見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

やまとうた/三の丸尚蔵館

2005-10-31 00:33:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三の丸尚蔵館 第39回展『やまとうた-美のこころ』

http://www.kunaicho.go.jp/11/d11-05-04.html

 あまり知られていないが、今年は、『古今集』が成立して1100年目、『新古今集』が成立して800年目に当たる。これから秋冬にかけて、各地で、いくつかの特別展が企画されているはずだ。

 本展覧会は、さすが皇室のお宝らしく、12世紀の『古今和歌集』(伝藤原行成筆)など、さりげなく逸品が出ている。その一方、江戸時代の天皇や親王が、一生懸命、手習いをしたらしい、古今集そのほかの写本もある。あまり上手くないのが、ご愛嬌である。

 根津美術館に出ている、光琳の『西行物語絵巻』は、ここでも見ることができる。鳥羽院御所の障子絵を描いた場面である。

 会場にあった図録をパラパラ見ていたら、後期(11/12~)の展示品に、智仁親王の『三十六歌仙色紙形写』というのがあった。和歌の下に、下手な筆で、三十六歌仙の似顔絵らしきものを書き付けている。いったい、何者?と思ったら、ヨミは智仁親王(としひとしんのう)、豊臣秀吉の養子であったが、秀吉に実子鶴松が生まれたために養子縁組を解消された人物だそうだ。ちょっと興味深い。
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日本のアール・ヌーヴォー/近代美術館工芸館

2005-10-30 12:03:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立近代美術館工芸館『日本のアール・ヌーヴォー 1900-1923:工芸とデザインの新時代』

http://www.momat.go.jp/CG/cg.html

 「アール・ヌーヴォーは日本美術の影響を受けて生まれた」というのが、私の理解だった。確かに、それは間違いではないらしい。しかし、19世紀末、ヨーロッパを席巻したアール・ヌーヴォー様式は、たちまち、母胎である日本美術を”時代遅れ”にしてしまった。1900年、パリ万博当時、ヨーロッパにおける日本の工芸品に対する評価は凋落していた。これに危機感を抱いた日本の美術家たちは、アール・ヌーヴォーを”逆輸入”することによって、工芸品の刷新を図ろうとした。

 というわけで、1900~1910年代に制作された、絵画、陶磁器、家具、布製品などが集められている。目をひいたのはブックデザイン。漱石の本って、どれもきれいだと思っていたら、1905年に『吾輩は猫である』を発表し、1916年『明暗』執筆中に死去だから、まさに「日本のアール・ヌーヴォー」の時代に、ぴったり重なっているんだなあ。

 初期の「日本のアール・ヌーヴォー」は、ちょっとバタ臭い感じがして、あまり好きではない。むしろ、「アール・ヌーヴォー」の洗練された装飾性を以って、日本の伝統的なデザインを再構成しようという動きが出てからの作品が、私の趣味に合う。

 たとえば、浅井忠の猿蟹合戦をモチーフにした湯呑み一式。それから、琳派の継承者といわれる神坂雪佳には、『百々世草』(1909-1910年)という図案集があるが、60数点のデザインを、全て電子展示で見ることができた。これは嬉しかった。
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見巧者のみた近代史/西太后(加藤徹)

2005-10-29 23:36:14 | 読んだもの(書籍)
○加藤徹『西太后:大清帝国最後の光芒』(中公新書)中央公論社 2005.9

 著者は、「真の意味での中国史は清朝に始まる」という。現代中国人の歴史意識の原点は清朝にある。たとえば領土問題。尖閣諸島、台湾、香港、チベットなどを中国固有の領土と主張するのは、それらの地域が清の版図だったからだ。「明の時代にはチベットも台湾も中国領ではなかったのだから、とか、元の時代にはバイカル湖あたりまで領土だったのにどうしてロシアにそれを主張しないのか、などと言っても無駄」なのである。

 また、中国の経済発展の目標も、清朝が心情的基準になっている。19世紀初め、中国の推定GDPは、全世界の三分の一を占めていた。これは、現在のアメリカ合衆国が世界経済で占めるシェアにほぼ等しい。中国は、21世紀末までに、自国の経済規模を、全世界の33パーセントまで「戻す」ことを目標としている、という。

 おもしろい。おもしろいが、これは、すごくよく分かる。中国人の大多数を占める漢民族にとって、清は征服王朝であり、近代中国は「滅満興漢」の掛け声とともに生まれた、と、むかし高校の世界史で習った。だが、衛星放送で、中国の通俗時代劇ドラマを見るようになって、どうやら現代中国人は、清朝が大好きらしいということが分かってきた。

 しかし、残念ながら、日本人にとって中国といえば、3世紀の三国志か、7-8世紀の唐の時代である。邪馬台国や奈良時代しか知らない外国人が、現代日本を理解できるだろうか? 我々は、現代中国の原点である清末という時代に、もう少し関心を持っていいのではないか。このような問題意識のもとに、西太后という、1人の象徴的な人物を通して、「清末という時代」を描いたのが本書である。

 まあ、あまり堅苦しく構える必要はない。清末という時代、舞台上は、実に役者揃いである。しかも、(中国共産党の公式見解にもかかわらず)善玉・悪玉に分類しがたい、複雑な陰影と魅力に富んだ人物が多い。また、中国史は、どの時代のどの人物についても、具体的なエピソードが豊富に残っている。本書にも、おもしろい話(清朝の后妃はおおむね不美人であったとか、咸豊帝は死の直前に延々京劇を見続けたとか)がたくさん紹介されているので、「三国志」や「史記」を読むつもりで、読んでみるといいと思う。

 「現代中国人の西太后に対する評価は、おおむね低い」と著者は言う。たぶん、多くの日本人が持つ、西太后のイメージも、無知でわがままで残酷、権力闘争と浪費に明け暮れ、清朝の屋台骨をガタガタにした張本人、というところだろう。しかし、中国のテレビ時代劇を見ていると、西太后の描かれ方は、必ずしも極悪人ではない。

 熾烈な帝国主義の時代に、ムガル帝国やオスマン・トルコのように消滅することなく、領土の大半を保持し、現代中国に伝えた清朝は(実質的に最後の権力者だった西太后は)「よく頑張った」とも言える。2003年に制作されたドラマ『走向共和』の西太后像は、こうした評価の線に沿っていた。

 西太后が”頑張る”過程で弄した手段は、時に苛烈、残酷、陰険である。それらは、中国の政治の伝統に従っているものもあるのだが、単純明快を好む日本人には、なかなか本質が分かりにくい。本書は、その点を要領よく解説している。著者は中国演劇の研究者であるが、近代政治史についても”見巧者”ぶりを発揮していると言えよう。

★加藤徹氏のホームページ。「京劇城」がおすすめ。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/
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あっちもこっちも光琳/根津美術館

2005-10-28 22:45:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
○根津美術館 特別展『国宝 -光琳 元禄の偉才-』

http://www.nezu-muse.or.jp/

 根津美術館のサイトに行くと、誇らしげにTOPページに飾られている、光琳の『燕子花図』。しかし、本物は2001年以来、見ることができなかった。このたび、4年半にわたる保存修復を終えて、ようやく戻ってきたことを祝う特別展である。

 と、聞いていたので、会場に入ると、まっすぐ、『燕子花図』の前に駆けつけてしまった。うーん、きれいだ。どの色も明るい。と言ったって、金と緑と濃い青・薄い青を使っているだけなんだけど。カキツバタの花って、紫ではなくて、ブルーなんだな。ぽってりした青が作る、群舞する蝶のようなリズムと、細長く伸びた葉の緑が、大きな円弧を描きながら繰り返す、波のようなリズムが、言葉の要らない音楽のように、ダイレクトに体の中に入ってくる。あ~幸せ、幸せ。湯船に浸かっているような気分。

 しばらく、カキツバタ図の”癒し”の力を満喫してから、さて、と周りを振り返った。あとは琳派の末流の作品でも並んでいるのだろう、と思っていたのだ。そうしたら、左手にズラリと並んだ小品の掛軸が、なかなかいい。『八ツ橋』『武蔵野』『立田山』、その間に混じった『不二山』も、どうやら全て伊勢物語に題材を採ったものである。解説を見ると、全て「光琳筆」とあるではないか。びっくりした。東博、MOA、五島美術館など、さまざまな美術館の所蔵品を集めてきたところに、企画者の苦労と気概がしのばれた。

 驚くべきことに、その隣にも、まだ光琳が続く。狼狽しながら、もう一度、会場内を見渡すと、屏風、絵巻、焼き物、蒔絵、装束、香包まで、この展覧会、”光琳作品でないものはない”という状態だったのだ。いや~脱帽である。『燕子花図』だけを見るつもりで来た私は、気合負けで、呆然としてしまった。

 面白かったのは、まず、『八橋図』。3人の男たちの視線の方向が、画面に描かれていない八ツ橋の存在を暗示している。「八ツ橋」の一語を以って、「くもでに物思ふ(=思い乱れる)」を想起させるという、『伊勢』の文学的手法と重なり合うように思った。3人の輪の中央に置かれた、山盛りの白いごはんがやけに目立ち、あっ、「かれいひ(乾し飯)のうへに涙おとしてほとびにけり」だな、と、古文の授業を思い出して、おかしかった。

 琳派の人々って(または江戸人一般って)『伊勢物語』が好きなんだよなあ。私も好きなので、うれしいけど、現代の観客は、どのくらい、これらの場面を見て、物語が分かるのだろう。

 それから、鯉に乗って波間に飛び上がる『琴高仙人図』も好きだ。雪村の同図もポップで好きなんだけど、もう少し上品である。大作の『菊図』は、金地屏風にグレーがかった白の円菊を描いたもの。色彩も構図も実験的で、成功しているとはいいがたいが、印象に残る。小品では秋海棠をデザインした香包。無条件で、欲しい・・・

 第二室で、『白楽天図』を見つけたときは、また、びっくりして、腰砕けになった。この作品、根津美術館の所蔵品だったか~。しゃちほこのように、極端に高く船尾を上げた小舟に、白楽天が座っている。その船尾には、舵取りの男。左隣の舟に、もうひとりの漁夫。3人の配置の”アンバランスなバランス”が、自分でも好きなんだか、嫌いなんだか分からないのに、いつまでも胸にひっかかる作品なのである。

 展示替えがあるので、また後期に行っちゃおうかと思っている。
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王朝の写実/五島美術館

2005-10-26 22:42:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
○五島美術館 館蔵・秋の優品展『絵画・墨跡と李朝の陶芸』

http://www.gotoh-museum.or.jp/

 恒例の秋の優品展。最終日(日曜日)に、駆け込みで行ってきた。国宝『紫式部日記絵巻』を、久しぶりにゆっくり眺めてみた。

 まず、料紙の幅(高さ)に対して、ずいぶん人物が大きいと感じた。私の、日本の絵巻に対するイメージは、はるかな天の高みから、雲や吹き抜け屋台の間に、小さく人物を捉えたものが多いと思うのだが、この絵巻は、かなりのクローズアップで対象を捉えている。

 いちおう、見下ろす構図はとっているものの、画家が屋根裏に寝そべって眺めているような近さである。特に第三段、酔い乱れた貴族たちを描く図は表情豊かで、女房を引き寄せ、戯れかかる公卿たちはふてぶてしいし、体を斜めにした女房の、顔に乱れかかる黒髪が色っぽい。酒臭い哄笑が耳に響いてきそうである。

 それから、舞台をごまかすような”霞”は全く使われていない。徹底したリアリズムである。第二段では、霞や雲を使わずに、中宮彰子の首から上を、料紙の端で隠して、膝の上の皇子だけを描くことに成功している。この大胆で巧妙な構図も、おもしろいと思う。

 焼き物では、『粉青白地掻落』と呼ばれる技法の、李朝の壺。ラスター彩に似た、エナメルみたいな光沢が美しい。

 また、興味深かったのは「焼経」の類。寛文7年(1667)、東大寺二月堂が修二会(お水取り)の期間中に焼失した折りに、焼け跡で発見された『二月堂焼経』は、料紙の焼け方が美しいということで、人気を博した。五島美術館蔵の『天平焼経断簡』は、経緯不明らしいが、「『二月堂焼経』の断簡の人気に乗じて掛物にしたもの」と解説にあった。『泉福寺焼経断簡』なんて、ほとんど千切れそうな焼け焦げ具合なのだが、「そこがいい」らしい。いいのか~、そんなことで。
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敗者の運命/会津戦争全史(星亮一)

2005-10-25 00:10:13 | 読んだもの(書籍)
○星亮一『会津戦争全史』(講談社選書メチエ) 講談社 2005.10

 小学生の頃、明治維新は、ほとんど無血革命のように思っていた(極端に単純化された歴史では、そのように習った)。その後、歴史小説を読むようになって、戊辰戦争という内戦があったことを、だんだんに理解した。しかしまあ、これほど酷い戦争だったとは。

 会津では、たくさんの農民や婦女、少年兵が犠牲になった。子供を殺して自害した母親も多かった。爆撃を受け、肉片が飛び散る中、籠城して戦った女性もいた。戦後も、埋葬が禁じられたため、屍骸は野外に放置された。命は助かっても、家を焼かれ、財産は強奪された者が多かった。さらに、生き残った会津藩士は、極寒の下北半島に強制移住させられた。この、徹底して敗者を鞭打つような戦後処理が、戦後130年を経て、今日なお、会津の人々の心に恨みを残しているのだという。

 それにしても、明治の日本人は、すさまじい。まだ、近代人の尺度で測ってはいけないのだろう。美少年の首級を皿に飾って酒盛りをしたり、敵兵の肝を煮て食ったりする話が、いくらでも出てくる(この本、食前食後に読むことはおすすめしない)。薩摩兵、土佐兵だけではなく、会津兵も同じことをしている。これを読むと、太平洋戦争中に日本軍が行った”蛮行”というのも、特に驚愕すべきものではなくて、文化的に許容範囲(ちょっとした先祖がえり)だったのだろうと思われてくる。

 目を覆うような悲惨な話が多い中で、会津藩家老・山川大蔵の姉妹たちが、自害の道を選ばず、武器を取って果敢に戦い、ついに生き延びたという話には、少しホッとするものがある。

 彼女たちは、移住先の苦難にも耐え、長姉は東京女子師範学校の舎監に、二姉は大正天皇の女官に、そして妹の咲子(捨松)は、アメリカ留学後、薩摩の大山巌の妻になった(鹿鳴館の華とうたわれたらしい!)。また、大蔵(浩)の弟で、白虎隊の生き残りでもある健次郎は、米国で物理学を学び、のちに東大総長となった。しぶとく生きてこそ、また新たな運命も開ける、という見本みたいなエピソードである。
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明清の絵画、そして江戸/静嘉堂文庫美術館

2005-10-24 00:09:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
○静嘉堂文庫美術館 『明清の絵画と書跡展-中国五百年の筆墨と彩-』

http://www.seikado.or.jp/

 同館コレクションによる明清の絵画と書跡展。”明清”というけれど、あまり時代の新しいものはない。古雅で格調高い雰囲気が味わえる。

 はじめ、会場の入口に、明初の『竹林山水図』という作品があって、私はこれがいたく気に入った。水辺に一叢の竹が生えている。か細い幹の上に、伏せたコーン(逆三角)型の葉っぱが付いていて、あっちに向き、こっちに向きして、風にそよいでいる。描かれているのは、ただそれだけ。背景は、雨雲なのか、山があるとも岸があるとも分かちがたい。繊細で静謐な作品である。

 会場に入ると、李日華『牡丹図巻』が目に入る。薄墨をうまく使って、牡丹の花のぽってりした立体感を表現したものだ。これって「たらしこみ」の一種でしょうか。ちょっと宗達みたいだ。

 と思っていると、徐霖『菊花野兎図』は、太湖石のかたわらの、菊花とウサギを描いたもの。画面の右端を区切る青い太湖石が、色も形も抽象的に感じられるのに対し、菊花とウサギは写実的に描かれている。うーん。光琳のデザイン感覚に似ているかも。

 謝時臣の『四傑四景』は4幅構成。4人の英傑の苦難の時代を描いたものだそうだが、うち3幅は、要するに、妻に愛想を尽かされた男の悲惨な姿を画にしている。背景の山水には、俗世を捨てた隠士の姿が似合いそうなものを、どうして、こんな俗っぽい主題を描いたのか、笑ってしまった。でも、謝時臣の代表作だという。

 ほかに印象的だったのは、李士達『歳朝題詩図』。ちょっと農民画っぽい。沈銓の『老圃秋容図』は、神経質そうなネコの表情が、酒井抱一を思い出すなあ、と思っていたら、そういう影響関係(沈銓→抱一)が認められているらしい。余『百花図巻』は、四季のめぐりに従って花卉を配したもので、絵画というより、工芸デザインに近い。ピンクが効果的に使われている。

 なお、沈銓、余は、来舶画人(日本を訪れた中国画人)であるという。なるほど。近世日本の美術における、来舶画人の影響って、どのくらいあるのだろう。知りたい。
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京劇・名優の力/早稲田大学演劇博物館

2005-10-23 22:41:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
○早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 企画展示『京劇資料展』

http://www.waseda.jp/enpaku/index-j.html

 中国の古典演劇・京劇に関する、衣装、小道具、楽器、文献、民具、年画など、多様な資料を展示している。衣装や楽器はともかく、紙で作る立体の”面”とか、布人形とか、劇院の模型とか、よくぞこんなものまで、と思う資料もあった。全て演劇博物館のコレクションだそうだ。

 各種の隈取りに塗り分けた「泥臉殻」が面白かった。今でも観光土産として作られているが、もっと精巧で、大ぶりなものもある。水滸伝など有名な小説、あるいは歴史上の人物が、どのように表現されているかを見比べてみると面白い。曹操って、中国では、ほんとに嫌われてるんだなあというのが、隈取りを見ただけでよく分かる。

 いいなあ、京劇。と言っても、私は、中国で観光客向けの舞台を見たことが数度、それから、日本で小さな団体の舞台を見たことがあるだけで、本格的な舞台は見たことがない。

 今回、いろいろと興味深い展示品がある中で、結局、最終的に目を奪われてしまったのは、舞台上の名優たちの写真パネルだった。京劇の扮装は、豪華絢爛。あり得ない衣装に、あり得ない隈取りで、この世ならぬ存在に化け切る。役によっては、目と手指以外は、全く生身を曝すところがない。しかし、名優の「目力」は、この世ならぬ存在にも、人の心(苦悩や喜び、正義感や策謀など)が宿ることを表現してしまうのだ。

 すごい。これは少なからぬ衝撃だった。残念だが、しょせん二流以下の舞台を何度見ても、こういう衝撃は味わえないと思う。やっぱり、一度、本格的な舞台が見てみたい。
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吉備大臣入唐絵巻の謎(黒田日出男)

2005-10-22 21:51:39 | 読んだもの(書籍)
○黒田日出男『吉備大臣入唐絵巻の謎』 小学館 2005.10

 『吉備大臣入唐絵巻』は、私の大好きな絵巻だ。しかし、本書によれば、同じ初期絵巻の傑作『伴大納言絵巻』や『信貴山縁起絵巻』に比べると、「はるかにその知名度は低い」とのことである。そうか? そうなのか!? 最大の理由は、後者の2件が国内に所蔵されているのに対して、『吉備』は米国のボストン美術館が所蔵しており、日本国内で観賞できる機会がめったにないことにあるという。

 これまで、美術史家の評価では、『吉備』は、滑稽軽快な人物表現に見るべきものがあるけれど、『伴大納言』や『信貴山』に比べると、品格は一段落ちると評されてきた。しかし、私は、その「品下る」感じが好きなのだ。

 たとえば、唐朝の官人たち(その他大勢たち)の表情は、かなり誇張的・喜劇的に描かれているが、それを助けているのが、帽子の纓(えい)の動きである。あるときはだらりと下がり、あるときはピンとはね上がって、人物の気持ちを表している。まるで、手塚治虫や赤塚不二夫が使う表現のようだ。

 また、画家は「唐土」を描くために、さまざまな工夫を凝らしている。1つは、「絵巻にしては華麗すぎる」厚塗りの色彩。さらに、建築様式は仏堂伽藍から、人物の服装は仏画から借りている。その結果、異国らしくはあるが、どこの国とも知れない舞台ができあがってしまった。しかし、これもマンガなら普通のことだ。たとえば池田理代子『ベルサイユのばら』のフランスでも、横山光輝『三国志』の古代中国でも、舞台なんて、服装なんて、それらしければ、それでいいのだ。

 要するに、見識ある美術史家と違って、「品下る」マンガばかりを読んで育ってきた私にとって、『吉備大臣入唐絵巻』は、親しみ深く、なつかしい世界そのものなのである。

 さて、ここから、ようやく本題である。『吉備』の評価を低くしている理由の1つに、「楼→門→宮殿」という同一の背景が、計6回も繰り返されるという、構図の単調さが挙げられている(1933年、矢代幸雄の論文)。

 本当にそうか? 著者は、絵巻の詞書と、継ぎ目の状態を手がかりに、現状には錯簡(順序の入れ違い)があるのではないかと考える。そして、大胆な推定に基づき、場面を入れ替え(読み替え)て、『吉備大臣入唐絵巻』の原形を復元してみた。すると、そこには、反復的な構造の物語であるにもかかわらず、単調さを感じさせない、スピーディで、起伏に富んだ絵画表現があらわれたのだ。詳細は原文に譲るが、この復元『吉備』は、瞠目するほど、スゴイ。

 それとともに、本書の前半で紹介されている、この絵巻の伝来の軌跡も興味深かった。八百年の間、さまざまな戦乱、持ち主の交代を経て、1933年、『吉備』は米国ボストン美術館に売却されて、海を渡る。そして、翌年、ボストンを訪れた、美術史家の矢代幸雄と、運命的な会合を果たすのである。

 折りしも満州事変の勃発によって、米国には反日ムードが満ちていた。街を歩いていても厳しい日本批判を浴びせられ、自室に籠りがちになっていた矢代は「嫌なことがあったらすぐに帰ってくればよいのだから」と自分に言い聞かせて、ボストン美術館の新収蔵品展に出かける。

 どうせ日本の美術品など見ている客などいないだろう、と思って会場に行ってみると、『吉備大臣入唐絵巻』のまわりには、たくさんの人が集まっていて、「今度の収蔵品のナンバーワンだ」「日本の美術はえらいものだ」という、賞賛の声が聞こえる。やがて、人々は矢代に気づくと説明を求めてきた。矢代は、喜んでそれに応じ、それからは、毎日のように説明役を買って出た、という。初めて聞くエピソードであるが、当時の矢代の心中をおもんばかって、ちょっと涙ぐんでしまった。『吉備』の主題が、まさに異国での困難を克服する物語であるのも面白い。

 まあ、しかしながら、やはり本書の白眉は、大胆な仮説による「謎解き」である。絵巻の物語では、吉備大臣のもとに、鬼になった安倍仲麻呂が現われ、唐の朝廷から次々に発せられる難題を解くために、まめまめしく大臣を助けるのであるが、もしかして、黒田先生のかたわらにも、ひそかに鬼の仲麻呂がしのんできて、謎解きの手助けをしたのではないかしら。そんな空想に誘われた。
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フラッシュは時代とともに/日本新聞博物館

2005-10-21 22:28:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○日本新聞博物館『共同通信60周年展-フラッシュは時代とともに』

http://www.pressnet.or.jp/newspark/

 AP(アメリカ)、ロイター(イギリス)、タス(ロシア)など、各国には、その国を代表する国際通信社が設けられている。日本の共同通信社もそのひとつ。日本国内のニュースを世界に発信するとともに、国内の新聞、放送メディアと多数のノンメディアに対して、内外のニュースを提供している。

 というのは、先だって、共同通信の前身である同盟通信の上海支社長をつとめた松本重治の回想録を読んで得た知識である。その「同盟」時代に触れた展示もあるかなあと期待していたのだが、あまり無かった。

 おもしろかったのは、共同通信社の社内の写真で、ものすごく人が多い。いま、機械化・情報化の進展で、生産業やサービス業の現場からは、どんどん人が姿を消しているというのに、なんという人口密度か、と思って、皮肉でなく、呆れてしまった。

 編集フロアにある、四方に昇り降りできる階段、というのも面白かった。急いでいると、エレベータでは待っていられないらしい。ニュースって、無色透明なラインを流れる”情報”のような気がしているけれど、実はこんなふうに、たくさんのヒトの手と足を介して運ばれてくるんだなあ。
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