見もの・読みもの日記

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海を渡る二人の英雄/義経伝説と為朝伝説(原田信男)

2018-01-17 22:43:18 | 読んだもの(書籍)
〇原田信男『義経伝説と為朝伝説:日本史の北と南』(岩波新書) 岩波書店 2017.12

 『平治物語』や『平家物語』に名前を残す源義経と『保元物語』で知られる源為朝。著者はかつて、ある地名辞典の編集に携わったとき、義経伝説が北海道・東北に多いのに対し、為朝伝説が伊豆を除けば九州に集中し沖縄に及んでいることに気づいた。二つの英雄伝説の成長と変容は、「日本の中央政権が列島の北と南を自らの領域として覆いつくしていく歴史過程」と見事にシンクロしているという。

 まず義経について。日本の中央政権がアイヌ民族を蝦夷(えぞ)として意識し始めたのは12世紀頃である。義経伝説が北海道と結びつくのは中世後期で、室町期(14-15世紀)に成立した御伽草子『御曹子島渡』では、義経は蝦夷地に赴き「かねひら大王」が有する「大日の法」という兵法書を手に入れて、平家を滅ぼしたと語られている。16世紀に和人の蝦夷地進出が本格化すると、おそらく口承文芸を通じて義経伝説がアイヌの人々に入り込み、近世には、アイヌの英雄神オキクルミを義経と、相棒のサユマンクルを弁慶と同一視することが観察されている。ただし、これには和人の願望を反映したものと著者は解説している。

 近世に入ると、平家打倒のために兵法書を盗むという御伽草子の語りが変じて、衣川で自害したはずの義経が、生きのびて蝦夷地に渡る物語に転化する。18世紀になると、義経が蝦夷から金(女真)に渡って活躍したという説が唱えられ、清の祖となったという説も現れる。最終形態ともいうべき義経=ジンギスカン説の初見が、シーボルトの『日本』(1852年執筆)だということは初めて知った。

 明治以降、北海道開拓にあたっては義経伝説が強く意識された。札幌-小樽(手宮)を走った蒸気機関車に、義経、弁慶、静などの名前がつけられたのはその一例である。義経=ジンギスカン説は大衆に好まれ、大陸進出を肯定する雰囲気の醸成に利用された。冷静な反駁を加えた史学者に対しては、逆に「国家の名誉も不名誉も眼中に置かぬ」態度という批判が展開されていたりする。歴史学は国家の名誉のためにあるんじゃないのだが。

 次に為朝について。『保元物語』に見える為朝の舅「アワの平四郎忠景」は薩摩の阿多忠景と考えられている。おそらく忠景の周辺にあって、南西諸島で活動した商人的な武士たちが、為朝の物語を島々に語り伝えたのではないかと著者は推測する。これは初めて知る話で面白かった。沖縄では15世紀に琉球王国が成立し、為朝伝説はおそらく奄美を経て沖縄に伝わった。薩摩の琉球侵攻(1609年)において、為朝伝説は侵攻の正当化と兵士の鼓舞に利用されたが、まだ為朝を中山王朝の祖とするには至っていない。

 その後、琉球王府の政治改革にあたった向象賢(1617-1676)は日琉同祖論を唱え、史書『中山世鑑』を編纂して、為朝中山王祖説を叙述した。一方、向象賢の政治路線を引き継いだ蔡温(1682-1762)は『中山世譜』において為朝に関する記述を簡素化し、日本の影響を取り除こうとした。蔡温! 2011年にNHKドラマ『テンペスト』にハマって、沖縄の歴史をいろいろ調べたときに出会った名前である。懐かしい。

 18世紀の江戸では琉球ブームが起き、滝沢馬琴の『椿説弓張月』が爆発的な人気を博した。義経渡海伝説が広まるにあたっても通俗軍記『異本義経記』とか近松門左衛門の人形浄瑠璃『源義経将棊経(みなもとのよしつねしょうぎきょう)』が大きな役割を果たしたそうで、エンタテインメントの力は軽視できない。私自身も、子どもの頃に「少年少女文学全集」で読んだ『椿説弓張月』がいまだに大好きで、忘れられないのである。その後、幕末の琉球処分つまり琉球を日本に帰属させる過程においても、為朝伝説は根拠のひとつに用いられた。なお「為朝伝説に関しては、義経伝説と違って歴史学界でも、明治期にはすでに史実と考えられていた」という記述にはびっくりである。

 18世紀後半の知識人たち(新井白石、水戸光圀など)は、義経・為朝伝説を文学的虚構としてではなく、日本型華夷思想と現実世界をつなぐ蝶番と考えていたように思う。その理解は、近代の皇国史観へと流れ込んでいく。しかし私は、義経伝説も為朝伝説も、魅力的な英雄の短かすぎる生涯を惜しんだ人々が、空想と愛情を寄せ集めて描いた壮大なファンタジーだと思っている。ファンタジーにもかかわらず、北海道に義経神社があったり、沖縄に為朝上陸の碑があったりするのは、それはそれでいいのである。虚実皮膜の間を楽しむのが人生の醍醐味なのだから。

 上記に書き漏らしたが、アイヌの首長シャクシャインが義経の子孫だという説があるのは面白かった。また義経=清祖説の根拠として、清国の家々の門に義経と弁慶の画像が貼られている(漂流者の見聞か)というのは、門神と呼ばれる秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)だろう。まあ秦叔宝のほうがイケメン(義経)で、色の黒い尉遅敬徳のほうがこわもて(弁慶)というイメージはあるけど。

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