見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

正義を考える・実践編/レ・ミゼラブル1~4(ユーゴー)

2011-03-31 23:59:44 | 読んだもの(書籍)
○ユーゴー作、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』1~4(岩波文庫) 岩波書店 1987.4-5改版

 久しぶりの投稿だが、震災の影響があったわけでも、年度末で忙しかったわけでもない。ただこの長編小説に没頭していた。幼い頃に読んだ、ほとんど平仮名ばかりの名作文庫にも「ああ無情」は入っていたような気がする。もう少し長じて親しんだのが、小学館の「少年少女世界の名作文学」。さらに印象深いのは、みなもと太郎氏によるマンガ『レ・ミゼラブル』全2巻である(潮出版社、1974年刊行らしいが、私が読んだのは1980年頃か?)。本書を読みながら、みなもと太郎の絵とギャグが、はっきり脳裡によみがえってくるのを何度も感じた。みなもと作品が名作だということもあるけれど、ビジュアルの記憶はかくも強いのだ。

 それにしても、岩波文庫600頁×4巻の大作で、豊島与志雄(1890-1955)の訳って古すぎだろう、と思って、かなり怖気づいていたのだが、読み始めたら、全く「古さ」は感じなかった。Wikiの豊島与志雄の項に「創作家として名は残らなかったが、名訳者として名を残した」とあるのは、的を得た評だと思った。

 子供の頃の読書の記憶が鮮明なのは、とりわけ前半である。銀の食器を盗んでいこうとしたジャン・ヴァルジャンに銀の燭台をも与える愛の権化、ミリエル司教。マドレーヌ市長が超人的な膂力で、馬車の下のフォーシュルヴァン爺さんを救い出す場面。再び囚人となったジャン・ヴァルジャンが、仲間を助けると同時に、軍艦から落ちて行方をくらます場面。そして、孤児コゼットの前に、ある晩、現れる謎の金持ち老人。夜更けの水汲み、重たい桶、買い与えられる立派な人形など、驚きの連続のプロットも、印象的な小道具も、次々に記憶の内側からよみがえってきた。

 後半は、いきなり始まる市街戦など、子供心には全く歴史背景が理解できないところが多かった。あれは、第二共和政時代の1848年に起きた六月蜂起(→まだよく分かっていない)のことだったのか。パリの下水道逃亡シーンは印象的でも、その規模は実感できていなかったし、マリユスを愛し始めたコゼットに対する、父たるジャン・ヴァルジャンの複雑な嫉妬も、たぶん分かっていなかったと思う。だから、後半は、閉まっている鉄門をどうやって出るんだっけ?とか、マリユスはどうして真実を知るんだっけ?とか、記憶が曖昧な箇所が多くて、その分、初読のように展開を楽しめた。

 本書は、さまざまな読み方を許容する懐の深い作品だが、最近の読書つながりで「正義」について考えさせられた点がたびたびあった。貧困のゆえに一切れのパンを盗んだのが発端で19年を牢獄で過ごし、刑を終えても、黄色い旅券によって差別される男。彼を裁く法は「正義」なのか。銀の食器を盗んで捕まったジャン・ヴァルジャンに対し、「それは私が差し上げたものです」と証言し、銀の燭台をも与えるミリエル司教は「嘘」という不正を犯しているのか。過去を捨て、改心して人々の尊敬を得ていたジャン・ヴァルジャンが、人違いで捕まった男のために、真実を名乗り出る必要はあったのか。そのために、寄るべを失った哀れなファンティーヌ(コゼットの母親)は、絶望して死んでしまう。それは独りよがりな「正義」ではないのか。

 見返りを求めず、自分の損になると分かっていても、決然と「正義」を為す行為は、むろん尊い。しかし、私たちは、時に敢然と「不正」を働くことによって、正義(あるいは正義よりも大切なこと)を成し遂げる場合もある。逆に、杓子定規な「正義」や、不確実な根拠に基づく「正義」は、正しい人を破り、社会を損なうことさえある、と小説は語っているように思う。だから、死に際のジャン・ヴァルジャンが、コゼットとマリユスに遺した言葉をじっくり味わいたい。「世の中には、愛し合うということよりほかにはほとんど何もない」と。彼の最期が孤独でなくて、本当によかった。

↓こっちもおすすめ。

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春を待つ九州旅行2011:博多寺町散歩

2011-03-27 22:13:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館のあとは、梅の香りただよう太宰府天満宮に参拝。福岡(博多)に戻る。この日の雨は、昨日より小降りで、町を歩けないこともない。

櫛田神社(博多区上川端町)

博多の氏神・総鎮守。社伝によれば天平宝字元年に建てられたことになっているが、平清盛が日宋貿易の推進のために勧請したとも考えられているそうだ。清盛かあ。博多って、いろんな人物と縁があるのだな。境内には「博多べい」の一部が移築されている。これは、豊臣秀吉が九州征伐で焦土となった博多を復興させるにあたり、焼け石、焼け瓦を厚く塗り込めた土塀を用いたもの。よく考えてみると、すさまじい復興計画である。



道に迷って裏門から入ってしまったので、最後に正面の楼門を出るかたちになったが、楼門の天井に取り付けられているのが「干支恵方盤(えとえほうばん)」。毎年大晦日に矢印を回転させて、新年の恵方を示すのだという。写真は平成23年(2011)の状態。調べたら、今年の恵方は「丙の方位」つまり南南東(より正確には、南微東)らしい。まあ合ってますね。



東長寺(博多区御供所町)

唐から帰国した空海が建立したと伝える。薬師如来像等、6体の仏像を安置する六角堂は毎月28日のみ開扉のため外観のみ。そのかわり、福岡大仏を拝観。製作は昭和63年から4年間という"平成仏"だ。

聖福寺(博多区御供所町)

建久6年(1195)南宋から帰国した栄西が建立した日本最初の禅寺。江戸時代、禅画の仙さんが住職を務めたことでも知られる。雨の境内は静かで、ほとんど人影もない。鎖された山門の横をまわって、仏殿のほうに行ってみようとしたら、近代的な覆い屋が見える。どうやら改修工事中らしい。ああ、それで参拝客もいないのか、と了解したが、裏に抜けられるかしら、と思って、長い土塀に仕切られた細道を進んでいく。すると、左側の門扉に貼り紙が。



え、そうなの? 別にお墓を目指してきたわけではなかったので、しばらく雨の中で佇んでしまった。でもこれも御縁だと思い、傘をたたみ、ゴホゴホいう重たい引き戸を開けてみる。雨に湿った雑草を踏んで、小さなお堂の裏にまわると、仲良く肩を寄せあうように石塔が集まっている。歴代の住職のお墓だろうか。失礼にならないよう、まわりの石塔に黙礼を投げながら、仙和尚の墓にお参りする。



承天寺(じょうてんじ)(博多区博多駅前)

宋人・謝国明が開創。開山は聖一国師、円爾。重文の釈迦三尊像などを有するが、檀家さん以外は方丈に近づくこともできない。わずかに立ち入りを許された庭で「饂飩蕎麦発祥之地」「御饅頭所」の石碑を眺めて帰る。

古代から近世まで、いろいろな時代を行き来する散歩で面白かった。最後に、少し時間があったので、博多駅前のヨドバシカメラに寄り、高性能の懐中電灯を買いたいと思ったが(東京は震災の影響で品切れ続出のため)、ここも品薄で諦める。とりあえず、コンビニで1000mlの牛乳を1本買って、空路で帰京。
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春を待つ九州旅行2011:黄檗―OBAKU (2)(九州国立博物館)

2011-03-27 00:02:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館 黄檗宗大本山萬福寺開創350年記念 九州国立博物館開館5周年記念 特別展『黄檗―OBAKU 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』(2011年3月15日~5月22日)

 後半は、いよいよ京都の万福寺(以下、本文ではこの字を使用)に焦点をあてる第4章「萬福寺の開創と興隆」から。ここで、会場の基調色が赤から黒に変わる。なるほど。入口には、門をあらわす巨大なモックアップを作り、三門(山門)→法堂→斎堂の聯(れん)を入れ子にして掲げる。頭上には、総門の木額「第一義」。どこかで聞いたことがある言葉だと思ったら、時代は遡るが、禅宗に傾倒した上杉謙信が、春日山林泉寺(上杉家の菩提寺)に掲げさせた額も「第一義」だった。

 その「門」を潜ると、こちらに正対して、高い台座から見下ろしているのが、黄金の韋駄天立像。おおお、カッコいい~! 私は、この万福寺の韋駄天立像が大好きなのである。いつもは天王殿(布袋様を祀る)の背面にいらっしゃる(※写真)ので、気づかない人も多いが、私は必ず近寄って拝礼していく。しかし、甲冑や剣の鞘、光背、いつもは見えない台座、翻る天衣など、これでもかというような精緻な細工が施されていることに、あらためて驚嘆した。このマニエリズムは清朝の美学だなあ。あと、会場では見落としたが、今、図録を見て、裾の内側に赤い彩色が残っていることに気づいた。図録の解説によれば、おそらく同じ工房でつくられたと見られる、これと酷似した作が、長崎・聖福寺にあるという。そうなの? 「聖福寺+韋駄天」で画像検索すると、范道生作タイプの剣を横たえて合掌する韋駄天像しか出てこないのだが…。

 韋駄天像の裏に進むと、十八羅漢像の2体。虎を従えたバダラ尊者と赤い衣のスビンダ尊者。照明の効果で、衣の皺がぞくぞくするほど異様な陰影を見せている。そして、いちばん奥には、万福寺禅堂に安置される白衣観音像(初公開)。台座・光背をあわせると総長4.9メートル。よく展示室に入ったなあ。圧巻と言っていいと思うのだが、中心の観音像は、女性的な温容を表現する。豊かな頬、耳、伏し目がちの目元、少し笑みを浮かべた唇など、ちょっと文楽の娘のカシラみたいだ。これらも范道生の作。製法は「脱乾漆」って、天平時代だけじゃないのか、とびっくりする。

 書画では、隠元禅師の墨蹟「黄檗山」に見とれた。のびのびと力強く、バランスがいい。やっぱり書には人柄が表れるのだと思う。思わず声をあげそうになったのは、万福寺蔵『関聖帝君像』の巨幅(清時代)。雲の上にぬっと上半身をあらわしたところは、ほとんど怪獣である。2009~2010年に開催された『道教の美術』展では、東京・大阪・長崎で計4回も通ったにもかかわらず、見逃した作品だ。嬉しい、と思ったが、『黄檗』展の図録を見たら、これと対になる『隻履達磨図』があることを知ってしまった(後期:4/19~展示)。目玉をひんむいた大入道の達磨図。見たい。ほとんど怖いもの見たさである。

 第5章は「黄檗文華」。最後の部屋に、万福寺の飯梆(はんぽう)が下がっている。私は、かいぱん(開梆、魚梆)と呼びならわしているが、中国風の禅寺にはつきものの木の魚。しかし、「夜も目を開けている魚を見習って修業しなさい」という意味だということは、冒頭のパネルで初めて知った。

 後水尾天皇が黄檗禅に帰依していたことも初めて知る。黄檗版大蔵経の初刷禁裏献上本(鉄眼道光が後水尾上皇に献上した)は、滋賀県の正明寺に伝わっている。あ、去年、ご開帳に行った日野の正明寺か…と思い出す。また、隠元禅師の年譜を読んでいたら、23歳の時、普陀山の潮音洞主のもとに参じ、茶頭となる、という記事があったのにも驚いた。中国浙江省・舟山群島の普陀山といえば、日本からの留学僧・慧蕚(えがく)の縁で訪ねたことがあるが、隠元和尚ゆかりの地でもあったとは。いろんな記憶が、意外なかたちでつながって面白かった。

 黄檗宗のふるさと、福州(福建省)は、私にとって未踏の地である。いつか行きたいなあ…。
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春を待つ九州旅行2011:黄檗―OBAKU (1)(九州国立博物館)

2011-03-26 11:37:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館 黄檗宗大本山萬福寺開創350年記念 九州国立博物館開館5周年記念 特別展『黄檗―OBAKU 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』(2011年3月15日~5月22日)

 さて、黄檗展である。隠元禅師倚像前の巡照朝課が終わったあと、入口に戻って、ゆっくり展示を見始めた。入口に設けられた朱塗りのギザギザした透かし窓は、氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)のデザインである。反射的に、万福寺だ!と思ったけど、調べたら、長崎の興福寺のデザイン(※写真)を模したものらしい。その中央に掲げられた明朝体の「黄檗」の、微妙に左右のバランスを崩した文字がオシャレで、いかにもこれから異空間が始まる、という期待感を感じさせる。

 第1章「はじめての黄檗」は、黄檗って何?という人のための入門コーナー。隠元禅師(和尚)の来日、和尚が持ってきた中国文化(いんげん豆、すいか、たけのこ、明朝体、1行20字の原稿用紙など)を紹介する。パネルのイラストが、ものすごくかわいい! 『仏像のひみつ』の挿絵を描かれた川口澄子さんの作品である。中国の版本(というか、黄紙大蔵経?※写真)を模したパネルのデザインもいい。これ、欲しいな~と思ったら、ちゃんと図録に全点収められていて、嬉しかった。黒い防火扉(たぶん)の前に「何か音が聞こえてくるよ!」というパネルがあって、にぎやかな梵唄(ぼんばい)が流れている。思わず、扉の内側で本当に演じられているのではないか、と耳を澄ませてしまった。野菜や普茶料理のサンプルもよくできていて、この展示に対する九博の意気込みがよく分かる第1室である。

 続いて、第2室正面の丸窓には、大きく口を開け、相好を崩した弥勒菩薩(布袋像)が待っている。万福寺の?と思ったら、長崎・聖福寺の布袋様だった。この布袋様に向けて、床に菱形をつないだ一本道が表現されていたが、これも黄檗様式の敷石(龍の背中の鱗をあらわす)を模したもの。芸が細かくて、どんどん嬉しくなる。

 第2章「唐人たちの長崎」は、主に長崎の唐寺(とうでら)の仏像を紹介する。紅殻(べんがら)の赤で統一された円形空間の中央には、興福寺の韋駄天立像。胸の前で剣を水平に横たえて合掌する様式だ。頭上の八角吊り燈籠にも注目。周囲は全て中国・明清様式の仏像に囲まれ、少なくともふだん九州以外で暮らしている人間には、(いい意味で)異様な非日常空間が出現している。興福寺の関帝像、媽祖堂など、現地で遠目に拝観したことはあるのだが、こうして間近に、明るいライトの下で対面すると、その迫力は圧倒的である。こんなに精緻な衣の文様が刻まれ、金箔が残っていたとは。ふくらかな頬、細く釣り上がった目が、中国の近世的「美形」意識を強く感じさせる。あらためて、范道生ってすごい。その范道生に学んだ京仏師・友山の存在は初めて知った。

 崇福寺・釈迦如来像の像内納入品、銀製の内臓模型(初公開)は、パンフレットにも取り上げられていて、私は嵯峨野の清涼寺釈迦如来像の五臓くらいの大きさを想像していたら、ずっと小さい。携帯電話のストラップになりそうなくらい。見逃さないでほしいのは、これも小さな、久留米・福厳寺の誕生仏および灌仏盤。腹がけ(?)をした芥子坊主みたいな誕生仏である。

 続く狭い通路のようなところから、第3章「隠元渡来」が始まり、隠元隆倚像(万福寺)、左に即非如一倚像(福岡・福聚寺)、右に木庵性瑫倚像(愛知・永福寺)が祀られている。「展示されている」というより、「祀られている」といったほうがピッタリくる構成である。隠元和尚は、目尻を下げ、唇の端を上げて、明らかに笑っている。衣は褪色しているが、お顔だけは、油で拭われてきたのだろうか、つやつやと黒光りして、健康そうだ。「生きているような」という形容が、これほど似合う肖像彫刻もなかなかないだろう。范道生の作。

 左右の2人(隠元の高弟)もなかなか異相だが、これは、むしろ後に続く画幅の数々を見て感じた。即非像の黒い頭は帽子なのかな?と思ったのだが、神戸市立博物館蔵『隠元・木庵・即非像』三幅対を見たら、この和尚、黒々した髪をマッシュルームカットにしているのである。ええ、どういうこと? 剃髪なんて、やってらんねーよ、ってこと? 隠元和尚も、彫像では帽子を被っていて気づかなかったが、町工場の親父みたいな短髪である。あらためて絵画資料を見ると、長い(長すぎる)杖とか、赤い袈裟に赤い靴など、黄檗僧の風体は、当時にあっては、けっこう衝撃的なニューウェーブだったんじゃないかと思った。

 以下、続く
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春を待つ九州旅行2011:黄檗・巡照朝課と獅子舞(九州国立博物館)

2011-03-24 22:59:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館 特別展『黄檗―OBAKU 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』(2011年3月15日~5月22日)

■巡照朝課(じゅんしょうちょうか)(会期中毎日、9:30~9:40)

 翌日は、時間に余裕をもって、九博に到着。庇の下で雨を避けながら9:30の開館を待つ。なぜこんなに早めに出てきたかというと、会期中毎日、「巡照朝課 (じゅんしょうちょうか)」が行われていると知ったからだ。朝のおつとめである。万福寺では、誰でも聴聞できると聞いたことがあるが、ふだんは朝の5:30から行われているそうで、さすがに聴きにいったことはない。

 東京で入手したパンフには「場所 3F展示室 隠元禅師倚像前、1Fエントランスホール」とある。2箇所でやるのか。どっちを見よう。禅師像前のほうが本格的っぽいが、ホールなら写真を撮らせてくれるかもしれない…と悩む。そのうち、私の時計では9:30少し前、「開館しますよ~」と案内の方が呼びまわった。このとき、コーンと板を打つ高い音を聞いたように思う。はやる気持ちで入館したが、ホールで何かが始まる気配はない。上か?と思い、エスカレーターで3Fに上がる。

 再び、コーンという乾いた木の音。エスカレーターを上り切ったとき、速足で展示室に入っていく僧侶を見た(ように思う)。それが何を意味するかはよく分からず、とにかく心を決めて、私も展示室に入ることにした。普茶料理のサンプル、笑顔の布袋さんを通り過ぎ、禅師像はどこだろう…と探しながら進んでいくと、第2室の隅に設置された巡照板と木槌を手に、まさに板面の偈文「謹曰大衆(きんぺだーちょん)…」を、節をつけて唱えつつある僧侶の姿。その先には、笑みを浮かべた隠元禅師倚像が、左右に2人の僧侶の倚像を従え、拝礼を待っている。

 どことなく明るい中国音の偈文を唱え終わった僧侶は、禅師像の前へ速足に進み寄り、もう1人、待っていた僧侶と向かい合わせに立つ。向かって左の僧侶(紺色の袈裟)は高音・低音がセットになった叩き鉦を持ち、右の僧侶(黄土色の袈裟。私からは背中が見える)が、経文を唱えながら叩いていた卓上の楽器は木魚だったろうか。リズミカルで音楽的な読経に、しばし、うっとりと聞き惚れる。会場案内や警備の方々も起立して、お勤めに参加しているふうなのがよかった。

 最後は鉦音に合わせて、左右に拝礼し、おつとめを終わる。2人の僧侶は自ら袈裟を畳み、経卓(?)の裏に隠していた段ボール箱に楽器等を収納。巡照板は残していくが、付属の木槌は回収し、係員とともに、キャスター付きの卓を押して撤収していった。面白かった~。

 あとで探したら、3F展示室前(エスカレーターを上がったところ)にも巡照板が設置されていた(↓写真)。これで2枚見つけたが、万福寺では、5ケ所の巡照板を叩いてまわるそうだ。私は国立劇場で2回、万福寺の声明公演を聴いたことがある。このときもいくつかの巡照板をリレー式に叩いてまわる演出がされていた。もしかすると、最初の一打はエントランスホールだったのかもしれない。そう思って、あとで1Fを探したが、巡照板を見つけることはできなかった。



■獅子舞(3/21のみ、11:00~ 14:00~ 各回20分)

 それから、ゆっくり展示を見始め、ちょうど半分ほど進んだ頃、係員のおねえさんが「まもなく獅子舞が始まりますー」と呼ばわりにきた。エントランスホールで見物したあと、再入場もできるというので、いったん参観を切り上げる。黄檗の仏像も好きだが、中国式獅子舞も好きなんだもん。

 出演は長崎吼獅会のみなさん。観客の輪が狭くて、大丈夫かと思ったが、間近で迫力ある演技を見せてくれた。大きな目をパチパチさせて甘えるのもかわいかった。





 『黄檗』展は、このあとも、4/3の「開山忌」「蛇踊り」、5/4の「梵唄」公演など、楽しいイベントが盛りだくさん。「黄檗」が運んできた禅の新風って、こんなふうに楽しく、朗らかで、文化的な香りの高いものだったんだろうな、ということが実感できる。そして、私の好きな若冲も秋成も、どうやら黄檗文化圏の影響下にいるのよね…。

 京都宇治の万福寺では、このたびの震災の「被害の甚大さを鑑み」、開創350年慶讃事業関連法要の延期を決定した(→大本山万福寺ホームページ)。残念だなあ。まあ「中止」でないことが救いであるけれど。

展示についてのレポート記事は明日(の予定)。
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春を待つ九州旅行2011:九州歴史資料館、唐津・旧高取邸

2011-03-23 22:51:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
観光初日。まず、太宰府の九州国立博物館に行こうと思っていたのだが、二日市で電車を乗り間違えてしまう。それなら、と思って、午後に行こうと思っていた九州歴史資料館へ直行。

九州歴史資料館 常設展示『歴史(とき)の宝石箱』

 西鉄・三国が丘駅で下車。「駅前」と聞いていたが、駅からそれらしい建物は見えない。きれいに整備された丘陵地が見えるので、ははあ、あの奥だな、と当たりをつける。控えめな立て看板をたよりに遊歩道に沿って丘を登っていくと、突如、眼下に壮麗な瓦屋根が現れる。この舞台装置はなかなかのものだ。

 九州歴史資料館へは、太宰府天満宮の近傍にあったときに2回ほど来ている。いま、当時(2004年)の記事を読みかえして懐かしく思った。Wikiによれば、旧館は2010年3月限りで休館し、同年11月21日に現在の建物が開館したそうだ。常設展示が始まったのは、今年の2月からで、まだ生まれたてホヤホヤの博物館である。

 展示品数は少ないが、九州ならではの珍しいものもあって、歴史好きなら1時間は楽しめる。鉄剣・鉄矛・鉄製の短甲は、朝鮮文化との親近性を濃厚に感じさせる。そういえば、ニュータウンに囲まれたこの博物館のロケーション自体が、金海市の大成洞古墳と古墳博物館に似ている。大野城跡から出土した鉄製軸受金具は、半島にも類例がないそうだ。石帯の石が出土している(太宰府跡から?)というのも珍しい。平安時代(12世紀)に早くも白磁鉄絵牡丹文四耳壺が渡来しているというのも驚き。実質的に機能しているののは1室のみで、古代~近代までをカバー。欲張ってるけど、中世~近世初期が貧弱過ぎじゃない?と思った。

■唐津散歩:旧高取邸(唐津市北城内)

 太宰府は明日にまわすことにして、唐津に向かう。唐津焼のお店などを覗いて歩くつもりだったが、どんどん雨が強くなり、歩いている人もいない状態なので、いちばん有名な観光スポット「旧高取邸」に逃げ込む。「肥前の炭鉱王」と呼ばれた高取伊好(1850-1927)の旧宅。近代和風建築の粋として、国の重要文化財に登録されている。大正7年建造の居室棟と明治37年建造の大広間棟からなり、茶室、能舞台、マントルピースつきの洋間も有する大邸宅だが、その魅力は、むしろ欄間、杉戸絵、引き金具、床柱などの「細部」に宿るようだ。ちょうど10人くらいの案内ツアー(案内は館長さん?)が始まったところで、詳しいお話を聞かせていただけたのはラッキーだった。

 夜や雨の日など、周囲が暗いと「型抜き欄間」の穴のとおり、孔雀や千鳥の影が壁に映るというのは面白かった。それから「この建物の調査をされた東京大学の藤森照信先生のお気に入りは、柳にホタルの杉戸絵です」なんて、思わぬお名前も。内部は写真撮影禁止なのだが、むしろ自由に撮影させて、個人ブログなどで拡散に任せたほうが、この建物の魅力が広がって、来館者が増えるんじゃないかと思ったが、どうだろう…。

 帰ってから、高取伊好のことを調べてみたら、はじめ、高島炭鉱の開設を佐賀藩主・鍋島直正に進言したのは、トーマス・グラバーだったり、グラバーから炭坑を譲り受けたのは後藤象二郎(後藤様!)で、その下で現場の指揮監督にあたったのが伊好だったり、やがて炭鉱の経営権は後藤から三菱の岩崎弥太郎のもとに移った、という具合に、『龍馬伝』の世界がよみがえってくるようで、笑ってしまった。
 
※「去華就実」と郷土の先覚者たち:第15回 高取伊好(上)第16回(下)
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春を待つ九州旅行2011:今年は博多、唐津

2011-03-21 23:48:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
このところ、毎年、早春に九州に出かけている。

2009年と2010年は、長崎ランタンフェスティバルが目的だったが、2009年は、ついでに佐賀県立美術館の『運慶流』展に足を伸ばし、2010年は、長崎歴史博物館の『道教の美術』と九州国立博物館の『京都妙心寺 禅の至宝と九州・琉球』を見てきた。

今年は、ランタンフェスティバルは見送り。その代わり、どうしても見たかったのが九博の『黄檗』展である。日程的に、この三連休がいちばんいいだろうと思っていたら、初日の土曜日は出勤することになってしまった。でも諦めきれないので、仕事が終わったあと、羽田に直行して、福岡に向かう予定を立てた。

そうしたら、先週の震災である。これはもう止めようと思ったが、落ち着いて考えると、安全な九州行きを止める必要もない。連夜の余震が続き、落ち着かない東京にとどまるよりは、私1人分の節電にもなるんだから行っちゃえ、と思って家を空けることにした。

2日間(日曜、月曜)とも雨にたたられ、あまり活動できなかったが、見てきたのは以下のとおり。

・1日目:九州歴史資料館、唐津散歩(旧高取邸など)
・2日目:九州国立博物館、大宰府天満宮、博多散歩(櫛田神社、東長寺=福岡大仏、聖福寺、承天禅寺)

唐津駅の隣りの「ふるさと会館アルピノ」に入っている唐津焼総合展示場で、念願の絵唐津を買ってみた! あれもこれも欲しくて、胸がどきどきしたが、結局、なるべく古典的な絵柄を選んで、普段使いのご飯茶わん1個だけ買って来た。椎ノ峯窯の製品である。写真では分からないと思うが、わりと小ぶり。早く、白いご飯をついでみたい。



大興奮の『黄檗』展など、その他の詳細は追って。
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書は人をあらわす/人生を変える「書」(武田双雲)

2011-03-19 02:51:23 | 読んだもの(書籍)
○武田双雲『人生を変える「書」:観る愉しみ、真似る愉しみ』(NHK出版新書) NHK出版 2011.3

 東洋美術が好きで、彫刻(仏像)→絵画→工芸、陶磁器…など、だんだん趣味を広げてきたが、いちばん近寄りがたかったのが「書」である。どこに魅力を発見したらいいのだか、皆目分からない、と思っていたが、最近そうでもなくなってきた。書は面白い。でも全てが面白いわけではなくて、自分の感覚にピッタリくる作品もあれば、そうでもない作品もある、という当たり前のことが、実感できるようになった。

 というわけで、初めて読む「書」の解説書。著者は、NHK大河ドラマ『天地人』の題字を書いた書家である。本書では、王羲之、欧陽詢、顔真卿など中国の古典から、聖徳太子、良寛、太宰治など日本人の書、さらに織田信長から本田宗一郎、松下幸之助までヒーロー(リーダー)の書、等々を鑑賞する。戦国武将が多かったり、坂本龍馬、岩崎弥太郎、正岡子規などが登場するのは、やっぱりNHK出版だからか?と勘ぐりたい点もあるが、面白かった。

 王羲之がなぜ書聖か。それまで公的な記録の手段だった書に「個性」を持ち込み、書く愉しみ、観る愉しみを開花させたという点で、宮廷音楽に大変革をもたらしたモーツァルトにも喩えられる。取り上げられている作品『十七帖』は、先日、現物を京博の『筆墨精神』で見てきたばかり。掲載図版(路轉欲逼耳…で始まる)が、ものすごく魅力的なので、京博の収蔵品データベースの写真で探してみたが、該当箇所がどうしても見つからない。京博の上野本は、解説に「欠けた所も少ない」というけど、この箇所はないのかな。”書中の龍”という表現が、本当にぴったりくる箇所なのに。

 顔真卿の『裴将軍詩』は書道博物館で中村不折の臨模を何度か見ているけど、やっぱり本物(拓本)を見たいなあ。この作品の魅力を、さまざまなキャラクターが目まぐるしく登場する舞台に喩えているのは、とても分かりやすい。欧陽詢の書を評して「目立たぬように込められた個性」というのも、いい表現だと思った。若い頃の近視眼では気づきにくいが、不思議なことに素人でもトシを取ると、こういう作品の魅力が分かるようになる。

 坂本龍馬の手紙について、上下の余白を目いっぱい使って、縦横無尽に筆を走らせているにもかかわらず「絶対に字と字がぶつからない」点をとらえ、こういう運筆ができる人は「人と人との距離をしっかり取れる人です」という把握には、説得力がある。対照的に、岩崎弥太郎の書は、字間が狭く、ぶつかっており、エネルギッシュだが、人と人との距離の取り方が上手い人ではなかっただろうという。勝海舟と西郷隆盛の書が、どちらもバランスと包容力に長け、よく似ているという指摘も面白かった。

 私は、小泉純一郎みたいな「尖った字」、本田宗一郎の極端な「右上がり」の字はどうも好きになれない。やっぱり、正岡子規みたいなふわっとした、余白の開いた字に惹かれる。憧れる。それでいうと、著者の「天地人」の字はあまり好きではないのだ。ご本人も「書き手の意識が立ちすぎている」という厳しい意見をいただいた、と告白しているが、同感である。でも北方謙三『楊令伝』の題字なんかは好きだ。→※武田双雲公式サイト(作品多数あり)
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幾つになっても/女子校育ち(辛酸なめ子)

2011-03-16 22:23:49 | 読んだもの(書籍)
○辛酸なめ子『女子校育ち』(ちくまプリマー新書) 筑摩書房 2011.3

 辛酸なめ子さんは、中学・高校と多感な6年間を過ごした女子校ネタで、雑誌などに多数の著作を発表しているエッセイストである。私は、なめ子さんと同じ女子校の出身なので(年代的には全く重ならないが、それでも)ネタの楽屋が分かってしまうことがあって、読んでいると、少しこそばゆい。

 著者によれば、ひとくちに女子校と言ってもタイプがあって、大きくは『勉強系』『ニュートラル系』『お嬢様系』に分かれ、さらに1番目は「性超越系」と「努力型秀才系」、2番目は「モテ系」「良妻賢母系」「温室・夢見がち乙女系」、3番目は「お嬢様系」と「深窓お嬢様系」に分かれるという。著者と私の出身校は「性超越系」に属する。校風でいうと「男子のいない共学」あるいは「女を捨てて勉学に励む男子校のような雰囲気」。なんだ、それは(笑)。でも、確かに私、昔から「勉強系」ではあったけど「努力型秀才系」ではないな、と思う。「努力型」の言い換えである「アグレッシブなキャリア志向の才女」には、今でも強い違和感がある。

 あと、小ネタではあるが、ミッション系の女子校だったので、学生時代は面倒だった礼拝や賛美歌を懐かしがり、「同窓生の結婚式で『ハレルヤ』を歌って列席者の間に微妙な空気を漂わせたり、カーオーディオで突然賛美歌をかけて同乗者をひかせてしまったり」という箇所では爆笑した。分かる~。分かりすぎる~。さらに、「掃除より勉学」という雰囲気だったので、一人暮らしを始めたあとも「掃除のやり方が分からず、掃除の習慣もない」という著者の告白に、膝を打つ思いだった。

 一方、校風の差はあっても、女子校出身者には共通する点もあるらしい。著者は、男性受けを考えない個性的なファッションのレディー・ガガの例を挙げている。男子の露骨なブサイク差別に遭遇することなく、伸び伸び育った結果、「女の敵は女」という意識が薄く、同性を素直にほめたり認めたりできるのも、いいところ。女性の感情のツボを分かっていて、人当たりが柔らかく「女さばきがうまい」とも言える。あんまり自覚はなかったけど、自分も当たっているかも知れない、と思った。逆に、共学出身の女性が発するアグレッシブなオーラ、「異性にモテたいというのが仕事の原動力」的な発言に感ずるギャップは、そうか、私が女子校出身だったからかあ…と妙に納得した。

 女子校出身者は、力仕事でも何でも女性だけでできると言い張り、影で支えてくれた男性たちの存在に気づいていない、視野が狭い、というのは、反省すべきところ。狭く深い付き合いに慣れ過ぎて、コミュニケーションの取り方がうまくない、という指摘もあるそうだ。偉い人のビールのグラスが空いたらすぐ注ぎに行くような女性には、ならなくていいけど、気をつけよう。女子校育ちの魂は五十まで、いや百まで。
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鉄道梁山泊/日本初の私鉄「日本鉄道」の野望(中村健治)

2011-03-15 23:41:40 | 読んだもの(書籍)
○中村健治『日本初の私鉄「日本鉄道」の野望:東北線誕生物語』(交通新聞社新書) 交通新聞社 2011.2

 先々週、東京駅から奈良に向けて旅立つ際、手持ちの本がもうすぐ読み終わりそうなので、「保険」をもう1冊買って、新幹線に乗ろうと思った。構内のインフォメーションで「本屋はありますか?」と聞いたら、丸の内サウスコートの「HINT INDEX BOOK」を教えてくれた。小さな書店で、めぼしいエモノはないなあ、と思ったとき、眼に入ったのが本書。街の書店では見たことのない新書である。へえ、さすがエキナカの書店、と思って、買ってみた。

 標題にある「日本鉄道」の名前には覚えがあった。昨年秋に読んだ竹内正浩著『鉄道と日本軍』に出てきて、ええー近代日本には、そんなに早く”私鉄”があったの?とびっくりしたのだ。日本鉄道(にっぽんてつどう)は、1881(明治14)年に設立された日本初の私鉄である。東京から陸奥青森まで、つまり現在の東北本線を、10年かけて敷設したのはこの会社であった。本書は、その創立前夜から東北線全線開通までを、いくぶん小説仕立てに描いたものである。

 登場人物は、華族から鳶職人まで、多士済々である。そもそも東京~青森間の鉄道を構想したのは高島嘉右衛門という若い商人であったが、その願い出を聞き入れ、日本全土に鉄道網を建設するという野望のもと、日本鉄道設立の中心となったのは、岩倉具視。欧州視察で鉄道を見て以来、自分の鉄道会社を持つことが夢だった、というのは本当かどうか知らないが、こんなに鉄道に熱意を持った人物とは知らなかった。食えない策略家のイメージだったのに。しかも、このとき、既に政府の要職にあった50代というのがいいなあ。高島嘉右衛門も、実業家であると同時に易断家で、高島易断の祖という不思議な人物である。進歩派なんだか、好古家なんだか。

 まだ技術者養成が間に合わない中、鳶職出身の小川勝五郎は、外国人技師から独力で橋梁工法を盗むように研究し(すごい!)「鉄橋の小川」の異名を取るまでになる。利根川橋梁の完成時、行幸になった明治天皇はご満悦で、勝五郎らがお祝いに鉄橋から飛び込むのを笑顔で眺められた。…ほんとなのかな。いや、事実は小説より奇なり。

 仙石貢は面白いねえ。帝国大学出の工学士様なのに、むちゃくちゃな奇行と猛者ぶり。逆に現場叩き上げから、のちに工学博士になった長谷川謹介も。梁山泊の好漢たちみたいだ。日本の鉄道は、結局「酒とバクチの勢いで作られた」というが、欧州列強の帝国主義を最前線で主導した人々も、あんまり変わらないような気がする。

 敵役のポジションで登場するのが、鉄道は国有でなければならない、を信念としていた井上勝。ドラマにしたら、きっと面白いだろうなあ、と何度も妄想した。最後は、軌間(ゲージ)の統一が国益にかなう、という理由で、西園寺公望が「ヤミ討ち」的に鉄道国有法案を通し、日本鉄道会社は解散に至る。

 けれども、彼らの「夢の跡」は、今なお東北線のあちこちに残っている。東京近郊であれば、荒川鉄橋、利根川鉄橋。大宮がなぜ鉄道博物館の地に選ばれたかも了解した。東北線が仙台駅直前でC字型にカーブを切るわけ。盛岡駅前と旧市街を結ぶ開運橋。井上勝が、鉄道用地接収の「せめてもの償い」に発案した小岩井農場など。

 本書を読んでいる最中に、東北地方太平洋沖地震(東北関東大震災)が起き、甚大な被害状況が次第に明らかになってきている。しかし、必ず復興はするだろう。落ち着いたら、本書を手に東北線に乗りに行きたい。頑張ってくれ、東北。
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