見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

古地図で見る北京と蘇州/中国の都市空間を読む(高村雅彦)

2018-01-18 23:17:40 | 読んだもの(書籍)
〇高村雅彦『中国の都市空間を読む』(世界史リブレット8) 山川出版社 2000.3

 正月に旅先で読む本が切れたので、飛び込みの本屋で購入したもの。都城から小さな町にいたるまで、さまざまなレベルの中国の都市を取り上げ、その都市空間がいかなる過程を経て形成されてきたのかを考える。写真、図版(白黒だけど)が豊富で、眺めているだけでも楽しい1冊である。

 まず北京については、1750年のまちの様子を伝える『乾隆京城全図』という地図があるそうだ(東洋文庫等所蔵)。この地図には、都市形態、街区形態にとどまらず、街区内の敷地割り、一棟一棟の建物や階数まで分かるようになっている。すごい~。図版を見ると、もちろん抽象化はされているが、間口方向の柱間ごとに線が引かれているので、ちゃんと建物の大きさが分かる(間数に応じた家屋税を徴収するためと推定されている)。一階建てと二階建ても描き分けられており、道路沿いには二階建ての長屋風店舗が並んでいたことが分かる。これは楽しい。デジタル化して遊ばせてほしい! そして、この古地図と現在(2000年当時か)の地図を比較してみると、18世紀の街区形態、敷地境界、ところによっては建築の構成まで、ほとんどが現状に重なるという。

 北京は整然とした内城と迷路のような外城から成る。前者には満州族などの官吏が住み、後者は漢族を中心とした商工民や芸人、遊女が住む文化と享楽の世界だった。内城は「西貴東富」と称され、西側には貴族が多く住み、東側には裕福な官吏や商人が多かった。なるほど、なるほど。知っている北京の地理を思い浮かべて納得する。庶民の住んだ外城には、寺や廟の跡が今もたくさん残っている。寺廟は、道が二股に分かれる「ちまた」に置かれやすいというのは、なんとなく記憶に一致する感じがした。

 面白かったのは、17世紀後半から18世紀後半、商業活動が活発になると、商品の販売や接客が、狭い店舗から次第に道路にはみ出し、「侵街」が起こる。たびたびの撤去令にもかかわらず、道路の不法占拠が常態化し、前門街の広い御成道は、細い三本道に分割されてしまう。同じことは江南や東アジアのさまざまな都市で起きていたというが、日本でもあるのだろうか。

 次に蘇州は、中心道路を護龍街と言い、一匹の龍によって護られているという伝説がある。北の北寺塔を尾、南の府学を首、東南の双塔を角に見立てる。7世紀末以降、蘇州の西側は呉県、東側は長州県の統治となる。西の呉県のほうが早くから都市化が進み、橋の数も多かった。明代になると、西の城外には大きな商業地がつくられ、一方、東の長州県には通勤労働者の機織り工などが多かった。小規模な庭園が多く点在する西側と異なり、土地に余裕のあった東側には、明代中期から拙政園のような大きな庭園が築かれるようになる。なるほど! こういう歴史(しかも長い)を知って歩くと、中国の街はさらに魅力が増すだろうな。

 蘇州には、南宋時代の1229年につくられた『平江図』という地図があり、当時の住宅地は四方を水路で囲われ、南側に道路を通すかたちであったことが分かる。その後、明末には西の呉県で水路の埋め立てが進んだが、19世紀末には再び水路がよみがえる。19世紀末の蘇州が13世紀と同じ住宅地のありかたを選んだというのは、非常に興味深い。

 このほか、小都市として、山西省の平遥、福建省の厦門、江南の水郷の鎮、比較材料として、バンコク、ジャカルタについても簡単な記述がある。著者は本書のはじめに「急激な経済成長による近年の中国の都市開発には、過去の蓄積を無視するものが多いが、21世紀には必ず反省の時期が訪れるであろう」と述べている。これは当たっているようもあり、外れているようでもある。21世紀に入る頃から急に増えてきた、観光客を喜ばせるために古色をつけた「明清街」は、果たして反省の結果と言えるのか。本当の古い街並みは、いま、どの程度残っているのだろう。久しぶりに中国の地方都市に旅行してみたくなった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 海を渡る二人の英雄/義経伝... | トップ | 通説を覆す/兼好法師(小川... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだもの(書籍)」カテゴリの最新記事