見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

花を貰う2010

2010-03-28 22:07:51 | なごみ写真帖
2007年3月の日記にも「花を貰う」の写真を掲げた。

あれから3年、また花を貰う巡り合わせの年となった。

というわけで、この1週間は身辺が慌ただしいので、あまり内容のある記事は書けないと思う。ご容赦を。


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東博の平常展示・愛染明王坐像ほか

2010-03-26 23:55:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・本館11室(彫刻)

 等伯展の混雑の口直しは、心落ち着く平常展示で。仏像彫刻の並ぶ11室で、はじめ、美しい空の厨子を見た。頂上に宝珠を頂き、周囲の八角形の壁は、前面が2枚×左右、その奥が1枚×左右に開く。いちばん奥の内壁(残り2枚分)には、牛に跨った大威徳明王のいる楼閣が描かれ、扉の内側には、波立つ海原を背景に、降三世明王と金剛夜叉明王(かな?)そして菩薩たちが描かれている。鈍く輝く金色と、青・赤・緑等の色彩の美しいこと。

 しばらくボー然と立ちつくしたあと、見慣れない愛染明王坐像が並んでいることに気付いた。実は、隣りの厨子に納められていたものらしい。「内山永久寺伝来、鎌倉時代、重文」という説明あり。昨年度まで3年かけて修理が行われていたのだそうだ。ガラス玉を連ねた瓔珞が明王の胸元だけでなく、台座である蓮華の花をぐるりと覆うように垂れ下がり、深紅と截金の荘厳な対比に、清浄な露のような輝きを添える。まるで、美麗をきわめた院政期の仏画をそのまま立体フィギュアにしてしまったようで、ポカンと開いた口がふさがらない。パネルの解説も「(瓔珞が)天蓋と蓮台から垂れる様子も実に美しい」と大絶賛だった。画像はこちら(拡大を推奨)。これだけの名品なのに、東博が何の「宣伝」してないのはちょっと解せないが、仏像ファンはお見逃しなく!

■本館16室(歴史資料) シリーズ「歴史を伝える」特集陳列『博物図譜-桜を中心に-』(2010年3月9日~2010年4月25日)

 春休みの「博物図譜」特集は、この16室の恒例と言っていいように思う。今年は、幕末~明治のいわゆる「博物図譜」に加えて(科学と芸術の枠を超えて)円山応挙の『写生帖』と狩野探幽の『草花写生図巻』が出ているところが新しい。服部雪斎の『花鳥』は、濃厚な色彩でボタン・ツバキ・ハクモクレンなど多様な植物を、狭い画面にぎゅうぎゅう押し込めて描く。西洋のボタニカルアートみたい(でも軸表装)。服部雪斎は博物画家と称されているけど、元来は谷文晁門下なんだな。

 関根雲停は何を見ても楽しいが、田中芳男に率いられた博物局が編纂した『博物館獣譜』から、トラの絵が展示されていた。かわいい~。どんぐり眼のトラの顔のスケッチの横に「文久元十月二十六日」とある。そうだ、今年の新春特別展示『寅之巻』でも紹介されていたとおり、これは関根雲停が「日本に初めて上陸した生きた虎」を見物した記録なのである。

 このほか、気になったのは、後藤光生編『随観写真』に人体解剖図(ただし"人体"はなくて内臓配置図のみ)が載っていること、同じ本だったと思うのだが「幸福」と題した、鹿に似た動物の絵があって、「牝鹿の中より変生したもので小型、岐蘇(木曽)山中に時々いる(大意)」みたいな説明が書いてあった。あやしい。

 他の展示室では、3月上旬まで出ていた雪舟の『梅花寿老図』に替わって、同じ雪舟の『四季山水図』の「春」が4月上旬まで出ている。4幅の中で最も中国的と言われる作品だそうだ。そのせいか、とっても好き。こういう名品を飽きるまで眺めるのは、平常展示だけの贅沢である。
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金唐紙の美と技術/旧岩崎邸庭園と紙の博物館

2010-03-25 23:34:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
旧岩崎邸庭園(台東区池之端)

 大河ドラマ『龍馬伝』に触発されて、旧岩崎邸庭園に行ってきた。明治11年(1878)、三菱財閥初代の岩崎弥太郎が邸地を購入し、第3代・岩崎久弥が建てたものである。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドル。

↓木立に閉ざされた長い坂道を進んでいくと、いきなり、ぬっと現れる洋館。このアプローチの感じは、第4代・岩崎小弥太が建てた静嘉堂文庫にちょっと似ている(ちなみに静嘉堂文庫は、コンドルの弟子である桜井小太郎の設計)。


↓玄関の扉の上の採光窓


↓ミントン社製のタイル


↓そして、これが見どころの金唐(革)紙!!


紙の博物館 創立60周年記念・企画展『金唐革紙の魅力~過去から未来へ~』(2010年3月20日~6月13日)

 金唐(革)紙について詳しく知りたかったので、帰りに王子の紙の博物館に寄った。学んだことを整理してみよう。ヨーロッパでは、なめし革の上に金属箔を貼った「金唐革(きんからかわ)」が、王侯貴族の城館の壁や天井に使われてきた。17世紀の半ば頃、日本に渡来した「金唐革」は袋物や小物に使われて、一大流行となった。「金唐革紙(きんからかわし)」は、これを和紙で模造した擬革紙の一種である。明治期には、壁紙としてヨーロッパに輸出される一方、鹿鳴館や岩崎邸などの洋館の壁を彩った。その製法は、一度は完全に廃絶してしまったが、文化財の修復に取り組む上田尚氏によって復元された。上田氏は、よみがえった「金唐革紙」を「金唐紙(きんからかみ)」と呼んでいる。現在、旧岩崎邸などで見ることのできる華麗な壁紙は、この復元による「金唐紙」である。

 紙の博物館は、1962年まで金唐紙を製造していた日本加工製紙株式会社(2002年、自己破産!)から譲り受けた、金唐紙の版木ロール130本を保有しており、会場には、このごく一部が展示されている。ロールの風合い(木地の色、彫りの深さ)はさまざまだが、基本は桜の木だそうだ(日本の書籍の木版と同じ)。「金唐紙」と言いながら、実は銀箔を貼って、ワニスを塗ると、金色に輝き出す、ということも初めて知った。

 会場では、上田尚氏による金唐紙制作工程のビデオを視聴することができる。どうやら、均一な刷毛さばきが最重要らしい。根気と精神の安定がものをいう、単調な作業の繰り返しである。刷り上がった金唐紙は、色のつけかた次第で、何通りにも変身する。地道な作業から大胆で華麗な金唐紙が生まれる様子は、魔法を見ているようだった。

金唐紙友の会(2008年4月1日発足)
「作品紹介」をご堪能あれ!

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「社会系」で行こう/貧者の領域(西澤晃彦)

2010-03-24 23:55:02 | 読んだもの(書籍)
○西澤晃彦『貧者の領域:誰が排除されているのか』(河出ブックス) 河出書房新社 2010.2

 「貧困」「格差」を論じた本を目にすると、つい手に取ってしまう。しかし、読んでみた結果は、ぴたりと胸に落ち着く本もあれば、違和感と後悔が残る本もある。なぜ自分は、この問題にひかれるのか。共感できる本とできない本の差異はどこにあるのか。たまたま見つけた本書を読みながら、そんなことを考え続けた。

 本書は、都市社会学の立場から、野宿者や寄せ場労働者などの都市下層(Wikiによれば、東京などの全体的な生活水準の高い大都市に在住している貧困層)研究に携わってきた著者が、近年の「貧困」問題をめぐる「報道の洪水」に対して、「貧困の現実はいまだ十分に可視化されていない/むしろ何も変わっていないのではないか…」という、戸惑いと違和感から書き起こしたものである。

 本書の特徴的な点は、著者が貧困問題の核心に「排除」という概念を据えていることだ。格差社会論は「能力」次第で階層移動が可能な社会を前提に移動の阻害要因を見出そうとする。一般的な貧困論は、欠如や不利といった指標概念によって語られる。しかし、著者は、国家と社会(=よき国民をメンバーとする)が「非国民的なもの」を周縁に押しやり、制度的に排除することから、貧困の発生を説明しようとする。読みながら、私の頭の中には、むかし好きだった、赤坂憲雄の『排除の現象学』や『異人論序説』がよみがえってきた。そうだ、私は「貧困」の問題を通して、われわれの社会が不可避的に備えている「排除」のメカニズムを考えることにひかれているのだ。たぶん。

 「非国民的なもの」とは何か。具体的には、家族を持たず、定住せず、組織(会社など)に属さない人々である。これって、私の場合、前の2つは当てはまってしまうのだ。幸い、安定した「組織」に属しているからいいようなものの、どこかで一歩選択を誤ったら、明らかに貧者の領域に押し込められていただろうと真面目に思う。と思いながらも、家族を形成することに強い意欲はないし、2~3年ごとに住む町の変わる今の生活が、本心から好きだ(実は、来月にも引っ越し予定)。だから、「よき国民」になれない人々=排除された人々の物語は、どうにも他人事とは思えない。

 では、貧者、あるいは「非国民的なもの」を着地させる社会という拡がりは、いかにして立ち現われるのか。著者の回答はいかにもユニークである。それは雇用とか福祉制度ではなくして、「都市」(アーバニズム)の問題である。「都市」において、人々は異質な文化的背景を持つ「他者」と共在せざるを得ず、そのことが「共生の作法」を練り上げていく。著者の紹介によれば、長年、地方から上京してきた若年労働者を受け入れてきた池袋や新宿では、新たな「ニューカマー」アジア系外国人と地元住民の間でも、一部メディアが過剰に報じたような、強い軋轢や衝突は起こらなかったという。本当だとすれば、これは素晴らしいことだ。しかし、日本の経済的衰退は、都市の文化的な死を招き、貧者が身を寄せる場所としての「都市」は、奪い去られつつあるという。福祉や社会保障の制度構築以前に、多様性や異質性に寛容な「都市の作法」を取り戻さなければ、日本は、どんどん住みにくくなっていくだろう。

 著者は、そのように異質な人々が共生する社会の構築を志向する人々のことを「社会系」と呼んでいる。ちょっと緩い言葉で、私は好きだ。著者のいう社会は、「合理性に目覚めた強い個人のアソシエーション」ではない。「社会系」の目指す社会とは「個人の弱さを庇わざるを得ないがゆえにおずおずと見出される拡がり」である。70~80年代に、強い個人を主体に「市民社会」をつくる運動をしてきた世代からは、笑止!と軽蔑されるだろうな。でも敢えて、これからは社会系で行こうよ。
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アメリカ人に教わる日本史/昭和(ジョン・W・ダワー)

2010-03-22 23:56:55 | 読んだもの(書籍)
○ジョン・W・ダワー著、明日川融監訳『昭和:戦争と平和の日本』 みすず書房 2010.2

 1作だけでその著者を、忘れられない作家(研究者)としてしまう本がある。ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001)がそうだった。そのあと、もう1冊『人種偏見』(TBSブリタニカ、1987)を読んだ。評判の高い『吉田茂とその時代』は、絶版のため(意外と大学図書館の所蔵も少ない)、気になりながら今日まで未見のままだ。

 本書は(たぶん)『敗北を抱きしめて』から9年ぶりの日本語訳新刊である。嬉しい! しかし、標題紙の裏を見たら、原著『Japan in War and Peace』は1993年刊行とあり、「まえがき」によれば、収録されている論文は「ここ15年ほど」つまり、70年代末から90年代初めにかけて執筆されたもののようだ。ちょっと古いなあ。まあ、でもいいか、と思って読み始めた。

 全部で11に章立てされた論文は、おおよそ主題となる時代の順に配列されている。まずは、戦時中の日本映画、原爆研究、流言飛語等をめぐる論考。そして、占領下の日本、吉田茂の史的評価。さらに昭和の終焉――天皇の死を迎えての考察。

 冒頭の「役に立った戦争」は、敗戦を挟んだ「戦前・戦中」日本と「戦後」日本の連続性に論及したもの。同種の問題提起は、最近、日本人研究者もおこなっているが、特に著者が「明治時代の広範な改革と業績は、幕末の力学を理解しないことには説明できない」と前置きして、戦後の日本を明治時代に、「降伏前の15年間の力学」を幕末になぞらえている点が、興味深いと思った。そうなんだよなー。「新生日本」が旧い時代の廃墟から生まれたというのは一種の神話で、実際は「昭和初期の、軍国主義的だった年月はまた、途方もなく複雑で多様性に富み、そのことが戦後日本社会の性格や力学に正負両面で影響をあたえた」のである。この「正負両面」の影響を、自虐的にも、夜郎自大にもならず、日本人自身が正しく直視するには、まだまだ多くの議論が必要だと思う。

 だいたい、私たちは、あの戦争について知らなすぎる――続く数編の論考を読みながら、私はしみじみそう思った。「日本映画、戦争へ行く」は、戦時日本のプロパガンダ映画が、ハリウッドの映画監督たちを驚嘆させる出来栄え(大衆の共感をつかむという点で)であったことを伝える。「『ニ号研究』と『F研究』」は日本の戦時原爆研究(既に十分な日本語資料が公開されている)の悲劇性と喜劇性を、アメリカ人読者に向けて淡々と紹介したもの。科学者たちは、空腹をこらえ、ひたすらウラン原石を求めて鉱石調査を続けていた(そこから始まるのか!)。「造言飛語・不穏落書・特高警察の悪夢」では、『特高月報』に掲載されている作者不詳の落書の数々を紹介する。用語・形式から「熟練された左翼主義者」を思わせる落書が多いが、農民や一般民衆が、驚くほど赤裸々に怨嗟や不敬の念を吐露した言葉も拾われている。けっこう言いたいことを言う自由(?)があったのだなあ、ということに驚く。

 吉田茂について、アメリカの再軍備要求をかわし続け、戦後日本の経済的繁栄の基礎を築いたという評価は、定番どおり。しかし、そのことは「国家目標と国際イメージという途方もなく大きな代償を払ってなしとげられた」と著者は付け加える。このダメージ(重要な決定は全てアメリカに依存する)の解消は、今なお、戦後日本の宿題である。

 「日米関係における恐怖と偏見」は1980年代末に書かれたもので、両国における人種差別的思考を論じている。その主題はともかく、前提となっている両国の経済状況の分析――日本とアメリカは「異質な、そして、おそらく相容れない資本主義モデルを代表する」もので、日本は「アメリカ的な意味での市場経済でない」という指摘には、今読むと切ないものがある。そうだった。20年前までは、そうであったはずなのに…ね。
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懐かしの新疆/張愛紅・シルクロード・亀茲(キジル)石窟壁画模写展覧会(藝大美術館)

2010-03-21 22:39:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京藝術大学大学美術館 陳列館『張愛紅・シルクロード・亀茲(キジル)石窟壁画模写展覧会』(2010年3月16日~3月28日)

 東京藝術大学と中国・新疆藝術学院の大学間交流協定を記念する展覧会。懐かしい!! 友人に誘われて、2週間を要する新疆シルクロードツアーに参加したのは、1996年のことではないかと思う。今でこそ「キジル」でネット検索をかければ、石窟の外観から非公開の壁画の数々まで、簡単に閲覧できるが、そんな情報収集も考え及ばなかった時代のこと、全く白紙の状態で現地に行ってしまって、初めて接する「西域美術」の蠱惑的な魅力に、日々呆然としていた。

 東アジア的な静謐さとも、西洋的な調和とも異なる、大胆な人体デフォルメ。リズミカルで音楽的な官能性は、三角形の繰り返しで表現された「山水」や、供養人の群像によく表れていると思う。青・緑・茶を基調とする、あまりにも独特な色彩は、本来のものではなくて、褪色によってこうなったらしい(緑色→本来、赤だった?)が、見慣れてくると、脳内補完をせずとも、そのままで美しく感じられてくる。

 この展覧会は、1985年から2001年まで亀茲石窟研究所において張愛紅氏が制作した模写40点を展示、ということになっているが、クムトラ石窟の山水図などの創作作品も含まれ、模写作品はもう少し少なかったように思う。キジル千仏洞に現存せず、海外の美術館に流出したものの模写も含まれる。

 いずれにしても、日本人には、あまりなじみのない西域美術。この機会に、魅力の一端に触れてくれる人が多いといいなあと思う。入場無料。
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花なき里の花/山水画の名品と禅林の墨蹟(根津美術館)

2010-03-16 23:12:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 新創記念特別展 第4部『胸中の山水・魂の書 山水画の名品と禅林の墨蹟』(2010年3月13日~4月18日)

 「新創記念特別展」シリーズも、ようやく人の波が引いたようだ。第4部「山水画の名品と禅林の墨蹟」は、落ち着いて見たい作品が多いので、ほっとする。冒頭には、牧谿筆『瀟湘八景図巻』の模本。なーんだ、模本かと思うなかれ。原本は足利義満によって切断され(掛け物にするため)、諸家に伝わったが、享保14年(1729)徳川吉宗がそれを一堂に集めさせ、狩野古信(ひさのぶ)に写させたことが「徳川実記」に見える。

 展示されているのは3ヶ所(紙を継いで画巻に仕立てている)だが、1枚目の隅には、裏書(たぶん)で「遠浦帰帆 牧谿筆 原本栄川院絵本出所(かな?)不審」とあるのが読み取れる。2枚目には「遠寺晩鐘 紀州様御所蔵」、3枚目には「漁村夕照 松平左京太夫殿所持」とある。この「紀州様」「松平左京太夫殿」が誰?というのを調べてみるだけで、とても面白いのだが、先を急ぐと、この冒頭の画巻の2つ先に掛けてあるのが、牧谿筆『漁村夕照図』(南宋時代、国宝)。そう、先ほどの狩野古信模写の原本なのである。古信模写も、悪くないと思ったけど、やっぱり原本はしっとり感が違うなあ。画面を覆う夕霧の濃淡が、模本では、はっきりした白黒のストライプみたいになっているのに対して、原本では、もっと曖昧なぼやけかたをしている。左下の岩のまだら(光と影か)にもつややかな質感が感じられる。

【個人的なメモ】
 牧谿筆『瀟湘八景図巻』の現在の所蔵状況は以下のとおり(参考:中国絵画史ノート 宋時代 瀟湘八景について)。徳川美術館と承天閣美術館の所蔵品は、見つけた!と思ったら、他(大軸)よりわずかに寸法が小さい別もの(小軸、模写?)だそうだ。

・瀟湘夜雨図=(所在不明)
・煙寺晩鐘図=畠山記念館
・山市晴嵐図=(所在不明)
・漁村夕照図=根津美術館
・遠浦帰帆図=京都国立博物館
・洞庭秋月図=(所在不明)[徳川美術館]
・平沙落雁図=出光美術館
・江天暮雪図=(所在不明)[承天閣美術館]

 根津美術館に戻ろう。鈕貞筆『山水図』(清・康煕時代)もいい。縦長の大きな画面に、視線を上へ上へと誘導するような山水。先だって、静嘉堂文庫の展覧会で覚えた「金箋」という独特の料紙を使用しており、暗がりの中で、内側からぼうっと発光するような効果をあげている。素敵だ! 表具の美しさ(漁村夕照図→緑、鈕貞の山水図→紺)もため息もの。

 等揚(雪舟)筆『破墨山水図』は、どこが山やら、どこが水やら、目と頭を抽象画モードに切り替えないと理解できない。『楼閣山水図』屏風は、雪村筆として記憶に留めていたが、「雪村の筆法をさらに誇張化したような形式化」が見て取れ、雪村周辺の画家の作品であろう、と解説されていた。でも、アラビアンナイトで魔法のランプから湧き出てきたような、伸縮自在を感じさせる山水(笑)、好きだなあ。テキトーに描き入れたような人物も愛らしすぎる。と思えば、谷文晁の絹本墨画淡彩『山水図』は、ハッと目の覚める清々しい美しさ。色も構図も、近代の水彩画を思わせる。

 展示室2は「禅林の墨蹟」。半数以上が中国・元時代の墨蹟という、圧巻のコレクション。でも、私がいちばん気に入ったのは、日本人にはおなじみ、一山一寧の草書だった(→Wiki。ああ、このひと、補陀落山観音寺の住職だったんだ)。中国絵画マニア的に見逃せないのは、挿絵入りの墨蹟『布袋蔣摩訶問答図(ほていしょうまかもんどうず)』。柳の木(?)の下で、つぎの当たった大きな袋に両腕を載せてくつろぐ布袋。笑顔の布袋さんとは対照的に、緊張した面持ちで少し身を屈め、拱手して問答を挑もうとしているのが蔣摩訶である。解説は楚石凡(そせきぼんき) の書法についてしか語っていないけれど、これも有名な、そして私の大好きな因陀羅筆『禅機図断簡』と呼ばれるシリーズの1枚である。

【個人的なメモ】
 因陀羅筆『禅機図断簡』の所蔵状況は以下の通り。全て国宝(→国指定文化財等データベース/文化庁※データは不十分)。

・寒山拾得図(楚石梵賛)=東京国立博物館
・丹霞焼仏図(楚石梵賛)=石橋美術館(福岡県久留米市)
・智常禅師図(楚石梵題詩)=静嘉堂文庫美術館
・布袋蒋摩訶問答図(楚石梵賛)=根津美術館
・智常・李渤図(楚石梵賛)=畠山記念館

 満足しながら3階へ。展示室6(茶室・青山荘)のしつらえは「花見の茶」をテーマにしていた。これが面白い。釜も水指も茶入も、全て丸いのだ。瓢形(ひょうたん形)の青磁の花生も丸重ねだし、全体に風船が散っているような、なごみ感がある。ただし、床の間の掛け軸(尾形切・伝公任筆)の表具は縦のストライプで、この取り合わせが絶妙。「花見の茶」と言いながら、どこにも明らかな「花」の姿はない。けれども、粉引茶碗(銘・花の白河)は、白い地にポツポツと散った灰色の斑点を花に見立てたものと思われる。なんて奥ゆかしい。また、さりげなく畳に置かれた解説を見たら、床の間の古筆は「あだなりと なにこそたてれ さくらばな」で終わっていた(業平集かな)。一首の途中で切れているのが、かえって趣き深い。えーと、この続きは「としにまれなる 人もまちけり」だった。ああ、こんなしつらえで迎えられたら、幸せだろうなあ。

 展示室5は「香合百選」。私は全く茶の湯を知らないので、展示室で覚えた新知識をメモ。漆器の香合は初夏から晩秋まで、風炉の季節に使われ、香木を用いる。陶磁器の香合は晩秋から春まで、炉の季節に使われ、練香を用いる。確か新春の展示にも出ていた(ような気がする)仁清の『色絵ぶりぶり香合』が、フタを開けて展示されており、意外にも、内側に美しい青釉が塗られているのに驚いた(ぶりぶりは正月の玩具)。
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中世の仏教絵画を味わう/金沢文庫の絵画(神奈川県立金沢文庫)

2010-03-14 23:35:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 特別展『金沢文庫の絵画』(2010年2月18日~4月18日)

 神奈川県立金沢文庫の開館80周年を記念して、同館が保管する(=称名寺に伝わった)絵画の名品を紹介する展覧会。前後期で、かなり大幅な展示替えがある。国宝の四将像(北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像)揃い踏みが見られるのは後期(3/24~)だが、前期も面白そうなので、行ってみた。

 第1室に入ると、高僧の肖像、いわゆる頂相図がぐるりと掛っている。称名寺の開祖・審海上人像は、前に見た記憶がよみがえった。椅子の掛け布(→「法被」というらしい)の華やかな文様はよく残っているのに、顔の目鼻が全く消えて、のっぺらぼうみたいになってしまっている、ちょっと怖い肖像画である。西大寺ゆかりの忍性大師、興正菩薩(叡尊)の肖像を見て、そうだ、称名寺って真言律宗系だったな、と思い出す。変わったところでは、華厳宗祖の香象大師像。小花がふりそそぎ、リリカルな雰囲気。ほか、弘法大師像、伝・慈恩大師像、伝・鑑真和上像など、なんでもあり。ひとつの寺というより、東国の仏教文化センターだったことが大きいのかも知れない。

 不思議に思ったのは、どの肖像画にも、ほとんど書き入れがないこと(上述の審海像にだけ、申し訳のような書き入れがある)。京都の禅寺に伝わる頂相図は、だいたい賛や法語の文字だらけのイメージがあるのに。

 後半、第二室は、仏画が中心。巨大な仏涅槃図(鎌倉時代)は初見のような気がする。こんなにたびたび金沢文庫には来ているのに…。たった1羽で上空を舞う迦陵頻伽が、寂しそうで美しい。十二神将像(鎌倉時代)も記憶にないなあ。沈んだ青色を背景に、寒色を基調にした沈鬱で美しい作品。前期展示は亥神と辰神。ポスターになっている寅神は後期の登場である。禅月様と呼ばれる、奇ッ怪な羅漢像が2点。これは一度見たら忘れられないので、よく記憶に残っている。

 公式サイトには「主要展示品」及び「展示替え一覧」が掲載されているが、できれば時代を付記してほしかった。実際に行ってみると、鎌倉~南北朝、室町時代のものがほとんどで、時代の古さに圧倒される。でも、最後の「西王母図」と「達磨図」(長谷川雪旦筆)は、江戸~明治もので、新しいけど、好きだ。
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鎌倉・鶴岡八幡宮、大銀杏倒壊から3日目

2010-03-13 22:42:57 | なごみ写真帖
2010年3月10日(水)未明、鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊した。朝の情報番組で目にした映像は強烈だった(毎日jp2010/3/10)。気になっていたので、様子を見に行ってきた。鳥居をくぐって正面から近づいていくと、見慣れた風景がなんだか変。



参道で、ちょうど、大量の黒土を積んだトラックが出ていくのとすれ違った。倒れた大銀杏は、既に小さく切り刻まれて、あらかた搬出が終わっているようだ。えええ~なんか、残念。ご神木扱いしている割には、事務的だなあ。しばらく、あのまま転がしておいても、霊威が感じられてよかったと思うのに。安全上とか衛生上の問題で、そうはいかないのだろうか。



ガランとした石段の左脇。緑のネットの内側には、まだ「大銀杏」の立て札が残っていた。毎年、紅葉シーズンには見事な黄金色を見せていたけれど、よく見ると幹のあたりは老化が進んで、がらんどうだった。心配なのは、ちょろちょろ姿を見せていたタイワンリスたちが、無事に逃げおおせたかどうかである。



私が鎌倉の隣りの逗子市の住民だったのは、ちょうど10年ほど前で、鶴岡八幡宮にちょくちょく遊びに行くようになったは、それ以来のことだ。倒れた大銀杏の樹齢は約1000年だそうだから、1000年の最後の10年間のつきあいだったかあ、と思うと、何だか感慨深い。
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子どもの勇気、大人の責任/飛ぶ教室(ケストナー)

2010-03-11 00:17:39 | 読んだもの(書籍)
○ケストナー著、丘沢静也訳『飛ぶ教室』(光文社古典新訳文庫) 光文社 2006.9

 小説をほとんど読まない私だが、ときどき、発作的に読みたくなる。そういうときは古典を選ぶ。「名作」と聞いていても、まだ読んだことのない本は多い。本書も、子ども時代に、たぶん一度くらいは読みかけたと思うのだが、きちんと読み通すことなく終わってしまったようだ。私はファンタジーびいきだったので、こういう写実的な物語は苦手だったのかもしれない。

 舞台は、1930年代(大不況時代だ)のドイツのギムナジウム。男子学生だけが集う、9年制の寄宿学校である。主人公集団は高等科1年の少年たち(14歳くらい?)。物語は、主人公集団のひとり、アメリカ生まれのジョナサン・トロッツが、4歳のとき、離婚した実父によって、厄介払い同然に、単身ドイツ行きの船に乗せられたことから始まる。ハンブルクの波止場に迎えにくるはずの祖父母は現れず、ジョナサンは船長の妹に引き取られた。

 成長したジョナサンが、ギムナジウムの同級生のために書きおろしたクリスマス芝居が「飛ぶ教室」である。クリスマス祭を控えて、出演者たちは練習に余念がない。そこに、敵対する実業学校の生徒たちが、彼らのディクテーション・ノートを奪い去り、さらに仲間のひとりを人質にするという事件が持ち上がる。少年たちは、寄宿舎を抜け出し、仲間の奪還に成功する。しかし、帰ってきたところを上級生に見とがめられてしまう。

 「正義さん」と呼ばれる、正義が大好きな舎監のベーク先生は、少年たちの話を聞き、「どうやら私はまだちゃんと信頼されていないみたいだから」と前置きして、自分が寄宿生だった頃の体験談を物語る。病気の母親の見舞いに行くため、何度も無断で学校を抜け出したこと。厳しい舎監の先生には、真実が話せなかったこと。「そのとき決心したんだ。苦しんだのは、心を割って話せる人がいなかったためだから、まさにこの学校で、自分が舎監になろう、ってね。そうすれば少年たちは、悩みごとをなんでも相談できるわけだから」。

 うわ。何てカッコいいんだ。この箇所を電車の中で読んでいた私は、ぼろぼろに涙腺崩壊してしまった。「ハリー・ポッター」シリーズのダンブルドア校長にもちょっと通じるけど、正義さんのほうが、野暮で骨太のカッコよさ、男らしさを感ずる。いずれにしても、少年の理解者である大人(とりわけ教師)を描いた児童文学の伝統を持つ国は幸せだと思う。こういう作品を読んで育ったら、厳しい現実に突き当たっても、大人になること(大人に立ち混じること)に絶望しないですむのではないかしら。同時に、既に大人になってしまった自分が、子ども(後輩)のために、何をすべき責任を負っているか、ということを、あらためて思い出させてくれる物語でもある。

 「禁煙さん」というおじさんも素敵だ。お払い箱になった禁煙車両で暮らしている謎の人物で、夜はあまり品のよくないレストランで、ピアノを弾いて生計を立てている。少年たちは、正義さんに相談できないことも禁煙さんになら相談できると感じている。それから、火を噴くようなディクテーションで生徒をしぼり上げるクロイツカム先生も、凡庸なりに少年たちを愛している校長先生も、みんな好きだ。私がもう少し若かったら、主人公の少年たちの個性豊かな造型に夢中になったと思うのだが、この歳で読むと、むしろ大人たちの描き方に惹かれた。世間にはさまざまな大人がいるけれど、ある者は思慮深く、ある者はぎこちなく、でもみんな、子どもを愛しているのだということが信じられて、感動的だった。

 最後のエピソードは、父親が失業中のため、家から汽車賃を送ってもらうことができず、クリスマス休暇に帰省できなくなったマルティンに、ベーク先生が旅費の20マルクをプレゼントするというもの。これ、今の学校で読ませたら、「教師が生徒に現金をプレゼントするなんてもってのほか」「むしろ我慢を教えるべき」とか、紛糾しそうだなーと思った。いいんじゃないの? 貧乏が不幸なのではない。でも貧乏が理由で、クリスマスの家族団欒が奪われるのは、当の子どもにとって、間違いなく不幸なことだ。それが20マルクで救えるのなら。そして、救われたマルティンが「お母さんとお父さんが、正義さんと禁煙さんが、ジョニーとマティアスが、ウーリとゼバスティアンが(同級生たち)、ほんとうに、ほんとうに幸せになりますように。そしてぼくも幸せになりますように」と願いを捧げてくれるなら。私は泣いた。そういう真剣な願いがあってこそ、未来は少しずつ明るくなっていくのだと思う。

 親の育児放棄とか貧困とか、意外と今日的なテーマに結びつきつつ、たぶん子どもたちには生きていく勇気を、大人には、より住みやすい社会をつくる責任を思い出させてくれる名作である。「子どもの涙が大人の涙より小さいなんてことは絶対にない」って名言。「元気をだせ。打たれ強くなれ」「ガードを固めることだ」というのは、作者が子どもたちに贈る、人生に立ち向かうための心構えである。
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