見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

武士の美学、茶人の美学/陶芸の美(五島美術館)

2010-06-30 22:32:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 開館50周年記念名品展III『陶芸の美-日本・中国・朝鮮』(2010年6月26日~8月8日)

 名品展第3弾は陶芸。当然のように茶道具類を想像して会場に入ると、いきなり古墳時代の水鳥埴輪(でかいなー)が待っていて、フェイントをかまされる。そのあとは、やはり茶の湯に関連したものが多い。鼠志野茶碗「銘・峯紅葉」は堂々とした厚口だが、「成形が巧みなため手に持つと意外と軽い」という解説が気になる。正面から見ると、器の外側にも内側(の奥)にも亀甲文が見え、反対側にまわると、手品のように、外側も内側も亀甲文が隠れ、檜垣文が顔を出す。1碗で2つの顔を持つ不思議。

 お茶室ならお道具をまわして拝見するところ、展示室ではケースの周囲を自分でまわってみることで、思わぬ発見がある。古伊賀水指「銘・破袋(やれぶくろ)」も、正面から見たときは、さほど感動しなかったのだが、右横にまわって、開口部から底部に至る、すさまじい断裂を発見したときは、言葉を失ってしまった。これはねえ、ネットで検索しても正面画像しか出てこないけど必見だと思う。しばらく様子を見ていると、正面の姿しか見ていない観客が多くて、もったいなかった。せっかく360度まわれる展示ケースに入っているのに! 背面の底部に刻まれた十文字も、野武士の古傷みたいだった。何だろう、この満身創痍の状態を愛でる、豪胆な美意識は…。

 むかしは、伊賀とか備前とか、ゴツいやきものは苦手だったが、最近は好きになった。実際に花をいけて茶室に据えると、大地の一部のような安定感を感じさせる。今回は、特に信楽の水指「銘・若緑」に惹かれた。武野紹鴎が好んだ「鬼桶」と呼ばれる器形だ。暗褐色に緑苔のような釉薬がかかり、眺める位置によって、つるつるにもざらざらにも見えるのが面白い。

 それから、中国陶磁の列に進むが、コテコテの「中華味」ではなくて、全体に茶人好みの中国陶磁だと思った。かたちがよくて、品があって、くすっとなごませる。『緑釉牡丹文鳳首瓶(乾瓦窯)』(公式サイトに画像あり)の生真面目に背筋を伸ばした鳳凰。『白磁弁口水注』は把子の人物(少年?)の顔がかわいい。赤絵や染付の文様も、素朴でおおらか。朝鮮陶磁も同様で、『粉青白地掻落牡丹文扁壺』は、パウル・クレーの抽象画みたいな繊細な色彩。鉄絵草花文の扁壺もあったが、「民藝」の美意識が選ぶ朝鮮陶磁とは違うなあ、と感じた。日本陶磁でいうと、古九谷のめずらしい山水文『色絵山水文大皿』 も、古九谷・青手大皿の臭みというか毒がなくて、ほんわかした夢の光景を描いているように見える。

 茶碗は、やっぱり長次郎の赤茶碗「銘・夕暮」。初めてじゃない、と思ったら、2008年に五島美術館の『館蔵 茶道具取合せ展』で見ている。黒楽茶碗は「銘・三番叟」しか出ていなかったが、次回展『茶道具の精華』のために取ってあるのかな。井戸茶碗は、まだ、良さがよく分からない。
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付録が充実/中国の扇面画+橋本コレクションの中国絵画(松濤美術館)

2010-06-28 23:23:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
渋谷区立松濤美術館 『中國美術館所蔵 中国の扇面画』併催『橋本コレクションの中国絵画』(2010年6月8日~6月27日)

 迷っていた展覧会だが、最終日に覗きに行った。北京・中國美術館が所蔵する、明末から現代までの扇面画約100点を紹介する展覧会。中国では、円形の「うちわ」と扇形の「おうぎ」をまとめて「扇面画」と呼ぶらしい。私は、こと絵画に関しては、日本の「おうぎ」、中国の「うちわ」というイメージを持っているが、この展覧会は「おうぎ」画のほうが多かった。ただ、面白かったのは、拡大レンズで覗いたような求心性のある植物を描いた「うちわ」画である。中国の「おうぎ」画は(日本の宗達・光琳みたいな)面白さがない。のっぺりと平面的で、折る・たたむ・ちょっとだけ開く、というようなスクリーンの可変性が、全く意識されていないように感じた。

 そこで思い出したのは、中国の歴史ドラマでは、皇帝や貴公子が扇子を持って登場すると、ばん!と勢いよく左右いっぱいに広げて、おもむろにあおぎ始めることだ。畳むか開くか、有か無か、黒か白か。日本人のように、開きかけの扇をぱちりぱちりと鳴らして、行きつ戻りつするなんてことはしないのである。そのへんの所作の違いが、扇面画のデザインにも影響しているのではないかと思う。

 最後に2階奥の小さな特別陳列室に入った。併設展『橋本コレクションの中国絵画』はわずか9点の小展示だったが、正直なところ、扇面画100点よりも見応えがあって興奮した。壁には「橋本末吉(1902-1991)」と「桑名鉄城(1864-1938)」という2人の人物の簡単な紹介パネル。橋本末吉は、高槻の自宅に中国書画800点を擁した大コレクター。中国絵画の蒐集に力を入れ始めたのは、戦後の混乱期に桑名鉄城の中国画コレクションを入手したのが転機だという(この人のことは、ネットで調べてもいまいちよく分からない)。

 桑名鉄城は篆刻家で、中国で篆刻新風を学び、京都における篆刻の新派の大家となった。いま、京都の泉屋博古館が所蔵する、八大山人の『安晩帖』や石濤の『廬山観瀑図』も、桑名の旧蔵品だそうだ。ということは、この「橋本コレクション」は『安晩帖』『廬山観瀑図』の兄弟分か!と思うと、急に親しみが湧く。実際、どの作品も個性的で好きだ。人物を大きく描いて感情移入しやすい、伝・馬俊『騎驢訪友図』。全体に白っぽい万寿棋『高松幽岑図』。李士達の『騎驢尋梅図』は金箋に描かれたもので、背景にのたうつ渓流と、手前にちらりと覗いた丸木橋が、扇面という図形を巧く使っている。この展覧会で、ほとんど唯一感心した扇面画である。

 石鋭『探花図巻』は、遠望する緑の山と松の間に白い雲がたなびいている図。「探花」と聞いて、白いものは桜かと思ったら、どこにも花はなかった。文章を読むと「建試之日、南都之太学ニ入ル」云々とあって、もしかして、題の探花って科挙の第三位合格者の意味?と首をひねったが、よく分からず。描かれた風景は、仁清の吉野山図みたいだったけど。
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最初の20年間/洋服・散髪・脱刀(刑部芳則)

2010-06-27 23:56:32 | 読んだもの(書籍)
○刑部芳則『洋服・散髪・脱刀:服制の明治維新』(講談社選書メチエ) 講談社 2010.4

 1年ほど前からgooブログを「アドバンス」に変えるとともに、Amazonアソシエイトを利用している。本書は、私の閲覧履歴をもとにAmazonブックストアが「おすすめ」してくれたもの。ふむ、なかなか乙な選書である!と真面目に感心した。下手な書店員や図書館員より使えるかもしれない。

 本書は、明治新政府の成立から、明治22年の大日本帝国憲法発布記念式典までの国家の服制の変遷について述べたもの。わずか20年余りとは思えないほど、その内実は多事多端である。「王制復古」の大号令で始まった新政府であったが、公家と武家の伝統と慣習には大きな相違があった。そのため、明治元年、天皇の東幸(江戸城入城)に従った人々は、「錦絵に描かれているような整然とした服装とは程遠く」衣冠・狩衣・直垂が混淆し、諸藩の軍服もばらばらだったという。

 明治3年には、文官の「非常並旅行服」と陸海軍の軍服、4年には洋式大礼服、5~6年には、郵便・鉄道・税関など各種制服が定められ、政府官員は散髪・洋服が自明となった。旧制に固執する老華族らはこれに抵抗し、多くの地方官も(経済的な負担と、そもそも洋服店が地方に少なかったことを理由に)大礼服の調製を無視しようとした。また、明治9年の帯刀禁止令は士族に衝撃を与えた。それでも維新官僚たちは、明治天皇の散髪・洋服を断行し、反対派を粘り強く説得・懐柔して、「文明開化の服制」の浸透に努めていく。次第に、官員=散髪・洋服が定着すると、西南戦争における西郷軍、政治参加を要求する民権運動家、農民騒擾など「官と対立するもの」は、和装でイメージされるようになる。

 というのが前半の10年間だが、この間にあっても、後半の明治10年代になっても、さまざまな混乱があって面白い。メディア未発達の当時、西洋諸国の服制を移植するのは、実は、抽象的な哲学や法制度を輸入する以上の難事業だったんじゃないかと思う。礼服は調製したものの、その着用方法が分からず、内側にシャツを着ていなかったり、白シャツに黒ボタンを用いていたり、驚愕の光景も見られたようだ。あと、ズボンのボタンの扱いに慣れず、便所に飛び込んで、ボタンを捩じ切る者もいたとか…。ジッパーが登場するのはいつからなんだろう。

 はじめ、日本の大礼服は、官等に応じてズボンの色を分けていたが、岩倉使節団はドイツで宰相ビスマルクから、欧州では通常黒色のズボンを穿き、白色のズボンは特別な儀礼に限られる、と教えられたという。明治ニッポンは、こんなことまでビスマルクに教わったのかと思うと、微笑ましいというか、なんというか…。また、官員の中には大礼服を私的な冠婚葬祭に着用するものがいた。宮内省からこの是非について問い合わせを受けた法制局長官の伊藤博文は、即答に困って、お雇い外国人ボアソナードに意見を求めた。ボアソナードは、フランスには私的な場で大礼服の着用を禁止する法令はないが、仮に着用したら、人々から「嘲笑」を受けるだろうと答えている。服制の移植とは、こういう、文献資料に明文化されていない文化コードの理解があってはじめて成立するのだから厄介である。

 同時に、当然のことながら、実際に洋服をつくる「技術」も移植しなければならない。化学・医学・土木工学などの専門技術が、政府主導のお雇い外国人によってもたらされたのに対して、衣食住などの生活に密着した技術は、民間ベースで伝達され、普及したと思われる。本書にさりげなく登場する「足袋職人の沢野辰五郎は、文久年間に横浜のブラウン夫人からミシンでの婦人服の裁縫技術を習い、慶応年間に横浜本町通りに洋服店を開業」という記述にも、いろいろなドラマが想像された。

 「鹿鳴館時代」とよばれる女子の華やかな洋装については、外国通の原敬が、英米の婦人服を手本にしているようだが、仕立てが悪いので下女の服にしか見えないとか、束髪とやらは西洋ではもう流行遅れで、下等の婦女だけに残る姿であるとか、辛辣な批判をしているのが面白かった。また、西徳二郎は、婦女の洋服・宝飾品を海外から大量に購入することが正貨の流出を招き、我が国の経済疲弊をもたらすと警告している。婦女の服制は国家の一大事であったのだ。

 収録された豊富なデザイン画(官報や法令全書から)と肖像写真が楽しい本。なお、明治初年の服制調査には、お雇い外国人のジ・ブスケが活躍している。いつか、コメントをくれたジ・ブスケの曾孫さん、本書はチェックされているかしら。
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先頭走者の孤独/千利休(赤瀬川原平)

2010-06-24 22:04:45 | 読んだもの(書籍)
○赤瀬川原平『千利休:無言の前衛』(岩波新書) 岩波書店 1990.1

 奥付を見て「1990年刊行か…」としみじみした。勅使河原宏監督・脚本の映画『利休』に赤瀬川さんが共同脚本として参加されたのが1989年。その翌年に本書が出版された。当時、私は、尾辻克彦名義の小説や路上観察学会の活動を通じて、赤瀬川さんの名前を知っていたけれど、ええー、利休?という感じで、辛気臭い侘び・さび文化の巨匠に近づいてみる気にはなれなかった。あれから20年、ようやく私も利休の美意識に反応できるようになった。本書を読むのをずっと待ってきて、よかったのだと思う。

 利休は前衛である。前衛とは、芸術という概念をダイレクトに日常感覚につなげようという試みである。と著者は説く。本書は、千利休という人物を借りながら、著者が、さまざなま方向から「前衛とは」という命題に答えようとした1冊とも言える。

 それは、たとえば、こんな毒のある表現をも辞さない。「前衛をみんなで、何度も、という弛緩した状態が、戦後民主主義による温室効果となってあらわれている。自由と平等という、いわば戦後民主主義の教育勅語が、ふたたび私たちの頭脳を空洞化している」。最近の赤瀬川さんの好々爺然とした姿しか知らない読者なら、目を白黒するような発言だろう。

 もう少し穏やかな説明を求めるならこんな感じ。「前衛はいつも形式化を逃れながら先を急ぎ、形式の世界はまた貪欲にその後を追いかけていく。しかしそれはマラソンの先頭グループでのしのぎ合いで、後方からは何も見えない。後方を走る大半は、とにかく完走だけはしようという、眠い形式の中で動いている。それを非難することはできないだろう。形式の中に身を潜める快感というものを、人は基本的に持っているものなのである」。本書を読んでも、利休の生涯やお道具(利休好み)について、ほとんど知識は増えない。しかし、利休という思想の核心部分が、ぐいと目の前に寄ってくる感じはする。

 映画『利休』の原作は、野上弥生子の『秀吉と利休』である。この両者の名前を見たとき、多くの人々は、政治と芸術の相克を感じ取る。しかし、著者は、秀吉も大変な創造力を持つ一種の芸術家だったと考える。「金の茶室」にしても「桃山時代のアンデパンダン=北野大茶会」にしても。秀吉は利休を「挑発しがいのある存在」と感じていただろうし、利休も秀吉の挑発を楽しんでいただろう。両者の幸福なバランスが崩れていった理由を、著者はさまざまに考察しているが、私は、秀吉の創造力が、肉体の老化および権力の集中とともに枯渇していったために尽きるのではないかと思う。

 利休の美意識を説明する中で、韓国の家屋や普段使いの器の魅力に触れている段も面白かった。韓国の井戸茶碗にあこがれた日本人が、日本の陶工を韓国へ連れていったが、良いものがどうしてもできない。秘密は「土」ではなくて「人」――日本人には真似のできない、おおらかで無神経な作りが「ごろりとした力強い井戸茶碗」を生み出すのだという。ああ、だから、半島から陶工を連れてきたのかあ。しかし、その無神経な「手」の作り出した飯茶碗の美しさを見出すことができるのは、日本人の細かい神経のゆきとどいた「目」である。これもまた、前衛と呼ぶにふさわしい精神であろう。
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衆議の中世/日本神判史(清水克行)

2010-06-23 23:58:50 | 読んだもの(書籍)
○清水克行『日本神判史:盟神探湯・湯起請・鉄火起請』(中公新書) 中央公論新社 2010.5

 読み終えてから、ふとネットで検索してみたら、マンガ家・夏目房之介さんのブログがヒットし、”若旦那”と呼ばれる本書の著者が登場していた。発売されたばかりの本書であるが、「一見、何を書いてあるかわからんタイトルなので、売れ行きが悪い」のだそうだ。うわーもったいない。夏目さんは、内容を読まずに紹介を書いているが、私はちゃんと読んだ上で言おう。面白いよ、この本。

 子どもの頃、マンガ版の日本の歴史が好きで、繰り返し読んでいた(私が愛読したのは、和歌森太郎氏監修の”史上初”のマンガ版通史、1968年集英社版である)。その中で、古代の巻に、2人の男が熱湯に手を入れて正邪を争う「盟神探湯(くがたち)」の場面があった。古代人は恐ろしいことをするなあ、と思って震えながら読んだ。それから、ずーっと読み進んで、中世に至って、唐突に古代と同様に熱湯に手を入れる人々が描かれていた。その間が、何百年隔たっているのかはよく分からなかったけど、何か奇異な感じがした。こういう身体感覚に直結したエピソードは、子どもの記憶に強く残るのである。

 実は、古代の「盟神探湯(くがたち)」と室町期の「湯起請」の間には700年の空白があり、著者は両者を全くの別物と考えている。両者の間の鎌倉時代(13~14世紀)には「参籠起請」と呼ばれる神判が存在した。これは、宣誓者が一定期間、社寺に籠り、身体や家族に変調(=失)が現れたときは、宣誓者を有罪とする、という裁判である。何を以って「失」とするかは鎌倉幕府の法によって詳しく定義されていた。

 しかし、室町期に入ると、人々は参籠起請の悠長さに耐えられなくなり、「湯起請」の即決性が支持を集める(15世紀)。この時代は、まだカリスマ的な独裁者は出現しておらず、「ヨコの連帯」が大きな意味をもった時代(一揆の時代、衆議の時代)だった。そこでは、真実を明らかにすることよりも、共同体の秩序維持のほうが重大事だった。当時の湯起請は、まず無記名投票(落書起請)によって、人為的に被疑者の選抜が行われ、その結果が、湯起請によって権威づけられた。ううむ、秩序維持システムとしては、近代の裁判制度よりずっと洗練されている感じがする。しかも、記録に残る有罪無罪の確率は、ちょうど半々だという。選ばれた被疑者が無罪となった場合も、人々は神判の結果を受け入れ、それなりに共同体の秩序は保たれたらしい。

 ただし、当時の人々にとって湯起請はあくまで紛争解決手段のひとつに過ぎなかった。「中人」を立てて示談に持ち込むとか、法廷では両者の主張を足して二で割る「中分の儀」を採用するとか、為政者の権威が不安定で、「衆議」と「専制」の相克が見られた室町期であればこそ、さまざまな方法が見られた。16世紀(戦国~江戸初期)の動乱期に入ると、急速に衰退する湯起請に代わって、より過激な「鉄火起請」の短いブームが起きる。日本各地には、鉄火起請の生々しい伝承が数多く残っている。しかし、近世権力(徳川幕府)が確固たる裁判権を確立すると、あっという間に鉄火起請は姿を消してしまう。

 われわれ現代人(日本人)は、司法権力とか警察権力が、あらかじめ確固として存在する社会しか知らないので、そうしたものがないところで、犯罪や紛争をどう解決するか、何を優先するか(真犯人の追求か、共同体の秩序維持か)という問題を、平場から考えてみるのは、とても面白い読書体験だった。もしかすると、国際政治問題を考える上の思考実験にもなるような気がする。国際紛争も、真実の追求のために多大な損害を出すくらいなら、いっそ恨みっこなしの「湯起請」で解決できないものかな。
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童心の異次元/伊藤若冲 アナザーワールド(千葉市美術館)

2010-06-22 23:05:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
千葉市美術館 『伊藤若冲 アナザーワールド』(2010年5月22日~6月27日):後期

 小林忠館長の講演会『伊藤若冲の多彩な絵画ワールド』のあと、ほとんどの作品が展示替えとなった後期の会場を見る。初期の作品では『蓮・牡丹図』の荒ぶる蓮図に惹かれる。かと思えば、モノクロームと着彩が同居する『百合図』の静けさ。図録を見て、本物が見たい!と思って来たのは、逆立ち姿勢で落下する『雷神図』。これは千葉市美術館所蔵だから、また見る機会がありそうだ。図録との印象の違いに驚いたのは、MIHOミュージアムの『双鶴図・霊亀図』。特に亀は、大画面をはみ出す迫力。太い足で大地を踏みしめ、鋭い眼光できりきりとこちらを睨んでいる。黒々とたなびく尻尾は不動明王の炎のようで、武田信玄の兜を思い出す。

 前半生の基準作といわれる『花鳥蔬菜図押絵貼屏風』を静かに見ていて、ふと振り向いて、びっくり。おお、背後は『象と鯨図屏風』でないか。MIHOミュージアムの『若冲ワンダーランド』では、この作品だけ単独の展示室に飾られていて、下にも置かぬ特別扱いだったことを思うと、まだ第1会場の前半(?)、こんな大部屋でいいのか?と思ったりする。でも、この屏風は、部屋の広さも明るさも、自然でさりげないシチュエーションで見るほうが、魅力が増すように思う。

 鯨図の前に立つと、ざぶーんと砕ける波しぶきが何ともリアル。いや、リアルに描いていないのに、リアルな実感がある。旭山動物園の白クマのごとく、目の前の水面に、巨大な鯨が素早く潜り込んでいくのを見ているようだ。てらてらと濡れた鯨の背中、激しく上下する波の山。これは、出光美術館の『屏風の世界』じゃないけれど、屏風の折り山を巧く使っているなあと感じた。一方の白象も同じ。平面的に引き延ばした図録の写真では、やや胴長に見える象が、屏風の折り山をまたぐことで、正方形(むしろ球形?)に膨らんだ風船のように見える。ポンとお尻を叩いたら、反動で、ふわふわと浮かび上がっていきそう…。

 第2会場では、水墨の風景図がまとめて見られて満足。前後期通し展示の西福寺蔵『蓮池図』は、哲学的な静けさを感じさせ、この展覧会の見もののひとつだろう。と思うのだが、徹頭徹尾、俗っぽい私は、同じ室内の天明8年『鶏図』シリーズに魂を奪われてしまう。二曲屏風+掛軸一幅+襖八面の計11図という不思議な構成で、茨木市内の旧家に伝わったもの。各図とも背景に薄墨を刷き、野菜と3羽のニワトリを描く。図録で見たときは、特に印象に残らない作品だったのに、大画面で見ると、生々しさに圧倒される。水墨画らしい「掠れ」や「滲み」を敢えて避け、黒・白・薄墨をきっちり塗り分けた表現が、ものすごくマンガに近い。襖の右から三面目、空中に飛びあがってストップモーション状態のニワトリとか、同二面目、目を細めて陰険に睨むニワトリとかも。

 この鶏図を見ていると、子どもの頃、モノクロ印刷のマンガ雑誌を見ながら、目も眩む色彩のファッションショーや華やかなバレエの舞台が想像できたことを思い出す。小林先生は「若冲ばかりに注目が集まり過ぎ」とおっしゃるけど、こういう、マンガ・アニメ世代の感覚にぴたりとハマる画家って、やっぱり若冲以外いないと思うのだ。

 ひとつの展覧会を4回も記事にするのは滅多にないことだけど、ホントに楽しかった。千葉市美術館のみなさま、日曜の最終日まで頑張ってください。

『伊藤若冲 アナザーワールド』(2010年5月22日~6月27日):前期
記念講演会「伊藤若冲の魅力」(講師:辻惟雄)
講演会 「伊藤若冲の多彩な絵画ワールド」(講師:小林忠)※来場者372人だそうです。
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講演会 「伊藤若冲の多彩な絵画ワールド」(講師:小林忠)

2010-06-21 22:56:51 | 行ったもの2(講演・公演)
千葉市美術館 講演会「伊藤若冲の多彩な絵画ワールド」(講師:小林忠)(2010年6月20日)

 『伊藤若冲 アナザーワールド』に再び行ってきた。この日は小林忠館長の講演会が予定されていたが、前日、美術館サイトをチェックしたら、6月5日の辻惟雄先生の講演会の「混乱」に懲りて、12:00から入場券を配付するという。迅速で誠実な対応に感謝したい。

 そこで、11:45頃到着を目指して、東京の家を出た。美術館1階のさや堂ホールには椅子が並べられ、到着した順に前から詰めて座っていく。私は50人目くらいだったと思う。時間になると、2人の職員が座席表を持って、先頭から順に、講堂の希望座席を聞いて、その番号を書き込んだ入場券を配付するシステム。これなら公平で、文句のつけようがない。前回、座席は150人分だったと思うが、今回は、壁際までぎりぎり詰めて190人座れるレイアウトになっていた。それでも定員をオーバーしたようだが、11階講堂の生中継を1階ホールに飛ばして、講演会の雰囲気を伝えることはできたようだ。小林館長は「これが私たちにできる全てでございます」とおっしゃっていたけれど、よくぞやってくれました。拍手。

 入場券をもらったあとは、11階のレストランで昼食を取り、展覧会の第1会場だけ眺めて、講演会を待つ。小林館長のお話は、5日のお詫びから始まり、「若冲人気、さほどとは思っていませんでした」と述べられた。ブーム沸騰以前から、研究者として若冲にかかわってきた小林館長のお言葉だけに、実感がこもっていた。

 1971年(昭和46年)、東博の絵画室で研究員をしていた小林忠氏(当時30歳)は、辻先輩と、辻さんの「心の友」のプライス氏から、お前、若冲展をやれ、と焚きつけられて、特別展観「若冲」を企画する。「特別展観」というのは、館員の研究成果を発表する展覧会なので、スポンサーもなく、図録作成、保険、運送費など全部ひっくるめて、予算は100万円(今の1,000万円くらいか?と小林氏)。ただ、もと帝室博物館の東博ならではのプレステージで、宮内庁から「動植綵絵」30幅を(15幅×2期)借り出すことができた。また、プライス氏は自分のコレクションから10数点を自費(!)で持ってきて貸してくれた上、図録1,000部のうち、300部を買い上げてくれたという。うわー、いい話だなあ。私は当時、小学生。さすがにこの展覧会は記憶にない。

 一般に「若冲享受史」は、このあと、いきなり2000年、狩野博幸氏による京博の若冲展に飛んでしまうけど、私の個人史としては、80年代に澁澤龍彦と幻想文学ブームがあって、澁澤の著作を通じて若冲を知り、1994年に三の丸尚蔵館の展示で「動植綵絵」を見たことも忘れないでおきたい。2006年のプライスコレクション展は4会場で100万人を集め(”若冲と江戸絵画”って「あんまりだよ」と苦笑まじりの小林氏。”北斎と江戸絵画”とか”応挙と江戸絵画”ならともかく…)、2007年、相国寺の釈迦三尊像と動植綵絵は3週間で10数万人を集めたという。このとき、動植綵絵30幅を宮内庁から借り出すにあたっては、相国寺派管長の有馬頼底氏の力が大きかった、というのは辻先生もおっしゃっていたが、今上天皇のご学友なのだそうだ。

 有馬氏によれば、明治の廃仏毀釈に苦しめられた際、動植綵絵30幅を献上して1万円の御下賜金をいただいたことで、相国寺1万8,000坪を売却せずに済んだという。若冲の動植綵絵は相国寺を救ったのである。だから、相国寺は境内の若冲の墓(生前墓。石峰寺とは別)を今でも大切にし、有馬氏は、1984年、現在の承天閣美術館を建てるにあたって、いつか釈迦三尊像と動植綵絵30幅の展示を実現するつもりで、そのための展示室をつくっておいたという。これもいい話だ!

 皇室に献納された動植綵絵は、一時、天井の高い洋間向きに表装されていたが、近年、普通の表具に戻されたそうだ。1999年から6年間にわたる修復作業は、京博の構内に設けられた工房で行われたそうで、辻氏、小林氏は、これをたびたび覗きに行ったという。その結果、判明した裏彩色の効果は、2006年、三の丸尚蔵館の展覧会でも紹介されたとおり。ところで、このときも一緒に展示されていた『旭日鳳凰図』は、相国寺とは別経路で皇室に入ったものだが、明治天皇は非常に絵画好きだったそうだ。特に日清戦争で広島城内に大本営が置かれていたときは、明治天皇の無聊を慰めるため、浅野家はさまざまな絵画を御覧に入れ(→気に入れば献納せ)ざるを得ず、たいへん弱ったという。へえ、初めて聞く。たとえば動植綵絵に満悦する明治大帝の図、想像するとちょっと楽しい。

 本展覧会の目玉、MIHOミュージアムの『象と鯨図屏風』発見の第一報が、金沢の辻先生の教え子から届いたとき、辻先生がハサミで封筒を開けて写真を取り出すのを、小林氏は横で見ていたそうだ。「(MIHOは)すぐ買っちゃった。お金あるんでんすねー」というつぶやきには、公設美術館の悲哀を感じてしまった。

 小林氏は、若冲は鯨はもちろん、象も実際に見ていたにちがいない、という。享保13年(1728)に長崎に上陸した象は、翌年4月、京都に到着し、中御門天皇の上覧にあずかった。若冲12歳。「好奇心の強い若冲少年が、都大路を歩く象を見ていない筈がない」と断言する。屏風の白象には牡丹の花が添えてあるが、牡丹は本来、獅子の付属物である。それを、若冲は素直に少年時代の象体験に従って、象こそ百獣の王、と読みかえたのであろう。

 最後に、プライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』について。小林氏は、これが東博の開かずの箱に眠っていた頃に発見し(図録所収の論文によれば、倉庫の階段の踊り場で見つけたって、ええ~っ!)、びっくりして上野動物園の飼育課長に、描かれている鳥や動物の名前を聞きにいったところ、たちどころに世界各地に生息する品種に特定され、さらにびっくりした記憶があるそうだ。この作品は、近年、若冲の関与を否定する見解もあるけれど、これほど「インデペンデントな発想」に若冲がからんでいないわけがない、と小林氏は主張する。確かに、世間に若冲作で通っているものには「ちょっと違う」と感じるものもある。それは、お弟子さんがつくった、いわゆる「工房作」であろう。しかし、そうしたものも含めて「若冲ワールド」を考えてもいいのではないか。これは、異論もあるだろうけど、小林館長から若冲への「愛」の表明だと思った。

 その一方、江戸絵画においては、ちょっと若冲ひとりに光が当たり過ぎている…とおっしゃるのも分かる。でも、私自身もそうだったように、若冲を入口として、江戸絵画の豊饒な世界に多くの人々(特に若者)が入ってくるのは、慶賀すべきことなんんじゃないかな。楽しい話がたくさん聞けてよかった!

※記念の入場券


(株)岡墨光堂
当日の話に出てきた、文化財の保存・修復業者。
リンクをたどると↓下記の団体あり。

一般社団法人 国宝修理装コウ師連盟
主に日本・アジア地域で製作された「絵画」「書跡」「典籍」「古文書」等を対象に国指定文化財の保存修復を行う修理技術者集団。私、こういう仕事をしたかった。性格が雑すぎて、無理かな…。
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サイエンス・ワンダーカマー!/北海道大学総合博物館

2010-06-20 23:40:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
北海道大学総合博物館 学術テーマ展示「ユニバーシティ・ラボ」

 仕事で札幌に行ったので、北大(北海道大学)キャンパスにある総合博物館に寄ってみた。緑に覆われた気持ちのいいキャンパスへは誰でも入れる。博物館も入館無料である。1階は、写真パネルや文書資料を使って北大の歴史を紹介する、比較的「文系」の展示。初代学長の佐藤昌介は、苦労人で尊敬できる教育者だと思っているが、黒田清隆が(いろいろ問題のあった人物なのに)北海道では、ずいぶんストレートに偉人扱いなんだなーと思った。

 2階も、初めは、北大の蔵書や古い機械工具など「歴史」寄りの展示だが、途中から、北大が現在行っている学術研究の成果を紹介する展示に変わる。廊下に設置されたパネルを斜め読みしているうちに、その隙間から、内部の資料倉庫が覗ける仕組みになっており、剥き出しで据えられた骸骨の頭部と目があってドキリ。パネルの隙間に「中に入ってご覧ください」という小さな注意書きが吊るされている。



 え、いいの…?と、おそるおそる細い通路に足を踏み入れてみると、透明ビニールシートで防護された両側の棚には、床から天井まで蓋のない木箱が整然と積まれている。木箱には「遺体」いや「遺存体」のラベル。要するに、これらは全て、鳥やケモノや海獣の骨なのだ。博物学資料だと分かっても、総毛立つような寒さを感じる。さきほどの剥き出しの骸骨には「ヒレナガゴンドウ」という札がついていた。



 これは別の部屋で見つけた恐竜の骨。デカい。というか、展示されている部屋が、博物館のメインホールでなくて、日常の教室・研究室サイズなので、その壁をいっぱいに占拠した恐竜の大きさは、映画「ジュラシック・パーク」で食堂の壁に現れる恐竜の影みたいな恐ろしさがある。悪夢にうなされそう。




 これはワニの骨格標本とあったが、部屋のサイズを完全に裏切っているところがすごい。海洋堂フィギュアミュージアムで見た等身大トリケラトプスを思い出した。



 他にも、ワシントンのスミソニアン博物館を思い出す鉱物標本の陳列、ムラージュ(ロウ製皮膚病型模型、こわごわ覗いた)など、よそでは見ることのできない展示品が多数。大学附設の博物館って、東大と京大くらいしか知らないけど、ここの「ワンダーカマー(驚異の部屋)」度数はずば抜けている!と思った。

 企画展示「海疆ユーラシア―南西日本の境界」(2010年5月14日~11月14日、これは文理融合的)も面白かった。札幌にお出かけの節は、おすすめ観光スポットである。
コメント (2)
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北海道に行ってきました

2010-06-19 23:40:43 | なごみ写真帖
1泊2日、仕事で札幌に行ってきた。空き時間に、北大の植物園を散策。「ライラック並木」では「ライラック(ムラサキハシドイ)」という札をつけた樹は全て花が終わっていたが、類縁種?のヒマラヤハシドイやウスゲハシドイはまだ濃紫や薄紫の花をつけていた。

写真は、ヘンリーハシドイ。


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あの頃の未来都市/団地の時代(原武史、重松清)

2010-06-17 22:46:57 | 読んだもの(書籍)
○原武史、重松清『団地の時代』(新潮選書) 新潮社 2010.5

 『滝山コミューン一九七四』以来、原武史氏が書き続けている「団地の時代」。私は、同世代のひとりとして、懐かしくってしかたない。私は団地育ちではないけれど、子ども向けSFドラマの舞台になった「団地」の妖しく輝かしいオーラは今も記憶に残る。「四谷大塚」の日曜テスト。学研の科学と学習。いや、ただ風景や小道具だけが懐かしいのではなくて、少年期(少女だったけど)の「重い苦みとせつない甘酸っぱさ」(重松氏)が懐かしいのだ。

 重松清氏は1963年の早生まれで、原氏と同学年になるそうだ。『滝山』を読んで、「ああ、俺たちは同じ世代に生きて、同じぐらいに『みんな』が苦手な少年だったんだなあ、という思いが胸の奥深くを強く揺さぶった」という。いつの時代にも、「みんな」が苦手な少年少女はいただろう。けれども私たちの世代は、「みんな」に惹かれつつも「みんな」が苦手な自分に傷ついて、それを大人になるまで引きずり続けているような世代的特徴がありはしまいか…と思う。もちろん世代を超えて、「山本直樹さんとかが漫画にしたら、若い世代もすごく『わかる!』って思うんじゃないか」とも重松氏は発言している。山本直樹が描く『滝山コミューン』、読んでみたい!

 本書は、両氏の異なる生い立ち(重松氏は、地方の社宅を転々とし、80年代、大学入学を機に初めて上京した)を絡めながら、『滝山』の時代的背景を、学問的に解き明かしていく。「団地の定義というのはあるんですか?」「社会主義的なシステムなり思想と団地というものは、どこか親しいものなんですか?」「高台がいいと思われるようになったのはいつなんでしょうね」という調子で、もっぱら重松さんが質問し、原さんが答えるかたちになっているが、まるで名人がぴしりぴしりと石を置いていくような、重松さんの的確な質問が、本書を読みごたえのあるものにしている。「実は私のほうが重松さんに教えられていた」という「あとがき」の原さんの述懐は、嘘ではないと感じた。

 話題は多面的に展開する。憧れの未来住宅だった団地も、いざ入ってみると、電話がない、保育所がない、幼稚園がない、スーパーの物価が高い、という有様で(そうだったのか!)それゆえ「自治会」が生まれ、共産党が勢力を伸ばしていく、という政治思想史的な視点。プライバシーの確保によって膨らんだ「団地妻」の性的イメージ、それを「子どもの教育上」の大義名分で覆い隠す団地住民の清潔志向。生い立ちの違いから(?)重松さんが、土地への執着を自覚し「最終的には『土地』を持つことで完結するはずだという意識が拭いがたくある」のに対し、「(一戸建て願望は)全くないですね」と言い切る原さん。この感覚のズレも面白い。

 団地の需要のピークは70年代初めで終わったにもかかわらず、公団が団地をつくり続けたことに対して、原さんが「戦後日本って、家に対する意識の変化もそうかもしれないし、家庭っていうものも、四十年前に今の姿を見通すことができないような国だったんじゃないかなという気がすごくするんですよ」と述べていたのには心打たれた。そうだなあ。年金も税制も、官僚だけがバカだったのではなくて、誰もこんな社会が現実化するなんて、予想のできない戦後60年だったのだ、としみじみ思った。

 ひとつ本書に注文をつけるとしたら、アメリカのニュータウン、イギリスのガーデンシティ、社会主義国との比較は出てくるのだけれど、アジアの住環境との共通性・違いも、もう少し語ってほしかったこと。まあ、原さんの団地研究は、まだまだ続きそうだから、今後に期待。

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