見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

近代小説の始動/中国の五大小説・下(井波律子)

2009-03-31 00:32:19 | 読んだもの(書籍)
○井波律子『中国の五大小説(下)水滸伝・金瓶梅・紅楼夢』(岩波新書) 岩波書店 2009.3

 (個人的に)待望の下巻。昨年4月刊行の上巻が『三国志演義』『西遊記』を紹介したのに続き、下巻では『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』を扱う。『水滸伝』は『三国志演義』と同様、14世紀中頃の元末明初の成立だが、二百年あまりも写本の形で流通し、現存する最古のテキストが刊行されたのは、明末の万暦年間(1573-1620)であるという。『金瓶梅』は、万暦年間中頃の成立。20年ほどは写本で流通し、最古の刊本は万暦末から天啓年間の刊行。さらに150年後、18世紀中頃の清代に曹雪芹によって著されたのが小説『紅楼夢』である。こうしてみると「五大小説」が包み込む四百年間って、けっこう長い。日本でいえば『太平記』や『曽我物語』から近松・秋成までをカバーしている。

 私は、きちんと全訳で読んだのは『三国』『西遊記』『水滸伝』まで。『金瓶梅』と『紅楼夢』は梗概しか知らない。これは、日本人には多いパターンではないかと思う。『水滸伝』は、魔星の生まれ変わりである百八人のアウトサイダーたちが、天衣無縫の活躍で悪徳官吏を打倒しつつ、天然の要害・梁山泊に集結する物語。たぶん中国で最も愛されている古典小説は、この『水滸伝』だと思う。逆に、あまりにも「盛り場演芸」的な残虐さ、アクの強さ、物語の粗雑さなど、日本人には受け入れがたいところが多いのではないか。

 特に後半、勢揃いした梁山泊軍団が「招安」を受け(官軍となり)、敗戦を重ねて散り散りに退場していく姿(著者の表現を借りれば「整理事業団」さながら)は、どうしてこんな結末をつけたのか、本当に不思議だった。とは言え、この小説のよさは最終的な「悲壮凄惨の光景」までを描き切ったことにある、とする幸田露伴の見解に私は共感する。そうだ、忘れていたけれど、宋江は李逵を道連れにするんだよなあ。この無理無体な悲壮凄惨さが「侠」と呼ばれる倫理の極北なんだろうなあ。

 『金瓶梅』は、『水滸伝』の倫理的潔癖さを「くるりと逆転」させた作品という著者の説明はとても分かりやすい。片や女性排除のストイックな男の世界であり、片や個性的な悪女が引きも切らずに登場し、欲望とエロスを貪婪に追求する新興商人の世界である。一種あっけらかんとした、不毛な欲望の暴発ぶりは、明末社会のアナロジーであるともいう。けれども、物語の中心に位置する西門慶に主体性がなくて、もっぱら、周りの登場人物が物語の魅力を担うという構造は、『水滸伝』の宋江、いや『演義』の劉備玄徳、『西遊記』の三蔵法師以来の伝統をきちんと踏まえているとも言える。その一方、『金瓶梅』は、前三者の「語り物文学」から、単一の作者による「書かれた小説」への離陸を果たしている点もあり、たかがエロ文学とあなどれないことがよく分かった。

 『金瓶梅』を、さらに別の軸を使って反転させたところに成り立つのが『紅楼夢』である。主人公の賈宝玉を取り巻くのは、教養豊かな良家の女性たち。描かれる生活のディティールは、いずれも洗練の極み。このように見ると、3作品が互いを映す関係が見えてくるように思う。『紅楼夢』のストーリーは、端的に言ってしまえば「御曹司と薄幸の美少女の悲恋もの」だが、それだけでは済まない「恐るべき深さ、厚さ、複雑さ」を持った物語だという。その一端は、本書が取りあげた、グレート・マザーの賈母、大家族を仕切る王煕鳳、田舎育ちの劉姥姥などの造型からも窺うことができる。これが読まれるようになると、中国文化に対する日本人の見方もずいぶん変わるんじゃないかと思う。正直、とっつきにくいんだけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐れずに生きる/映画・花の生涯―梅蘭芳

2009-03-30 19:44:23 | 見たもの(Webサイト・TV)
○チェン・カイコー(陳凱歌)監督『花の生涯―梅蘭芳

http://meilanfang.kadokawa-ent.jp/(※音が出ます)

 中華芸能サイトでこの作品を知ったときは、またえらく昔の名優を取り上げた映画を作るんだなあ、と思っただけで、興味は湧かなかった。けれども、私はそこそこの京劇好きである。舞台を見た経験は少ないけれど、早稲田演劇博物館『京劇資料展』の展示図録、加藤徹さんの著書『京劇』などを深く愛好している。映画の宣伝をネットで見て、おお、けっこう本格的な京劇シーンがありそうだな、と思ったこと、そして、私が京劇の魅力を知ったおおもと、懐かしい映画『さらば、わが愛 覇王別姫』(1993)と同じチェン・カイコー監督作品であることに気づいて、ふらふらと見に行ってしまった。

 なかなか、よかったと思う。前半では、私の好きな清末~民国初年の中国の雰囲気が大画面でたっぷり味わえた。あの、没落する王者の栄光と、薄汚れて猥雑なエネルギーが同居している感じが好きなんだなあ、私は。芝居小屋は、まさにそれらが凝縮された空間である。進歩派ブレーンとともに進める演劇の革新。守旧派の名優との戦い。アメリカ公演の成功。家庭内の不和。演劇人の生涯として、型どおりといえば型どおりだが、基本的には史実に沿ったストーリーである。そのメッセージは、「活得不害怕」(恐れずに生きる、勇敢に生きる)のひとことに集約されるだろう。

 後半、日本軍の占領時代に入ってからは、私はどきどきしていた。前述の加藤徹さんの本で、梅蘭芳が日本軍のために舞台に立つことを拒否して髭を生やした、というエピソードを読んで、非常に驚いた経験があったので、果たしてその場面は再現されるのか?と構えていたのだ。その場面は、後半のクライマックスとして用意されていた。中国人にとっては、梅蘭芳を語るうえで外せないエピソードなのだろう。同時に、たぶん多くの日本人は、名女形・梅蘭芳の名前は知っていても、この事実は初めて知るものだろうと思う。

 映画『さらば、わが愛』でも、レスリー・チャン演じる主人公の女形が、日本の軍人たちの前で京劇を演じる場面があったと記憶するが、本作では、梅蘭芳に好意と尊敬を抱き、上官の命令との間で苦悩する田中少佐(安藤政信)をわざわざ配して、ずいぶん日本人に好意的な描き方をしているなあ、と感じた(逆に、日本のメディアが避けたがる「支那」という国名を連呼させている点も興味深かった)。梅蘭芳は1961年、67歳で死去。やや早い没年だが、いい時に亡くなった、という感じもする。文革(1966~1976)の混乱、それによって京劇俳優が被った悲劇を知らずにこの世を去ったという点では。

 考えてみると、中国の映画やTVドラマには、伝統演劇の俳優を扱ったものが、けっこう多い。『心の香り』『變臉(へんめん)』など。あと、あまり知っている人はいないと思うが、CCTV(中国中央電視台)のドラマ『人生幾度秋涼』でも、さりげなく脇役に京劇一座が配されていて印象深かった。日本にはこういう作品ってあるのだろうか? あまり思い浮かばないような気がする。加藤徹さんの本を読んでも感じたのだが、中国における(伝統)演劇と庶民の生活の近さは、かなり日本と異なるように思う。

※あわせておすすめの本。なお、梅蘭芳に関する加藤徹さんの新著も、追ってレビューの予定。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史は検証されたか/新聞と戦争(朝日新聞取材班)

2009-03-29 21:53:50 | 読んだもの(書籍)
○朝日新聞「新聞と戦争」取材班『新聞と戦争』 朝日新聞社 2008.6

 昨年、本書が出たときから、興味あるテーマだと思ってはいた。最近、大門正克『戦争と戦後を生きる』(全集 日本の歴史 第15巻)が本書に触れて「当時の記者の聞き取りや資料をふまえて、正面からテーマを追求した読みごたえのある企画だった」と評価しているのを読んで、それでは読んでみよう、という気になった。

 結果からいうと、満足度はいまいち。本書は、2007年4月から翌年3月まで朝日新聞夕刊に週5回掲載された原稿をまとめたものだ。連載時の書式は縦22字×52行。本書では、小さな写真図版を含めて、ちょうど見開き2ページにあたる。そして原稿は1本ごとに、あらたな舞台・あらたな登場人物にスポットを当てるよう、仕組まれているように見受けた。私は、まずこの原稿書式に音を上げてしまった。あまりにも短すぎる。

 1,000字ちょっとでは、いつ、どこで、誰が、何をした、という基本情報を提供するのが精一杯である。その事件の歴史的な意味や、登場人物が何を感じたかは、平板で曖昧模糊とした表現でしか語られない。そして、ページをめくると、もう話は別の舞台に移っている。なんなんだよ、これは。結局、新聞原稿のスタイルって、いま起きている「事実」を伝えることが限界で、歴史の「意味」を掘り下げることはできないのだろうか。

 否、ことはスタイルだけの問題なのかどうか。本書は「第1章 それぞれの8・15」から始まる。8月15日午前0時に首相官邸の地下防空壕で終戦の詔書が発表されるとともに、正午の「玉音放送」が終わるまで配達してはならないと言い渡される。そして朝刊が組み上がるわけだが、メディア史の佐藤卓己さんは、『八月十五日の神話』(ちくま新書、2005)で、この日の新聞紙面(朝日だけでなく)の多くが、やらせ写真や予定原稿で作られていたことを検証している。けれども、本書はこの件について、巧妙に言及を避けている。予定原稿を使ったとも、使っていないとも書いていない。この小ずるさがムカつく。

 多くの人物に取材し、いろいろ興味深い事実を並べているけれど、この問題については、もう少し別のアプローチがあったのではないかと思う。ただ、収録されている当時の写真は貴重である。記事よりもずっと多くのことを語っているように思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歓待と休息/イン:イギリスの宿屋のはなし(臼田昭)

2009-03-28 00:40:17 | 読んだもの(書籍)
○臼田昭『イン:イギリスの宿屋のはなし』(講談社学術文庫) 講談社 2009.2

 東アジアに関する本を読んでいると、つい「勉強」の身構えになってしまうので、ときどき西欧世界に遊んで息抜きがしたくなる。いちばん居心地よく感じるのはイギリスである。これは「英文学者の日本語」が、私の性分に合うためかも知れない。

 本書が扱うのは、イギリスの宿屋――客から金銭をとって酒食を提供する場所である。宿泊施設をもっているものを「イン」と呼び(≒ホテル)、個室もしくはボックスを備え、酒ばかりでなく十分な食事を提供する能力を持ったものが「タヴァン」(≒レストラン)、もっぱら酒を主に提供する店を古くは「エールハウス」いまは「パブ」(パブリック・ハウス)と呼ぶ。これらは全て、本来、旅する人々の休息と宿泊のための施設であるけれど、話の内容は「必ずしも飛び切り上品なことばかり」とは限らない。詐欺師、追い剥ぎ、酔いどれ、喧嘩、椿事に艶事、幽霊に立身出世……近世(たぶん13世紀から18世紀くらい)のイギリス大衆社会の諸相が、豊かなユーモア、控えめな抒情をまじえて(つまり、いかにもイギリス文学的な筆致で)描き出されている。

 面白かったのは、屋号と看板の話。「かささぎと王冠」「かみそりと牝鶏」みたいに、全く無関係のものを組み合わせた屋号の大半は、「三井住友」や「東京三菱」と同様、合併から生じたのだそうだ。イン(馬車宿)の屋号が、現在の地下鉄の駅名に残っていることも多いのだそうで、ロンドンの「エレファント・アンド・カースル(象と城)」駅もその類いかな?と思って調べたら、これは、スペイン王「アルフォンソ・デ・カスティーヨ」の聞き間違いに由来するとか。

 イギリスの田園の道端、樹蔭にこぢんまりと立つ田舎のインの魅力を描いて、余人の追随を許さないのは、ディケンズだという。なるほど――短編『人生の闘い』に描かれた「ナツメグおろし」という屋号のインを描いた一節は、国境や文化の違いを超えて、旅好きの心をとろかす魅力にあふれている。

 「死場所を選ぶことができるとしたら、宿屋にしたい」と願ったイギリス人もいる。身内の者のおせっかいがましい情愛よりも、宿屋で受ける淡々とした世話のほうが好ましいからだという。いかにもイギリス人らしい嗜好で共感できる。逆に、イギリス小説で有名な「救貧院」という施設は、男女、老若、別棟の生活を強制するものだったため、当時の人々から嫌われ、いかに生活が苦しくても、明日の保証もない労働に汗を流しつつ、夜は安酒と仲間とのふれあいを求めてパブに集いあうのが貧窮者の望む生活だった。この心情にも掬すべきものがある。

 なお、イギリスの宿屋では、強制あるいは偶然によって、見知らぬ男女が相部屋になることもあったそうだ――もしや漱石の『三四郎』の挿話は、このへんを元ネタにしているのかな?なんてことも思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脱亜の反転/日本とアジア(竹内好)

2009-03-27 17:10:48 | 読んだもの(書籍)
○竹内好『日本とアジア』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 1993.11

 竹内好の名前には、さまざまな場面で出会ってきたが、私は、これが初めて読む著作になる。本書は、戦後まもなく(1948年)から60年代前半にかけての講演・著作集である。巻末の解題で加藤祐三氏が、最後に収録された学生に対する講演「方法としてのアジア」から読み始めるのが最適だと思う、と書いているのを先に読んでしまったので、そのアドバイスに従った。これは正解だったと思う。冒頭の「中国の近代と日本の近代」から読み始めたら、たぶん投げ出してしまったに違いない。

 著者はいう。近代化の過程には2つ以上の型があるのではないか。日本の近代化は1つの型ではあるけれど、唯一絶対の道とはいえないのではないか。そこに著者は、日本人が中国の文化や歴史を学ぶ意味を見出す。しかし、著者は、文化的な多元主義には立たない(←ここ重要!)。人間は等質である。近代社会というものは世界的に共通であり、「平等」とか「民主主義」は全人類的に貫徹されなければならない。それには、東洋が西洋の侵略に抵抗するのではなくて、「西洋をもう一度東洋によって包み直す」「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する」ことが必要だと説く。これが「方法としてのアジア」の謂いである。

 表題作「日本とアジア」は、1961年の著作。魯迅など、中国文学研究で有名な(と私は思ってきた)著者は、ここで意外な人物について語っている。福沢諭吉である。「脱亜」を掲げた福沢は、アジアの現状についてきわめて正確な認識を持っていた。ヨーロッパ列強に蚕食されるアジア隣国の運命は、明日の日本であるかもしれなかった。その切迫したレアリズムの中から、「亜細亜東方の悪友を謝絶」し、「西洋の文明国と進退を共に」するという選択肢が立ち上がってくる。福沢は、日本をアジアの一部と認識していたからこそ「あえて脱亜の目標をかかげたのだともいえる」。

 さて、「東京裁判は、日本国家を被告とし、文明を原告として、国家の行為である戦争を裁いた」。そうなのか。力ある者が、同盟者を「文明」の側に、敵対者を「反文明」の側に置きたがるのは、いまに始まったことではないのだな。「東京裁判の検事および裁判官(少数意見をのぞく)は、文明一元観の上に立っている。その文明観の内容は福沢とほぼ等しい」。つまり、近代日本の初発の時期に、欧化主義者たちが必死でつかみ取ろうとしていた、近代ヨーロッパの古典的文明観である。「それならば被告である日本国家の代表たちは、原告である連合国を通して福沢そのものに告発されていると見るべきであろうか」。私は、この留保つきの告発を、きわめて重要なものとして受け取った。

 けれども、現実の戦後日本に起きたことは、「近代主義者」も「日本主義者」も一緒になって「日本イコール西欧」を謳歌するという、「天下泰平の空前の文明開化時代」(エセ文明時代)の再来だった。まことに、これでは福沢の立場がないと思う。同様に、もうひとりの印象的な明治の思想家、アジアは屈辱において一つである(あらねばならぬ)と考えた岡倉天心も、「大東亜共栄圏」の先覚者だったかのように、曲解されて今日に至っている。

 日本人が敗戦によって失ったのは「明治以来つちかってきたアジアを主体的に考える姿勢である」と著者はいう。「侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある」(日本人のアジア観、1964年)というのは、毒気の多い言葉だが、見逃しがたい真実を含んでいると思う。

 また、「日本人の多くは今日、日本が無名の師をたたかったことに屈辱を感じている。無名の師では肉親である『英霊』も救われず、したがって自分も救われないのだ。戦争から『何ごとも学ばず』に進歩に乗りかえることは、『進歩的な文化人』ならできるが自分たちにはできないと思っている。これが新しい反動化の思想的温床であることは疑いない」(アジアにおける進歩と反動、1957年)というのは、まるで今日の日本を予言したかのようだ。ここでも「進歩」「反動」「進歩的な文化人」という発言には、なかなか複雑な(著者の個性と時代思潮に基づく)プラスとマイナスの絡み合った評価が込められている。慎重に向き合って読みたい評論集である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春三月また秘仏の旅(3):革堂、石山寺

2009-03-25 22:28:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
東山慈照寺(銀閣寺)(京都市左京区)

 連休最終日は、ご開帳中の西国札所2箇所へ。と思っていたが、前日、「銀閣こがね色に…30年ぶりに屋根をふき替え」(読売新聞:2009年3月21日)というニュースをネットで見つけ、急遽、銀閣寺を予定に組み入れる。確かに、これまで見慣れた黒っぽい屋根(→公式サイト)と、目の前の銀閣寺(→ニュース写真)の差異は一目瞭然である。ただ、もっとびっくりしたのは、ニュース写真では「屋根」しか目に入っていなかったのだが、まだ一層目が骨組みだけの素通し状態だったこと。国宝建造物の、工事途中の不様な姿を、こんなふうに人目にさらしてしまうのは、日本ではあまりないことだと思う。

■西国第十九番 霊麀山行願寺(革堂)(京都市中京区)

 交通至便の京都市中心部にある札所だが、訪ねるのは初めて。南側の細い道を入っていくと、甘く香ばしい匂いが流れてきたのは、京都の名店・進々堂のパン工場だった。境内は、ほんとにここ?と拍子抜けするほど、ひっそりしていた。それもそのはず、ご本尊の千手観音は厳重な垂れ幕の奥に隠されてほとんど見えない。期待はずれ度は一、二を争う札所かも。ここで、同じ目的で東京から来ていた友人(昨日の飲み相手とは別人)と、携帯で連絡を取り合って落ち合う。まったく物好きばかりで嬉しい。

■西国第十三番札所 石光山石山寺(滋賀県大津市)

 地下鉄~京阪電車を乗り継いで、琵琶湖東岸の石山寺へ。ここも、時折、団体が到着するものの、思っていたより人が少ない。ふだんから観光客の多い京都周辺は、「西国三十三所結縁御開帳」程度では盛り上がらないのだろうか。ここは特別拝観券を買うと、お供物を飾った祭壇の後ろ、お厨子の前まで近づくことができる。ご本尊の如意輪観音は、先日、横浜そごうの『源氏物語千年紀』展で写真パネルを拝見していたので、だいたいのお姿は思い描いていたが、予想をはるかに超えて巨大だった。

 お厨子という言い方が適切なのかどうか。扉の中は乾いた土間である。なんだか馬小屋みたい。天然の岩石の上に平たい円座を敷いて、片足を踏み下げた形でお座りになっている。前面には幔幕も何もなく、実にスッキリしたご開帳である! 柵越しに手を伸ばすと、観音様の指先・足先にチョット触れることもできる(その部分だけが赤銅色に光っている)。平安後期の作。日月を配した宝冠と胸の瓔珞が美しいが、これは後補なのかもしれない。丸みのある逞しい体躯は、原初的な母性とも、むしろ厳しい父性を感じさせるとも言える。後世の柳腰の観音像とはずいぶん違うなあ、と感じた。ちなみにご本尊の向かって右には、遊園地のチープな赤鬼みたいな(古いw)脇侍が立っていたが、これは執金剛神で、左には蔵王権現がいたようだ。内陣正面の巨大な鰐口に、この三尊像がかわいい立体で表現されている。

 久しぶりに納得のいくご開帳ご参拝を果たし、そろそろお堂を出ようとして、お札やお守りの授与所で、珍しいものを見つけた。孔雀の土鈴である。解説を読んだら、この西国三十三所結縁御開帳にあわせ、近江(滋賀県)6札所で売り出す6種の「浄土の鳥」土鈴だそうだ。これはナイス企画!と大喜びして、友人とともに、さっそく購入。ところが、ネットで詳細を調べてみたら、気になる情報がひっかかってきた。三十二番・観音正寺では販売が差し止められているらしいとのこと(→個人ブログ)。そう言えば、石山寺でも、お堂の外に並べられて、どこか邪慳な扱われ方をしていた。あと5種、果たして手に入るだろうか…。

 浄土の鳥6種
 ・白雁→岩間寺
 ・孔雀→石山寺
 ・鸚鵡→園城寺(三井寺)
 ・舎利→宝厳寺(竹生島)
 ・迦陵頻伽→長命寺
 ・共命(ぐみょう)之鳥→観音正寺
 
 出典:「仏説阿弥陀経」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春三月また秘仏の旅(2):泉屋博古館ほか、美術館三昧

2009-03-24 00:03:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
 連休2日目は京都観光。朝の早い清水寺から。

■西国第十六番 音羽山清水寺(京都市東山区)

 清水寺のご開帳には、昨年の秋も来たし、その前、2000年にも来ている。だんだん物珍しさが減って、人が少なくなってきたのはいいことだ。私は何回見ても、いい仏像だと思う。特別拝観料100円という薄利多売(?)精神も嬉しい。開山堂では、衣冠束帯姿の田村麻呂公像も公開中。

泉屋博古館 平成21年度春季展『住友コレクションの中国絵画』(2009年3月14日~4月26日)

 今回の関西旅行でいちばん楽しみにしていたのは、実はこの展覧会。到着したときは、まだ開館(10:30)のちょっと前だったので、疎水沿いの山際に建つ大豊(おおとよ)神社に立ち寄る。花木の多い、のんびりした雰囲気が鎌倉を思わせて、和む。

 さて、この展覧会は、第15代住友吉左衞門(1864-1926)と息子・住友寛一(1896-1956)が蒐集した中国絵画を紹介するもの。同館のコレクションには「宋代画院に始まる宮廷画家の系譜」と「明末清初の文人たちの系譜」という、大別して2つの流れがあるという。私が関心を持つのは、圧倒的に後者である。いや、むかしは、東洋美術は古いものほど価値があるという、誤ったドグマに囚われていたので、明清絵画なんて一顧だにしていなかったのだけど…。

 会場を入ってすぐ、八大山人の『安晩帖』を見つけ、再会の喜びにひたる。今回は、絶妙のバランスで粟の穂先に静止した小鳥を描く。スズメなのかな? 妙に人間くさいかしこまった表情をしている。薄墨をなすりつけたような粟の穂が見事。う~ん、もっと他の画も見たい!

 石濤筆『廬山観瀑図』は、昨年秋、大和文華館の『崇高なる山水』で見たもの。こっちの会場のほうが、薄暗いせいか、色に柔らか味が感じられていいと思う。石渓筆『報恩寺図』も、少ない色彩が「渇筆ですり込まれた墨色と融けあって」もどかしいくらいなのがいい。漸江の神経質なまでに澄明な作風も好き。日本人の水墨画は、黒々とした墨色を使うものが多くて、こういう不安なほどの「白っぽい」画って、あまりないように思う。

 ときどき外のソファで休憩しながら、何度も展示室に戻って、飽きずに見続ける。ソファの上に『泉屋博古:中国絵画』というコレクション図録があって、冒頭の鈴木敬氏の文章「住友コレクション随想」を読んだら、石濤に対してずいぶん厳しいことを言っている。学者の言うことは素人とは違うなあ、と妙に感心して、この図録、買って帰ってきた。久しぶりに常設展示室を覗いて、青銅器(銅鏡)も眺めていく。

承天閣美術館 『狩野派と近世絵画~爛漫と枯淡と~』(後期)・併催『名碗三十撰』(2008年12月6日~2009年3月29日)

 光悦作『赤楽茶碗・加賀』を特別公開中。赤釉に残る白むら、泥をなすりつけたような箆(へら)のあとが面白い。俵屋宗達『蔦の細道図屏風』は深緑と金のコントラストが、ためいきの出るような美しさ。これ、どっちが右隻でどっちが左隻か議論があるのだっけ? なぜか、同美術館で販売中のポストカードと、現在の展示では、左右が逆になっていた。

京都市美術館 所蔵品展『画室の栖鳳』(2009年1月24日~3月29日)

 近代日本画の先駆者・竹内栖鳳のスケッチや下絵を多数紹介する展示。既に洋画家が使い始めていた裸体モデルを使ってみたり、洋行した際に念願のライオンをスケッチしてみたり、「果敢なチャレンジ」の数々が興味深い。

細見美術館 『萌春の美-重要文化財 豊公吉野花見図屏風とともに-』展(2009年2月13日~4月19日)

 上記屏風は、秀吉の傍らには南蛮人姿の供の者が描かれていて、伊達政宗ではないかという。また、春に江戸琳派(抱一、其一)は似合いだなあ、と思う。

 この日は、やはり熊野・那智をまわって1日遅れでやってきた東京の友人と合流、京都駅前で日付の変わる頃まで飲む。これも旅の楽しみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春三月また秘仏の旅(1):那智山参詣

2009-03-23 21:54:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
 今月2回目の西国三十三所ご開帳の旅は、名古屋から特急で3時間。紀伊勝浦の那智山へ。15年ぶりくらいの再訪である。

■西国第一番 那智山青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)

 連休初日、善男善女でぎゅうぎゅう詰めのバスで山道を上っていくと、やがて右前方に雄大な滝が姿を表わす。ああ、これこそ那智山のご神体、と感動して、終点手前の「滝前」というバス停で思わず下車。飛瀧神社(ひろうじんじゃ)で、那智の大滝を正面に拝む。山上の激しい水流は、陽射しを浴びて、よく練った水飴のようにキラキラと輝いている。滝壺を離れ、青岸渡寺に向かっても、どこまでも滝の音が耳に響いているのが心地よかった。

 青岸渡寺本堂は、思ったほどの混雑でなく、すぐにご朱印がもらえたのはありがたかった。しかしながら、肝腎の秘仏ご本尊は、本堂の奥深く、お厨子の扉が開いてはいるものの、見えるのはお顔の下半分と胸のあたりのみ。右手の肘を曲げ、頬杖をつくような、如意輪観音の典型的なポーズを取っていることと、胸板の逞しい、男性的なお像(如意輪観音にしては)らしいことだけは分かったが、岐阜の華厳寺に続き、ちょっと物足りないご開帳である。

 続いて、隣りの熊野那智大社に参拝。いいなあ、この神仏が仲良く同居する雰囲気。だから終点バス停は「神社お寺前」というんですね。三本足の八咫烏(やたがらす)グッズがたくさん出ていて、かわいい。帰路は、苔むした石段の続く大門坂を徒歩で下る。壺装束に市女笠(→図解)で石段を上がってくる女性に行き合ってびっくりしたが、坂下の茶屋でレンタルしているのだそうだ。

補陀洛山寺(和歌山県那智勝浦町)

 那智駅で帰りのバスを降り、駅前の補陀洛山寺に寄る。ご本尊の千手観音は秘仏のため、拝することができないが、補陀落渡海と呼ばれた捨身行の出発点だったという往時をしのびたかったのだ。私は、一昨年、補陀洛世界(Potalaka)に擬せられる、中国・舟山諸島の普陀山に行ってきたことでもあるし…。お堂の中では、目つきのスルドイ坊主頭のおじさんに連れられた7、8人の女の子たちがお座敷に座って、大きなろうそくに「家内安全」「学業成就」などの願い事を書いていた。腰の曲がったおばあちゃんもひとり。親戚一同でお参りに来たところだろうか。

 ご朱印もいただき、狭い堂内も見せていただいて、そろそろ立ち去ろうと思っていたとき、ご朱印を書いてくださったおじさんが、坊主頭のおじさんに「じゃあ、開けさせていただきましょう」とおっしゃる。女の子たちは、お厨子の正面に集められて正座する。ジャラジャラと重たい鍵束を持ってきたおじさんは、お厨子の前に飾られていたご本尊の写真パネルを取り除け、まず昔風の錠前で木製の扉を開く。次に内部の金属製の扉が開かれると、秘仏のご本尊が姿を現した。

 引き締まったチョコレート色の肌、彫りの深いふくよかな丸顔、ゴーギャンの描く南方系の美女を思わせる観音様だった(→写真あり)。女の子たちは「前へどうぞ、どうぞ」と招かれてお厨子の前に進んだが、私はさすがに遠慮して遠目に拝するだけに留めた。数分後、「よろしいですか、もう閉めますよ」との声とともに、お厨子の扉は再び閉じられてしまった。

 補陀洛山寺の方にお礼を言いながら、「大勢さんでいらっしゃるとお厨子を開けることもあるんですか?」と聞いてみたが「いやいや」とあまり詳しいことは教えてくれなかった。いずれにせよ、舞い降りた幸運に茫然。気もそぞろになって、那智駅前でバスを乗り間違え、もう少しで那智山に連れ戻されかけたことを付記しておこう。

 和歌山まわりで紀伊半島を一周し、宿の取れなかった京都を通り過ぎて、大津泊。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野みやげ・おみくじ八咫烏

2009-03-22 23:53:27 | なごみ写真帖
どうやら身辺に変化のない3月。
新しい年度に向けて覚悟を決めつつ、西国一番・那智山青岸渡寺のご開帳に行ってきた。
熊野の守り神・八咫烏(やたがらす)のご託宣は「大吉」。求職は「目上の人の助を得」って誰…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北の霊気/平泉 みちのくの浄土(世田谷美術館)

2009-03-17 23:48:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
世田谷美術館 特別展『平泉~みちのくの浄土~』展(2009年3月14日~4月19日)

 「世界遺産登録をめざして」をキャッチコピーに、奥州平泉ゆかりの名宝や歴史資料などを紹介する展覧会。最初の展示室には、中尊寺金色堂内「西北壇」の仏像11体が、堂内の配置そのままに公開されている。床とか柱とか天蓋とか、全てが金色に輝く金色堂内部と違って、仏像だけ取り出されると、あまり感慨が湧かないものだな、と思った。平安後期の作だというが、時代性がよく分からない。二天(増長天・持国天)の袖の先のくるりと跳ね上がったところが、東北っぽい(類例を思い出す)。

 浄土つながり(?)ということで、京都・清涼寺や和歌山・西禅院の当麻曼荼羅図(建築の描き方が面白い)を見て、第2室を覗くと、長方形の広い室内の壁沿いにぐるりと仏像が並び、思わずたじろぐ。え、平泉に、こんなおびただしい仏像が?!と思ったが、違った。手前には、岩手県二戸の天台寺(寂聴さんの法話で有名)からおいでの吉祥天、聖観音、如来立像。その奥に、東博の常設展示で時々お見かけする福島県会津・勝常寺の四天王像(邪鬼が小太り)。そして、懐かしさに思わず駆け寄ってしまったのは、岩手・立花毘沙門堂の四天王。くるりと跳ね上げた両袖が、歓喜に躍っているように見える。いやいや、まさかこの像に東京で再会できようとは!

 確か2002年の夏だったと思う、友人2人と東北見仏ツアーを敢行して、これらの仏像を訪ね歩いたことがあるのだ。このほか、黒石寺も成島毘沙門堂も、藤里毘沙門堂も行った。誰も運転免許を持っていなくて、タクシーに頼るしかなかったこと、そのタクシーが道に迷って草深い山中で立ち往生したこと、黒石寺では女性のご住職さんにご案内いただいたことなど、さまざまな記憶がよみがえった。

 東北の仏像は、都ぶりの優雅や洗練とは遠いが、神とも仏ともつかない、独特の霊気が満ちている。その霊気(アウラ)に押されたのか、どの観客もシンと押し黙っていたのが印象的だった。今回、初見だったのは、岩手・永泉寺の聖観音菩薩立像。赤い唇、腰高のプロポーション、鄙にはまれな、コケティッシュな美人観音である。岩手・松川二十五菩薩堂からは8体の菩薩像残欠が、あたかも完全な菩薩像であるかのように丁寧に展示されていた。胸から下、あるいは腰から下だけのトルソーであるが、じっと眺めていると、失われた上半身や頭部が白い壁に浮かんでくるように思えた。

 ほかに面白かったのは中尊寺経。Wikiにいうように、初代清衡の発願になる『紺紙金銀交写経』と秀衡発願の『紺紙金字経』がある。このうち、秀衡経が特異なのは、日本の経典の見返し絵は大半が「仏説法図」なのに、これは「経意絵」(経文の内容を表したもの)が多いそうだ。なるほど、なんだか坊主が踊り狂っていたり、地獄の責め苦の図だったりして面白い。あと、秀衡経の底本として明州(寧波)から請来された宋版一切経が伝わっているのも、しみじみと興味深く思った。『伝安倍貞任着用金銅前立』も勇壮で印象的だった(実用にしたとは思えないけど)。伊達正宗の三日月の前立に似ていなくもない。

 最後にもう一度仏像の話に戻ると、先日、大相撲の朝青龍と白鵬が四天王像のモデルになったという記事を読んだ。私は黒石寺の四天王像を見ていると、力強さと愛嬌が、朝青龍に似ているような気がする。

■日刊スポーツ:朝青龍超ご機嫌で仏像「多聞天」モデル(2009年3月6日)
http://www.nikkansports.co.jp/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20090306-467924.html

■inoue's website 神と仏の世界
http://www.bken.or.jp/inoue/
東北の仏像の写真は「portfolio」から。

 追伸。出品目録を見たら、東京展では「出品されません」がけっこうある。最近、こういうのが多くてちょっと悔しい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする