見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

全ては本の中/都市のフランス、自然のイギリス(千葉市美術館)

2007-08-31 01:04:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
○千葉市美術館『都市のフランス、自然のイギリス~18・19世紀絵画と挿絵本の世界~』

http://www.ccma-net.jp/

 春に地元の川越市立美術館を通りかかったときも、この展覧会のポスターを見た。けれど「都市のフランス、自然のイギリス」という大見出しだけ見て、ふーん風景画の展覧会か、と思って素通りしてしまったのだ。今回、初めて小見出し後半の「挿絵本の世界」に気づいて、行ってみることにした。

 会場の第1室には、普通の油彩画が並んでいた。コロー、モネの風景画に混じって、私の注意を惹いたのは『秋の精』と題して、蝶のような羽をつけた裸体の美女が、葡萄の蔓をブランコにしている大きな絵だった。背景の青空が美しい。作者はギュスターヴ・ドレ。ん? ドレって版画家じゃなかったかしら。解説によると、木口木版挿絵の帝王(!)と呼ばれたドレは、油彩画家としても認められることを望んだが、願いは果たせなかったという。

 次のセクションに進むと、一転、まわりの壁から油彩画が消えて、19世紀フランスの版画と挿絵本に囲まれる。当時の挿絵本は贅沢品だ。当然、大人の鑑賞に堪えるもの、風刺と風俗を題材にしたものが多い。J.J.グランヴィルって、よく分からないんだけど好きだな~。私は『当世風変身譚』の「人間嫌い」と題された偏屈そうなアナグマ(?)とカケス(?)の家政婦の図がツボだった。ドーミエは分かりやすくて素直に面白い。

 そして、帝王ギュスターヴ・ドレ(1832-1883)の登場。いや~すごい! この展覧会では、ドレの傑作が勢揃いである。私は『さまよえるユダヤ人』(1860年刊)に一撃を喰らってしまった。暗闇に潜む亡霊の影。噴き出すような妄想と恐怖。こういう暗い狂気こそをロマン主義って言うんだなあ。ダンテの『地獄篇』も同様。『ドン・キホーテ』は無類の滑稽さにあふれ、ラ・フォンティーヌ『寓話』は小動物への愛情が感じられる。『ロンドン巡礼』では、びっしり並んだ停泊船の林立するマストを描いた「ドックの中」がいい。『狂気のオルランド』では、巨大な月面(クレーターが!)に向かって突っ込む四頭立ての馬車を描く。写実、幻想、科学、ロマン主義、何でもあり。まあ、こんな説明を読むよりも、以下のサイトでも覗いてみてほしい。真夏でも肌寒くなるような、冷ややかな黒の魅力にしばし浸れる。

■参考:連想美術館(ギュスターヴ・ドレ)
http://sol.oops.jp/illustration/dore.shtml

 ジョン・マーティン(1789-1854)による『失楽園』の挿絵も好きだ。ドレよりも、いっそう陰鬱でロマン主義的である。「万魔殿の出現」の堅固な建築的幻想に惹かれる。そして、ウィリアム・ブレイク(1757-1827)。「アカデミックな絵画表現に反対し、ミケランジェロの身体表現に傾倒し」という解説を読んで、そうか、ミケランジェロって「反アカデミズム」なんだ~と妙に感心した。確かに、私はブレイクの肉体表現に近代舞踊みたいな人工性を感じる。

 イギリス・セクションに入るところで、また少し油彩画が並べられている。そして、版画を挟んで、挿絵本が登場。19世紀のイギリスでは、多色刷りが本格的に普及し、リチャード・ドイル、ケイト・グリーナウェイなど、よく知られた「絵本作家」が現れる。その一方、エドマンド・エヴァンスのように、画家としてではなく優れた木版師として名を残した人物もいる。

 ウォルター・クレインの「クイーン・サマーあるいは百合と薔薇の騎馬試合」それからウィリアム・ニコルソンの「ロンドン・タイプス」(ロンドンのさまざまな職業人を描いたもの)は、全くタイプが違うけれど、どちらも私の好きな作品である。たぶん昨年、場所も同じ千葉市美術館で見たのだ思うが、再会できて嬉しかった。
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甲府・週末ミニ旅行(その2)

2007-08-28 23:53:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
○武田神社と宝物殿『山本勘助展』

http://www.takedajinja.or.jp/

 武田信玄を祭神とする武田神社は、大正4年(1915)に「武田神社奉建会」が設立され、同8年に社殿が竣工されたそうだから、実は新しい神社である。明治神宮並み(1915年創建の告示)というか、橿原神宮並み(1890年創建)というか、とにかく近代の産物なのだ。しかし、武田神社の在り処は、信虎・信玄・勝頼の三代が居住した躑躅ヶ崎館の跡だというから、この上なく由緒は正しい。

 参拝のあと、境内の宝物館を覗いた。入館料300円というので、あまり期待を持たずに入ったら、意外と面白かった。甲斐とその周辺を描いた屏風仕立ての古絵図と、赤地に金で北斗七星を描いた軍扇には、思わず笑みがこぼれた。どちらもNHK『風林火山』のオープニングで、効果的に使われているものだ。大井夫人ゆかりの懐剣とか、平賀源心所持の武具(刀だったかな)という説明にも、ついドラマを思い出して反応してしまう。

 展示室の一角では山本勘助の特集が組まれていた。展示品は江戸の浮世絵が多い。江戸時代には、何度か武田流軍学のブームが起きており、浮世絵師もたびたび武田の武将たちを描いたようだ。最近、NHKステラの風林火山「取材こぼれ話」に、背中に矢の突き刺さった勘助のシルエット写真が掲載されていて、”最終回のネタバレか?”と騒がれていたが、何のことはない、江戸の浮世絵のままじゃないか、と思った。たとえば、こんなの。→山梨県立博物館のページ

 現在、いちばんの見ものは「風林火山」の旗(孫子の旗)だろう。子どもから大人まで、目を輝かせて眺め入っている。いつの時代のものとも確かには分からないが、古色蒼然とした趣きがある。「雲峰寺寄託」とあったので、帰ってから調べてみたら、塩山のお寺だった。行ったことあるぞ~。恵林寺と並んで、武田家ゆかりの寺宝が非常に豊富な古刹である。

 上杉謙信の「毘」の旗もあった。川中島の戦いに加わった某氏が持ち帰ったものだとか。ちょっと眉唾だが、まあ楽しんで眺めたい。このほかにも、武田家および家臣の家々に伝わった重宝が、この宝物殿に数多く寄託されている様子には、武田家と甲府の人々の絆の強さを、あらためて感じた。

 武田神社の参道に続く武田通りは、山梨大学のキャンパスを縦割りにし、甲府駅北口に続く。甲府の旧城下町の中心軸である。このあたり、特に見るものはないのだが、円光寺でGETしたリーフレットによれば、一帯は武田家の重臣たちの屋敷跡だそうだ。おお~ここは馬場美濃守の、とか、ここは甘利様の、とか、看板を見ながら歩くだけで楽しい。山梨大学(工学部)は飯富虎昌邸の跡なのね。

 法泉寺をまわって駅に着いたときは、汗でどろどろになっていた。そこで、駅からタクシーを飛ばし、一気に北上して、武田神社の裏手の山腹にある積翠寺温泉へ。日帰り入浴のできる要害温泉を訪ねた。女湯で、これだけ見晴らしのいい露天風呂は珍しいのではないか。夜は甲府市内の夜景が楽しめる。昼間は、けっこう近いところに人家があるので、こちらが見られる心配もないわけではないのだが、ほかにお客のいないのをいいことに、存分に羽根をのばした。ひと夏分の疲れが取れて、もー極楽!!



 そして17:00過ぎの「あずさ」で甲府を発ち、埼玉の自宅に戻ったのは、テレビの『風林火山』の始まる直前だった。今度は、違う季節の甲斐路に行きたいな。
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甲府・週末ミニ旅行(その1)

2007-08-27 00:59:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
○甲斐善光寺と甲州五山(東光寺、能成寺、長禅寺、円光寺、法泉寺)

 山梨には、たぶん2001年と2003年くらいに来ている。塩山の恵林寺(武田信玄の墓がある寺)や清白寺(国宝の仏殿)を訪ねて、なかなかいいお寺があるものだな、と思った。けれども、甲府は素通りしてしまったので、いつかまた来ようと思っていた。8月最後の週末、思い立って、土曜日の午後に新宿を発ち、夕方、甲府駅前に着いた。1泊して、明日は朝から歩く計画である。



 翌朝、甲斐善光寺へ。バスを下りるとまもなく、正面に巨大な山門が見えてくる。左右に長い山の稜線を控えていて、風景のガラが途方もなく大きい。なんとはなしに晴れ晴れした気持ちになる。道の左右にはブドウ棚が連なる。カラリと晴れた空、朝から容赦のない熱光線を浴びながら、シルクロードの町、トルファンを思い出した!! 真っ暗闇の戒壇巡りのあと、宝物館で特別公開中の「峯の薬師」を拝観する。

 それから山裾に沿って歩き、甲州五山を順に詣でる。最初の東光寺には、諏訪頼重と武田義信(信玄の嫡男)の墓があった。檜皮葺き屋根の美しい、室町時代の仏殿(重要文化財)が見もの。能成寺は、南北朝の創建と伝えるが、現在は新しい建物ばかり。線路脇の長禅寺は、信玄母である大井夫人の墓所あり。ここも堂宇がやたらにデカイ。

 大泉寺は、甲州五山ではないが、武田信虎の墓所がある。さらにしばらく歩くと、空き地にポツリと武田信玄の墓所(火葬塚)もあり。ただし、信玄の墓所は、山梨県内では大泉寺、恵林寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあるらしい。比較的近いところに、三条夫人の墓所、円光寺がある。こうしてみると、武田一族の墓所って、実にバラバラなのね。

 それから武田信玄を祭神とする武田神社を拝観。ここの宝物館は面白かったので、別途詳しくレポート予定。最後に、少し足を伸ばして、甲州五山の最後の寺、法泉寺を訪ねた。ここには信玄第四子・勝頼の墓所がある。

 五山のご朱印を集めるつもりだったが、法事を行っている寺が多くて、そうは行かなかった。その代わり、墓所の写真ばかり撮ってきてしまった。『風林火山』を見ていると、あまり幸福な生涯を終えたとは思えない人物ばかりなのが切ない。
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男たちの物語/楊家将(北方謙三)

2007-08-26 00:16:09 | 読んだもの(書籍)
○北方謙三『楊家将』上下(PHP文庫) PHP研究所 2006.7

 すごい小説を読んでしまった。読み終わって、しばらく震えが止まらないような。下巻に入ると、感涙が湧きどおしで、しばしば先が読めなくなった。あと数十ページのところで、どうにも我慢ができなくなって(ええい、どうしてこんな傑作が誕生しちゃったわけ? 誰か教えて!という気持ち)巻末の「解説」を覗いた。

 「解説」の執筆者は、中国文学(特に演劇)を専門とする加藤徹さんである。このブログでも、しばしば著書を紹介させていただいている。加藤さんいわく、

 中国では「三国志」「水滸伝」と並ぶ人気を誇る「楊家将」の物語だが、日本では、従来あまり知られていなかった。学者による「楊家将」の翻訳や概説書が出る前に、いきなり小説が出た。しかも、たいへんな傑作である。筆者が知っている中国人も、北方謙三さんの『楊家将』を読み、「中国の『楊家将演義』より面白い」と、しきりに感心していた――と。

 私は、この評価にいたく満足した。確かに、北方『楊家将』は、本家・中国人(漢民族)にも読ませてみたい名作だと思う。

 でも、どうかなあ。中国人の好みに合うかしら。私は金庸の武侠小説が嫌いではないが、日本の歴史小説・時代劇とは、ずいぶん趣向が異なる。中国人の好みは、要するに飛び抜けたヒーロー、ヒロインが超人的な活躍をする小説ではないかと思う。時には、超人的すぎて、神仙や妖術に接近する。

 北方『楊家将』には、神仙術の類いは出てこない。男勝りの遼の公主・瓊蛾姫と楊四郎の戦場のロマンスとか、空想的な挿話もあるが、基本的にはリアリズムの範疇にとどまる。

 注目すべきは戦闘描写である。この小説では、一騎当千のヒーローだけが人無き荒野を縦横に駆け回るのではない。一軍の将はつねに百騎、千騎、時には数万の軍を引き連れ、それを己れと一体のように操る。散開し、密集し、鋭く突っ込み、また退く。二手四手に分かれ、また合す。著者の、迷いのない緻密な文体は、戦場のありさまを幻術のように浮かび上がらせる。作中には名前さえも描かれないけれど、主人公たちと轡を並べ、戦場を駆け抜けた多くの武人たちの存在を想像すると、胸の詰まるような思いがする。こういう描写は、中国の武侠小説にないものだと思う。

 私は、日本の歴史小説も、あまり多くは読んでいないのだが、ときどき思い出していたのは、池波正太郎の『真田太平記』だった。楊家の長・楊業と真田幸村って、ちょっと似ていないだろうか。中年過ぎまで戦い抜いて、最期は非業の死に倒れる。息子たちを立派な武人に(言葉を変えれば、戦場で共に死ぬために)育て上げるところも。

 なお、本編には続編『血涙』があり、本編ではあまり登場の場のなかった楊家の娘たちも、続編では活躍するらしい。私は、楊家将(演義)について、わずかに知っていたことといえば、京劇の「楊門女将」なので、この北方『楊家将』が、ほとんど男性しか登場しないことに、はじめは少し戸惑った。あ、遼国には蕭太后という女傑が控えているのだが。しかし、こういうストイックな男性中心の物語、私は嫌いではないのです。

■参考[対談]北方謙三、加藤徹「楊家将-『三国志』にはない民族興亡の物語」(加藤徹さんのHP)
http://www.geocities.jp/cato1963/rekishikaido200403.html
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土曜日の朝のカフェ

2007-08-25 13:35:06 | なごみ写真帖
惨々な8月だった。連日、深夜まで職場に留め置かれて...
先週は土曜日が出勤だったので、今週末は3連休。
しかし、いつ呼び出されるか分からないので、結局、遠出は控えた。

なんとか無事に過ぎて、今日の朝食。
近所に1軒しかないカフェで。



考えてみると、来週末はまた出勤である。
よーし、それなら、これからリフレッシュのミニ旅行に出かけちゃおうかな!と思案中。

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皇帝のうつわ・今昔/景徳鎮千年展(松濤美術館)

2007-08-23 08:44:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
○松濤美術館 『景徳鎮千年展-皇帝の器から毛沢東の食器まで』

http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/museum/20070731_keitokutin.html

 この展覧会、昨年から岐阜や茨城(笠間)を巡回していて、行きたい行きたいと思っていたものである。とうとう都内にやってきてくれた。中国屈指の陶磁器の産地「景徳鎮」にフォーカスした企画展。宋代以来の精品に加えて、1975年、毛沢東主席のためにつくられた「7501工程」の食器や文房具など約130点を展示する。

 景徳鎮の磁器は、白が美しい。冷たいミルクのような白をしている。定窯の白磁のように素地を楽しむための白色ではなくて、五彩や染付を施してこそ引き立つ白色である。会場に入ると、中国の「南京博物院」と台湾の「鴻禧美術館」への謝辞が目立つところに掲げられていた。どちらも行ったことがあるが、とりわけ後者は、私の大好きな美術館なので、胸が躍った。いま、図録を見ると、第1部の9割方は鴻禧美術館の蔵品である(さすが!)。

 記憶に残った各時代の名品を挙げていけば、まず宋の青白磁刻花蓮池文鉢。まだマニエリスム化していない蓮花文がさわやか。元の青花は藍色がいい。明の五彩は――龍の顔が、どれもいい。五つ爪の、皇帝にのみ使用を許された龍なのに、どれもマンガのキャラクターみたいな顔をしていて、明代って意外と楽しい時代だったのかも、と思わせる。上記サイトに出ている「五彩龍鳳文蒜頭瓶」も、はじけたポーズの龍がかわいい。周囲を埋める唐草文やラーメンどんぶりみたいな渦巻き文には、素朴な手工芸の味わいが残っている。

 これが清代になると、技術が長足の進歩を遂げる。「豆彩唐花文双耳瓢形瓶」は、色も文様も人間業と思えない、精緻の極み。うーむ。私は、明の五彩と清の豆彩、どちらも甲乙付けがたく好きだなあ。

 第2部は「7501工程」の食器を展示。私は全く知らなかったが、「7501工程(プロジェクト)」とは、文化大革命末期の1975年、景徳鎮の職人たちに下った秘密命令で、毛沢東主席専用の食器一式を製作する計画のことだ。茨城県陶芸美術館のサイトの解説が詳しい。「北京に送った作品以外はすべて廃棄するよう中央政府から指示」があったが、製作に関わった人々は、「再注文が来ても、二度と同じレベルのものは作れないと考え、再補給のためにも必要だと判断して密かに保管」したという。再補給のため? そりゃー表向きだろう、と私は思った。

 1980年代以降、江西省の馬暁峰氏はこの磁器の収集を開始し、既に一般家庭に流出していた(!)「7501工程」の磁器を、ついに全種類収集することに成功したという。つまり、中央政府の廃棄指示にもかかわらず、それだけの量が民間に隠匿されていたわけだ。どんなに苛烈で強大な「官」の権力があっても、それをかいくぐって生きる「民」のしたたかさ、これこそ中国文化の真面目だと私は思っている。

 ”皇帝”毛沢東の器は、多くは紅梅、ほかに桃・芙蓉・菊も使われているが、全て白地にピンクが基本の配色である(あとは緑、グレーの取り合わせ)。不思議なほど少女趣味で、かつ日本趣味なんじゃないかと思う(色数が少なく、余白が多いところ)。中国人には新鮮なのかも知れないが、日本人の目には平凡に映る。

 私は、もし叶うことなら、黄色地にピンクの梅と黒いカササギをあしらった「黄地粉彩花鳥文」の食器が欲しい!と思った。清の同治帝の婚礼の際に作られた食器一式の一部だそうである。
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僕らのヒーロー/江戸の怪し(太田記念美術館)

2007-08-22 00:41:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
○太田記念美術館『AYAKASHI 江戸の怪し-浮世絵の妖怪・幽霊・妖術師たち-』

http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/

 浮世絵で知られる太田記念美術館は、実は初めて訪ねた。ふだん「浮世」の様態にはあまり興味がないのである。しかし、今回は、妖怪、幽霊、鬼、妖術使など、この世ならぬ「怪(あやか)し」の世界を描いた浮世絵(矛盾だなあ)の特集なので、行ってみた。

 はじめは、一つ目小僧、ろくろ首など「定番」の妖怪図を微笑ましく見ていたが、次第に引き込まれてしまったのは、月岡芳年の作品。やっぱり凄いわ、この人。妖怪画集『月の百姿』のうち「大物浦海上月 弁慶」では、画面の半分ほどを黒い波濤が占め、船の舳先に立ち尽くす弁慶の姿を小さく”引き”で描く。とても浮世絵とは思えない構図である。「源氏夕顔巻」は、はかなげな夕顔の横顔が少女マンガのようだ。

 私のイチ押しは「羅城門渡辺綱鬼腕斬之図」。墨を叩き付けたような黒い暴風雨。驚き恐れて立ち上がりかける馬(巻毛の立髪がチャーミング)。上空を振り仰ぐ綱。黄色い雷光に照らし出される、朱塗りの柱にしがみついた鬼。そのまま、怪奇SF映画のポスターになりそうな構図。鬼の躍動感がすばらしい(→日文研の「近世風俗図絵データベース」に画像あり。ただし、色は現物のほうがずっとよかった)。

 三代豊国の「奇術競 蒙雲国師」もいいねえ~。ストップモーションで飛び散る岩石、黄色と黒の旭日旗みたいな背景が横尾忠則ふうである。(→これは早稲田の演劇博物館のデータベースで画像発見。最近は、何でもネット上にあるものだな)。よく見ると画面に「七十九年(?)豊国筆」とある。まさか?と思ったが、文久3年(1863)のこの作品、三代目豊国(歌川国貞、1786-1865)79歳の作のようだ。ぶっ飛んだ爺さんである。

 英雄に怪異譚は付きもの。というか、異界との付き合いあって、初めて英雄と認められるのが日本のヒーローのようだ。楊州周延の『東錦昼夜鏡』に「小刑部(おさかべ)姫」という作品がある。姫路城の天守閣に住む女性の妖怪。おお、泉鏡花の「天守物語」の元ネタではないか、と思ったけど、姫に対面しているのは、図書之助ではなくて、剣豪・宮本武蔵なのね。

 再び芳年に戻って『豪傑記述競』は、動物を操る妖術使いが一堂に会したところ。展示品は、摺りの状態がよくて、大蛇の赤い腹、逆立てた化け猫の毛並みなど、息を呑むほどに美しかった。木曽義高が須美津冠者と称して、大ネズミを使うなんて知らなかった。江戸人の想像力は面白い。

 また、広重の「童戯武者尽」などの楽しい作品も。弁慶の古道具屋くらいは誰でも思いつきそうだが、スサノオとクシナダヒメが夫婦で蒲焼屋(ヤマタノオロチを焼いてしまった?)を営んでいるのには笑った。いつの時代もヒーローは、憧れられつつ、笑われるのであろう。
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知らないことばかり/グアムと日本人(山口誠)

2007-08-20 23:48:04 | 読んだもの(書籍)
○山口誠『グアムと日本人:戦争を埋め立てた楽園』(岩波新書) 岩波書店 2007.3

 グアムがかつて日本の領土だったこと、太平洋戦争の激戦地であったことくらいは、いちおう知識としては知っている。1972年、「最後の日本兵」横井庄一さんがグアム島で発見されたとき、私は小学生で、「恥ずかしながら帰って参りました」をネタにした悪ふざけに意味も分からず興じたものだ。

 本書は、まず、1941年12月8日、日本がアメリカとの戦端を開いた日に我々を連れて行く。真珠湾攻撃から5時間後、日本軍は米領グアムへの攻撃を開始し、12月10日には米領グアムの占領を宣言した。この素早さ、知らなかった。米国にとってグアムは「敵に占領された唯一の米国領土」だという。これも知らなかった。パール・ハーバーが、日米双方において言及されることの頻度に比べれば、グアムの扱いはあまりにも小さい。それが何故かは、本書を読み進むにつれて、次第に明らかになってくる。

 グアムがスペインから米国へ「譲渡」されたのは1898年。初代総督の米海軍大佐レアリーはグアムの英語化を指示した。ただし、住民が英語でサインができればそれで十分だったので、グアムの皆教育制度は、日本統治下の「大宮島」時代まで確立しなかったという。うーん。だからといって日本の統治を正当化できるものではないけれど、アメリカの植民地支配も、相当悪辣だったんだなあ、と思った。

 しかも、今なお、グアムはアメリカの「未編入領土(Unincorporated Territory)」なのだそうだ。これも初めて聞く言葉だ。グアムでは、議会の決議よりアメリカ合衆国憲法が優先され、住民は合衆国政府が定めた納税義務を負っている。にもかかわらず、彼らには、大統領選挙に参加する権限がない。なんだ、要するに植民地の言い換えではないか。

 それでも人は生きていかなければならない。グアム政府が選んだのは基地依存と観光立国の道だった。そして、その尻馬に乗って、雪崩れ込んだ日本資本と日本人観光客。当初、グアム政府が目論んだ計画と実現したものの差異、「楽園」ハワイの影響力、日本人客層の変化(3つの波:新婚カップル→大学生→家族旅行)など、詳しい分析が非常に面白くて一気に読ませる。

 こうして「大宮島」の記憶は、日本人の楽園から疎外されていく。目の前にあるはずの「戦争の記憶」を「見ないこと」にしたのは、いまどきの若者が最初ではない。80年代、70年代、いや、60年代末の新婚ツアー客(いま、還暦前後だな)から、無邪気な忘却は始まっているのだ。長いなあ、この無責任の歴史。

 せめて、閉鎖中のグアム博物館が、早期に再開することを願いたいと思う。やはり「南国の楽園」で、お買い物天国のシンガポールに行ったとき、セントーサ島の博物館だったかしら、日本統治時代の歴史が詳細に展示されているのを見て、国家の自恃みたいなものを感じたことを思い出す。

 以下、余談。私は本書を、タイトルと数葉の写真に惹かれて読み始めた。一気に「あとがき」まで読み進み、「メルボルン大学でカルチュラル・スタディーズを学んで帰国した頃」という下りに突き当たって、おや、と思った。この著者、そういう人だったのか。そもそも著者って、誰だっけ? と慌てて奥付を確認して、あっと思った。山口誠さんだったのか。懐かしい・・・と言っても、先方は私が誰だか分からないだろうが、『英語講座の誕生』(講談社選書メチエ 2001)は面白く読んだ。あれから6年ぶり、2冊目の単著になるのだと思う。もちろん研究論文は書かれていたのだろうけど、今後は、一般読者向けにもどんどん本を書いてほしい。期待してます。
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文豪の怪談/鼠坂ほか(森鴎外)

2007-08-19 23:57:53 | 読んだもの(書籍)
○東雅夫編『文豪怪談傑作選・森鴎外集:鼠坂』(ちくま文庫) 筑摩書房 2006.8

 ちくま文庫の「文豪怪談傑作選」は全4巻。森鴎外のほか、泉鏡花、川端康成、吉屋信子が取り上げられている。鏡花、川端(表題作は「片腕」)は、納得の人選だろうが、え?鴎外が怪談?というのは意外だった。

 私の場合、森鴎外に関しては、高校時代の国語の教科書の影響で、「渋江抽斎」(読んでいない)をはじめとする、「歴史其の儘」の史伝小説のイメージが強い。その鴎外に、鏡花や川端と並ぶ、幻想的な「怪談」の名作があるなんて、すぐには信じられなかった。この点、鴎外は「教科書的偏見」によって、ずいぶん損をしているのではあるまいか。編者の「あとがき」によれば、石川淳、日夏耿之介、中井英夫、三島由紀夫ら、如何にも”曲者”の文学者たちが、鴎外の文業を一途に称揚していることが分かる。また、鴎外が、中国の志怪伝小説やら西洋のゴシック幽霊小説を偏愛していたことも最近になって知り、私はこの”文豪”に、かなり親近感が湧くようになった。

 というわけで、読んでみた本書。怪談はネタバレになるので批評が難しいが、冒頭の「正体」は、驚愕の怪作である。文豪・鴎外のイメージが一新してしまった。オーストリアの作家、カール・フォルメラーの短編を翻訳したものだが、主人公を魅了する「正体」が何なのか、結局、よく分からない。もとの原作が分からないように書いてあるのか、翻訳が巧くなくて分からないのか、そこのところもよく分からない。ただ、噴き出すような濃厚な猟奇趣味と耽美趣味に圧倒されるばかりだ。しかもそれは、科学とテクノロジーに結びついた新時代の怪談である。

 「二髑髏」「負けたる人」も翻訳もの。前者は、いつとも分からぬ時代のボンベイが舞台。後者は、中世ヨーロッパの騎士と伯爵夫人が登場する。自在に変幻する文体と設定。どちらも、びっくりするほど耽美的でロマンチック。諧謔を帯びた「破落戸(ごろつき)の昇天」「己(おれ)の葬(とぶらい)」もよい。

 一方、日本を舞台にした創作「金毘羅」「鼠坂」「心中」などは、古風な筋立ての怪談。淡々とした筆致で、読んでいる間はさほど怖くないが、夜になって思い出すと妙にぞくぞくと怖い。ああ~夢にうなされそうだ。やっぱり、文体が際立っているので、はっきり記憶に残るんだろうな。「魔睡」「蛇」について、澁澤龍彦は「作者の抑圧された性欲的なものが、じくじくと沁み出しているような作品」と評しているという。確かにそんなところがある。

 それにしても、陸軍軍医総監なんて、立派な官僚をやりながら、こんな小説を書いていたのかと思うと、呆れるやら感心するやら。
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移動と思索/驢馬とスープ(四方田犬彦)

2007-08-18 14:06:17 | 読んだもの(書籍)
○四方田犬彦『驢馬とスープ:papers 2005-2007』 ポプラ社 2007.8

 2004年12月から2007年1月にウェブマガジン「パブリディ」(現在は休刊)に連載された「週刊ヨモタ白書」を主とする時評エッセイ集である。

 四方田さんの著作を単行本として読んだのは、意外と遅くて、たぶん『心は転がる石のように』(2004.12)が最初である。あれは2003年から2004年に書かれたエッセイをまとめたものだったから、本書はその続きと言える。前作では、イスラエルの大学に4ヶ月滞在した際の見聞記が非常に印象的だった。日本では、マスコミも、国際問題の専門家も語らない「パレスチナの日常」に初めて触れたように思って。

 だから、本書の冒頭、著者がコソヴォに向かうと読んだときは「今度はコソヴォか」と思った。セルビア共和国の内側にあって大半がアルバニア人地区と化しているコソヴォの中に、さらにセルビア人の難民居住区があり、そこにプリシュティナ大学ミトロヴィツィア分校がある。著者はここに日本語と日本文化の教員として招かれたのだ。

 もっとも、コソヴォでの滞在は、前作のパレスチナほど詳細には語られていない。本書の中で、著者は、モロッコ、ソウル、青島(チンタオ)、チベット、メキシコ、ニューヨーク、タスマニア、ケベックと、まるで神話の英雄のように世界各国を巡歴する。日本国内でも、埼玉県の高麗神社に在日作家・野口赫宙の足跡を訪ね、秋田県へかつて奇跡の涙を流したマリア像を確認にゆく。「移動しながら思索する」のが著者のスタイルである。

 本書は、そんな著者の思索スタイルのままに進むので、次から次へと、読み捨てにできないテーマが頻出する。13歳の三島由紀夫が、詩集の冒頭に書き付けた、パレスティナにまつわる警句。チベットを侵食する漢民族の食文化と消費文化。ブルース・リーに見るイエスの面影、等々。470ページ、2500円は、時評エッセイとしては、やや持ち重りがするボリュームだが、読み終わると、詰め込まれた「知識」と「思想」の充実感・満腹感に呆然となる。

 著者は「人生で17回目の引越し」を終えて「わたしは、いつまでも同じところに留まっていると、頭が悪くなるような気がしてしまう類の人間なのである」とうそぶく。私もどちらかといえば同種の人間なので、この気持ちはとてもよく分かる。そして、驢馬に憧れる(驢馬を飼いたい)気持ちも。驢馬は、馬のように疾走はしない(似合わない)けれど、ひたすら歩き続けるのだ。重荷を背負わされても。本来、生まれ育った場所とは似ても似つかない場所、荒地へでも高山へでも。

 旅人を迎えるのは一皿のスープ。「わたしの旅とは突き詰めるならば、スープの皿から別のスープの皿へと移ってゆく旅にすぎないのだ」という。確かに、土地ごとに、あるいは家ごとに味の異なるスープを味わうように、さまざまなことを考えずにいられない1冊である。
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