見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

週末奈良紀行(3)興福寺

2005-06-29 22:33:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
○興福寺:南円堂~国宝館

 週末奈良紀行の2日目。まず、特別開扉中の興福寺南円堂に向かう。ふだんは年に1回、10月17日にしか開扉しないのだが、私は、何だかんだで3回くらい中を拝観した経験がある。

 南円堂は治承4年(1180年)に一度焼失し、文治5年(1189年)、あらためて開眼供養が行われたそうだ。だから、現在、堂内に残る仏像は、王朝文化の末期(院政期)と武家社会の始動が交差する時代に作られたものである。

 ご本尊の不空羂索観音菩薩は、高貴で繊細で、ちょっとデカダンな貴族趣味を感じさせる。今回、台座のいちばん下に位置する壺(?)の不釣合いな小ささに気づいた。壺の中から、九重の蓮華座が湧き上がり、その上にふわりと乗った観音は、まるで重力を感じさせない。背中に広がる光背は、蝶の羽根か、一針ずつ編み上げたレースのようだ。

 一方、本尊の四囲を守る四天王には、誇張の少ない、リアルな肉体の美しさを感じる。戦う肉体を資本に、勢力を広げつつあった、武士集団の美意識の反映ではないかと思う。ご本尊の横顔に四天王(う~ん、どれもいいけど増長天が好きかな)が重なるような構図で、両者を一体として眺めるのが贅沢でいい。

 今回、もうひとつ気になったのは、ご本尊の正面に、黒い小さなお厨子が置かれていることだ。堂内の警備と案内をしていたおじさんに「あれは何ですか?」と尋ねてみた。すると「春日大社の赤童子だと聞いていますが、私らは見たことがありません」とのこと。ふーむ。初耳である。興福寺公式サイトの「文化財データベース」にも掲載されていない。後学を期して覚えておこう。

 現在、大阪市立美術館では『興福寺国宝展』が開催されている。そのため(ここ興福寺を訪れた拝観客が、がっかりしないように)南円堂を開けたのかな、と思ったので、案内のおじさんに「いま、国宝館の国宝はほとんど出品中ですか?」とお聞ききしてみた。そうしたら、強く首を振って「いやいや、まだまだ。阿修羅像も千手観音さんもおられますよ」とおっしゃるので、国宝館も見ていくことにした。

 確かに「いやいや、まだまだ」である。阿修羅を含む八部衆立像は8体のうち7体、十大弟子立像は6体のうち4体を見ることができて満足した。うう、鎌倉の仏像もいいが、やっぱり天平の乾漆像はいいなあ。人類の宝だなあ。
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週末奈良紀行(2)奥千本~宮滝

2005-06-28 23:39:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
○奥千本~金峯神社~西行庵~吉野水分神社~喜佐谷~宮滝~吉野神宮

 蔵王堂の下から、1時間に1本のバスに乗って、奥千本に到着した。あたりには人家もまばらな山間のバス停である。急坂を少し登ると金峯神社。さらに道標をたどって、アップダウンの多いコースを進むと、西行庵に到達する。

 それから、来た道を引き返し、バス停を素通りして、奥千本のハイキングコースを下る。吉野水分(みくまり)神社を拝観。桃山様式の社殿の屋根は、新緑の苔をふいて、しっとりと湿り気を含んだ感じが、水の神様にふさわしい。ここまでで、だいたい3キロ。

 さらに如意綸寺の方角に少し下り、「吉野宮滝・万葉コース」へ通じる分かれ道に入った。すると、上千本の賑わいが嘘のように、周囲からパタリと人影が途絶えてしまった。マイナスイオンを深呼吸しながら、やわらかな土の道を踏み、森閑とした杉木立を抜けていく。いつの間にか、さらさらとリズミカルな水の音が聴こえていることに気づく。道に沿って、湧き水の流れが続いているのだ。しかし、深い下草に隠されて、流れの姿は見えない。

 これを何て言ったっけ? むかし習った歌ことばを、おぼろな記憶の中からたぐり寄せる。そうだ、「山下水」とか「したゆく水」とか言って、他人に見せることのない、秘めた恋心の比喩に使うんだった。

  あしひきの山下水の木隠れて たぎつ心をせきぞかねつる(古今491)
  山たかみしたゆく水のしたにのみ 流てこひむ恋はしぬとも (古今494)

 なんてふうに。実はこの流れこそ、万葉集にも読まれた象(きさ)川である。次第に水量を増し、姿をあらわにして下る。途中には「高滝」という落差約10mの滝もあって、本居宣長が伊勢松阪と大和を往還したときの『菅笠日記』にも登場するらしい。

 山道が終わると喜佐谷の集落に出る。この旅行、とにかく行き当たりばったりで、何の予習もしていなければ、地図も持っていないので、「えーと宮滝遺跡っていうのは、まだ先でいいのかしら?」と不安を感じながら進む。この時点で、私の頭の中には、宮滝=滝?という、漠然とした思い込みがあった。

 ところが、突如、道は巨大な川に突き当たる。吉野川である。深く切れ込んだ渓谷には、巨大な白い岩盤が、戦艦の隊列のように浮いている。これが実は「宮滝」の「夢のわだ」なのだ。ちょっとあっけに取られるような、日本離れしたスケールである。なるほどね。天武・持統好みって、こういう風景かもしれない。人麻呂の吉野賛歌「山川もよりて仕ふる神ながら たぎつ河内に船出せすかも」(万葉39)の誇張気味な表現も、この風景を前にしてこそ、納得がいくというものだ。橋を渡ると小学校があって「宮滝遺跡」の碑が立っていた。上千本から宮滝までが4キロくらい。

 さて、宮滝のバス停からどこか近鉄の駅に出られれば、という淡い期待を抱いていたのだが、時刻表を見ると、このあと1時間以上、バスが無い。うーん。しばらく立て看板の地図と、手持ちのガイドブックを見比べていた結果、吉野川に沿って歩けば、近鉄の吉野神宮駅に出られそうなことが判明した。1時間、ぼんやりバスを待っているよりはいいだろう、と思って歩き始めたら、これが意外に遠くて(5キロくらい?)本当に丸1時間、歩くことになり、さすがにへとへとになった。しかし、ずっと見たい、行きたいと思っていた宮滝をついに訪ねることができて、満足だった。

 大学時代、万葉集の講義を聞いた恩師が、5月の初めに亡くなられた。私はこの10年ぐらい、すっかりご無沙汰をしていたうえ、仕事にかまけて葬儀にもお通夜にも伺えなかった恩知らずの生徒である。しかし、象谷、宮滝をまわりながら、恩師の朗誦する万葉歌が、もう一度、耳の奥によみがえってくるように感じた。


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週末奈良紀行(1)吉野蔵王堂

2005-06-27 23:50:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
○金峯山寺蔵王堂(奈良県吉野郡吉野町)

 思い立ったが吉野路。この数週間、6月のカレンダーを見るたびに、ああ、蔵王堂の秘仏・金剛蔵王大権現のご開帳も、いよいよ、この月末までだなあ、と思ってやきもきしていた。今年1月、三尊の威容に接したときの感動が忘れられなくて、扉の内側にお隠れになる前に、どうしても、もう一度、お姿を目に焼き付けておきたいと思ったのだ。

 現実的には、この週末が最後のチャンスだった。金曜の夜、まだ奈良のビジネスホテルが取れそうだったので、覚悟を決めてしまった。財布を見たらほとんど所持金がなかったので、慌ててコンビニで預金を下ろして来た。これで新幹線の切符も買える。

 というわけで、土曜日の朝、東京を出発。新幹線と近鉄特急を乗り継ぎ、昼過ぎに吉野に到着した。この旅行、とにかく蔵王大権現のお姿をしっかり目に納めることが目的だが、できれば1月に断念した奥千本の西行庵にも行ってみたい。万葉の故地・宮滝に行ってみるのもいいかな、などと、さまざまな欲念に思いを乱しつつ、蔵王堂に向かう。

 ご開帳の結願が近いせいか、蔵王堂は結構な人出だった(お寺の方が「今日は桜の季節並み」とおっしゃっていた)。1月に来たときは、ガランとした外陣の畳に、好きなように座って、三体の蔵王大権現のお姿を、飽かずに眺めさせてもらったものだが、この日は人が多くて、なかなかお姿を拝める前列に進むことができない。また1月は、別の蔵王大権現像の「ご帰還」に当たっていたため、関係者は大忙しで、拝観客はほとんど放置状態だった。この日は、お寺のお坊さんが、交代で30分ほどの説法をしてくれている。

 これがなかなか聞き応えがあった。蔵王堂の柱は、きちんと製材されたものでなく、わざと自然の風合いを残していること、杉だけでなく、ツツジや梨の木など雑多な用材が混じっていること、これは山林を堂内に再現しようとしたもので、大自然そのものに霊力を見る修験道の思想に通じている、というお話が興味深かった。

 また、「どうぞお参りしてお帰りください」とお勧めになったあと、「自分はお参りに来たのではない、何か知らんが、めずらしい仏さんのご開帳を見に来ただけや、という方もいらっしゃると思いますが、それで結構やと思います。今日ここにいらしただけでも、皆さんには蔵王権現さんとのご縁があるのです」「今生だけではない、過去も未来も、きっと蔵王権現さんにお守りいただけます」とおっしゃっていただいて、なんだかとても嬉しかった。

 そうだなあ。縁がなかったら、こんなふうに突発的に、引き寄せられるように、東京から吉野まで来ないよなあ。たぶん。

 それから、1年間に渡る「世界遺産登録記念」の特別ご開帳に触れて、「世界には、人類には、さまざまに異なる文化がある、それを互いに尊重しよう、というのが世界遺産の意義ではないか」というお話も、深く私の心に残った。

 こうして1時間近くもお堂にいたのだが、奥千本に向かうバスの時間が迫ってきたので、最後は慌しく蔵王堂を後にした。次に来るときは、ご本尊のお姿は拝めないかもしれないが「必ずご縁がある」とおっしゃっていただいたことを信じたいと思う。
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思い立ったが吉野路

2005-06-26 22:05:19 | なごみ写真帖
週末、全くの思いつきで1泊2日の奈良旅行に行ってきた。
目的は、いよいよ6月30日で1年間のご開帳が終了する、吉野蔵王堂の金剛蔵王権現に、もう一度お会いしておくため。

加えて、なぜかこの1ヶ月、特別ご開扉の興福寺南円堂を見て、奈良博の特別陳列「宿院仏師」と、大和文華館の「山水」も見てこようと思った。

近鉄京都駅の売店で柿の葉寿司を購入すると、心はすでに奈良へ飛ぶ...
(柿の葉寿司3個セットってお手頃でナイス!)

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包まれるもの/展覧会2題

2005-06-23 22:50:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
地味な展覧会を2題。

○根津美術館 特別展『唐物茶入』

http://www.nezu-muse.or.jp/

 茶入は、濃茶を入れる陶製の小壺。会場で見たものは、どれも渋い茶褐色で、釉薬の微妙な濃淡が味わいどころらしい。形状も、わずかな差異によって「茄子」「文琳」(リンゴの意)「肩衝」「大海」などと呼び分ける。

 茶道辞典によれば「唐物茶入」は「中国(宋・元代)産の陶製の小壷を、日本で茶入に用いたのもの」だそうだ。つまり、はじめから濃茶専用に焼かれたものではなく、茶人が適当な大きさの小壺を見つくろって、転用したものらしい。何の壺だったのかな。いずれにせよ、中国の博物館では、こんな地味な陶器を見た記憶がないので、庶民の日用品だったのだろう。

○国立能楽堂資料展示室『生田コレクション展』

http://www.ntj.jac.go.jp/exhibition/

 大阪の能楽愛好家生田家により蒐集された鼓胴約100点を展示したもの。私は鼓の胴と打つところがこんなふうに取り外しできる構造だとは初めて知った。鼓胴は、ワイングラスを2つ逆向きに重ねたような形をしている。紐をかけてしまうと目立たないが、実は美しい薪絵が施されている。

 2つの展覧会には、おもしろい共通点があった。それは、どちらもナマの展示品と一緒に、普段それらの展示品が保管されている状態を見せているのだ。茶入のほうは、衝撃から守るため、厚手の布袋に入れたうえ、木箱に納める。壺の形に合わせて丸く縫い綴じた巾着袋には、「仕覆(しふく)」」という名前もあるようだ。

 一方、鼓胴のほうも、1点ずつ同様の巾着袋に収められ、格子状の仕切りのついたトランクに。きっちり整理されていた。モノを大切に、そして美しく守ってきた古人の心がけに触れたようで、いい気持ちだった。
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岡倉天心を読む/ワタリウム美術館

2005-06-22 14:31:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
○ワタリウム美術館『岡倉天心展-日本文化と世界戦略』

http://www.watarium.co.jp/

 岡倉天心というのは、なんとなく困った存在だ。古美術好きの私にとっては、日本の伝統美術の再認識と復興に尺力してくれた大恩人である。フェノロサとともに、法隆寺夢殿の扉を開き、救世観音を「発見」したときの逸話はあまりにも有名で、あまりにもカッコいい。

 英語に堪能で、ボストン美術館の中国・日本美術部長を努め、英文で日本文化を紹介する本を書いた。(今回初めて知ったのだが)中国では西安から成都・重慶に至る大旅行(偽の辮髪を付けて!)を敢行し、インドでは国民詩人タゴールと親交を持ち、インド人女性とラブレターを交わすなど、言葉どおり東奔西走し、当時としては突出した国際派であったと思われる。

 しかしまた、著書『東洋の理想』の書き出し「アジアは1つ」は、あまりにも大東亜共栄圏の政治スローガンそのままである。この点、私はどうしても警戒心を解くことができない。

 そんな混乱した印象を抱きながら、この展示会を見に行った。会場には、天心の書簡、原稿、作品などが展示されていたが、多くの観客は、むしろ天心そのひとの生涯を解説した説明スクリーンを熱心に読みふけっていたように思う。

 とにかくおもしろいのだ。貿易商の家に生まれ、幼い頃から英語学校に通っていたが、たまたま道標の漢字が読めなかったので、両親が「これでは日本人と言えない」と嘆いて、漢学の塾に遣られたとか、学生結婚の妻と、卒業間際に喧嘩して、政治学をテーマに書いていた卒業論文を燃やされてしまい、慌てて美学の論文を書いて提出したとか。

 美術学校の創設に当たり、奈良時代の朝服を真似た制服を定め、愛馬「若草」にまたがって登校したとか(会場に写真あり)。アメリカでは、180センチ近い長身を和服に包み、超然としていたとか。九鬼隆一夫人・波津子との三角関係とか。

 下手な小説家ではとても創作できないような、波乱とエピソードに富んだ生涯である。岡倉天心という人物が全て分かったとはとても言い難いが、その幅の広さと深さには、少し触れることができたように思う。
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浄明寺辺り・イワタバコ

2005-06-21 08:12:41 | なごみ写真帖
梅雨の始まるこの季節、アジサイやアヤメ以外にも好きな花がある。
イワタバコと言って、湿度の高い、日陰の岩壁に生える。小さな紫色の星のようだ。

私は逗子のハイランドから鎌倉浄明寺の旧華頂宮邸に下る道筋で、この花を見るのが好きだ。ここはゆるやかな坂道なので、どの家も土を盛った基壇の上に建っている。その基壇の石組みにイワタバコが自生しているのだ。

この時期、鎌倉を訪れる観光客は、明月院や長谷寺などアジサイの名所に集中するので、浄明寺辺りは静かでいい。しかし、アジサイと違って、誰も開花情報など流してくれないから、つい忘れてしまう。今年も最盛期は見逃してしまった。

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近代の見取図/「アジア」はどう語られてきたか

2005-06-20 00:07:35 | 読んだもの(書籍)
○子安宣邦『「アジア」はどう語られてきたか:近代日本のオリエンタリズム』 藤原書店 2003.4

 2000年から2003年にかけて、雑誌『環』に連載された論考「東洋について」に一部加筆したものである。

 著者は、近代日本の歩みに1850年、1930年、1980年という3つの画期を措定する。1850年というのは、1840年の阿片戦争、1853年のペリー来航、1859年の日本の開港、1860年の英仏連合軍による北京攻撃、と続く事件を集約するもので、日本および東アジアが、欧米先進諸国の軍事的圧力によって、「世界秩序」に組み入れられた時期を象徴する。

 次に1930年代は、1931年の満州事変に始まり、日本が「国際政治の主要プレーヤー」=「東亜および大東亜の地域リーダー」と自己を位置づけ、欧米中心の「世界秩序」の再編成を積極的に要求していく時代である。

 そして1980年代から1990年代にかけて、冷戦構造の解体とグローバリゼーションに見る経済の流動化は、ようやく古い「世界秩序」に終わりが訪れたことを告げている。

 著者は1945年を画期と呼ばない。それは画期であるべきだった。しかし、敗戦後の日本は、すぐさま西側「世界秩序」の有力メンバーに復活し、圧倒的な経済力を背景に、アジアに君臨する地域リーダーという、戦前そのままの認識図式を、暗黙裡に維持してきてしまった。(そう、「戦後処理責任」というのは、国家による賠償とか謝罪だけの問題でなくて、日本国民の「認識の転換」の問題であったはずなのだ。)

 では、ようやく訪れた、古い「世界史=世界システム」の終わりに、我々は何を転換すべきなのか。著者は提言する。「われわれにとっての『世界史』の終わりとは、『国家』を歴史における行為の正当化の究極的な根拠としてきた時代の終わり」でなければならない、と。

 以上は、著者の基本的な視座を語る「第I章」の要約である。その他の章は、福沢諭吉の『文明之概略』、新渡戸稲造の『武士道』、内藤湖南、廣松渉、そして『国民の歴史』に至るまで、具体的なテキストを厳しい視線で読んでいく。

 日本人が(日本以外の)アジア諸国に向ける視線には、西洋人がアジアに向ける視線(オリエンタリズム)が内在化されていることは、しばしば語られてきた。私は、西洋におけるオリエンタリズムの形成にヘーゲル哲学が大きな影響を与えていることを、本書を読んで初めて知った。

 それから、私などは全く無自覚に使っている「東アジア=東亜」という言葉の来歴も。この言葉が、帝国日本に利用された地政学的概念であることは、はっきり記憶しておかなければならない。しかしながら、同時に、中国・朝鮮・日本そしてベトナムという、中華文化圏と呼んでも差し支えない地域を「東アジア」と名指すことは、文化の多元性へ視野を開く可能性を含んでいる。

 思想史家である著者が語る歴史は、ストイックであり過ぎるかもしれない。「国家」を行為の根拠にしないのなら、代わりに何を根拠とするのか、という疑問も残る。この点について、著者の答えは必ずしも明確でない。私自身は、この答えを「近代国家以前」の歴史の中に探りたいと思っているのだけど。
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週末無題・黄ユリ

2005-06-19 17:24:45 | なごみ写真帖
買い物のついでに安い切り花を買ってきたのが、ちょうど1週間経ってきれいに咲いた。
1本100円のユリ2本。花瓶は100円ショップのパスタ容器。シメて300円也。
甘い香りに誘われて、蟻が入り込んで困る。

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東国武士の伝説/金沢文庫

2005-06-18 08:42:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
○金沢文庫 企画展『頼朝・範頼・義経-武州金沢に伝わる史実と伝説-』;特別公開『慶珊寺の遺宝-武州富岡の古刹-』

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 いろいろ理由があってのことだとは思うが、2つの展示が同時に同スペースで行われているのはちょっと分かりにくい。

 主となるのは前者の展示で、頼朝・範頼・義経を中心に、『吾妻鏡』『平家物語』『義経記』など古記録や物語を通じて伝えられ、歌舞伎や文楽の演目として愛され、さらに武者絵や浮世絵によって定着した源家一門の物語を紹介している。

 頼朝・義経と並んで、やや影の薄い範頼(NHK大河ドラマでは石原良純が演じている)を取り上げているのは、金沢文庫近傍の大寧寺に、範頼の墓と伝えられる古跡があるためだが、範頼の生涯には不明な点が多く、伊豆修善寺にも墓があるし、四国にも、埼玉にも、鳥取にもあるらしい。ネットで検索してみると笑える。

 頼朝・義経のような歴史の主役には、きちんとした史伝が残っていて、伝説を付加しようにも限界があるので、民衆の想像力は、範頼とか弁慶とか静御前とか、脇役級に働くということか。

 会場には浮世絵が多く出ていた。よく見ると(作者の説明は何もなし)私の好きな国芳の作品が多かったので、ひそかに嬉しかった。

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