはつらい。福島に原発を持ってきたのは、東電副社長だった木川田一隆(1899-1977)だという。木川田は、松永を支えて電力再編を成し遂げた人物で、福島県梁川町の生まれである。昭和40年代、発電用原子炉購入をめぐる政府の動きが活発化し、電力をめぐって、再び官民対立の図式が浮かび上がってきた状況で、木川田は、政府及び官僚に原子力発電のイニシャチブを渡すことを潔しとしなかったのではないか、と著者は推測する。

 木川田は、原子力が「悪魔のような代物」だと認識していたからこそ、いい加減な官の手に任せず、民間企業の責任で管理していこうとしたのではないか、とも言う。しかし、結果だけ見れば、木川田の思いは後継者に伝わらず、東電は、国家との緊張関係を失うことによって、「役所以上の役所」に変質し、このたびの原発事故と引き続く迷走を生み出してしまった。松永は雲の上から、どんな思いで、この電力会社の体たらくを眺めているだろう。

 迷走を抜け出す途はどこにあるのか。著者は最後に、国家対電力(会社)という対立が失われた今、希望があるとすれば、中央対地方という対立構造が見え始めていることではないか、と短く触れている。
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公共財としての鉄道/震災と鉄道(原武史)

2012-04-26 23:19:42 | 読んだもの(書籍)
○原武史『震災と鉄道』(朝日新書) 朝日新聞出版 2011.10

 刊行直後に本書を書店で見たときは、何もそこまで便乗本を出さなくても…と、興ざめな気持ちがした。けれど、佐野眞一さんが『津波と原発』(講談社、2011.6)の巻末で、この未曽有の危機について語ってみたいと思った「二人の男」として、森達也さんと原武史さんを挙げているのを読んで、本書を思い出し、あらためて読んでみようと思って、探した。

 読みながら、どんどん引き込まれていくのを感じた。本書は、近代日本において、鉄道が担って来た「公共」の意味を考え、鉄道を通して日本の進むべき道を再考するという点で、政治思想史を専門とする著者の、本領発揮の1冊と言ってよいのではないかと思う。朝日新聞社のウェブマガジン『WEBRONZA(ウェブロンザ)』に全4回(2011年4月~10月)で集中インタビュー掲載されたものだというから、たぶん全4章は、全4回の構成に基づくのだろう。

 第1章は、まさに3月11日の震災発生の瞬間、著者がJR横浜線の電車に乗っていたこと、車内に1時間閉じ込められ、4時間歩いて帰宅したことから始まる。この日、東京メトロや多くの私鉄が、当日中に順次運転を再開したのに対し、早々と当日の運転再開をあきらめたJR東日本の判断は正しかったのかを、著者は問題とする。比較されるのは、1923年(大正12)9月1日の正午前に発生した関東大震災。このとき、国有鉄道の各線は午後から順次運転を再開した。「すごい!」と唸ったのは、駅に殺到した避難民に対し、無賃乗車を認めたという英断。そうだよな、鉄道って、そうあるべきじゃないのか…。現代日本の社会インフラの劣化が情けなくなった。

 もっと「すごい」話として、1945年4月13日、東京が幾度目かの大空襲を受けたその翌日、まだ「町には一面に轟々と音を立てて火災が空高く噴き上げているのに」、無人の日暮里ホームに入ってきた電車が、ひっそりと発車して行く姿を、吉村昭が目撃している。社会インフラには、華やかな「成果」や「達成」は要らない。しかし、どんなときにも黙々と「平常運転」を保つ努力、それによって得られる安心・安全の尊さが、身に迫るエピソードだと思う。

 それに比べると、このたびの震災の翌日、運転再開した路線に殺到してグリーン車に流れてきた客から、きっちりグリーン料金を徴収したというJR東日本の態度は、腹立たしさを通り越して、気味が悪い。私企業なんだから、規定に従って、営利を追求して何が悪い、と思っているのだろうけど。

 その「気味悪さ」を増幅するのが、被災地の鉄道を語る第2章である。第三セクターの三陸鉄道が、社長自ら前面に立ち、被災直後から復旧に強い意志を示したのに対し、JR東日本は、この際、赤字ローカル線を切り捨てようとしているのではないか、と著者は疑念を表明する。首都圏からの乗客を運ぶ新型新幹線の復旧は急いでも、被災地の交通弱者の不利益は無視。「JR東日本の企業体質は、東京電力と似ているところがあると思います」という著者の言葉に、しみじみ同意せざるを得ない。

 著者によれば、阪急電鉄の小林一三は、1945年6月9日の激しい空襲のあと、10日には宝塚線に乗って梅田に向かい、沿線および梅田駅の被災状況を視察している。同年、広島では、原爆投下から3日後の8月9日には広島電鉄が動き出し、人々を驚かせ、かつ希望を与えている。すごいな。こういう「公」の精神をもった企業人というのが、むかしは、日本のあちこちにいたんだ…。私は、車の免許を持っていないので、基本的に、鉄道にたよらなければ生活ができない。だから、地域に密着したローカル線が、とにかく動いていることのありがたみは、骨身に沁みて分かる。

 もちろん、今日でも健闘を続けるローカル線があること、JRの中でも、在来線の鉄道遺産をうまく活用しているJR九州の例などが、第3章に紹介されている。しかし、全体として、日本の鉄道は、スピード重視、首都圏一極集中の度合いを強めている。そこに本当に国民(住民)の幸せがあるかよりも、「鉄道大国」のメンツ優先。「原発もリニアも、底流にあるのはナショナリズムであることに注意を払わなければなりません」という著者の指摘を、考え過ぎと笑うことはできないと思う。
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理屈は分かる/ルポ賃金差別(竹信三恵子)

2012-04-24 23:52:52 | 読んだもの(書籍)
○竹信三恵子『ルポ賃金差別』(ちくま新書) 筑摩書房 2012.4

 正直、あまり共感しない本だった。それは私が差別の外側にいるせいだろう。いや、私だって、女性だし、中途採用だし、一時期は非正規雇用だったし、公務員に準ずる身分だけど、同年代の「本省採用」との差には、へえ~と驚くことがある。しかし、いちおう正規雇用のカテゴリーに安住している身では、この問題に感度が鈍いと言われても反論できない。

 まず、著者の言い分を聞こう。本書は「差別」を、「人々が他者に対してある社会的カテゴリーをあてはめることで他者の具体的生それ自体を理解する回路を遮断し、他者を忌避・排除する具体的な行為の総体」と定義する。この定義によれば、「時間要員」や「アルバイト」という社会的カテゴリーをあてはめることで、彼らの具体的な労働への理解を遮断し、「家計補助」という架空につくられた特性にもとづいて賃金の上昇を阻止する行為は「賃金差別」と呼ぶことができる。

 パート、派遣、契約などの非正規雇用、あるいは中途採用、再雇用、(女性をターゲットとした)コース別採用など、仕事は同じなのに雇われ方が変わると、「低賃金でもかまわない人たち」というレッテルが貼られ、「競争」も「成果主義」も、この「身分」を是正することはない。そして、今は身分制度によって保護されているかに見える正社員も、現状を放置すれば、会社は必ず安い非正規職員を増やし、正職員を減らしていく。結果的に、労組は弱体化し、正職員の処遇も次第に劣化し、ツケは全ての働き手に及ぶ。同一価値労働同一賃金を原則とする差別是正こそ、早急に行われなければならない。

 理屈は分かる。しかし、本書に載せられた様々なルポルタージュ(京大図書館の時間雇用の男性職員、兼松の女性社員、中国電力の男性社員、等々)を読んでも、あまり共感がわかない。社会人として二十数年、働いてくると、年功を重ねただけの正社員のオジサン(オバサンもあり)より、若くて安月給のパート職員のほうがずっと優秀で、あんたたち立場を代わってくれたら、と思う場面には何度も遭遇した。一方で、(正職員と非正規とを問わず)「私がいなければ」と吼える職員に限って、いや、要らないから、というケースも多かったように思う。なので、実際に自分が、ルポに取り上げられた人たちの同僚だったとしたら、どのくらい共感できただろうか…という点には、疑念を感じてしまう。このへんは、「他者の具体的生それ自体を理解する回路を遮断し」と言っている本書のルポ自体が、被害者<->加害者の紋切り型に終始し、対象者の「具体的生」に全く迫れていない弱さではないかと思う。

 それから、何をもって「同一価値労働」とするかも難しい問題だと思う。生産物が目に見える工場労働と違って、オフィスワークやチームワークを主とする事務労働となると。本書の終盤には「職務評価」の手法が紹介されている。これは、男性の仕事に比べて安く評価されがちな女性の仕事(ケア労働、感情労働)を正当に評価するための試みだというが、これもどうかなあ。感情労働(気配り、配慮、コミュニケーション)を仕事の評価ポイントに据えてしまうと、男女問わず、そうしたことが苦手な若者にとって、「働くこと」の壁がさらに高くなるようで、私はあまり賛成できない。さらに(将来に希望を持たせるという点で)年功賃金制度に一定の意味があることも否めないと思う。

 あと、根本的に「謎」と感じるのは、賃金差別を強いる会社を、なぜ見切らないのかということ。A社が差別的ならB社に移ることを、日本の社会に見込みがないなら、国外を目指すことを考えてもいいのに。一時期、私は本気でそう考えていた。でも、これは、かなり非日本人的な思考かもしれない。社会の公平を目指す取り組みは続けられなければならないのだろうが、私は、不公平を怒るよりも、「上有政策、下有対策」的な割り切りかたのほうが、なんとなく腑に落ちる。
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底抜けの明るさ/『帝都復興史』を読む(松葉一清)

2012-04-22 22:05:45 | 読んだもの(書籍)
○松葉一清『「帝都復興史」を読む』(新潮選書) 新潮社 2012.2

 『帝都復興史』(正式な書名には「付:横濱復興記念史」とあり)は、1923(大正12)年9月の関東大震災発生から、復興事業の完成を祝う1930(昭和5)年3月26日の「帝都復興祭」までの軌跡をまとめた全3巻の刊行物である。1930年5-6月刊行、三千ページを超す大著。いま、WebcatあらためCiNii Booksで検索してみたら、所蔵館は29件(オックスフォード大、南京大を含む)。意外と少ない。大学図書館にはあまり寄贈されなかったのかな。

 本書は、この大著を読み込み、要点を分かりやすく紹介した労作である。『帝都復興史』の記述を、ほかの資料に当たって検証したり、補足したりすることには、あまり注意が払われていないので、注意が必要だ。しかし、そんな必要を感じさせないくらい、『帝都復興史』全3巻の世界は、豊富なネタにあふれている。

 関東大震災は、死者・行方不明者十万人超(東日本大震災の五倍)という大惨事であったにもかかわらず、大衆は、たちまち鎮魂よりも復興の希望に関心を切り替えた。本書の冒頭には、演歌師・添田啞蝉坊がつくった「コノサイソング」が掲げられている。「チンチンドンドン復興院/鐘だ太鼓だ鳴り物入りよ」という、この底抜けの明るさは何なのだろう。誰も「不謹慎だ」とか言わない。

 本書は「復興ビジョンの有無が、大衆心理に大きな影響を及ぼしているのでは」と分析するが、うーん、それだけとは思えない。誤解を恐れずにいえば、民衆の多くが貧乏で、失う家財もなく、命の値段も安く、人権意識などの知恵もなかった時代なんじゃないか、とも思う。

 はじめに「復興ビジョン」の大風呂敷をひろげたのは、帝都復興院の総裁に就任した後藤新平。これを補佐する復興院評議会、復興院参与会も足並みを揃えた。しかし、最上位の帝都復興審議会には、政財界の大物が手ぐすねをひいて待っており、四十億円とも三十五億円ともいわれた後藤プランは四億円台にまで削られてしまった。この政治的攻防を描くのが序盤。

 中盤は、とにかく滑り出した復興事業で、実際に行われたこと。東京の主要道路の愛称「昭和通り」「八重洲通り」などが、このとき公募で決まったものだと知る。でも「大正通り」(いまの靖国通り)とか、使われなくなったものもあるのね。私の大好きな東京の風景、隅田川に架かる橋梁の多くが「復興橋梁」であるというのも初めて知った。篤志家、藤平久太郎が私費を投じて建設した新幸橋の美談も、心に留めておきたい。

 最後は、『帝都復興史』の寄稿者による帝都復興の検証に目を通す。地域の名士(学校長など)の苦労話と助成の要望が多い中で、椎名龍徳なる人物の冷静、的確な追想が取り上げられている。住民が「自分の町を守ろう」という自覚にしたがって協働した地域は類焼をまぬがれたが、自分の家財だけを守ろうとした利己主義者は、東西に逃げ惑って墓穴を掘った、という話が興味深い。浅草の観音堂が類焼をまぬがれたのは「浅草寺が境内に荷物を入れることを禁じたから」というのも、災害時の心得として肝に銘じておきたいと思った。
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仏教史のキーパーソン/解脱上人貞慶(奈良国立博物館)

2012-04-21 20:08:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 御遠忌800年記念特別展『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』(2012年4月7日~5月27日)

 日吉神社の山王祭と京都・原谷苑の桜を目当てに出かけた週末旅行だが、4月15日(日)は奈良をまわって、奈良博の特別展を見てきた。解脱上人貞慶(1155-1213)は、鎌倉時代前期の僧。興福寺で法相教学と律を学び、笠置寺、さらに海住山寺に住した。パネルの紹介を読んだら、おお、藤原通憲(信西)の孫にあたるのか。この血脈、同時代人には、どう思われていたのかなあ。

 貞慶については、名前を聞いたことがある程度の認識だった(黒田俊雄氏の『寺社勢力』は、中世前期、伝統仏教の内部から発した改革運動の一例として貞慶の活動を挙げている)が、周辺には、けっこうビッグネームが多い。明恵上人が春日社に参ったあと、笠置寺に貞慶を訪ねていくと、香気が満ち、「春日明神を連れてきた」と言われた。この説話が『春日権現記絵』第18に絵画化されている。

 貞慶が隠棲した笠置寺は弥勒信仰の聖地で、奈良時代の僧・実忠は、笠置の龍穴から兜率天に至り、十一面観音悔過の修法を学んで、修二会を始めたと言われる。大和文華館所蔵の『笠置曼荼羅図』も見ることができた。この絵に描かれた弥勒磨崖仏(高さ約16メートル)は、元弘元年(1331)の焼討ち(元弘の乱)によって失われ、現在は光背の窪みが確認できる程度だという。笠置には行ったことがないので、大きなパネル写真を興味深く眺めた。

 晩年、貞慶は海住山寺に移住するのだが、自分は弥陀や弥勒の浄土に行くのは無理だと感じるようになり、観音に関心を移した、という説明が面白かった。真面目な人だったんだなあ。ただ、この企画のキャッチコピー「ストイックでアクティブ!」は取ってつけたようで、やめてほしいと思ったが…。『逆修願文草案』だったか、貞慶の自筆を見たが、あまり連綿体でない、平明で理性的(どちらかというと理系っぽい)筆跡だった。

 教科書に載るような有名人ではないが、日本仏教史のキーパーソンのひとりなのだな、ということはよく分かった。この企画、私のような観光客向けというより、寺院関係者への啓蒙の意味も込めているのかな、と思ったりした。でも単なる仏像好きにも満足のいく内容。海住山寺の小柄だがシャープな十一面観音立像、京都・現光寺の十一面観音坐像、その背後に深い森におおわれた海住山寺境内の航空写真を並べた構成がよかった。

※参考:海住山寺Webマガジン:解脱上人特集
情報の充実ぶりがすごい!

 このあと、常設展は「観音特集」の仏画を堪能。兵庫・太山寺の宋風な十一面観音像、いいなあ。奈良・千光寺の千手観音二十八部衆像は、踏み下ろしの千手観音坐像って珍しいと思った。

 さらに京都に出て、京博の特別展も見ていくつもりだったのだが、よく確認したら『陽明文庫名宝展』は4月17日(火)からではないか。え~フライングしてしまった。さらに帰宅したら、京博から封筒が届いていて(友の会会員なので)京都非公開文化財特別公開(4/27~5/6)のチラシが入っていた。法住寺と法性寺、さらに檀王法林寺が公開されるという。うぬぬ、結局、ゴールデンウィークも、また京都に行かざるを得ないか、と喜んだり、ため息をついたり。

【おまけ】博物館の開館前に、はじめてじっくり建物を見に行った「仏教美術資料研究センター」。公開は水・金曜日だけなので、閉まった門扉の外から。明治35年(1902)竣工の奈良県物産陳列所である。


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2012京都・原谷苑の桜(4/14)

2012-04-20 23:45:50 | なごみ写真帖
先週末、思い立って京都に行ってしまった理由のひとつは、柏井壽さんの『ふらり 京都の春』に紹介されていた原谷苑(はらだにえん)の桜が見たかったためである。

4月14日(土)、大津の朝は小雨がパラつき、はっきりしないお天気。う~ん、気持ちをくじかれる。せっかくなら青空の下の桜が見たい。しかし、この天気なら人出が少なくて、チャンスかもしれない。京阪電車で逢坂を越え、地下鉄烏丸線に乗り換えて、北大路で下りる。最盛期は、市バスや送迎バスに乗り切れないこともあるというので、ここからタクシーを使うことにした。今宮神社の前を通り、上り下りのある複雑な地形に入っていくが、山間というほどではなく、両側の住宅は途切れない。鎌倉みたいな感じだ。原谷苑まで1,600円くらい。



開苑は9時。私が到着したのは10時頃だったので、早くもひとまわりして帰る客の姿も見られた。開花状況によって変わるという入苑料は1,500円だった。おじいちゃんが窓口で「昨日は1,300円だったよ」「昨日は平日ですから」とやりとりしてるのが聞こえた。

入口からしばらくは、細い遊歩道の両側に、純白のユキヤナギや黄色いレンギョウが目立ち、桜の苑に来たという実感はすぐに訪れない。しかし、気がつくとピンク色のカーテンに囲繞されている。



東京人は、サクラといえば、ソメイヨシノの、限りなく白に近いピンクを思い描くが、ここ原谷苑でいちばん多いのは、ベニシダレ(紅枝垂れ)桜である。桜色というよりは、紅色。

傘をたたんでも問題ない程度に雨も上がった。広い苑内には、すでに多くの観光客が散らばっていたが、起伏に富んだ地形のため、あまり人の姿が目につかないのはありがたかった。それでも、行きつ戻りつして、1時間くらい歩きまわっていると、だんだん人が増えてきた。茶店で一服。



いつまでいても飽きることはないと思ったが、午後の予定(山王祭)を考えて、同じ経路で戻ることにした。帰りのタクシーの運転手さんはお喋りで、最盛期になると、行き帰りのタクシーが列をなして身動きが取れない状態になること、もう一本の近道は片道車線しかないこと、附近の住民はマイカーで買い物にも行けず大弱りしていること、むかしは知る人ぞ知る名所だったが、最近、観光客が急増していること、などを教えてくれた。ちょっと満開には早かったし、天気も悪かったけど、ちょうどよかったかもしれない。あと、「以前は、原谷苑の紅枝垂れと仁和寺の御室桜は、見ごろが同じだったけれど、最近は、一方が早かったり遅かったりで、予想がつかない」とか。

一生分くらいサクラの写真を撮りまくったので、久しぶりにフォトチャンネルで上げようかと思う。これは後日。

京都市内から、それほど遠ざかった印象のない原谷だが、「原谷 (京都市)」のWiki記事を読むと、古くは「平家の落人伝説」があり、明治初期には「人の住まない山林」であったが、終戦後、引揚者の入植と開拓が行われたという。こんな京都市中心部から至近の土地が「開拓」って…。戦後の日本の都市化って、想像以上に急速に進展したんだなあ、と思った。原谷苑のサイト「原谷苑の歴史」も参照のこと。
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2012日吉大社・山王祭(4/14)

2012-04-18 23:56:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
4月14日は、いよいよ例祭(申の神事)である。午前中は逢坂越えをして京都へ。昼過ぎに坂本に戻ってくる。ちょうど参道の坂を武者行列が、ゆっくり上がってくるところだったが、脇道を通って追い越し、先に西本宮の拝殿に急ぐ。出発を待つ七基の神輿。楼門の内外には、桜のつぼみを挿頭花(かざし)にした駕輿丁(かよちょう)たちがたむろしている。



やがて、侍衆が到着すると、配置につく駕輿丁たち。鎧・烏帽子姿の侍衆だけでなく、衣冠束帯の神主さんも、そぞろ歩いていて、平安末期にまぎれ込んだ気分。神輿は、一基ずつ楼門の外に運び出される。



いったん下ろして、鳳凰や華蔓、鈴の房など、華やかな装飾が、手早く取り付けられる(上下の写真を比べられたし)。四基は担がれて、鳥居を出て下る。



三基はトラックの荷台に乗せられて、出発。



七基とも出発したところで、後を追う。参道に出てみると、先に出た三基は、既に人波のずっと先にあり、ぐんぐん進んで、見えなくなってしまった(このときは、まだ人が担いでいたと思うが、よく分からない)。



途中で、脇道から大型バスが現れて、参道を下って行った。よく見たら、乗っているのは駕輿丁の男衆たち。一足先に、神輿渡御がおこなわれる乗船場に急ぐらしい。二の宮でも、七基の神輿の出発を見送った束帯姿の神主さんたちは、マイクロバスに乗り込んで下って行った。妙に合理的でドライなところが可笑しい。



さて、私はこのあとのスケジュールと地理感覚が、よく把握できていなかったので、とにかく徒歩で神輿を追って坂を下って行ったが、もはや神輿の影も形もなく、人影もまばらになるばかり。JR坂本駅前に着いたところで、タクシー乗り場を見つけた。確かネットで見たパンフレットに「七本柳で船に乗る」と書いてあったことを思い出し、「七本柳まで。お神輿が海に出るところです」とお願いしてみる。運転手さんは「ああ、石川町ね」と(たぶん)違う地名をつぶやいて、連れていってくれた。700円くらいだった。



湖岸に山王鳥居の立つ乗船場では、すでに白装束の駕輿丁たちがスタンバイ。



私がタクシーで乗り付けるとまもなく、トラックに乗った神輿が到着した。軽トラの荷台や助手席にサムライが乗っていても、あまり違和感を感じなくなってしまった。七基の神輿は、全てトラックに乗って、続々と登場。はじめは担ぎ出された四基も、巡行の途中でトラックに積み直されるのである。



湖岸の草原にひとまず下ろされる。



一基ずつ奉安。湖岸と鳥居の間の桟橋で、飛び跳ねて景気をつける。私は、鳥居をくぐった先の平たい台も桟橋の続きかと思ったが、よく見たら、これは湖に浮いている「台船」だった。



前方から3-2-2のフォーメーションで、七基の搭載が終了。役目を終えた駕輿丁のほとんどは台船を下り、代わって、侍衆が乗り込んで、湖岸に向けて、笑顔で扇を掲げる。



リズミカルな太鼓の音が響き始め、左側につけていた小型船が、するすると動き始める。



台船も引っ張られて、ゆっくり湖上に進み出る。



朝のうちの小雨はすっかり上がり、傾き始めた日差しにキラキラと映える金の神輿、金の扇。



沖合に遠ざかっていく台船を、呆然と見送る。太鼓の音だけが、いつまでも風に乗って聞こえてくる。右前方には台船を引っ張る船。左後方には「警固」の旗を立てた、ひとまわり小型の船。



のんびりした釣り人。日常と非日常の交錯。

……

いや、面白かった! 社殿の奥や闇の中で粛々と行われる神事と違って、こんなふうに青天白日の下で行われる「祭り」なら、最初から最後まで見物できて当たり前と思っていたので、いきなり見物人を全て置き去りにして、神輿が湖上に去っていくという結末に(分かっていたけど)あっけに取られてしまったのだ。

帰りは、湖岸に沿った道にバス停「石川町」があって、16時過ぎに大津方面に行くバスがあったので、これに乗った。途中、「唐崎」のバス停を通ると、駐車場でスタンバイしている駕輿丁たちの姿を見た。神輿を積んだ台船は、唐崎神社の沖合で神事を行い(上陸はしないらしい)、17時頃、下坂本の比叡辻若宮港の着船場に戻ってくるのだそうだ。そうかー。次回は渡御を見たあと、逆方向のバスで下坂本方面に出て、還御を待つというのもいいかも。

今回は、下調べ不足で右往左往してしまったが、それなりに面白かった。もう一回くらい、来てみたい。

※余談。Googleマップで探すと、宵宮の「神輿振り」が行われた大政所も、この「神輿渡御」の乗船場も、ストリートビューで見ることができ、ちょっと感動した。
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