一川保夫防衛相は、防衛政策に弱く、外交にも弱く、身の防衛にも弱く、「引責辞任」は当然だ

2011年12月02日 23時41分05秒 | 政治
◆一川保夫防衛相(1942年2月6日生まれ=小沢一郎元代表は同年5月24日生まれ)就任からこれまでの言動を見聞きしていると、福田赳夫内閣の久保田円次防衛庁長官(1903年8月23日~1998年2月1日)を思い出す。
 群馬県生まれ、栃木県立足利工業学校(現在の栃木県立足利工業高等学校)を卒業後、工兵少尉として戦地へ赴任。戦後、久保田兄弟鉄工所を設立、副社長に就任。
光洋株式会社社長に就任して、財力をつけて、政界進出への基盤を築き、伊勢崎市議会議員に当選し、議長を務め、後に、群馬県議会議員に当選した。1960年の総選挙に旧群馬1区から自民党公認で立候補して初当選、当選8回を果たした。
 自民党内では福田派に所属、第1次佐藤内閣で北海道開発庁政務次官に、第2次佐藤内閣で文部政務次官に就任した。ところが、1979年11月9日、第2次大平内閣で防衛庁長官に就任しものの、防衛政策通ではなかったため、1980年2月1日の衆院予算委員会などで野党からの質問に度々、「重大な問題でございまするので、・・・防衛局長(政府委員)から答弁をさせます」と答弁を繰り返し、顰蹙を買った。「重大な問題」であればこそ、担当の長官が答弁すべきであったからである。
 結局、宮永スパイ事件の責任を取る形で陸上幕僚長永野茂門とともに、2月4日、引責辞任した。その後、自民党老人対策特別委員長・群馬県猟友会会長・衆議院逓信委員長・衆議院文教委員長などを歴任した。防衛政策には弱かったけれど、選挙には強かった。それでも1983年12月18日の総選挙で、ついに落選し引退した。長年の功績に対し、勲一等瑞宝章が授与され、1998年2月1日、老衰のため死去。享年94歳だった。
 振り返ってみると、東西冷戦下、日本は米国の核の傘のなかで、安全を保障されていて、いわゆる「平和ボケ」状態が続いていたので、国家の安全を担う防衛庁長官は、「軽量ポスト」と見做されていた。このため、大平正芳首相は、最大の政敵であった非主流派となっていた福田赳夫前首相(当時)の率いる「福田派」を冷遇して軽量ポストをあてがっていた。久保田円次衆院議員が、防衛政策に疎いことを承知していながら、防衛庁長官に就任させていたのである。これは、1979年10月7日の総選挙に自民党が敗北したことから、福田赳夫前首相が、大平正芳首相の責任を問い、11月20日の第2次大平内閣の本格的発足までの約40日の間、自民党内で抗争が行われた世に言う「40日抗争」(自民党史上最大の危機)後のいわば、報復後のような閣僚人事だった。
◆しかし、1980年2月4日の久保田円次防衛庁長官の引責辞任から、31年7か月を経て、今度は、
一川保夫防衛相が2011年9月2日、防衛相認証式前、記者団に「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」と述べて、多くの国民から顰蹙を買った。
このため、9月2日夜、記者団に対し首相官邸内で「ほとんどの国民は(安保政策は)素人だ。一般の国民を代表する国会議員が監視するのがシビリアンコントロールだと思っている。国民目線で、国民が安心できるような政策が大事だと(いう意味で発言した)」と弁明したものの、すでに後の祭りだった。
自民党の石破茂政調会長(当時)が、「閣僚解任に値する。任命した野田佳彦首相の見識も問われる」と批判し、国会で厳しく追及する考えを示した。元防衛相であり、兵器マニアと言われているだけに防衛政策は詳しい。
 確かに、一川保夫防衛相は、防衛専門家ではない。石川県小松市で生まれ、石川県立松任農業高等学校、三重大学農学部農業土木学科卒後、1965年に農林省(現農林水産省)に入省し、以後25年間、農水省・農林水産省に入り、1990年に退官した。同年、父・一川保正の後を継いで石川県議会議員選挙に自由民主党公認で出馬し、初当選を果たし、石川県選出の奥田敬和元郵政相派に属した。1993年、奥田敬和派の自民党離党に伴い、自民党を離党し、当時の小沢一郎元自民党幹事長が同年6月23日に設立した新生党結党に参加、翌1994年12月10日、新生党解党によりやはり小沢一郎代表幹事が主導した新進党結党に加わった。
 1996年、奥田敬和元郵政相の薦めに応じて石川県議を辞職し、10月21日の総選挙に小選挙区石川2区から新進党公認で出馬、森喜朗元建設相(元文相、通産相、後に首相)に敗れるものの、重複立候補していた比例北陸信越ブロックで復活当選した。同年、奥田敬和元郵政相が後見役を務める羽田孜と、新進党の小沢一郎党首との対立が激化。羽田、奥田らは新進党を離党して太陽党を結成する。だが、一川保夫衆院議員は新進党に残留し、小沢一郎党首の側近として行動をともにした。
 ところが、小沢一郎党首が1997年末、突然、新進党解党を宣言し、自由党結党したので、これに参加、2003年9月24日、「民由合併」により民主党に入党した。
 しかし、2005年9月11日の総選挙では、石川2区で森喜朗前首相に敗れ、比例復活当選もできず落選した。それでも石川県連代表の職には留まることができた。
 2007年7月29日の参議院議員選挙に石川県選挙区から出馬し、自民党公認の矢田富郎を約4千票の僅差で破り、当選。2009年、輿石東参院議員会長の下で参院政策審議会長に就任。2011年9月2日、野田内閣で防衛大臣に任命され、初入閣を果たした。
 石川県小松市には、航空自衛隊小松基地があり、国土防衛の最前線を担っている。「集団的自衛権の行使は現行憲法でも可能であり、憲法解釈の変更をすべき」と発言したことはあるが、これらの略歴からは、「防衛政策専門家」という言葉は、少しも浮かんでこない。航空自衛隊小松基地とのつながりは、自民党の森喜朗元首相の方が濃厚である。とくに小松基地司令官を務めた田母神俊雄元航空幕僚長との関係は、森喜朗元首相が「基地利権」をめぐり深い。
◆一川保夫防衛相のチョンボは、相次いでおり、日々、立場が悪くなっている。
 その実例の1つが、2011年11月16日、国賓として訪日中のブータン国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク夫妻を歓迎する宮中晩餐会を欠席したことだ。
高橋千秋民主党参院議員(日本・ブータン友好議員連盟副会長)の政治資金パーティーに参加し、「「ブータン国王が来て宮中で催し物があるが、私はこちらの方が大事だ」とスピーチしていた。
翌17日の参院予算委員会で、野党から厳しく追及されて、「軽率だった。申し訳なく思い、反省している」と陳謝した。だが、「ワンチュク国王」の名前を質されて、答えられず、「防衛政策オンチ」に加えて、「外交感覚の欠如」を国民に印象づけたのは、致命的であった。
 こればかりではない、防衛省沖縄防衛局の田中聡局長(50)が11月は28日夜、記者団と居酒屋で「オフレコ懇談」した際、一川保夫防衛相が沖縄米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設に向けた環境影響評価書の沖縄県への提出時期を明言していないことについて、「犯す前に『やらせろ』とは言わない」「許可なしにやれば犯罪となる」となど発言したのが、一部の新聞に報道された。女性を乱暴することに例えたこの発言が、「女性の人権を侵害する」とも受け取れられて、沖縄県民から強い反発を受けた。野田佳彦政権が、普天間飛行場の辺野古への移設を強行しようとする本音が、事務方幹部からモロに露出したのである。
 このため、防衛省は、田中聡局長を更迭したのだが、防衛省最高責任者である一川保夫防衛相の監督責任が問われる事態に発展している。頭隠して尻隠さずとは、このことだ。
 さらに、自民党の佐藤正久参院議員が2011年12月1日の参議院東日本大震災復興特別委員会で、アメリカ軍普天間飛行場返還運動の端緒となった1995年の米海兵隊員らによる沖縄米兵少女暴行事件について質問したのに対して、「正確な中身を詳細には知らない」と答弁した。
 自民党など野党各党は、これらの問題発言から「防衛相としての資質に欠ける」として、参院本会議の問責決議案を提出する動きを強めている。
 外交防衛に弱い、こんな一川保夫防衛相には、日本の防衛は、もう任せられない。当然のことである。即時、辞任すべきである。本来は、専門分野である「農水相」の方が、むしろ適任だったかもしれない。

本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
野田佳彦首相は、現代の「今川義元」か、小沢一郎元代表は、やたらと危機を煽る「狼老人」なのか、民主党は、総選挙で大敗、橋下徹会長の「大阪維新の会」が救命ボートとなるか?

◆〔特別情報①〕
 次期総選挙・参院選挙に向けて、野田佳彦首を中心とする政権中枢とその周辺で、権力の上に胡坐をかき、安閑とした「天下太平ムード」が漂い、「浮かれ気分」が支配しつつある。小沢一郎元代表を熱烈支持する親衛隊「一新会」から、「政務3役(大臣・副大臣・政務官)」入りした国会議員の大半も、「我が世の春」を謳歌しており、次期総選挙・参院選挙のことなどは、ほとんど眼中にないといった感が強いという。

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