見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

今年読めなかった本

2004-12-31 15:10:53 | 読んだもの(書籍)
 私は「買った本は読む、読まない本は買わない」をモットーにしている貧乏たらしい読書家だが、そうは言っても、モットーどおりに行かないこともある。というわけで、買ってはみたものの、今年読めなかった本。

■増田弘『自衛隊の誕生:日本の再軍備とアメリカ』(中公新書)中央公論社 2004.12
 陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊のそれぞれの誕生について書いたもの。実証的でいい本だと思うんだけど、私は数字が苦手で、海上自衛隊の途中で挫折。ほんとは航空自衛隊にいちばん興味があったのだけど。

■川島真『中国近代外交の形成』名古屋大学出版会 2004.2
 600ページを超す大作。半分くらいまで行ったんだけど、仕事が忙しくて中断したら、前後関係が分からなくなって、読めなくなってしまった。やっぱり基礎知識がないとダメだなあ。まあ、本書が、新出の文献史料を駆使しているためでもあるか。

■祁景〓(きけいえい)『中国のインターネットにおける対日言論分析』日本僑報社 2004.8
 著者の祁さんを存じ上げているので「本出たね!読むよ!」なんて言っておきながら、まだ読んでない。ごめんね~。

■ユリイカ 2004.11月号『特集・藤森照信:建築快楽主義』青土社 2004.11
 こういう雑誌は、店頭から無くなるといけないと思って、つい買ってしまう。図版はパラパラ見ているのだが、まだ文章は読んでいない。

■五味文彦『源義経』(岩波新書)岩波書店 2004.10
 「読むものが切れたときにでも」と思って買っておいた1冊。最初の20ページくらいまで読んだところで、何か別の本に移ってしまったために挫折。まあ、そのうち再トライしよう。

■周藤吉之、中嶋敏『五代と宋の興亡』(講談社学術文庫)講談社 2004.10
 これもそんな感じで買っておいた1冊。まあ、そのうち。

■中沢新一、赤坂憲雄『網野善彦を継ぐ。』講談社 2004.6
 本屋の店頭では、夏以来、ずっと横目に見てパスしていたのだが、中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』がおもしろかったので、ごく最近、買ってしまった。この正月にでも。

■高橋哲哉『教育と国家』(講談社現代新書)講談社 2004.10
 こんなに読んでない本があるのに、「さあ年末休みだ」と思うと、性懲りもなく、昨日だか一昨日だかに買ってしまった。

 雪の大晦日。もう外に出るのは止めて、夜まで本でも読んでいようと思う。コインランドリーに行くのも止め。洗濯物もいつかは乾くだろう。買い物も止め。常備食のラーメンでも作って食べよう。

 そんなわけで、来年もよいお年を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎B級史跡めぐり

2004-12-30 16:47:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○九州旅行:伊王島(俊寛僧都墓~千畳敷~灯台~天主堂)、野母崎の観音寺、長崎市内(中華街~聖福寺~福済寺)

 12/22に始まった九州旅行も最終日。この日(12/26)は長崎観光に当てる計画である。ただし、普通にはとても「長崎観光」とは言えないB級史跡めぐりの1日だった。

 早朝7:00(外はまだ暗い)にチェックアウトし、定期船で長崎湾の入口にある伊王島へ渡る。俊寛僧都の墓(むろん伝承)を見にいくためだ。時間節約のため、釣具屋さんで自転車を借りて出発。ところが、小さな島というのはサツマイモみたいに中心部の標高が高くなっていて、意外と急坂が多く、ママチャリでは苦しい。結局、かなりの距離を自転車を押して歩くハメになった。息を切らしながら、住宅の間の細い坂を上がっていくと、見晴らしのいい高台に、俊寛僧都の墓がある。墓石は残念ながら新しい。

 俊寛は「鹿ヶ谷の陰謀」の罪を問われ、丹波少将成経・平判官康頼とともに「鬼界ケ島」に流されたことになっている。普通は鹿児島県の喜界島か硫黄島に比定されることが多いと思うが、伊王島の案内板によれば、平教盛が3人を憐れみ、自分の荘園が肥前嘉瀬庄にあったので、仕送りに便利な伊王島に彼らを流し、清盛へは『薩摩の硫黄島に流した』と報告したのだそうだ(伊王島町教育委員会)。うーむ。よくできた説明ではあるが、どうもせこいなあ...

 それから、康頼が能を舞ったという海岸の大岩・千畳敷へ。今度は高台に自転車を停めて、ひたすら下る。最後は、登山用のロープを掴んで岩に下りるのだが、ちょっとこわい。高所恐怖症の気のある私は波打ち際までは行けなかった。灯台、天主堂を見て長崎港へ戻る。

 次は、バスで1時間の行程にある野母崎の観音寺へ。ここは天井絵が有名だが、我々の目的は木造千手観音立像(国指定重要文化財)である。実は、事前に「拝観したいのですが」という電話を入れたら、「別に予約は要りません。いつでも拝観できますよ」というお答えだった。行ってみたら、確かに天井絵は(外陣からではあるが)拝観できる。しかし、ご本尊の前には厚い幔幕が下がっている。ご朱印をいただきながら「観音様は?」とお尋ねしたら「ああ、ご開帳は18日だけです」と言われてしまった。くぅ~、ちゃんと確かめればよかった。しかたないので1時間かけて再び長崎市内に帰る。同好の士が同じ失敗を繰り返さないよう願いつつ、ここに書きとめておく。

 しかし、そのおかげで、あきらめていた中華街でランチができたのは、観音様のお導きかも知れない。「蘇州林」というお店で飲茶にした。マントウに東坡肉を挟んだ中華バーガーが美味しい!!

 それから「長崎四福寺」と言われる中国寺院のうち、2つ見残しているという同行人の希望に従って、聖福寺と福済寺をまわる。聖福寺は静かなたたずまいが好ましかった。中国寺院もああいうふうにほうっておくと、侘び・寂びの趣きが出てよい。聖福寺は亀の背に立つ大きな観音が目印の、あざとい近代建築という記憶があったのだが「原爆で焼ける前は古いお寺だったらしい」というので訪ねてみる。久しぶりのお客に上機嫌のおばさんから、なぜか堂内にあるフーコーの振り子の熱心な説明を聞かされたが、往時の写真も数葉見ることができた。

 そろそろ時間になったので、駅前から空港行きのバスに乗り込む。これにて九州旅行レポートは終了。(12/30記)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仕事納めにケーキ

2004-12-28 21:26:48 | なごみ写真帖
今日は仕事納め。

24日に出勤していなくて、職場でクリスマスケーキを食べ損ねたなあと思っていたら、昨日も今日も、お茶の時間にケーキの差し入れをいただきました。だから「cake revenge」。

年下のバイトさんに連日ゴチになる私。まっいいか。新年にお返しするからね。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎・平戸の歴史/街道を行く

2004-12-27 23:07:45 | 読んだもの(書籍)
○司馬遼太郎『街道を行く11・肥前の諸街道』(朝日文庫)朝日新聞社 1983.2

 クリスマス休暇に九州に行くことになった。先に長崎・平戸・五島列島の史跡めぐりの計画を立てていた友人に着いていくことにしたのだが、どこからどう合流するかで、いろいろと迷った。結局、ひとりで臼杵・国東をまわって、平戸で落ち合うと決めたときは、出発の1週間前を切っていた。そこで私は本書を持って大分行きの飛行機に乗り、3日後の平戸到着まで、付け焼刃の予習にいそしんだのである。

 そういう事情がなかったとしても、やはり、本書の白眉(著者一行は、博多を起点に唐津~平戸~佐世保~長崎とまわっている)は、平戸について語られた部分ではないかと思う。西海に浮かぶ小さな島を本拠とした松浦氏が、小藩ながら、貿易の利と外交手腕で江戸三百年を生き抜き、歴史に「平戸」の名前を刻むさまは、よくできたドラマを見るようだ。特に初期の藩主はそれぞれ個性的で英明で、次々に主役が交替してもドラマの魅力が色褪せないところは、日本史というより中国史劇の味わいがある。

 江戸三百年=鎖国のイメージが強いので、つい忘れがちだが、鎖国に先立つ半世紀、戦国末期から江戸初期の日本って、かなり野放図に世界に向かって開けていたのだなあと感じた。平戸は、その「開かれた日本」の門口だったのだ。やがて「門口」が半閉じの状態で長崎に移された後は、何かと陰険な影が付随しているように感じるけど、平戸のイメージは、ひたすら明るくて風通しがよい。それは、いくぶんかは、元来、貿易と外交を生業とした松浦氏の家風に拠るのではないかと思う。

 余談ながら、松浦氏の御館を用いた「松浦史料博物館」の展示物の豊かさには驚かされた。天球儀・地球儀から甲冑具足、茶器、蒔絵の調度品、和漢の版本(『甲子夜話』の著者・34代当主松浦静山が精力的に集めた)、狩野探幽が獅子を描いた大きな金屏風まで。現地に行って、一見する価値あり。

http://island.qqq.or.jp/hp/matsura/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎・伊王島の天主堂

2004-12-26 21:20:03 | なごみ写真帖
九州より帰京。大分(臼杵、別府、国東)で仏像三昧、佐賀(有田)で焼き物三昧、そして長崎(平戸、長崎)ではB級?史跡三昧の、例によって欲張った旅行をしてきました。これからゆっくり報告を書きます。

留守中、トラックバックやコメントをつけてくださった皆様、ありがとう。

写真は今朝の1枚。長崎港の入口に浮かぶ伊王島の天主堂。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平戸史跡めぐり

2004-12-25 23:59:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
○九州旅行:平戸(平戸観光資料館~松浦史料博物館~聖ザビエル記念聖堂~最教寺~積徳堂跡~平戸城など)

 さて、平戸観光である。今日からは案内人が一緒なので心強い。波止場のバスターミナルに荷物を預けて出発する。まず、埠頭の干物屋さんを覗いて、店の内側に残るオランダ倉庫の壁を見せてもらう。その向かいがオランダ商館の址。平戸観光資料館は、観光地にありがちな、こじんまりした資料館であったが、松浦史料博物館は予想をはるかに上回る充実ぶりで、時間を取ってしまった。詳しくは、12/27のブログ『長崎・平戸の歴史/街道を行く』(読んだもの)に別掲。

 聖サビエル記念聖堂の裏道は「寺と教会の見える風景」として名高い。片側が雑木林になった、風情のある坂道である。坂の途中の正宗寺で、松浦宗陽公(隆信)の墓に墓参する。宗陽は松浦家第28代、平戸がオランダ貿易で最も賑わったときに当主である。それから、オランダ橋の辺りをぶらつき、天満屋の鯛茶漬け定食でランチ。いつもの旅に似合わない贅沢をする。

 中国商人・王直の屋敷跡、イギリス商館跡を見て、西の高野山とうたわれた最教寺へ。雑多だがおもしろい寺宝も持っている。近代ものの三重塔に登ったあと、境内にある松浦天祥公(鎮信)の墓に参る。法印鎮信は松浦家第29代、彼の治世にオランダ商館が平戸から長崎に移されてしまった。ちなみに松浦隆信・鎮信で検索すると「2ちゃんねる」の「無名でも実力の有る武将」とか「koeiの信長シリーズにでてこないマイナー武将」というスレッドがヒットする(笑)。世の中にはいろんな趣味人がいておもしろい。

 さらに境内裏手の丘陵地にある住宅地をうろうろして、松浦道可公の墓をやっと探し当てる。道可は松浦家第25代(本名は第28代と同じ隆信でややこしい)、サビエル来航、ポルトガル貿易時代の当主である。この辺り、道路側から一見しただけでは全く分からないが、現代的な一戸建て住宅の間の抜け道をたどっていくと、苔むした中世の墓地がパッチワークのように残存している。怖いような、おもしろいような。

 山鹿流兵学を講じた積徳堂址は、今でも古いお屋敷が残り、ご子孫が住んでいらっしゃる雰囲気だった。木蓮や桜と思しい庭木が豊かに枝を広げていて、早春に訪ねたら、奈良あたりの古京の趣きがありそうである。

 亀岡神社、平戸城を駆け足に通り抜け、平戸銘菓カスドースを購入して、バスターミナルに帰りついたのは、外が暗くなり始めた頃だった。15時か16時の佐世保行きバスに乗りたいなんて計画はどこへやら、これはもう19時だねえ、なんて言っていたら、毎時0分の特急バスはもう終わっていて、18:50発の急行バスに乗る。危ないところだった。

 車中、五島銘菓かんころもち(サツマイモと餅米を練ったもの)で空腹を抑え、佐世保から長崎行きのバスに乗り継ぎ、この日の宿に到着したのは夜の9時過ぎだった。ホテルのすぐ隣の長崎中華街は、一瞬、イルミネーションを垣間見ただけ。既にどこも店仕舞い。残念~。

 長くなったので、翌日の長崎編は項を改めます。12/30を参照のこと。(12/30記)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有田焼きものめぐり

2004-12-24 23:43:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
○九州旅行:有田

 クリスマスイブの朝、別府を発って博多に向かった。ソニック6号という特急は、小さい車体のわりに速い。国東半島の付け根のあたりはカーブが多いのだが、車体を大きく傾けて曲がるので、ジェットコースターみたいな速度感があって楽しい。博多でハウステンボス行きの特急に乗り換え、佐賀を経由し、有田で下車した。今日は北九州を横断して、長崎県の平戸島まで行くのだが、最近、焼きものに興味を持っているので、有田か伊万里(またはその両方)に寄ってみたいと思ったのだ。

 それもこれも、出光美術館の『景徳鎮』『古九谷』、サントリー美術館の『初期伊万里』を企画された学芸員の荒川正明さんのおかげ(?)である。

 有田は、下りてみると、心細くなるような小さな駅だった。それでも駅前には多少の土産物屋や飲食店があった。まっすぐ歩いていくと、丘の上に佐賀県立九州陶磁文化館がある。常設展だけの場合は大様にも無料で開放されている。ここで有田焼きの名品を見て元気を出し、隣り駅の上有田(かみありた)方向に歩き出した。道路の左右に家が並んでいるだけの厚みのない集落である。冷たい雨のせいか、人通りも少なく、開いているお店にも人影がない。もう切り上げて別のところに行こうかなあ、でも伊万里はもっと寂れた町かも知れないしなあ(実際は有田より”都会”だった)と思いながら歩いていく。

 そのうち観光案内に出ていた「賞美堂参考館」という看板に行きあたった。陶器を売るお店らしかった。声をかけて「あのう、古いものを見せていただきたいんですけど」とお願いすると、女性の店員さんが、2階のギャラリーに灯りを付けてくれた。「先代の会長が集めたものです」という説明だった。さっきの九州陶磁文化館の展示品に負けず劣らずの品が並んでいる。見事なものだった。

 これで、かなり味を占めて、各社のギャラリーを次々にまわってみた。お勧め度はこんな感じである(会社ホームページは参考)。

・佐賀県立九州陶磁文化館 ★★★ http://www.umakato.jp/kyuto/
・賞美堂参考館 ★★
・香蘭社陳列館 ★★★ http://www.koransha.co.jp/
・深川製磁参考館 ★★ http://www.fukagawa-seiji.co.jp/
・有田陶磁美術館(100円)★ http://www.arita.or.jp/aritaware/miru/bijyutukan/toujibi/toujibi.html
・今右衛門古陶磁美術館(300円)★★★★ http://www.imaemon.co.jp/museum/

 料金の書いていないところは無料で、熱心に見ていると「お茶でもいかがですか?」と勧められる。もちろん、そのあとで商品の売り込みをされるわけだが、お店の歴史や現況など、いろいろ話を聞いてみると面白い。香蘭社と深川製磁は、本社の建物自体、一見の価値ある美術品である。このほか、陶器の鳥居と狛犬がある陶山神社とか、登り窯のレンガで作ったトンパイ塀とかも見どころである。また、香蘭社の少し先に、陶器の絵付け用の絵具と絵筆の専門店があって、窓から覗くだけでも興味深かった。

 有田から上有田の間、めぼしい飲食店は開いてなかったのだが、妙に高級そうな鰻屋と寿司屋だけはちゃんと営業していた。高級食器の買い付けにやってくるお客様相手かなあ、と想像してしまった。結局、お昼前に有田駅に着いて16時過ぎに出るつもりが間に合わず、次の17時過ぎの列車を待つことになった(それならもう少し奥まで探検してみるんだった)。

 今回、私は「鍋島」というカテゴリー(鍋島藩の御用品として造られた色絵磁器)を初めて理解するとともに、これにハマってしまった。伊万里にもギャラリーがあるらしいが、今回は行きはぐった。いつか再訪を期したい。

 この日は、松浦鉄道で、伊万里経由~たびら平戸口(日本最西端の駅!)に到着したときは、既にとっぷりと日暮れていた。タクシーで平戸島に渡り、別のホテルに投宿済みの友人と落ち合う。雨は土砂降りで外には人影がない。やれやれ。

(12/29記)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臼杵・国東仏像めぐり

2004-12-23 22:00:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
○九州旅行:臼杵、国東半島(宇佐神宮~富貴寺~真木大堂~熊野磨崖仏~両子寺)

 羽田から朝8:00過ぎの飛行機に乗った。離陸が30分ほど遅れたので心配したが、ホーバークラフトで大分に渡り、バスで大分駅へ。本数の少ない日豊本線の普通列車に滑り込みで間にあい、臼杵駅から路線バスに乗ったら、12:01には臼杵石仏に着いていた。びっくり。長年、遠い存在としてあこがれ続けていた臼杵石仏だが、実は東京から余裕の半日行程だったのだ!

 写真だけ見て、なんだか途方もない山奥にあるのかと思っていたのだが、ぜんぜん違った。低い丘陵に三方を囲まれた草地(むかしは田畑だったのだろうが、今は公園のように整備されている)を真ん中にして、一方の低い岩山に仏龕が彫られている。かなり立体的な丸彫りなので、据え付けた石仏のようにも見えるが、磨崖仏である。最も有名な古園石仏群の前で、腰の曲がったおばあちゃんが小さな体をさらに小さくして拝んでいた。その背中を見下ろす大日如来は、自分を拝んでいる人間などに関心があるのかないのか、慈愛に満ちた母親のようでもあり、ふと倣岸な少女のように見えることもあった。

 この古園石仏もかつては半分ほど地中に埋まっていたらしいが、一帯は、よほど土砂の堆積が多かったらしい。草地を挟んで古園石仏に正対する満願寺には、今も腰まで埋まったままの二体の仁王の石像がある。石仏の入口にあたる国道の傍には、これも深々と田んぼに埋まって足の短い「深田の鳥居」が立っている。

 初日は別府温泉泊。

 翌日は定期観光バスで国東半島を巡った。休日(天皇誕生日)というのに、ひとり旅の私のほかは、出張帰りのサラリーマン2人連れのみ。まあ、冬場はこんなものらしい。

 富貴寺の阿弥陀堂は均整の取れた美しい造りだった。内壁には浄土変相図の壁画がかすかに残っている。一時期はすっかり荒れ果てて、子供の遊び場だったそうだ。真木大堂は、ただの収蔵庫と見紛うような素っ気ない本堂に、巨大で迫力に満ちた大威徳明王、阿弥陀如来、不動明王と、それぞれの眷属たちが祀られている。いずれも藤原仏である。阿弥陀如来を取り囲む四天王のスラリとした縦長のフォルムが美しいと思った。

 熊野磨崖仏はほとんど山登り。両子寺は山下の護摩堂と大講堂のみで、奥の院の千手観音を観ることができなかった。う~ん、やっぱり定期観光バスだと時間が足りなくて、心残りが残るなあ...

 別府温泉に連泊。冬の花火「別府ファンタジア」をホテルの展望風呂から楽しんだ。立ち寄り湯の竹瓦温泉もよかったです。

(12/29記)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常識のウソ/昭和史の決定的瞬間

2004-12-21 15:53:48 | 読んだもの(書籍)
○坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)筑摩書房 2004.2

 1936年(昭和11年)の二・二六事件(およびこの背景となる数年間)から、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件によって日中戦争が勃発するまでの時代を扱ったものである。

 私は高校で日本史を選択しなかったので、諸勢力の利害関係が複雑に絡み合う近代史には、正直なところ、疎い。冒頭に語られている相沢事件(二・二六事件の半年ほど前、陸軍省軍務局長永田鉄山が、皇道派の青年将校、相沢三郎に惨殺された事件)さえ、本書で初めて知ったくらいである。日中戦争前夜について、私が漠然と抱いているイメージは、次第に軍ファシズムが力を増し、一般大衆は言論の自由を奪われ、政府の情報操作に踊らされて、戦争に押し流されていった、という次第である。まあ、現在の日本人にほぼ共通の了解だろう。

 ところが、本書によれば、このイメージは半分しか正しくない。実は二・二六事件の直前、1936年(昭和11年)2月20日の第19回衆議院選挙では右派陣営が激減、左派陣営の民政党、社会大衆党が躍進している。日中戦争の発端となった盧溝橋事件に先立つ、1937(昭和12年) 4月30日の第20回衆議院選挙でも、社会大衆党はさらに議席を増やした。このあと、戸坂潤は「自由主義ないしデモクラシーが今日の日本国民の政治常識であるという事実を、まげることは出来ぬ。選挙演説などの有様を見ると、この事実は疑う余地なく実証される」と書いて公表している。

 つまり、「戦争はファシズムが勝利したときに起こる」というのは戦後史学の思い込みなのだ、と著者は指摘する。実際には、戦前日本の民主主義の1つの頂点において日中戦争が起こり、最終的には「戦争」という巨大なエネルギーが「民主主義」を放逐したのである。

 これはよーく考えると怖いことだ。いま、我々は、とりあえず日本が民主国家である限りは、自衛隊の派遣とか有事立法があっても、まさか再び戦争にまでは至らないだろうと思っている。しかし、日中戦争前夜だって、実は当時の議事録や論壇雑誌を読んでみると、言論はかなり自由だったし、選挙によって議会に民意を反映する方策も持っていた。だから、今日が安全だなんて、本当は誰も言えないのである。

 重要なことは、著者が苦渋を込めて語っているように「平和」と「改革」は、しばしば両立しないという点かもしれない。私はむかし、自民党の政治家は「金権=ハト派」「クリーン=タカ派」という伝統がある、というのを読んで、首をひねった記憶がある。うまく説明できないけど、どうもアメリカなどを見ていても、輸出依存の資本家が支持基盤→国際協調、平和重視、という論理があるようだ。そうすると反対勢力は、反・市場原理、福祉重視→戦争容認?になってしまうのか...

 でも「戦争」は、結局、全てのよきものを駆逐してしまうのだ。そのことは何度でも想起して、肝に銘じておかなくてはならないと思う。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありがとう赤坂見附/サントリー美術館

2004-12-20 00:52:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
○サントリー美術館『ありがとう赤坂見附―サントリー美術館名品展《生活の中の美 1975~2004》』

http://www.suntory.co.jp/sma/japanese/index.html

 サントリー美術館は、今月末をもって赤坂見附での展観を終了する。そこで「絵画・漆工・陶磁・染織・ガラスなどの多岐にわたる館蔵品から粋を集めた約80点を展示し」「赤坂見附での長年の活動を振り返る」のが、この展覧会である。

 別にこれといって見たいものがあったわけではないが、名残を惜しみに行ってきた。そうしたら、意外に初めて見る作品が多くてびっくりした。サントリー美術館には、ずいぶん通ったつもりだったが、私の趣味が東洋美術に偏っていたので、それ以外の作品はけっこう見逃していたのだ。ファンが選ぶ名品ベスト1に入ったガラス製の「藍色ちろり」も初見だと思う。きれいだった。

 桃山時代の「南蛮屏風」を久しぶりにじっくり見たのは楽しかった。今年のクリスマス休暇は長崎だからね。

 江戸時代の「舞踊図」六面を六曲屏風ふうに立ててみたのは面白い試みだと思った。そのほか、とにかく大盤振る舞い。「誰が袖図屏風」の脇に、同じように能装束を衣桁に掛けて並べ、その前面には塗りの角盥(つのだらい)。手前のガラスケースには、櫛・簪(かんざし)・笄(こうがい)。なんだか古道具屋の店先のようである。まあ、最後なんだし。祝祭と思って楽しもう。

 ところで、サントリー美術館のホームページには目立った広告がされてないようだが、過去の展示図録の在庫品が、全て均一1,000円で販売されている。だいたい定価の半額以下だろう。『サントリー名品100』は豪華ハードカバーだから、もっとお得。つい先日の「初期伊万里」展図録も1,000円になっていて、ちょっと悔しかったが。。。

 障子窓ごしに眺める弁慶濠のボート場もニューオータニのタワーも、首都高速のジャンクションもこれが最後なのかなあと思うと名残惜しい。2007年春には六本木で新美術館を開館するそうだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする