見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

週末関西旅行3日目:柳生の里

2006-04-30 01:24:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
○柳生の里(芳徳禅寺…天乃石立神社…旧柳生陣屋跡…旧柳生藩家老屋敷)~柳生街道(ほうそう地蔵…おふじの井戸…南明寺…夜支布山口神社)~忍辱山円成寺

http://www.kintetsu.co.jp/senden/Travel/Michi/B20036.html

 週末関西旅行の最終日は月曜日にあたり、美術館・博物館はお休みのため、里山歩きに出かけた。目的地は、奈良市内の北東にあたる柳生の里。近鉄奈良駅前からバスで1時間ほどである。同じバスに乗り合わせた中高年ハイカーの団体は、ほとんどが途中の忍辱山円成寺で下りてしまった。私も奈良公園からここまでは、以前、歩いたことがある。ここから先は未踏の地である。

 しかし、思ったほど田舎にはならない。大柳生(おおやぎゅう)のあたり、人家が途切れずに続くなあ、と思っているうち、柳生上のバス停に着いた。路上に人影はなかったが、小さなスーパーはあるし、郵便局もある。落ち着いた集落である。

 まず、柳生家の菩提寺である芳徳禅寺を訪ねる。裏にまわると、柳生家累代の墓地がある。このところ、NHKの時代劇『柳生十兵衛七番勝負』に、すっかりハマっているので、宗矩、十兵衛、そのほかの墓前に神妙に詣でる。

 山門を出て、里山の奥に入ると、巨石信仰で知られる天乃石立神社(あめのいわたてじんじゃ)がある。どうせ1つか2つ、大きい石がころがっているだけなんだろう、と思っていたら、突然、苔むした巨石が、文字どおりごろごろした場所に出た。岩が地中から湧き出してきたようで、異様な迫力である。吉野もそうだったが、奈良って「国のまほろば」なんていう穏やかな場所でなく、実は、何か強烈な呪力の磁場に囲まれているのではないだろうか。

 それから、旧柳生陣屋跡と旧柳生藩家老屋敷へ。家老屋敷には、新旧の大河ドラマ『春の坂道』と『武蔵』の写真パネルが飾られていたが、『柳生十兵衛七番勝負』の資料は特にない。ちょっと期待していたんだけど。やっぱり、大河は別格なのかな。これで柳生の里は、ほぼひとまわりである。

 茶店で山菜そばを食べながら、午後の歩き方を考える。笠置まで行こうと思っていたのだが、家老屋敷で、奈良方面のハイキングマップを手に入れたので、計画変更、円成寺を目指して歩くことにする。初めに少し上りがあるが、あとは下りが多くて歩きやすかった(逆コースはつらいと見た)。ほの暗い坂道に椿が散っていたり、蛙の声を聞きながら畦道を行くと、旅の剣豪気分。ドラマのBGMが耳で鳴って、自然と足取りが大股になる。

 円成寺(忍辱山)で14時のバスをゲット。円成寺は好きなお寺だが、残念ながら拝観するほどの時間はなかった。このまま奈良公園まで歩くと全長19キロ。無理ではないが、この日は早めに切り上げて東京に帰った。

■芳徳禅寺:手前が十兵衛(三厳)、奥が宗矩の墓


■家老屋敷:柳生家の紋(これ可愛いと思う!)の付いた長持ち

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週末関西旅行2日目(2):大和文華館

2006-04-29 23:28:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
○大和文華館 『日本絵画名品展-信仰の美・世俗の美-』

http://www.kintetsu.jp/kouhou/yamato/index.html

 これも先週の日曜日の話。奈良博のあとは大和文華館に向かった。時間節約のため、お昼は学園前駅のスタバで済ませ、会場に入ったのがお昼過ぎ。見通しのいい入口に立つと、遠目にも、『婦女遊楽図屏風(松浦屏風)』の大ぶりな図様が目に飛び込んでくるが、騒ぐ胸を抑えて、順路に従って見ていくことにする。

 今季は同館所蔵品による名品展なのだが、そのラインナップは本当にすごい。まず、最初に用意されているのが、佐竹本三十六歌仙の『小大君像』。先日、出光美術館の『歌仙の饗宴』展で、周囲の人の列を気にしながら見ていたものである。今日は広い会場に、私のほかに数人が散らばっているだけなので、飽きるまで、独り占め状態が可能! 濃赤と緑に細い金の描線を交えた、クリスマスみたいな重ねの色目を目に焼き付ける。

 それから、うわー、雪村の『呂洞賓』だ! 龍のアタマを踏みつけて、天に昇る神仙・呂洞賓の図。袖や髭が着物の裾が、四方八方に跳ね上がり、「風の向きの不合理な表現」であると解説はいうが、私には高速で回転しているように見える。まるでマンガ。心なしか龍もうれしそうだ。私は、雪村という画家を、この1枚で最初に覚えたので、愛着のある作品である。

 しばらくして、ふと周囲を見ると、いつの間にか、私以外の観客は誰もいなくなってしまった。信じられない! 日曜日の昼下がりというのに。警備員のおじさんも受付で話し込んでいる様子で現れない。これでは、まるで、私のプライベート・ギャラリー状態である。あまりの贅沢に、頭がくらくらするような気分だった。

 国宝『一字蓮台法華経』がある。辻が花染の小袖を着た『婦人像』がある。伝宗達の『伊勢物語図色紙・芥河』がある(昔男が女を背負って盗み出す図、可憐)。光琳筆の扇面図を貼り混ぜた『扇面貼交手筥』がある。これは、貼り混ぜたのは光琳自身ではなく「作品を所蔵していた数寄者」と見られているそうだ。素人の工作っぽいところが、とても楽しい。

 そして、とうとう、『婦女遊楽図屏風』の前へ。記憶をたどる限り、初見だと思う。大きい。屏風が、ではなく、描かれている人物が。等身大の人物による群像というのは他に例がないそうだ。描かれているのは全て女性ということだが、カップルみたいに寄り添っているのもいて、あやしい。年齢は童女から、やや年配まで。風俗を仔細に見ていくと、お歯黒をして、眉を剃っているものとそうでないものがいる(単に結んだ唇を黒い線で表しているのはお歯黒ではないのかしら)。

 髪は、耳元だけを切り落とした下げ髪と、束ねてUPにしたものがいるが、目立つ髪飾りは誰も付けていない。髪のほつれ具合の描き方がいずれも丹念で、作者は女性の髪フェチに違いない、と思った。髪型や化粧(アイラインの強調など)が現代の風俗に近いせいもあるけれど、身体(膝を立てたり、胡坐をかいたり)や顔の表情が自由で、ゆったりした衣装も、それを隠そうとしないところが、描かれた女性たちを、身近に感じさせるのだと思う。この屏風、九州平戸の大名家、松浦家に所蔵されていたことから、松浦屏風と呼ばれる。2004年に訪ねた平戸の町を、懐かしく思い出した。

 ところで、あれ?大和文華館の「コレクション」に上がっている画像(前掲)と、今回の展示では、屏風の左隻右隻が逆になっているやに思える。私の記憶違いか、それとも何か理由があるのかしら。興味は尽きない。
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週末関西旅行2日目:大勧進:重源

2006-04-27 11:22:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
○奈良国立博物館 特別展『大勧進:重源-東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出』

http://www.narahaku.go.jp/exhib/exhi-index.htm

 今週の日曜日の話である。京都を発って、奈良に向かった。奈良公園に着いたのは朝の9時過ぎ。鹿の姿を眺めながら、9時半の開館を待つ。私が朝から奈良にやって来るといえば、だいたい秋の正倉院展が目的なので、人波をかき分けて、気ぜわしく行列に並ぶことが多い。こんなふうに、のんびり開館前の風景を眺めるのは新鮮な体験である。

 この展示会は、平氏による南都焼き打ちのあと、東大寺の再建に尽力した俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を記念するものだ。重源は好きなお坊さんだ。学校の日本史では、鎌倉仏教と言えば、親鸞・道元・日蓮など、思想的な大成者を重視するけれど、私は、この重源や、西大寺律宗の叡尊・忍性など、行動派の僧侶に、より多く魅力を感じる。

 重源は、東大寺再建の大勧進(だいかんじん)に任ぜられたとき、既に60歳を超えていた。それから10年以上の歳月を費やして、無名の民衆を組織し、権力者の支援を取り付け、さらに技術者を指導して、大仏を鋳造し、開眼供養を成し遂げる。しかも、単にあったものの再現ではなくして、大陸で学んだ最新の土木・建築技術と宋様式という最新モードを取り入れ(入唐三度上人だし)、慶派仏師を起用して鎌倉新様式の殿堂を作り上げた。すごいプロデューサー能力だと思う。

 松岡正剛さんは、読書ブログ『千夜千冊』で、伊藤ていじ著『重源』(新潮社 1994)を取り上げ、重源には「どこか仏教マキャベリストともいうべき感覚」があると語る。そうそう、そこが好きなんだ、私は。重源は、すでに近世のほうを向いた中世人、という感じがする。ちなみに私は、南都焼き打ちの首班で、仏罰を恐れぬ大殺戮を行った平重衡のリアリストぶりも、同じ理由で好きなのである。

 会場には、東大寺・俊乗堂の重源上人坐像が飾られている。場内に人が少ないので、わざと少し離れた距離から眺めてみると面白い。小さな体躯に宿る、どこまでも不敵な精神が、老いかがまった背中の表現からも伝わってくるようだ。

 会場に入ってから30分ほど、係員の男性が、上人像の前に、白木の卓を運んできた。やがて1人の若い僧侶が入ってきて、読経を始めた。深みのあるバリトンである。般若心経が終わると、真言を唱える。袖に包んだ右手は、印を結んでいるのだろうか。私を含め、会場に散らばっていた10人ほどの観客は、申し合わせたように、上人の像のほうに向き直り、一緒に礼拝していた。ちょっと感動してしまった。

 展示品は、最初、文書類が多いなと思ったが、あとのほうに、仏像・仏画の名品も待っている。兵庫県・浄土寺からは阿弥陀三尊のご本尊だけがいらしているが、これは5メートルを超える巨像である。奈良博の新館(西館)って、実は天井が高いんだなあと初めて知った(正倉院展しか見たことがないので)。高野山から快慶作の孔雀明王もいらしている。松永耳庵旧蔵の巨大な「菩薩の耳」にはびっくりした。耳だけでも彫法から快慶作と分かるらしい。

 ちょっとマニアックには「建久七年」銘のある伎楽面(京都・神童寺)に注目。古代だけで滅んだものと思っていた伎楽が「鎌倉復興期の南都で復活した可能性を示す」ものであるとのこと。興味深い。
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週末関西旅行1日目:大絵巻展

2006-04-26 00:03:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 特別展覧会『大絵巻展』

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 私は絵巻が好きだ! 今でこそ仏画、大和絵、水墨画、浮世絵など、何でも選り好みしないが、日本・東洋絵画の魅力に目覚めた最初のきっかけは絵巻だった。それまでは、「絵は絵であれば足りる」的な、つまり、小林秀雄の『近代絵画』的な絵画論に縛られていて、呪術とか宗教とか工芸とか、まして文学的な要素の混じった絵画は、二流品であると思っていたのだ。

 しかし、絵巻は、複雑な物語を表す詞書が加わって、初めて成立する芸術である。その「絵」には、時間の経過を表し、劇的効果を高めるため、さまざまなあざとい技法が使われている。純粋絵画にはあり得ない、絵巻の面白さを素直に認めるところから、私の日本美術開眼が始まった。と言うと聞こえがいいが、要するに、なあんだ、これは(純粋絵画がどうこう言いながら、ウラでは大好きだった)マンガじゃないか!と悟ったのである。

 以来、機会があるごとに、絵巻を熱心に見てきた。だから、この展覧会でも、全く初見という作品は少なかった。大分の柞原(ゆずはら)八幡宮に伝わる『由原八幡宮縁起絵巻』(室町時代)は、さすがに初見。新羅から襲来した八頭の悪鬼「塵輪」を仲哀天皇が射殺す場面(正史にはない)は、横長の画面を有効に使って、射手である天皇の登場まで、ぎりぎりまで間を持たす構図が憎い。『餓鬼草紙』の後半も初見かもしれない。登場する餓鬼が、人間に比べて、だんだん大きくなってくるのが面白い。『源氏物語絵巻』の「蓬生」(徳川美術館)も、こんなにしげしげ見たのは初めてだろう。荒れ果てた建物の描写がすさまじいと思った。

 白描画の『善教房絵巻』は、サントリー美術館所蔵だし、見ていると思うが、画中の科白を現代語訳で示してあるのが新鮮だった。手慣れた描線と言い、リアルな科白と言い、「夢見がちでない少女マンガ」みたいである。サイバラ理恵子みたいな。

 そうすると、『絵師草紙』は、大きな手足とほほえましいオーバーアクションが宮崎駿っぽい。『鳥獣戯画』は、擬人化された動物の表情が、手塚治虫を思わせる。『後三年合戦絵巻』は東博でよく見る作品だが、剽悍な黒の具足、飛び散る血しぶき、激しい矢ぶすまなど、ニヒルで劇画的なカッコよさに満ちていて、『北斗の拳』の世界である。

 「大絵巻展」を名乗るわりに、なくて寂しいと思ったのは、『平治物語絵詞』(東博、静嘉堂文庫)と『伴大納言絵巻』(出光美術館)。あっ、『春日権現験記絵』も出てなかったぞ。『北野天神縁起』は後期に出る予定だが、図録を見ると、国宝の承久本ではないらしい。ボストン美術館の『平治物語絵詞・三条殿夜討巻』や『吉備大臣入唐絵巻』を持ち出すのは難しいんだろうなあ。あと、大好きなのに、年来、未見の『長谷雄草紙』は、どこが持っているのかと思ったら、永青文庫なのか! 見たいな~。以上、欲が深くてすみません。
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京焼・写しの独創性/三井記念美術館

2006-04-25 22:02:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三井記念美術館 企画展『京焼の名工~永楽保全・和全~』

http://www.mitsui-museum.jp/index2.html

 会場に入ると、最初に『雲龍土風炉(どぶろ)』という不思議な物体が目に飛び込んでくる。直径50センチくらいの黒光りするリングは、まるでイサム・ノグチの作品のようだが、実は土製の「風炉」で、お湯を沸かすための茶道具の一種である。京焼の名工、保全とその息子和全が生まれた永楽家は、この土風炉を作ることを家職にしていたという。

 保全は、19世紀前半(文化文政期)、中国東南部の陶磁器の写し物が流行った時代に生き、特に紀州徳川治宝の趣味に応じて(三井家は紀州徳川家の御用商人だった)、交趾写や呉須赤絵写などを手がけた。ちなみに「交趾」は、実際には中国東南部で作られた陶磁器であるそうだ。最大の特徴は濃い緑で、時に黄色、黒っぽい紫が加わる。古九谷の青手と同じ配色であるが、この大胆な配色を、抑制された優雅な造形の中に閉じ込めたのが、保全の交趾写の特徴であると思われる。赤地に金を配した金襴手にも、同じことが言える。

 今回の展覧会で見た保全の作品は、独創的で、高い芸術性を感じるものが多かった。ただ、正直なところ、私には、それが保全の独創性なのか、保全が手本にした作品の独創性なのかは、判断がつかない。上記のサイトの写真でいえば、『金襴手鳳凰文宝珠香合』とか『金襴手四ツ目結桐紋天目』とか、こんなのもお手本があったんでしょうかねえ。

 父の保全は、このほか、絵高麗(磁州窯)写、染付、青磁など、外国ものをよくしたが、息子の和全には「乾山写」「仁清写」「萩焼写」そして「応挙写」なんてのもある。コピーの容易でない時代、また、原本の流通や保存が困難であった時代、「写し」の意味は、現在とはずいぶん違うものだったのではないか。そんなことも考えてみたくなるが、まずは目の前の作品を素直に楽しむだけでもいいのかも知れない。ちなみに「写し」の問題については、同館の次回展『美術の遊びとこころ:美術のなかの「写」-技とかたちの継承』に期待。
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書画、たまに洋画/ブリジストン美術館

2006-04-24 22:22:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
○ブリジストン美術館 『雪舟からボロックまで』

http://www.bridgestone-museum.gr.jp/

 週末関西旅行から帰ってきたところ。しかしながら、実はまだ、その前の週末に行ったもののことを書いていない。そこで、取り急ぎ。

 この展覧会は、石橋財団の設立50周年を記念して、雪舟、応挙などの日本・東洋美術から、印象派や20世紀のマティス、ピカソ、さらに新収蔵したポロック(20世紀、アメリカの抽象画家だそうだ)まで170点を一挙に公開したものだ。

 順路に従って進むと、まず洋画の展示室に案内される。印象派をはじめとする泰西名画と、日本の洋画が「混ぜこ」になって並んでいる。思えば、私が東洋美術をヒイキするようになったのは、つい最近のできごとである。小学生の頃は、「絵」といえば西洋画のことだと思っていた。いつか自分も、モネやルノワールみたいな、あるいはレンブラントみたいな「絵」が描けるようになりたいと思っていた。それが、東洋美術にどっぷり浸かるようになって、久しぶりに泰西名画を見てみると、はじめ、なんとも言えない、不思議な違和感があった。描かれているものが、人間であるとか、風景であるとかいうことを認識するのに、一瞬、超えなければならない敷居のようなものを感じたのだ。明治の頃の日本人も、こんな気持ちだったのかあ、と考えた。

 と言って、西洋絵画が嫌いになったわけではない。だんだん、西洋絵画の感覚がよみがえってくると、雲の流れる川辺の風景や、白い肌の人物や、それらを表すためにキャンバスに置かれた「色」そのものを、美しいと感じた。日本の洋画もいい。私は岡鹿之助の『雪の発電所』にひかれる。

 それから、日本・東洋美術の部屋に移る。物慣れた表現を前にして、「目が落ち着く」のが、自分でも分かる。雪舟の『四季山水図』は、淡彩を用いた小判な作品である。個人的に気に入ったのは『保元平治物語絵扇面』という、六枚の扇面から成る、宗達派の作品。物語の筋が全く分からないのが悔しい。人物の描きぶりは、現存の『平治物語絵詞』によく似ていて、武士は基本的にブサイクなおじさん顔なのだが、4枚目、荷車から舟に俵を積み込んでいる美形の若衆が気になる。

 『高野切』もいいなあ。「古今集」巻一の断簡で、有名な「あだなりとなにこそたてれ桜花 年にまれなる人もまちけり」が書かれている。小ぶりな文字、軽やかな線は、あたかも桜の花びらの舞い散るような華やぎを感じさせ、心が躍る。

 最後に、階下のティールーム「Georgette(ジョルジェット)」で一休みして帰った。本格的なスコーンが美味。店の名前はルノアールの絵の女の子の名前である由。
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はじめまして、プライスです。/「若冲と江戸絵画」ブログ

2006-04-21 23:30:27 | 見たもの(Webサイト・TV)
○『若冲と江戸絵画』展コレクションブログ

http://d.hatena.ne.jp/jakuchu/

 私は職場のアドレスで、東京国立博物館のメルマガを購読している。今朝、メールチェックをしていて驚いた(勤務時間前ね)。[No.320:「若冲と江戸絵画」展オフィシャルブログ開設!] というニュースが飛び込んできたのだ。そっかー。今年は三の丸尚蔵館の『動植綵絵 』全点公開、2007年は相国寺の承天閣美術館の若冲展で、もう胸も頭もいっぱいだったが、この夏は、プライス・コレクションの里帰り展もあるんでしたね!

 それにつけても、このブログスタイルの広報というのは、なかなかいいと思う。最初にエントリーされている「はじめまして、プライスです。」というメッセージには、思わず微笑みがこぼれた。偉大なコレクターが、隣のおじさんみたいに感じられる。今朝は、まだ誰もTBやコメントを付けてなかったので、一番乗りしようかとドキドキしたけど...結局、やめた。でも、今後とも注目のサイトである。

 ついでに、東京国立博物館のサイトに、ようやく今年度の「主な展示予定」が上がった。ほほう、秋に『佐竹本三十六歌仙絵』が出るのか、とか、国宝室は仏画の名品『普賢菩薩像』と『虚空蔵菩薩像』を見逃さないようにしなくちゃ、とか、「日本の博物学」シリーズは「城郭」「博物図譜」「旅と街道」「釈奠」「船」か~どんな切り口になるのかなあ、など、先のことを考えると楽しい。

 さて、今週末は、久しぶりに東京を離れ、京都・奈良の美術館と名勝めぐりで、のんびりしてきます。ブログの更新はありません。
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実は面白ネタ満載/大日本帝国の民主主義(坂野潤治)

2006-04-19 23:54:22 | 読んだもの(書籍)
○坂野潤治、田原総一朗『大日本帝国の民主主義:嘘ばかり教えられてきた!』 小学館 2006.4

 ちょっと胡散臭げなタイトルだが、とんでもない。私が坂野先生の著作を読んだのは、2004年と2005年の『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)と『明治デモクラシー』(岩波新書)が最初である。面白くて、しかも読みやすかった。AだからBになり、BだからCになるという、因果関係の記述が、きわめて常識的で論理的(ヘンな偏見や思い込みがない)なので、すらすら頭に入ってくる。と同時に、日本史の「常識」を裏切られる点が多々あった。

 たとえば、日中戦争突入の直前でも、言論はかなり自由だったし、国民は議会に民意を反映する方策を持っていたこと。1936年(昭和11年)と1937(昭和12年) の衆議院選挙では、左派の社会大衆党が議席を増やしていること。国家主義者の首魁とされる北一輝が、実は民主主義者であったこと、など。

 私は、自分が日本史に詳しくないので、こんなふうに「え?」「あれ?」という場面が多いのだろう、と思っていた。しかし、本書を読むと、田原総一朗も、私と同じようなところで、「はじめて聞きました」「なるほど。おもしろい。これはわかりやすい」を繰り返している。なんだ、私だけじゃないのかーと微笑ましく思った。

 実際、本書には、膝を打ちたくなるような面白ネタ満載である。明治憲法を作るとき、井上毅は、バカな上司の伊藤博文をドイツに勉強に行かせたとか。土佐の板垣退助、植木枝盛は、はじめイギリス系だったが、福沢諭吉への対抗戦略からフランスモデルに乗り換えたとか。時代が下って、美濃部達吉は自分を体制派だと思っているから、堂々と天皇機関説を主張できた。一方、吉野作造は社会民主主義(デモクラシー)をやろうとしているから、権力に弱い。同様に北一輝も体制派でないから、世論か軍を味方につけようとする、など。

 福沢諭吉が二大政党制を強く唱えたのは、日本人にはできっこないと知りつつ、それが啓蒙家の仕事だと思っていたからではないか、という分析も面白い。やっぱり、福沢諭吉って、一筋縄ではいかない。それから、吉野作造も中江兆民も踏み込まなかった反天皇制を、ただひとり、23歳の北一輝(!)だけが唱えたというのも。

 昨今、右から左まで、あまりにもさまざまな論客がいて、どこに視点を定めて日本の近代史を読めばいいのか、分からなくなっている人に、ぜひ本書を勧めたい。著者の立場は、自己申告によれば「中道ちょっと左」である(右をたしなめ、左をたしなめ、両方から叩かれる)。

 著者の強みは、何と言っても、一次資料をとことん読み込んでいることだろう。「つい最近も、木戸孝允や大久保利通の伝記を全部読んでいる」そうで、「すごいなあ」と驚く田原氏に、「僕は史料の中で過去の政治家や政治に携わった人にインタビューをしているのと同じ」だとおっしゃっている。まもなく70歳を迎えようとして、やらないと思っていた幕末を本気で勉強し始めたという。次作を楽しみに待ちたいと思う。

 最後になるが、坂野潤治氏による本書の「あとがき」は、「仕事人間」田原総一朗の面影を、ユーモアでつつんで的確に描き出しており、人物紹介のお手本のような名文である。こういう人間観察力と理解力がなければ、史料の中で過去の政治家をつかまえることなどできないだろう、と思った。
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社会システムの実際/日本のメリトクラシー(竹内洋)

2006-04-17 23:51:25 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『日本のメリトクラシー:構造と心性』 東京大学出版会 1995.7

 メリトクラシー(meritocracy)とは、業績(メリット)を基準にして、社会的地位が決定する考え方をいう。これまで読んできた竹内洋さんの本は、おおむね一般読者向けだった。学問的厳密さよりも、「見てきたような」歴史叙述に重点があった。しかし、本書は、社会調査を駆使した学術的な著作である。これまで気安いご隠居だと思っていた著者が、突然、カミシモ姿で現れたようで、初めは少し戸惑った。

 しかし、本書は面白い。冒頭では、アメリカの社会学者が行った調査と、そこから導き出されたキャリア移動モデルが紹介される。次に、著者自身が日本で行った調査が報告される。1つには、「就職企業別ランキング」「大学合格難易ランキング」など、さまざまなかたちで公表されている膨大なデータを集計し、解釈していく方法。これに、特定企業の聞き取り調査を組み合わせ、特徴を数値的に把握し、分かりやすく可視化する。その手さばきの見事なこと! 社会調査って、こんなに面白い学問だったんだ!!と、すっかり興奮し、堪能させられてしまった。

 メリトクラシーと言われるものの実態も、よく分かった。最近、流行の「業績主義」とか「成果主義」というのも、メリトクラシーの一種である。しかし、本書が扱うメリトクラシーとは、むしろ「成果主義」が目の仇にしている学歴選抜方式をいう。

 なぜ、このような混乱が生まれるかというと、1960年代までは、学校教育が専門職に必要な技能(能力)を作り出すということが、タテマエとしては信じられていた。1970年代の教育資格インフレ以降、学歴は能力の証明ではなくなる。しかし、人々の潜在能力や訓練可能性を正確に測定することは、現実的に不可能であるため、雇い主は、学歴をふるいの手段として使い続けた。

 そこには、さまざまなトリックがあるし、社会的な特性がある。たとえば、ヨーロッパでは、階級的な文化資本の有無が、選抜を大きく左右する。イギリスでは早期に選抜されたエリートに高等教育が施されるため、教育資本の投下は効率的である(庇護移動)。一方、アメリカでは、決定的な選抜が遅延されるため、人々はいつまでも夢を抱くことができる。ただし、実際には早期の選抜に漏れた者に敗者復活の望みは少ない(トーナメント移動)。どちらがよりよいシステムであるかは、なんとも言い難い。どんな選抜方式にも、排他的な(あちらを立てれば、こちらが立たない)利点というものがある。また、我々は、所与の選抜システムにおいて有効とされる価値を「能力」と認知している、とも言える。

 選抜システムは、選抜されない者を生み出す仕組みでもある。しかし、よく出来た社会システムは、敗者のルサンチマンをそらすべく、必ず、加熱と冷却の二重装置を付帯している。それは、敗者の側から見れば、したたかな二次適応と言えるかもしれない。著者は、その実態を、低位の職業高校に通う学生たちや、企業の中の高学歴ノンエリートの実態調査を通して明らかにしている。

 本書を読みながら、ふと「上有政策、下有対策」という中国のことわざを思い出した。「上」の政策としてのメリトクラシーは、かなりトリッキーだし、「下」の対策としての「適応」も、相当にしたたかである。まことに、社会システムとは、理念だけで論じてはいけないものだと思った。でも、そこが見えてしまえば、成果主義の圧力なんて恐るるに足らず、それを「虚妄」となじるのも、白々しい話である。
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流鏑馬(やぶさめ)!

2006-04-16 11:27:30 | なごみ写真帖
何を隠そう、流鏑馬が好き!
と言っても、そんなに始終見る機会があるわけではないのだが。

これも逗子に住んでいたときに習い覚えたことで、鎌倉の鶴岡八幡宮では、4月と9月に流鏑馬が行われる。4月は第3日曜日なので、できるだけ見に行っている。9月はカレンダーにかかわらず16日固定なので、残念ながら、このところ見にいけていない(両者は、射手の装束が少し違う。4月のほうが古式ゆかしく典雅な感じで好き)。11月には、逗子海岸でも流鏑馬がある。

今年は小雨のせいで、あまり観客が多くなくて、見やすかった。





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