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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

【2日目】ホーチミンの大晦日

2006-12-31 21:33:16 | ■アジア(中国以外)


 午前中はメコンデルタ・クルーズを楽しみ、午後は再びホーチミンの市内観光。ベンタイン市場で、ベトナムコーヒーを買い込む。

 夜に入ると、一家総出でオートバイに乗った市民たちが町に繰り出し、道路は大混雑。夜通し、走り回って、新年を迎えるらしい。
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【初日】ホーチミン中央郵便局

2006-12-30 21:34:04 | ■アジア(中国以外)


 旅行初日は、午後3時過ぎにホーチミンに到着し、そのまま、数ヶ所を市内観光。

 中央郵便局は、フランス植民地時代に建てられた公共建築の代表作。外壁には、フランスの著名人の名を記したレリーフが一面に飾られている。中に入ると、アーチ型の大天井が圧倒的。『建築のハノイ』の大田省一氏によれば、「鉄骨構造が普及して、大胆な構造の建築物が流行っていた、当時のフランスの事情を反映している」のだそうだ。
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読んだものと読んでないもの

2006-12-29 22:19:29 | 読んだもの(書籍)
 明日からベトナム旅行に出かけてしまうと、新年まで戻らない。なので、早々に今年のまとめをしておこうと思う。例によって、今年、買ったのに読んでない本から。

■浅羽通明『右翼と左翼』(幻冬舎新書) 幻冬舎 2006.11
 半分までは読んでいるので、新年に続きを読むつもり。でも期待したほど面白くない。

■井上清『明治維新』(中公文庫:日本の歴史20) 中央公論社 1974.7
 同シリーズ21『近代国家の出発』は面白かった。前後の巻を読もうと思いながら止まっている。こういうのは正月休みの読書に最適なんだけど。

■安春根『図説 韓国の古書:本の歴史』 日本エディタースクール出版部 2006.11
 カラー図版が多いので、時々眺めている。そのうち通読の予定。

 今年はこれだけのはずだったが、外に出たついでに近所の書店に寄ったら、いろいろ目につくものがあって、つい買い足してしまった。繰り返すけど、明日から旅行なのに。

■『芸術新潮』2007年1月号「大特集・台北故宮博物院の秘密」 2007.1
 先月号の「次号予告」を見たときから、心待ちにしていた。とりあえず、留守宅に置いておいて、中味は帰ってからゆっくり。

■『現代思想』2007年1月号「特集・岸信介-戦後国家主義の原点」 2007.1
 「現代思想」の特集って、やっぱり、いいトコをついてくるなあ。

■中野麻美『労働ダンピング:雇用の多様化の果てに』(岩波新書) 岩波書店 2006.10


 以下2点は、今日、買ってきて、あわただしく読んでしまったもの。

○吾妻ひでお『うつうつひでお日記』 角川書店 2006.7

 話題を呼んだ『失踪日記』の続編。2004年7月から2005年2月まで、オビのコピーに従えば「事件なし、波乱なし、仕事なし」「読書と抗うつ剤と貧乏の日々」を描く。身体まるごと市民社会への不適応を宣言している点は、「近代文学の伝統」を踏まえているとも言える(本人にその意識はないと思うが)。それにしても、吾妻さん、地域の図書館を、よく使ってるなあ。

○諸星大二郎『グリムのような物語:スノウホワイト』 東京創元社 2006.11

 『トゥルーデおばさん』に続く2作目。解釈不能の怖い作品から、よくできたSFふうの翻案、作者も楽しんでいると思われるスラップスティックス仕立てのコメディなど、バラエティに富む。巻末に原話のあらすじを紹介した、親切な自作解題が付いている。私は、どの作品も、あ、あれだ、と原話を思い浮かべることができたが、ちょっと若い世代だと、マイナーなグリム童話など知らないのかもしれない。

...それでは、皆さん、よいお年を!


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普遍国家?国民国家?/ベトナムの世界史(古田元夫)

2006-12-28 23:55:11 | 読んだもの(書籍)
○古田元夫『ベトナムの世界史:中華世界から東南アジア世界へ』 東京大学出版会 1995.9

 年末年始のベトナム旅行を控えて、もう1冊くらい、ベトナム本を読んでおこうと思った。本書は、ベトナムの近現代史を「普遍国家」「国民国家」「地域国家」という3つのキーワードで読み解くものだ。3つの国家形態は、何を統合原理の根底に据えるか、という違いを示している。

 近代以前の伝統世界において、国家とは普遍国家(普遍文明)に他ならなかった。19世紀初頭、ベトナムは、普遍文明である中華世界の辺境「南国」に自らを位置づけていた。このことは、ベトナムにおける「小中華思想」を育て、東南アジアでは例外的に早熟な国家意識が生まれていた。

 19世紀半ば、フランスの侵略が始まる。フランスの植民地支配は、清朝の宗主権を完全否定するともに、現在のベトナム、カンボジア、ラオスを包摂する「インドシナ」という枠組みを、この地域にもたらした。帝国列強は、植民地経営上の必要から、ある程度「土着民教育」に力を注がざるを得ない。しかし、植民地エリートは、決して本国人と同等になれないという限界に突き当たることで、次第に、自分たち自身の「国民国家」形成の要求を強めていく。つまり、ナショナリズムとは、本質的に「植民地帝国の産物である」と著者は言う――この説明は、意外なようで、スジが通っていて、面白い。

 そして、日本軍による仏印進駐→日仏共同統治(植民地政府が、親独ヴィシー政権の下にあったため)→仏印処分(日本軍によるクーデタ)を経て、第二次世界大戦終結後、ベトナム民主共和国が成立する。これは、東南アジア各地の民族独立運動と積極的に連携し、地域の中に自らを位置づけようとするという意味で、「地域国家」ベトナムの誕生と言ってよかった。

 だが、冷戦を背景としたアメリカの介入は、かえってベトナムを、社会主義という新しい「普遍原理」をまとった中国寄りに引き戻してしまう。長く厳しい戦時体制下のベトナムでは、「貧しさを分かち合う社会主義」という普遍的理念は、国民国家の統合原理としても作用していた。

 しかし、戦争が終結すると、「貧しさを分かち合う社会主義」は、一気にその欺瞞を露呈してしまった。ベトナムは、国家の統合原理を、社会主義という普遍的理念よりも、文化の地域的固有性に求めるようになる。やがて、ASEANに接近して、東南アジア世界の一員になるとともに、中国との関係も修復し、新たな「地域国家」として、歩み始めている。

 私は、東南アジアについては、地図を見て、全て国名が言えるかどうかあやしい程度の知識しかない。まして、その複雑な近現代史については(日本の関与を含め)、ほとんど何も知らなかったので、本書は非常に興味深かった。以前、ASEANについて調べたとき、東南アジアの大国(と思っていた)ベトナムの加盟が意外と遅い(1995年)ので、不思議に思った記憶があるが、本書を読んで、あらためて納得した。

 それにしても、いろいろ苦難の歴史はあっても、現在の「ASEAN」は、地域協力の枠組みとしては、上手くいっているほうなのではないか。ヨーロッパと同じで、強固な「普遍国家」が存在しなかったことが、最終的には幸いしたのかもしれない。やっぱり、東アジアは、中国が脱「普遍国家」してくれないとなあ。それから、「地域国家」というのは、いい用語だと思った。「普遍国家」と「国民国家」の間を行ったり来たりしている限りは、どうにもならない問題に、解決の糸口を与えてくれる概念ではないかと思う。

■参考:ASEANに関する基礎知識(日本アセアンセンター)
http://www.asean.or.jp/general/base/index.html
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日本画と洋画のはざまに/国立近代美術館

2006-12-27 22:54:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立近代美術館 『揺らぐ近代-日本画と洋画のはざまに』

http://www.momat.go.jp/Honkan/Modern_Art_in_Wanderings/index.html

 近美のサイトには、まだ「現在開催中の展覧会」にデータが残っているようだが、先週末で終了した展覧会である。最終日に駆け込みで行って来た。近代日本の絵画を語るとき、我々が自明のことのように思っている「日本画」「洋画」という区分に対して、それを無効にするような作品を集めたのが本展である。

 前半のセクションでは、近代初頭に生み出された、さまざまな実験的作品を紹介する。単純な和洋折衷の例だが、油絵の屏風仕立て(しかも貼り交ぜ風!)を見て、私はあっけに取られてしまった。そのほかにも、意表を突かれるものが多い。伝統的な絵馬の形式を借りながら、人物は西洋風な『加藤清正武将図』(小林永濯)とか。モネの「睡蓮」ふうの池に小舟を浮かべた白拍子の図『朝妻舟』(山内愚僊)とか。野口武彦さんの言葉だが、明治の「め」の字はメチャクチャの「め」である(いい意味で)。

 本展のポスターにもなった小林永濯の『道真天拝山祈祷の図』、狩野芳崖の『仁王捉鬼』など、日本画と洋画を融合させると、いまのジャパニメーションに似てくるのはナゼなんだろう? 原田直次郎の『騎龍観音』も「ゲド戦記」あたりを彷彿とさせる。

 和洋のはざまで揺れ動いていたのは、絵画ばかりではない。明治の文学も然り。演劇も然り。河鍋暁斎の『漂流奇譚西洋劇パリス劇場表掛りの場』は、河竹黙阿弥の芝居を描いたもの。付け毛・洋装の日本女性が、主人公の猟師三保蔵(これも洋装)と、パリのオペラ座で再会した場面だという。今の我々から見れば、どうにも赤面したいほど不恰好で滑稽だが、この混乱が明治というものかもしれない。

 明治40(1907)年、文部省美術展覧会(文展)が、募集作品に「日本画」「洋画」「彫刻」というカテゴリーを適用したことによって、「日本画」「洋画」という区分は社会的に認知されていく。しかし、それでもなお、両者のはざまに存在を主張するような作品が、多くの画家によって生み出され続けた。展覧会の後半は、大正期から現代までの画家を取り上げる。初めて知る作品がたくさんあって、面白かった。

 河野通勢の『蒙古襲来之図』は、油彩の合戦図。洛中洛外図や祭礼図屏風みたいに、うんと視点を引いて、大群衆を描いている。血なまぐさい題材なのに、暖色を多用した画面からは、華やいだ雰囲気が伝わってくる。川端龍子の『龍巻』はすごいなー。言葉もない。壁いっぱいの大画面。龍巻の破壊的なエネルギーによって、空中に吸い上げられた鮫やエイが、再び海面に落下してきた瞬間を描いている。それから、岸田劉生に、水墨(加彩)の四季花果図があるなんて。堂に入った文人画である。添えられた漢文の字体もいい。私は岸田劉生の洋画はあまり好みでないが、この画幅はほしい。嫌味がなくて飽きないと思う。

 同展は、新春から京都国立近代美術館に巡回。関西の皆さん、お楽しみに。
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天馬博士登場/Pluto004(浦沢直樹)

2006-12-26 23:20:52 | 読んだもの(書籍)
○浦沢直樹、手塚治虫『Pluto(プルートゥ)』第4巻 小学館 2007.2

 第4巻の「豪華版」が書店に現れたのは1週間ほど前だろうか。「通常版」は本日発売。今頃、多くの読者が本書を味わっていることと思う。

 第2巻の遅い展開に少し苛立ったあと、第3巻では、物語の結構と主題が明らかになってきたように感じた。と思ったら、第4巻は、再び展開のペースを落として、新たな「謎」や「伏線」が張られ、物語に複雑な陰影が加わってきた。暗示的に示される、殺人ロボットプルートゥと、ロボット刑事ゲジヒトの相同性は、何を意味するのか?

 本巻では、アトム生みの親である天馬博士が登場。表紙にもなっている。しかし、まだ書き込み不足で、どのようなキャラクターになるのか、はっきりしない。手塚版『アトム』の天馬博士は、子供心に理解不能で(ひとくちに善人とも悪人とも言い難くて)、恐ろしいけど不思議と魅力的なキャラクターだったと記憶している。果たして、浦沢版『Pluto』の天馬博士は、原作を超えることができるだろうか。

 天馬博士のつぶやく「深い悲しみ/挫折/それらが電子頭脳を育てるのだ」という言葉は、今後の展開の鍵になるのだろう。「悲しみ/挫折」の裏にある隠しタームは「憎悪」だと思う。「憎悪が電子頭脳を育てるのだ」という、否定しがたい命題を、どのように「否定」していくのか。次巻の展開が楽しみである。また半年から1年待つのかあ~。
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歴史の共有に向けて/日本の200年(A・ゴードン)

2006-12-25 20:49:16 | 読んだもの(書籍)
○アンドルー・ゴードン著、森谷文昭訳『日本の200年:徳川時代から現代まで』上・下 みすず書房 2006.10

 近年、欧米人による日本近代史の好著が続いている。翻訳版における、今年の収穫は、イアン・ブルマの『近代日本の誕生』(ランダムハウス講談社)と本書だろう。ブルマ氏の著書は、ピリリと皮肉の効いたところがあって、面白く読んだ。本書は、英語圏の大学で、日本の歴史を履修している学生の教科書として書かれたものであり、記述はおおむね公正中立、表現は平明穏当である。そこが日本の読者には、やや物足りなく感じられるかもしれない。

 しかし、読み始めてすぐ、私は本書のあまりの「分かりやすさ」に唸ってしまった。どうして日本人の書く日本史には、この分かりやすさがないのだろう? 理由のひとつとして、日本の教科書や通史・概論は、テクニカル・タームの学習に重点を置きすぎなのではないかと思う。私の記憶する限り、高校の日本史の教科書は、「大政奉還」とか「廃藩置県」などの重要タームが(うんざりするほどたくさん)ゴチックで示され、それらを説明するかたちで記述が進む。教育現場では、これらのタームを理解し、覚えることに、多くの時間と労力が費やされていると思う。

 それに比べると、本書は、英語圏の読者を想定しているため、こうした特殊語彙の説明には、ほとんど意を用いていない。しかし、どんな理由で、誰によって、何が行われたか、という歴史のダイナミズムはきちんと記述されていて、よく頭に入るし、もしかしたらあり得た別の選択、あるいは別の時代・別の地域との比較について、しばしば考えさせられる。

 本書の魅力のひとつは、近代日本の多面性をとらえた懐(ふところ)の深さであろう。著者は、トップレベルの国政担当者の営為と判断について精力的に記述しながら、同時に、社会の中心から外れた人々――女性、在日外国人、被差別民、貧農、職工、炭鉱労働者などが行った異議申し立て(の痕跡)にも、周到な目配りを見せている。また、1920年代のモダン・ガールから、戦後の「自由恋愛」の謳歌、1990年代の「援交」女子高生まで、社会風俗への関心も一貫して高い。

 著者の専門である「労使関係史」については、初めて知る「意外な事実」が多かった。たとえば、近代初期の男子労働者は、ひとつの職場に固執しなかった。彼らは、多くの工場を渡り歩いて経験を積み、さまざまな技能を修得することが、身を立てる手段と考えていた。へえ~現代の「終身雇用」サラリーマンより、ずっと自立的だったのだな。アメリカ人みたいだ。

 この慣行が変化するのは、戦時中の総動員体制による。政府は、労働力の安定確保のため、就労者に職業の変更を禁じた。同時に、労働者の勤労意欲と生産性の向上をはかるため、全ての従業員に年2回のボーナス支給を義務づけ(!)、扶養者を抱える年齢の高い労働者のニーズに応えるかたちで、年功序列的な昇給を体系化した。うーむ。いまの私が年2回ボーナスを貰えるのは、国家総動員法のおかげだったのか...。

 最後になるが、著者は「日本語版へのまえがき」で、日本の歴史修正主義者たちが主張する「さまざまな国が歴史認識を共有することは不可能である」という認識に対して、「本書は、これとちがう精神に」立つ、と述べている。日本の近現代史は、特殊ユニークなものではなく、全世界に共通の近現代史のバリエーションとして理解可能だ、というのが本書の立場である。実際に、本書は、中国語、ハングル、スペイン語の翻訳も刊行予定だという。こうした良質の日本史が世界の読者に共有されるのは、とても嬉しいことだと思う。

 忘れてならないのは、原注に示された先行文献の厚みである。本書は、英語圏の読者が参照しやすいよう、引用は、なるべく英語文献から行う原則を取っているが、原注に引かれた膨大な先行研究文献は、英語圏における日本近現代史研究の豊かな蓄積を誇っているように感じられた。

■参考:Oxford University Press, "A Modern History of Japan" companion site
http://www.oup.com/us/companion.websites/0195110609/?view=usa
学術書の販売促進に、こういう専用サイトを設けるというのは面白い。アメリカでは一般的なのかな。
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クリスマス・プレゼント!

2006-12-24 18:40:28 | なごみ写真帖
何事もなく終わるかに見えた週末。郵便受けに「不在配達通知」が入っていたので、郵便局に取りに行ったら、友人からのクリスマス・プレゼントだった。感謝!

この4、5年、どこに住んでも「仮住まい」感覚なので、いつも極力、身軽でいようと思い、ぬいぐるみなどの非実用品は、身辺から遠ざけていた。

そのため、先月、アメリカから連れて帰ったブラック・ベアのぬいぐるみは、部屋の中で、ポツンとひとりぼっちだった。これで相棒ができて、主(あるじ)のいない日中もさびしくなかろう。仲良くするんだよ。



ちなみに、この子はバクのCHICKA(チッカ)。
http://directstyle.world.co.jp/kids/bakuchicka/index.html?BRAND=BAKUCHICKA
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敦煌経と中国仏教美術/三井記念美術館

2006-12-23 22:08:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三井記念美術館 特別展『敦煌経と中国仏教美術』

 これも先週末に行った展覧会。三井文庫所蔵の敦煌経は、中野区新井薬師の三井文庫で見たことがある。調べてみたら、2004年新春に行われた『シルクロードの至宝 敦煌写経』という展覧会らしい。日本橋の三井記念美術館ができて以来、新井薬師の三井文庫に行く機会はなくなってしまった。静かな住宅街の中にある文庫で、好きだったのにな。

 さて、写経中心じゃ地味な展覧会だろうな、と思って行ったら、最初の展示室には、小さな金銅仏がズラリと並んでいた。東博の法隆寺館のようだ。最初の展示ケースに入っていたのは、隋代の菩薩像。小さな丸顔に切れ長の目、愛らしい造型に見とれる(東博蔵)。

 めずらしいところでは、陳の太健元年の銘を持つ菩薩像があった(東京芸大蔵)。陳って、「商女は知らず亡国の恨み、江を隔てて猶唱う後庭歌」の陳ですね。中国の南北朝時代(5~6世紀)のうち、北魏や北斉の仏像は有名だが、南朝銘の明らかな作品はきわめて少ないのだそうだ。頭部が小さく、細身で、天衣のボリュームばかりが際立つ。鈴木春信の描く女性の如し。陳の後主(最後の皇帝)を惑わせた寵姫、張麗華もこんな感じだったのかしら。

 静嘉堂文庫蔵の如来像と力士像一対は、唐~五代らしく、写実的でバランスの取れた工芸品である。金剛杵を振り上げ、投球モーションのように体をひねった力士の表現が見事。主尊が、ボールのような球形の蓮花に載っているのも面白い。これらは、いずれも国内の美術館・博物館が所蔵する金銅仏だが、こんなふうに集めて展示してくれるのは、ありがたい企画だと思う。

 一方、敦煌経のほうは、2000年から3年間に渡った科研費プロジェクトの成果に基づき、厳選された34点が展示されていた。近年の調査によれば、世に敦煌文書と称するものには、発見当初から、かなり偽物が混じっていたそうで、世界的な問題になっているそうである(→古い記事だけど)。展示品は、いずれも端正で美しく、規範に忠実な書体を心がけているが、よく見ていくと、止めや払いの筆画に、書写者の個性がうかがわれるものもある。

 会場の一角に、昭和14年12月、笄(こうがい)町の三井家集会所で開催された敦煌経展示会の写真が展示されていて、興味深かった。さらに、三井家が敦煌経を一括購入した当時の目録もあって、表紙に「昭和3年11月6月両度ニ、田中三郎北京ヨリ持参、今井町三井家御買上、支那甘粛督軍張慶健(かな?)所蔵敦煌発掘古経写経目録」と記されていた。正規に購入したものである、ということを暗に言いたいのかな、とも思ったが、貴重な記録である。
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李朝ムード一色/日本民藝館

2006-12-21 23:04:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
○日本民藝館 創設70周年記念特別展『柳宗悦と朝鮮民画』

http://www.mingeikan.or.jp/home.html

 昨日で終わってしまった展覧会。「朝鮮民画」をどのように説明しようか、考えていたら、日韓市民ネットワークなごやのサイトに「宮廷画家や学者層の画家達、いわば伝統絵画が主に美的鑑賞だけに目的をおいていたのに反して、一般庶民のお守り的感覚(縁起物)と同時に装飾品としても使われた」もの、という記述があった。そうそう。日本で言えば、大津絵がこれに近い。目出度くて、陽気で、華やかな絵画である。伝統的な民衆文化の世界では「類型的」かも知れないが、単純化された色彩や造型が、かえって、いまの我々には新鮮に映ることもある。

 会場の日本民藝館に入ると、エントランスの真向かい、左右に分かれて2階に続く大階段の壁には、参観客を出迎えるように、多数の朝鮮民画が掛かっていた。食器棚のような縦型の展示ケースには、石製の薬煎(やくせん) や小鍋、火鉢が飾られている。箪笥、石神(彫像)、巫女像(絵画)など、エントランスホールの展示品は、全て朝鮮もので統一されている。

 2階に上がると、廊下の要所要所に大きな朝鮮白磁の壺が飾られていた。黒木の細い枠にガラスをはめただけの展示台(上中下段に計3点ずつ飾れる)、そして、黒っぽい木張の床と白壁のシンプルな室内に似つかわしい。たぶん、近代的な博物館の、ゴツイ展示ケースに入れて、薄暗い電気照明の下で見たら、この白磁の美しさは死んでしまうだろう。同様に、掛軸や屏風の表装も、色は鮮やかだが無地のものが多くて、民画の美しさを引き立てていた。

 「朝鮮民画」の特別展にあわせて、館内は李朝ムード一色だった。屏風や家具、陶磁器のほか、櫛、糸巻、懐中鏡、水差し、硯など、身の回りの小物も、多数出ていて、韓流(歴史)ドラマの雰囲気を彷彿とさせる。へえ、朝鮮の硯は日本と同じ長方形で、一辺に墨を溜めるかたちが主流なんだな(中国は円形)。しかし、四角くて四方がくぼんだものもある。白瓷の小さな祖霊塔も興味深かった。

 民画では、二曲屏風に仕立てた『文房図』。書架を囲んで積み上げた書物や巻物、封筒などを描いているが、遠近法が滅茶苦茶で、キュビズム絵画みたいだ。左には葡萄、右には胡瓜?ゴーヤ?を山盛りにしたお碗が描かれている。吉祥図様なのかなー。同じく屏風の『牡丹図』は、軟式野球のボールほどもある、大きなオレンジ色の牡丹があでやか。思い切ってぐにゃぐにゃに描かれた太湖石がすごい(穴が空いているので、風呂場の海綿みたいだ)。

 『蓮池水禽図』はよく描かれた吉祥の画題だが、中には、瞠目するほど「下手」なのもある。サカナが腹を見せて死んでいるとしか思えないものとか。あと『洞庭秋月図』もひどかった。悶絶~。どうして、無名の民画作家が、文人世界の伝統的(正統的)画題である「瀟湘八景」に、チャレンジしようと思ったのか。不思議だ。しばらく呆気に取られたあと、その大胆不敵さが好ましくて、だんだん笑みがこみ上げて来た。そういえば、同館所蔵のヘタウマ絵巻『築嶋物語絵巻』(現物未見)って、朝鮮民画に似ているかもしれない。
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