見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

称名寺庭園のロウバイ

2012-01-31 22:32:45 | なごみ写真帖
金沢文庫の帰りに。



ロウバイ(蠟梅)は私の大好きな冬の花。見た目もよいが香りもよい。

暖かくなると、すぐに茶色くなってしまう印象があるが、まだ綻びはじめらしく、氷結したレモン水のように透明だった。
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像内のタイムカプセル/仏像からのメッセージ(神奈川県立金沢文庫)

2012-01-30 23:21:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 特別展 興正菩薩叡尊鎌倉下向750周年記念2『仏像からのメッセージ-像内納入品の世界-』(2011年12月9日~2012年2月5日)

 仏舎利、文書、印仏、摺仏など、仏像の像内納入品を通して、中世の人々の精神世界に迫る展覧会。このところ「像内納入品」に着目した展覧会って、ちょっとブームのような感じがする。

 展示品は、運慶作の大威徳明王坐像(神奈川・光明院)など、金沢文庫では「おなじみ」の仏像のほかに、個人蔵・明~清時代の小ぶりな地蔵菩薩坐像。金属製の五臓(?)に糸くず、紐、端布、白い玉石(?)などが、内臓をあらわしているらしい。奈良・西大寺の大黒天立像(鎌倉時代)は、小さな大黒天坐像や弁財天の懸仏を、丁寧に曲物の容器に入れた上で、像内に収めている。大阪・大通寺の阿弥陀如来像(平安~鎌倉時代)には大量の文書。修復のため、頭部を外して、上から覗いたときの写真が添えてあって、肩までびっしり詰まった文書がシュール。文化庁所蔵の阿弥陀如来立像(文永7年)は、さらにシュールで、上半身を取り外すと、団子のように縦三連に積み上げた蓮華の蕾が現れる。ひとつずつ離すと、黒光りする手榴弾か、兵隊さんの水筒に見える。以上は、仏像+像内納入品がセットで展示されていたもの。

 像内納入品だけの展示は、嵯峨釈迦堂の釈迦如来立像の頭部に収められていた宝治2年(1248)の「賢任造像願文及び奉加帳」と錦(?)の袋が出ていた。あまり巧い筆跡でないところに、施主・発願者たちのリアリティを感じた。嵯峨の釈迦如来というと、五臓六腑ばかりが印象的だったけど、こんなものも収められていたのか。

 東京人には親しみ深い高幡不動の本尊(これは展示できないなー)には、大量の文書が収められているそうだ。大部分は山内経之という在地武士が妻子に送った書状で、書状にはびっしりと印仏が捺されている(大黒天の印仏が珍しい)のだが、読みにくい書状を律儀に翻刻してくれているのが嬉しい。「如何にしても酒が買ひたく」なんてあると、つい微笑まれる。

 称名寺の釈迦如来立像、奈良・西大寺の文殊菩薩坐像なども、展示は像内品のみで、パネルの写真と見比べながらしみじみ「本体」のお姿を思い描く。町田の国際版画美術館から摺仏がたくさん来ていた。2010年の企画展『救いのほとけ-観音と地蔵の美術-』で見たもので、あの展覧会は、地味な像内納入品に着目した比較的早い例だったのではないかと思う。

 奉加帳をICチップにして仏像に収めるとか…いまの技術でも十分できそうだけど、実際にやっていたりするのだろうか。でも、すぐに読めなくなるだろうなあ。こういう場合、紙と筆のアナログが最も強い。
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特別な画家/ゴヤ 光と影(国立西洋美術館)

2012-01-29 23:16:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立西洋美術館 『プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影』(2011年10月22日~2012年1月29日)

 この記事は、レポートというより個人的懐旧談。まだ時間があると思っていたら、いろいろと忙しくなって、最終日になってしまった。このまま見過ごそうかとも思ったが、やっぱり行ってよかった。

 私は、1971(昭和46)年、同じ国立西洋美術館で開催された「ゴヤ展」にも行っている。…というか、「美術館で絵画を見る」という最初の体験が、40年前の「ゴヤ展」だったのではないかと思う。小学校の美術班の面々(4~5人)を、休日に上野まで連れていってくれたのは、大好きだった図工(図画工作)の先生だった。わたなべあつこ先生、お元気ですか。検索で得た情報では、「絵画39点、素描55点、版画56点、工芸5点、参考作品1点、計156点」だったという。『着衣のマハ』と『裸のマハ』が来ていたこと、「黒い絵」と呼ばれる作品群の一部があったこと、「戦争の惨禍」「ロス・カプリーチョス」などの版画が大量にあったことは覚えている。

 当時、後援の新聞社が朝刊に連載記事を書いていて、『我が子を食うサトゥルヌス』は、会場に行く前に紙面で見た記憶がある。もしかすると、記事には、実際に出品されない作品も取り上げられていたかもしれない。1971年の展覧会のおかげで、ゴヤは私にとって特別な画家になった。会場で買った『裸のマハ』『着衣のマハ』のポスターを、私は長らく自分の部屋に貼っていた。「新潮美術文庫」の『ゴヤ』は、調べたら1974年刊らしいが、中学生にも買える手頃な画集で、私は手元に置いて、飽きずに眺めた。堀田善衛の『ゴヤ』全4巻が刊行されたのは、1974~77年。こちらは、完結後に大学の図書館で借りて読んだ。図版多数(白黒だが)。見られる限りのゴヤの作品を追いかける作家の執念をすごいと思った。

 90年代に入ってから、ついにプラド美術館に行って、『カルロス4世の家族』『5月3日』『5月4日』などの傑作を見た。しかし、これらの作品に対して、あまりにも親しみ過ぎていて、自分が初見なのかどうかもはっきりしなかった。そんなわけで、40年前の「ゴヤ展」の記憶は、至って曖昧である。

 今回の展覧会は「プラド美術館から出品される傑作『着衣のマハ』を含む25点と、素描40点、版画6点、資料(書簡)1点に、国立西洋美術館などが所蔵する版画51点を加えた計123点」で構成されている。え?これだけ?という感想が先に立ったのは、40年前の展覧会の印象が、いろいろと補強され過ぎているせいかもしれない。

 冒頭に聴覚を失ったあとの有名な肖像画。それから、タピスリーの原画となった明るい風俗画が10点弱。そして『着衣のマハ』。やっぱりいいな~。よくぞ再び日本に来てくれました。絵具の筆捌きの跡が、照明の下でキラキラ光って、サテンの質感を表している。同じコーナーに、小品『魔女たちの飛翔』があった。これは堀田善衛さんの著書で知った作品で、ゴヤにしては「どす黒さ」の薄い、清潔感のある幻想的な作品である。

 肖像画のコーナーでは、さすがに超一級の有名作品は来ていなかったが、カルロス四世単独の肖像、王子を描いた習作(未完成)が来ており、『ホベリャーノスの肖像』は、啓蒙派の官僚を好意的に描いたもので、上述の「新潮美術文庫」に掲載されていたのを覚えている。『レオカディア・ソリーリャ』は、むかしは妻ホセファとされていたものだ。でも、憎々しいゴドイの顔や、色っぽいアルバ公爵夫人の姿がないのが寂しい。ゴヤのおかげで、当時のスペイン宮廷の人々を身近に感じ過ぎである。

 あとは、ほとんど版画で、途中に油絵作品の宗教画が少しあった。これだけ?ではあるが(版画は複製芸術だから、日本でも「ホンモノ」を見る機会がそれなりにある)、ところどころ、プラド美術館所蔵の『素描集』が埋め込まれて展示されていて、これに初めて知る図像があったことは収穫だった。でも、個人的な希望として、ゴヤの生涯を追うときは、最後に(パネルでもいいから)『ボルドーの乳売り娘』がないと、カタルシスを得られなくて困る。

 次は40年後まで待てないだろう。仕事を辞めたら、プラド美術館へゴヤの作品に会いに行きたいと思った。
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思い出の『柳生十兵衛 七番勝負』オンデマンド配信中

2012-01-25 23:47:32 | 見たもの(Webサイト・TV)
○金曜時代劇『柳生十兵衛 七番勝負』(NHKオンデマンド

 久しぶりにNHKオンデマンドのサイトを見に行ったら、一部のコンテンツが無料配信されていた。新規ユーザー獲得のためだろうが、どうせ大した番組はないだろう、と思ってメニューを見たら、2005年放送の『柳生十兵衛 七番勝負』第1回と第2回があがっていた。何?!

 このドラマ、私が、日本の「時代劇」なるもの(含む、大河ドラマ)を面白いと感じた最初の作品なのだ。「日本の」と冠したのは、その前段階として、2000年頃から中国の古装劇にハマっていたためである。日本の時代劇は、いまいち背景が分からない(高校では世界史選択だった)ので、受け付けないんだよなーと思っていたが、このドラマには、知識不足のハンデが吹っ飛ぶくらいの面白さがあった。本当に面白いドラマって、そういうものだと思う。

 時代は、戦国のきな臭さがまだ冷めやらぬ徳川三代将軍・家光の世。寛永10年(1634)、かねて蟄居を命じられていた駿河大納言忠長(家光の同母兄)が、幕命により自害した。これに怨みを含む忠長の家臣たちは、幕府転覆計画を目論む。その中心人物は、忠長の剣術指南役、戸田勘解由。幕府総目付、柳生但馬守宗矩は、息子の十兵衛に勘解由を討つことを命じる。…という設定。(公式ホームページがまだ生きていたのか!嬉しい!!)

 しかし、以前は、この設定が分からなかった。駿河大納言って誰?創作人物?だったし、最終回で謀反組に担がれかかる保科正之公も、誰?という感じだった。昨年の馬鹿馬鹿しい大河ドラマ『江』を呆れながら見ていたおかげで、この三兄弟の関係が理解できるようになっていたのには苦笑。あと、第5回に登場する宮本武蔵も、吉川英治の小説に描かれた青年・武蔵のイメージしかなかったので、とつぜん熊本で白髪の爺さん(サニー千葉さん!)が現れたときは戸惑った。

 というような、あれこれはおいといて、とにかく初見当時も面白かったし、いま見なおしても面白い。無料の1、2回を視聴したあと、たまらず第3回を購入し、結局、4日間で全6回を見てしまった。

 この作品の魅力は、まず、科白の日本語が、折り目正しくて気持ちいい。もちろん当時の言葉そのままだとは思わないが、「時代劇らしさ」にあふれている。それから役者さんの所作がきれい。特に十兵衛役の村上弘明さんには、ほれぼれした。ぐっと腰を落とす剣の構えは、日本独特の様式美を感じさせる。この頃から(?)欧米や中国の映画でもソードアクションが流行り始めるが、飛びかかって、上から覆いかぶさろうとするアクションが主流ではないかと思う。初見当時は、時代劇の「標準」がよく分からなかったので、あまり通ぶったことは言えなかったが、やっぱり、本作の日本語・所作・殺陣の美しさは称賛に値すると、あらためて思った。

 美術もいい仕事をしている。どの回も、室内のしつらえ(床の間の書画、唐物飾り、茶道具など)が、いかにも武家屋敷らしくて素敵だ。あーなるほど水墨画の三幅対ね、とか。第4回で、多田左兵衛の家の床の間に掛けられた拓本に、後代の年号が入っているようにも見えたが、全体の雰囲気がそれらしいので許す。あと、衣装も音楽もロケ映像も題字も…褒め始めると切りがない。

 第2シリーズの『柳生十兵衛 七番勝負~島原の乱』(2006年放送)も面白かったなあ。ネット掲示板では、ずいぶん盛り上がったものだ。第3シリーズ『柳生十兵衛 七番勝負~最後の闘い』(2007年放送)は、期待が大きすぎてハズレの印象が強かったが、いま配信してくれたら、もう1回見てもいい。なつかしい。

  

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地の底から始まる/あんぽん:孫正義伝(佐野眞一)

2012-01-24 01:01:05 | 読んだもの(書籍)
○佐野眞一『あんぽん:孫正義伝』 小学館 2012.1

 いま日本で最も有名な経営者、ソフトバンク代表取締役社長の孫正義の評伝。正義個人の生い立ちを超えて、その父母と兄弟たち、さらに祖父母の生涯を、粘り強い取材で、次々に明らかにしていく。1世紀にわたり、命をかけて玄界灘を往還した人びとの物語。その怒涛の展開、よくも悪くも登場人物の「キャラ立ち」ぶりは、安っぽいドラマのシナリオなど、吹き飛んでしまうほど熱くて濃い。いやもう、孫正義なんて、ぜんぜん常識人じゃないか、と思えてくるほどである。失礼ながら、私は孫正義のお父ちゃん・三憲氏の破天荒ぶりが大好きになってしまった(写真、孫さんに似てるな~)。なお「あんぽん」とは、朝鮮から渡ってきた孫一族が日本で名乗った「安本」姓のこと。

 率直に言って、私は孫正義という人物が好きではない。彼が朝鮮に出自を持つことから「反日」「売国奴」と罵声を浴びせて悦に入っている人々に与する気はないが、一方で、孫に心酔する若者たちも、なんだかなーと思っている。その点では、著者の佐野さんの視角が、いちばん心情的に近い。

 著者はいう。「紙の本は三十年後にはほぼ100パーセントなくなる」という孫の持論を私(佐野)は全面的に認めない。この男は粘土板から羊皮紙を経て活版印刷に至った本の歴史と、それにまつわる先人たちの努力をほとんど顧みることなく、ひたすら技術の進歩だけを盲信している。…身体性が欠けて記号性だけがあふれた世界は、憎悪する相手への呪詛を容易にし、人間関係をぎすぎすさせる結果になるのではないか。全くそのとおりだ。このように、孫が掲げる錦の御旗「情報革命」に対する著者の疑念は、厳しい口調で、本書に繰り返し表明されている。

 しかし、それとは裏腹に、本書に展開するのは、密造酒と豚の糞尿の臭い、炭鉱事故、刃傷沙汰など、過剰な「身体性」の物語である。この落差が、たまらなく面白い。著者は本書を結ぶに当たって、孫の場合、過去への無意識の嫌悪が、未来への驚異的な推力を生み出しているのではないか、と書いているが、孫が「身体性」よりも「情報」「記号」「バーチャルリアリティ」を求める志向性にも、同様の理由が感じられた。

 本書は、もともと「週刊ポスト」2011年1月7日号から3月25日号に連載した第1部と、同7月29日号から9月23日号に連載した第2部からなる。第1部と第2部の間に東日本大震災があり、単なるIT企業経営者だった孫正義が、脱原発と自然再生エネルギー普及の旗振り役に立ち上がるという、実に想定外の(!)変貌があった。この時期にこの人物を取材していた佐野さんに、ジャーナリストとしての「運の強さ」みたいなものを感じてしまった。そして、取材を重ね、孫正義の叔父が、福岡県の山野炭鉱の組夫(今で言う派遣労働者)として働き、ガス爆発事故で命を落としていること、その事故が会社側の対応の遅れにより「人災」と非難されたことを、忘れられた記録の中から暴き出している。

 「爆発したのにヤマ(炭鉱)を早期再開することを考えて、施設関係の電源を切らなかったという話もあった」という郷土史家の話には、3.11の原発事故の風景が、既視感をもって重なる。「脱原発」を先導する孫の臍の緒が、筑豊炭田の「地の底」につながっていると思うと感慨深い。孫自身は、こんな因縁話は好まないかもしれないけど。

 これまで、著者の数ある評伝の中で、私がいちばん好きだったのは、ダイエー創業者の中内功を描いた『カリスマ』である。あの作品も、中内の冷酷さと人情味、天才と老醜が、あまさず描かれていて、魅力的だった。中内の晩年、ダイエーは経営不振に陥り、寂しい最期を迎えたようにWikiには書かれているが、人生の投了が、アップダウンの「アップ」に当たるか「ダウン」で終わるかを、経営者という人種は、あまり気にしないのではないだろうか。たぶん到達点よりも、トータルで面白い(意味のある)人生を送れたかどうかのほうが重要なのだ。孫正義という人物も、まだまだこのあと、走り続け、賭け続けていくのだろう。

 それに対して、極点で、さっと身を引く術を知っているのが、政治家や官僚ではないかと思う。だからだろうか、著者の作品でも、『阿片王』里見甫、小泉純一郎、田中真紀子など、政界人を描いた評伝は、どこか本当のシッポがつかみ切れていない感じがして、読後にストレスが残るのである。
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図録で楽しむ/歌川国芳展(森アーツセンターギャラリー)

2012-01-22 00:56:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
森アーツセンターギャラリー 『没後150年 歌川国芳展』(2011年12月17日~2012年2月12日)

 歌川国芳(1797-1861)の没後150年にあたる2011年を記念して開催される大規模展。大阪展(大阪市立美術館)、静岡展(静岡市美術館)を経て、ついに東京に乗り込んできた。東京展の会場が、六本木の森アーツセンターだと知ったときは、ええ~(客が入るのかな?)と思わないでもなかったが、江戸っ子国芳には似合いかもしれない、と思いなおした。

 それが、先週1/15(日)に行ってみたら、チケット売り場前で20分ほど並ばされた。エレベーターで52階に上がると、会場入口で、若干の入場規制。嫌な予感がしたが、会場に入ると、バーゲンセール会場みたいな大混雑だった。大画面の油絵や書画ならともかく、小さな浮世絵は、他人の肩越しでは鑑賞できない。残念だが、レビューを書く内容もないのだが、見に行ったことだけは記録に留めておこうと思う。

 公式サイトの展覧会趣旨には「代表作はもちろん、これまで未紹介であった傑作、新発見の優品の数々を含む約420点を展観」するとある。なるほど。買ってきた図録(これは秀作!)を眺めていると、長年の国芳ファンである私も初めて見る作品がけっこう入っている。その一方で、ん?アレがないぞ?と思う作品もある。後者は、たとえば『大物之浦海底之図』(平知盛と平氏の武将たちのもとに平家蟹が列をなして伺候する図)、『誠忠義士肖像 中村勘助正辰』(火鉢を投げつけられた赤穂義士のストップモーション)、『百人一首之内 崇徳院』(大河ドラマ『平清盛』で崇徳上皇を演じる俳優・井浦新さんが好きだという作品※記事。私も好き)等々。

 逆に、これは初見(かな?)と思った印象的な作品は『清盛入道布引滝遊覧 悪源太義平霊討難波次郎』。すげー。このめちゃくちゃな迫力。お客さんたちが、思わず画面(ガラス)に指を伸ばして、飛び散る稲妻の迫力をなぞるようにしながら、興奮して会話していた気持ちが分かるように思う。武者絵は、実に発色のよい、美麗な刷り上がりの作品を集めている。大蛇とか大トカゲとか、大猿、大イノシシなどの化け物と組み合っている武者絵が多い。二つ(以上)の肉体の絡みかたが複雑で、一瞬、両者を弁別できないくらいだ。それにしても国芳の描く武者は男前だなー。

 三枚続きの大作版画には、初見かな?と思うものがいくつかあった。あと、役者絵も、ほかのジャンルに比べると、あまり意識して見たことがなかったが、やっぱりいいなあ。役者の顔もいいが、衣装が、色も柄も、その合わせ方も、素晴らしくオシャレ(実際に舞台で使われていた通りなのだとしたら、江戸人のセンスってすごい!)。『五代目市川海老蔵』は肉筆で、顔の部分に紙を貼って描き直してあった。

 以上、図録は絶対のお買い得。でも、何枚かの拡大写真を見ると、実に細かく毛髪の流れやまつ毛、瞳の虹彩まで、色を変えて摺り分けていることが分かるので、それこそ「自炊」して、デジタル画像で心ゆくまで細部を楽しみたくなる。
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「はだか」だらけ/ぬぐ絵画(東京国立近代美術館)

2012-01-21 23:12:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立近代美術館 『ぬぐ絵画-日本のヌード 1880-1945』(2011年11月15日~2012年1月15日)

 展覧会特設サイトを見て、昨年末からこれは行こうと決めていたのに、最終日に駆け込みになってしまった。でも面白かった。

 展覧会の「概要」に言う。…はだかの人物を美術作品として描き表し、それを公の場で鑑賞するという風習は、実はフランス、イタリア経由の「異文化」として、明治の半ば、日本に入って来たものでした。以後、これが定着するまで、はだかと絵画をめぐって、描く人(画家)、見る人(鑑賞者)、取り締まる人(警察)の間に多くのやりとりが生じることになりました。…展示品は、1880年代から1940年代までの油彩作品約100点。会場に入ると、見事なまでに「はだか」だらけで、笑ってしまった。うむ、「はだか」だらけが、どうして可笑しいのかにも、謎が隠れていそうな気がする。

 私は、近代初期の日本人が描いた西洋絵画が大好きなのである。五姓田義松、百武兼行、松岡寿…みんな巧いなあ。工部美術学校生徒が残したコンテ習作を見て、なるほど、こうやって「立体」を把握するのか、ということを知った。原撫松の『裸婦』(壁に映る影をなぞる後ろ向きの裸婦)は色っぽくて素敵。黒田清輝の『野辺』(横たわる裸婦)は乳房も小さく清楚な印象だったんだけど、画家が上にのしかかっているような構図(?)という解説に、ドキリとした。そして『野辺』の裸婦の持つ赤い布が、萬鉄五郎の『裸体美人』の赤い腰巻につながっていくというのも…。

 いちばん驚いたのは熊谷守一の『夜』。熊谷は、東京美術学校の学生だった当時、女性の飛び込み自殺を目撃し、『轢死』を制作。その後も「地面に横たわり、片手を投げ出すはだかの女性」というモチーフは、くり返し熊谷の作品に登場するという。童心だけでない画家だということは知っていたけど、こんな夢魔に魅入られたような絵を描いていたとは知らなくて、ショックだった。

 なお、所蔵作品展「近代日本の美術」(常設展)も、この期間は「はだか」作品を多めに出していた。筋骨隆々とした誇らしげな裸、尖鋭な自意識を感じさせる裸などが並ぶ中で、私の目を引いたのは、禿げ頭の老人を描いた『養身(長養)』と、痩せてしなびた女性の裸を描いた『たそがれ』の二作品。どちらも冷徹な自然主義の目が感じられる。作者は中村不折である。いつも書道美術館で、書家・中村不折には接していたが、そうだ、このひと洋画家だったんだ、とあらためて思った。

 原田直次郎の『騎龍観音』も出ていた(辰年にちなんで? 常設なのかな?)。このロマンチックな絵画と、不折の写生画を見ていると、それぞれの画家の友人であった鴎外と漱石の資質(趣味)の違いを感じざるを得ない。版画のコーナーには、まるまる太った裸の子どもが登場する谷中安規の作品が並べてあった。このひとの、明るいような暗いような、幻想的な版画も大好きだ。もともと内田百を通じて知った画家である。棟方志功の『湧然する女者達々』も好きだ。私は棟方作品は必ずしも好きではないのだが、これはいいわー。と思って、検索してみたら、いろんな人に讃辞を贈られている作品だということを初めて知った。

 展示の冒頭に、寄贈による新収資料として、狩野芳崖『桜下勇駒図』(1884年)など近代最初期の作品が紹介されており、これまで東京国立近代美術館は、「明治40年(1907)文部省美術展覧会(文展)が日本画・洋画・彫塑の総合展を設立」をもって収集の「下限」としていたが、今回はじめて、これより古い作品がコレクションに加わることになったという。これって、けっこう画期的なニュースなんじゃないかと思った。
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西洋古写本もあり/スリップウェアと西洋工芸(日本民藝館)

2012-01-19 22:54:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
日本民藝館 特別展『スリップウェアと西洋工芸』(2012年1月7日~3月25日)

 昨年、横浜そごうの『柳宗悦展』で、とても素敵なスリップウェア(展覧会TOP画像になっている縦縞文様の皿?)を見て、ああ、いいなあと思った。なので、年が明けて、本展が始まるのを楽しみにしていた。

 スリップウェア(Slipware)とは、西洋古陶の一種で、日本民藝館のサイトには「18世紀中頃-19世紀末に実用品として作られた英国陶器」と説明されている。西洋一般ではなく「英国」に限る(実際の展示品にはアメリカやオランダの古陶もあった)ということと、意外と時代が新しいことに驚く。ヨーロッパでは、18~19世紀にもまだこんな陶器が使われていたのだとすれば、中国や日本の磁器が熱狂的に迎えられたことにも納得がいく。東洋の白い磁器への憧れから生まれたといわれるオランダ・デルフト焼きのとろりとした白い器も、どんなにか、目にまぶしかったに違いない。

 一方で、スリップウェアには独特の魅力がある。ちょっと織部焼に似ていないだろうか。これを古田織部に見せたら何ていうかな~と、脳内で妄想していた。スリップというのは、泥漿(でいしょう、水と粘土を適度な濃度に混ぜたもの)状の化粧土のことで、大胆で軽快な、手描きの幾何学文様が多い。ちょうど鷲田清一さんの仕事論(だれのための仕事)を読んでいたので、ああ、こういう皿をつくる仕事は、作家として名前の残らない職人の仕事であっても楽しいだろうなあ、と思った。

 展示品の皿は、どれも大きくて重たそうだった。どう考えても、個人の「取り皿」ではない。大家族分の肉や野菜をテーブル中央に山盛りにするための皿に見える。たまたま民藝館のコレクションがそうなのか、それともスリップウェアの個人皿って、あまりないのかな。小さめのピューター皿(17世紀、オランダ)が出ていたが、錫(ピューター)は、銀に次ぐ高級品だったみたいだし。当時の庶民の食卓風景がよく分からない。

 2階の階段裏の展示ケースには、英国中世(13~16世紀)の壺が並んでいて、私はこれらがスリップウェア以上に気に入った。ちょっと伊賀焼っぽいとも感じた。大展示室で見た大きな壺(フランス、18世紀)も印象的だった。全体を覆う緑釉の剥落具合が水玉模様みたいで、草間彌生を思わせた。

 陶磁器の間には、ガラス瓶や布・革製品、木工品(椅子がたくさん置いてあるのに、座れないのがちょっとストレス)などの西洋工芸品も出ていて、珍しかった。中でも目についたのは、西洋古書である。聖歌の楽譜や聖書の断簡が、まるで古筆切のように、額に入れて、ところどころに飾られている。彩色の写本もあれば、版本もある。版本は紙だったが、彩色写本の素材は、紙ではなくて羊皮紙らしかった。こういうとき、民藝館の展示は、こちゃごちゃした解説がないので、自分の目で確かめなければならない。判断は難しいが、緊張感があって、楽しい。断簡だけではなくて、17世紀のグレゴリオ聖歌の楽譜本(金具つきの白総革装)も飾られている。少し汚れてくたびれた感じが、実際に「使われてきた」歴史を感じさせる。なるほど、西洋古書も「民藝」なんだなーと面白かった。

 特別展示以外では、「祝い」の工芸をテーマとする室に、三春人形や鴻巣人形を展示。新春らしい。奈良絵の文書の女性がしりあがり寿の絵に似ていた。1階の火消し装束の革羽織(西洋工芸の革製品との関連を意識したかな?)も面白かった。

 この日は、入館券購入の際、「今日は西館も御覧いただけます」と言われて、チケットを2枚渡された。おお、そうだったか! 西館、つまり旧柳宗悦邸の定例公開(現在は、展覧会開催中の第2水曜、第2土曜、第3水曜、第3土曜)が始まったのは、いつだったか。私は、かなりたびたび日本民藝館に通っているリピーターだと思うが、今まで一度も公開日に当たらなかったのが不思議である。

 西館(旧柳宗悦邸)の間取りは民藝館のサイトに公開されている。入ってすぐ、思わず声が出てしまったのは、玄関に私の好きな『開通褒斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)』の拓本が飾られていたこと。ホームページの写真(拡大図)の狩猟図(?)の向かい側が拓本だった。

 展示順路は2階から。中央の書斎は写真より狭い感じ。ここには(公開の間)職員が常駐している。机まわりに木喰仏とか飾ってあったかな。書棚にばかり気をとられて、並んでいる本のタイトルを舐めるように眺めてしまった。石田幹之助の『長安の春』があるとか、『ドクトル・ジバコ』があるとか。最上段の和装本は何だろ~とか。1階の食堂は洋間と和室がくっついていて、和室には床の間があり、リーチの山水文大皿が飾ってあった。

 入館前に、西館入館券を記念撮影。撮っておいてよかった。入館するとすぐ、チケットは取り上げられてしまった。


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生産性も自己実現も離れて/だれのための仕事(鷲田清一)

2012-01-18 00:58:03 | 読んだもの(書籍)
○鷲田清一『だれのための仕事:労働vs余暇を超えて』(講談社学術文庫) 講談社 2011.12

 あるべき労働とは何か。この問いは、ほとんど、あるべき人生とは何か、という問いに重なる。この問いをめぐって、精緻で誠実な分析が続いていくのだが、しばらく読み進んでから、かすかな違和感を感じて、原著の刊行年を確認した。1996年刊。当時すでに社会人だった私からすれば「わずか」15年の間に、日本人の「労働」観は、かなり変わってきているのではないか。

 さまざまな時代、さまざまな社会において「労働」と呼ばれてきたものの内実が、本当はずいぶん異なっている、というのは、本書を読んで感じたことだ。産業社会以前の労働。労働者は労働過程の全体を表象し、自分の行うことの意味を理解しながら作業を勧めることができた、と言われている。

 産業社会では、工場の生産装置に従属した、規則的な活動が強いられる。労働者はよけいなことを考えず、機械的に身体を動かすことがよいとされる。過酷な隷属状態である「労働」に対して、自由で豊かな「余暇」という二分的思考法が成立する。だが、これは既にかなり古い労働形態である。現代のオフィスワーカーの場合、労働と余暇は、よくない意味で、ぐちゃぐちゃに入り組んでしまっていると思う。

 労働が生命維持に必要な「労苦」であればこそ、人間には、進んで労働を行い得るようなモチベーションを編み出す必要があった。そこで「勤勉・勤労(インダストリアス)」という美徳が発明・強調され、人びとの中に浸透する中で、二つのことが起こった。ひとつには「自律」という観念の下で、より深い服従強制に主体的に従う心的機制が生まれ、今ひとつは、「仕事/遊び」が「労働/余暇」に置き換えられることにより、どちらも貧困化してしまった。この指摘は、どちらも重かった。

 隅々まで規格化されて「遊び」を失った「労働」にも、「労働」を補完するための「余暇(リクリエーション)」にも満足できなくなった人びとから、にわかに注目を集めているのが「ボランティア」だという。折しも1995年、阪神大震災に際して、多くの人びとが非報酬労働と肉体労働を求めて被災地に向かった。それは「他者の前でだれかとしてその他者にかかわるという、ひさしく労働というものが失っている契機」を求める行為だったのではないか、と著者は説く。

 単純作業に楽しさがないのは、「だれのために」という契機が抜け落ちているためである。仕事の楽しさとは、未来の目的(達成とか報酬とか)ではなく、現在の他者との関係の中で「自分」あるいは「自分を超えたものに自分が開かれているという感情」を確認するところにあるのではないか。…ちょっと要約しすぎかな。著者の言いたいことは分かったような気がしたのだけど。

 本書には、新たに執筆された「補章」が付け加えられており、こっちの方が、最近の「労働をめぐるきびしい状況」に即している分、読みやすい。若年層の多くが「納得のゆく」仕事につけていないという由々しき状況。しかしさ、会社に入ればみな、だれでもできる仕事しかさせてもらえない。本当にそうなんだよな。だれでもできる仕事を工夫しながら丹念にくり返しているうちに、自分流のやり方を見つけ、はじめて、他のひとにはできない仕事が生まれるのだが、「自分にしかできないこと」へのこだわりが強い若者には、「このことがなかなかわかってもらえない」と著者は嘆息する。

 仕事を懸命にすればするほど「他人のおかげ」ということを思い知り、自分の「目的」でなく「限界」に向き合うこと、けれども、そこに「喜び」を感じることができれば、それこそが働き甲斐というものである。私自身は、そろそろ自分自身よりも、部下の働き甲斐に責任を持つ立場になってきた。どうすれば、一般のオフィスワークの中に「他者との関係」を導入し、生産性の追求や自己実現とは違った「働く喜び」を作り出すことができるだろうか。そんなことを思いあぐねながら、本書を読んだ。
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中世の始まり/摂関政治(古瀬奈津子)

2012-01-16 01:21:53 | 読んだもの(書籍)
○古瀬奈津子『摂関政治』(岩波新書:シリーズ日本古代史6) 岩波書店 2011.12

 最近、日本史の中でいちばん苦手だった中世についての本をいくつか読んでいるうち、この「摂関政治」の時代が気になり始めてきた。一般に摂関政治とは「平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態」(Wiki)と考えられている。したがって、良房:摂政の始まり→基経:関白の始まり→兼家・道長による最盛期、というふうに、藤原北家の歴代を追って記述されることが多いのではないかと思う。

 しかし、本書は平安初期から道長登場までを駆け足に語ったあと、藤原道長(966-1028)のつくった政治システムが、摂関政治の「新たな段階」であり、いかに「新しい政治の枠組み」であったかを詳述する。印象的には、私は本書の記述にかなり納得してしまった。要点は、単なる権力集中ではなくて、従来の太政官制度の無効化である。太政官制では太政官を経ることなく天皇に奏上することができない仕組みになっていたが、道長は、太政官をとばして天皇に奏上し、摂政と内覧で物事を決めてしまう画期的な政務方式「奏事」を作り出した。いまの政治家が「官僚主導から政治主導へ」を掲げるのと、目指すところは似ている気がする。清末の光緒帝がおこなった政治改革「戊戌の変法」にも似たところがある。いつの時代、どこの国でも、官僚制って放っておくと硬直化して、新しい枠組みが必要になるんだな…。

 摂関政治のシンボルのように言われる道長であるが、実際に摂政になっていた時期は極めて短く、むしろ太政官の筆頭である左大臣の地位に留まり続けることにより、新しい政治システムを浸透させ、太政官制を骨抜きにした。なんというか、食えない政治家! また、摂関期といえば、華やかな儀式や年中行事が思い浮かぶが、あれも道長が、他の公卿たちに強いた経済的・文化的賦課(わりあて)であったと本書では語られている。

 実は、中世史の本を読みながらぼんやり感じていたことで、本書がぴたりと言い当ててくれたことがある。従来は、摂関政治が衰退して院政が登場すると考えられてきたが、最近の研究では「藤原道長の権力形態が院政へと継承されるのだ」という指摘がされているそうだ。それだよ、と膝を打ちたくなるような記述だった。かつて私が習った日本史では、平安時代は「古代(中古)」に括られており、本書も「シリーズ日本古代史」の最終巻であるのだが、摂関期は中世の前期に含めてもいい気がする。

 本書が、摂関とともに「母后」の政治的重要性を指摘しているのも面白いと思った。「単に皇子を生む存在なのではなく、摂関とは別の政治的機能を有しており、政治の表舞台で活躍していた」という。摂関期の女房文学の隆盛も、この点から見なおさなければならないかもしれない。

 「ひろがりゆく『都市』と『地方』」と「国際関係のなかの摂関政治」の章では、より広い視野で、この時代の政治システムの実態と社会・文化への影響を考える。前者では、人事一般が天皇や公卿によって決められる中で、受領(ずりょう)功については「公卿たちの意見が一致するまで議論が続けられた」というのを面白いと思った。やっぱり名誉より金銭収入が絡むと、トップダウンだけでは決められないんだな。

 後者の章では、唐風文化から国風文化へという従来の認識でなく、国風文化は唐風文化(中国や朝鮮半島の文化)の受容によって生まれ、唐風文化と共存していたことが述べられている。ただし、唐物が高級品であり、漢詩・漢文が公的なものであったことには同意するが、「勅撰和歌集が天皇の治世にとって重要な意味をもつようになるのは院政期なのだろう」という指摘には、ちょっと首を傾げた。そうか? 平安文学研究者は同意するかなー。
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